ずぶ濡れお姉さんとトリプルチョコミント
アイスを食べるには絶好の夏日だった。
買ってすぐに食べるならキンキンで、少し持ち出してから食べるならきっと程よく溶けている。痛めつけるように照らしてくるお日様の熱に体の内側から抗える特効薬がアイスだ。
付け加えるなら、甘さと清涼感が入り混じった夏の風物詩──チョコミントアイスを食べるには最良の炎天下。
けど、世間的に歯磨き粉と呼ばれがちなソイツを食べるのは神様が許してくれないらしくて、天気はチョコミントみたく澄んだ空色のくせに、六月の梅雨も真っ青な大雨が降って来やがった。もう七月の終わりだぞ。
一年に六回しかない三十一日のお買い得日。
しっかり買った三段チョコミントアイスを守るべく、俺は一瞬にして出来た水たまりを踏むことを厭わず大学への帰り道をひた走っていた。
「──はっ、はっ、はぁっ。──やっぱ無理!」
馴染みの店員さんが小箱に詰めてくれたおかげで、アイスはまだ無事だ。
小箱の親切より、毎度トリプルチョコミントを注文する度苦笑を隠さない不親切をどうにかしてほしいけれど……。
後五分も足を動かしゃ大学だったけど、これ以上は守り切れる気がしない。
とにかく、今は雨宿り出来る場所が欲しかった。
豪雨のせいで視界はもはや濃霧の中。冷凍庫から飛び出す霜に埋もれたようだ。
そんな視界距離推定5メートルの範囲でおぼろげに見つけた屋根下へと滑り込む。
「ふー。まじでびっしょびしょなんだけど……」
名前も知らない自然公園のベンチにどっかりと腰を落とし、今日の戦利品の無事を確かめる。
カップに雪だるまよろしく三段積みされたアイスを確認し、そっと箱を閉じた。
今食べるには色々とびしょびしょすぎた。こんなんじゃまともに味わえないし、勿体ない。
せめて、服の裾くらいは絞ってから食べたかった。
「……君も雨宿り?」
「へ?」
そんな時、まさか声をかけられると思わなくて変な声が飛び出た。
直近でこの声を出したのは、チョコミントが世間で歯磨き粉と揶揄されていたのを知った時の──大学一年生の頃だったはず。
気付きもしなかった声の主は向かい合わせのベンチに座ったびしょ濡れの女性。
今さっき駆け込んできたのか、下ろされた黒髪とベンチから垂れ下がるオレンジのロングスカートの裾から水滴がぽとぽと滴っている。
「やっほ」
「──どうも」
左手でトップスの黒のオフショルダーを絞りながら、右手を上げて愛想よく微笑まれる。
正直、あんまり直視がよろしくない格好だった。滲むような紫は見なかったことにする。
出来た返事はコミュ障みたいな目線逸らしと小声の挨拶。
不可抗力とはいえ、こっちの態度もあまりよろしくなかった。
「愛想悪いねー、最近の若者って感じ?」
「偏見甚だしいっすね。てか、お姉さんも若者じゃないんすか」
「えー、私はもうおばさんだからさー」
「めんどくさ」
「……初対面だよね?」
だって、そんなに気を使う必要がなさそうだったし。
そんなことよりアイス食べたいし。なんなら怒ってどっか行ってくれたって良い。
今はグッドなコミュニケーションの遂行よりバッドなデザートの回避が重要なんだ。
「今日平日っすけど、お姉さんお仕事とかは?」
「あれ、会社員と思われてる? そんな大人っぽいかな……」
「んじゃ、大学生?」
「いや? 普通に社会人だけど」
「ほんとめんどくさいっすね」
「君も大概だと思うよ」
学生にめんどくさい絡み方する社会人の方がだめでしょ。
多分どんぐり二つ分の差はあるぞ。
「いいんすよ。どうせお姉さんとはもう会わないんすから。嫌われても問題なし」
「ダメだよ若人、一期一会って言うでしょ?」
「その貴重な一期にお姉さん見合います?」
「ほんっっと失礼だね君」
「俺、はやくこれ食べたいんすよ」
ポケットにしまってたハンカチで手だけ拭って箱からアイスを取り出す。
三食団子顔負けのチョコミント三兄弟。多分真ん中が長男。知らないけど。
これ見よがしにカップを見せつけてやれば、チョコミントの威光にお姉さんが瞠目した。
「……なにそれ」
