碇
あれ、じーちゃんがいる。
なんでだろう。
「…。」
まぁ、いいか。
心地よい温度と空気の中心。
窓から漏れる明るさの中に沈む。
気が付くと僕は、白いカウンターテーブルを前にして、一メートルそこいらの長椅子に座っていた。目の前に見えるキッチンには、使用中のまな板と包丁が無造作に置かれている。そのすぐそばを、じーちゃんが忙しく動いている。
俺は辺りを見渡す。
少し傷のある白い壁紙に、冷蔵庫に貼られたマグネットグッズ。
グレーの塗装が剥げて錆のついた電子レンジ、と匂い。
あぁ、ここは俺ん家だ。
リビングの隅っこには、黒色のランドセルが力なく横たわっている。
そうだ、さきほど学校から帰ってきたんだ。
終礼の合図と共に校舎を蹴り上げ、コンクリートの絨毯を駆けてきた。
それほどに急いでいたのはじーちゃんのためか、あるいは別の理由があったのだろうか。
菜箸片手にフライパンを握る彼に、恐る恐る声をかけた。
「ねぇじーちゃん、なんでいるの?」
「ん?今日が月曜日だからじゃけんよ。」
「え?どうゆうこと?」
「月曜日は母さんの帰りが遅いけぇ、わしが毎週来よるんじゃろ。」
「あー、そうだったね。」
母子家庭の我が家は、母親がいつも働いている。
特に月曜日は忙しいらしく、残業をするために遅くなる。「祖父が来る」というのは、幼い俺を一人寂しく待たせることのないようにという母なりの気遣いだと思う。
じーちゃんは、手元の調味料の蓋をいじりながら俺に問う。
「今日は学校どうじゃった?」
「楽しかったよ。そうそう、俺、ドッチボールでめっちゃ活躍したんだよ。」
「おー、それは良かったねぇ。」
「うん、あとねあとね、算数のテストが返って来たんだけど、何点だと思う?」
「んー、“なおちん”は賢いからの…。」
じーちゃんは、フライパンから昇る煙の行方を見つめた。“なおちん”とは、じーちゃんの俺への呼び名だ。理由も由来も定かではないが、じーちゃんは俺の事を“直哉”ではなく、“なおちん”と呼ぶ。
基本的に、じーちゃんは感情や情緒が穏やかな人だ。俺が三年前にじーちゃん家のガラス戸を割ってしまった時、誰も彼もを差し置いて「ケガはなかったか?」と真っ先に心配してくれた。
けれど、俺が初めて補助輪なしで自転車に乗れた時は、全身を使って喜びを分かち合ってくれた。古希に差し迫るも、未だフルタイムで働いて農業にも勤しむ姿は、幼い自分にとって憧れと敬意の対象だ。
そんなじーちゃんが作る料理は、どれも美味しく元気が出る。
母のももちろん好きだが、それとはまた違うベクトルで好きなんだ。
「ほい、コロッケできたぞ。なおちん好きじゃろう?」
「多分、そうだったと思う。」
俺は、虚ろな表情でそう答える。
「ぬくうなるけぇ、はよ食べんさい。」
「あぁ、うん。」
カウンターに並べられた料理は、どれもが食欲の鱗を逆撫でする。
チキン南蛮・鶏皮のから揚げ、コロッケに鯖の味噌煮に味噌汁、そして茶碗につがれた溢れんばかりの炊き立ての白米。鼻腔をくすぐる暖かい香りにそそられて、僕はすっかり料理に釘付けになる。
箸を手に取った。
一体何年ぶりだろうか。
ん?いや、違うか。先週も食べた、はず。あれ。
じいちゃんは先週も来た。そしてこうやって育ち盛りの僕に料理をつくってくれた。
その時も自分は喜んで平らげたはずだ。何も特別じゃない。
先週と来週の間にいるはずなのだ。
なのに、なのにどうして、こんなにも懐かしさと喪失感が目を刺すのか。
コロッケに伸ばした箸が。
ピタッ、…と、止まる。
「あ」
さっきから一向に消えない、頭蓋骨の底に溜まってくすんだ“もやもや”が、どこかに流れ出した。
途端に眼球の裏側に流れ込んできた、とある女性の顔。
僕は箸を置いた。
「ん、なおちんどうした?」
「じいさん。」
「ん…?」
「ごめんじいさん、僕行かないと。」
「…、はっはっは、そうかそうか、直哉もそんな歳になったのか。」
「うん…。」
じいさんは洗い物の手を止め、キッチンから僕の前へとやって来た。
泡の付いた濡れた手で、僕の肩に固く手を置く。
そして、ゆっくりと深く、それでいて力強く話し始めた。
「人間一人を真っ当に育てるというのは、恐ろしく難しい。」
「…、はい。」
「犬でも猫でも豚でも鶏でもない。一人の人間を育てるんだ。家畜でも、ペットでもない。」
「…。」
「尊重し慈しみ、良く褒め、間違えたなら正す。それがお前の役割だ。」
「はい。」
じいさんは僕の隣の、もう一つの長椅子に座る。
「特に、お前の母さんには一番手を焼いたな。」
「ふっ、はは…。」
「これは内緒だぞ~。」
「別に言っても変わらんじゃん。」
「あ、こらっ。」
「へへ。」
「一言余計なところは変わっとらんの。」
「そうかもね…。」
「はっは…。」
「ねぇ、じいさん。」
「ん?」
「僕らが最後にあった日にさ、腕相撲をしたの覚えとる?」
「あー、したなぁ。」
「あの時さ、じいさんは全力でやってた?」
「…。」
じいさんは、目の形は変えないままに、「うーん。」と考えた。
そして、少し大きな声で、笑顔混じりに言った。
「手加減してやったに決まっとるじゃろ!」
「やっぱりそうか…、気付かんかったぁー。」
僕は、じいさんから少しだけ顔を逸らして笑った。
笑い声の裏側に隠した真意を、悟られないように。
「今度はちゃんと本気でやってね。」
「おうよ、またやろうな。」
「うん!よし、そろそろ…。」
「いくか」
おもむろに、僕らは立ち上がった。
気付けば、料理も箸も、包丁もシンクもガスコンロも、冷蔵庫も電子レンジも炊飯器も、キッチンでさえも、影も残さずに無くなっていた。
僕が実家だと認識していた構成要素のそれらは、跡形もなく消え、白く飛んだ背景に滲む。
残っているのは、本当はもう捨てた長椅子と、傷のある少し汚れたカウンターテーブルだけ。
あったはずの四方の壁は、まばゆいばかりの光になっていて、僕とじいさんの体の輪郭を薄くぼやかす。
「じゃぁ、行ってきます。」
「いってらっしゃい、“お父さん”。」
じいさんが「ん」を言い切った瞬間、僕の視覚がブラックアウトした。
頭頂からつま先までを砂が包むような、厚く大きなものに視界が覆われる。
まどろんだ意識と身体の感覚が、段々と戻ってきた。
ん…、重い。
堅い瞼を開ける。僕は、簡易なソファに座っていた。細く長い廊下が、あっちに数十メートルほど伸びている。清潔感と、ほのかな不気味さが入り混じっている光景だ。
緊迫感とは裏腹に、壁に描かれた模様やイラストは非常に柔和な世界観である。それらは、各々が紆余曲折を経ながら、重厚感のあるグレーの扉に帰巣していた。
そのグレーの扉からそう遠くないソファに、僕は意識を沈めていたみたいだ。
さっきまで色濃く憶えていたじいさんの顔が、今はもう思い出せない。
高潔な廊下の調和を崩す、八本の有彩線。
扉の上部の赤ランプは消灯してるけど、手放しに安心するなんて出来やしなかった。
黒い窓ガラスの向こうに降り続く雪を、ぼーと見つめるだけ。
すると、廊下の端から女性が駆け寄ってきた。
「木下さん、大丈夫ですか?」
身体が硬直し、立ち上がる。
「は、はい!僕は大丈夫です。あ、あの…。」
「先ほど無事終わりましたよ。お子様も、奥様の容態も安定しています。」
「良かった…。本当に良かった。」
「病室に運びましたので、案内しますね。」
僕の妻は、困難と相対していた。
逆子という非常にリスクの高いお産にも、彼女は強気だった。出産予定日を来週に控えてもなお、飄々とした態度で現実に向き合い続けていた。
そんな姿を見ていた…、いや、見せて“くれていた”お陰か、万が一にでも妻に何かあるなんて、心の片隅にも置きはしなかった。
だから、その一報はとても衝撃的だった。
買い物途中に破水し倒れ、救急搬送されたことを。
走った。駆けた。登った。
同僚や上司を押しのけ、オフィスと大地を蹴り乱した。
喉から変な擦過音がするまで、必死になって病院にたどり着いたのだ。
今はただ、妻が無事で良かったという安堵で一杯である。
「一時間もすれば、麻酔もとけて話せるようになりますよ。」
「ありがとうございます。」
僕は看護師さんに向かって、深々と頭を下げた。
「木下さん!当然のことですよ。」
「いえ…。」
「奥様が起きられましたら、また呼んで下さい」
「はい。」
僕ら三人がいるだけの病室は、静寂のひとひらに尽きる。
妻が横たわるベッドのそばには、ミニサイズのベッドがもう一つ在る。
プラスチックの囲いの中では、新しい命の顔がある。
可愛らしくか弱い身体は、小ぶりな呼吸を絶えず繰り返している。
庇護欲と愛おしさと、未精製の父性に満たされる感覚が、じんわりと広がった。
完全に力の抜けた僕の背中を、一つの声が叩く。
「あら、来てたの。」
やっと聞こえた妻の声に全身が反応する。
「だ、大丈夫かい!?」
「大げさだよ。仕事中だったのに心配かけてごm…。」
妻はそこで言葉を飲み込んで、
「感動しちゃった?」
と、僕の目尻を指で軽くなぞった。
「うん…、そんな感じ。」
「ねぇ、どんな顔してる?」
「君に似て笑顔が似合いそうな子だよ。」
「もう。」
「そういえばね…。」
「うん。」
「さっき、じいさんに逢ったんだ」
「あら…そうなんだね、話せた?」
「うん、次は本気で腕相撲しようねって。」
「それは…良かったね。」
「うん、良か…った」
妻は、ベッドに横たわったまま頭を撫でてくれた。
そうか、逆に心配させてしまっていたのか。
「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。」
という僕に、「そう。」と妻が返す。
再び鼻の先へ流れてきた一滴を、セーターの袖で強く拭った。
朱い顔をした妻の胸の中に沈む。
小さな小さな身体は、今、確かに生を打っている。
白い波間に浮かぶ二輪の花が、私の海に煌めく碇を落とした。