「何って、アイスですけど」
「いや、見れば分かるよそんなこと。なんでトリプルなのに全部同じなの。しかもチョコミントだし。アイスへの冒涜でしょそれ」
「何って、三つもチョコミントアイスが食べれるんすよ? チョコの甘さと甘すぎを緩和する清涼感! その二つの完璧な融合! これに勝る至福はない!」
「君、周りから馬鹿って言われない?」
さっきまで大人ぶってたお姉さんの目が途端にかわいそうなものを見る目へ変わる。
いつもアイス屋で注文を取ってくれる店員さんと同じ目。
人が喜んでるのに勝手に憐れまないで欲しい。
「別に理解してもらおうとは思ってないからいいっす」
「……えー。歯磨き粉三つも食べて楽しい?」
「仮にも大人が人の好きな物を侮辱して楽しいです?」
「あー、割とグサッと来た。なんも言えないわ」
「別に怒ってないからいっすよ」
「いや、絶対怒ってるでしょ君」
怒ってない怒ってない。食事中じゃなかったらチョコミントのおいしさについて語りつくしてチョコミント専門店に連れ込んでやるだけだから。
「ないですないです。お姉さんなんてどうでもいっすもん」
「それはそれでやだなぁ」
「我儘っすね」
「女の子は我儘なくらいがモテるんだって」
「彼氏いるんすか」
「……いないけど」
説得力ないじゃん。
お菓子のパッケージに書いてるよく分かんないサイトのアンケート結果一位並に信じられない。
「憐みの目やめろー! お前は彼女居るのかよ!!」
ぱっしゃんと足元の水たまりを鳴らしてお姉さんが怒る。
彼女は大学入学直後に入ったバスケサークルで作ったけど、半年くらいで振られた。
理由はつまらないからとかだった気がする。あまり興味はない。来る者拒まず去る者追わずがモットーだ。
「居ないっすけど?」
「人に聞いといてよく言えたね?」
「別に恥とも思ってないっすから」
「はー!! これが若者の余裕ですか!? ええ、はい所詮私は行き遅れですよ!!」
「……そんな年食ってるように見えないすけど」
「いやん。女に年齢はタブーだって」
若干透けているブラウスを腕でかき抱いて、お姉さんがわざとらしく声を上げる。
多分、若いんだろうな。そんなにダメージ受けてなさそうだし。
自己保身も兼ねた謙遜に近いあれと同じだろ。
どうでもいいので、一段目を食べ終え、二段目のアイスにスプーンを差し込む。
「ふぅん」
「ぜんっぜん聞いてないね!」
「どうでもいいんで」
「こういうの私が危機感感じる状況だと思うんだけどなー」
「どうでもいいんで」
「女より食い気ってか!」
いぐざくとりー。
英語は苦手だ。チョコとミントとアイスの発音だけなら自信はある。
「で? 早く帰らないんすか? 仕事なんでしょ?」
「いーのいーの。真面目な話するとフリーランス? ってやつだから。働くのも休むのも自由の身ってわけ」
「依頼がないとニートなんすね」
「ほんっと捻くれてるよ君! 最近はサブスクリプションとかで定期収入もあるんだからね!?」
クラウドファンディング的なあれか。確かに好きな絵師さんとかでよく見る奴だ。
最近だとこのうざったい湿気と熱気を吹き飛ばしてくれる涼しげな絵とかは世話になっている。
だから、ちょっとだけ気になった。
「へぇ、何してるんすか?」
「お、スプーン止まったね? いいでしょう、聞かせて進ぜましょう! 私は──おーいアイス食べるの辞めろー?」
「食べながらでも話聞けますって」
「人と話すときは目を見て話せって親御さんに教わらなかった?」
「はい」
家にある目覚まし時計ぐらい騒がしいお姉さんだった。
多分一限に間に合うギリギリで鳴らす五回目のスヌーズ並み音量。
仕方ないから目を合わせてあげた。手と口は忙しいから構えないけど。
「スプーンから手を放せっ!」
「……はい」
「離したね? 握らないね? おっけー、そこから動くなよぉ」
「うす」
犯人を取り押さえる警察かあんたは。
俺のスプーンは拳銃でもなければナイフでもないぞ。
清涼感たっぷりの甘味だ。癒し要素しかない。
「うるさい黙れ」
「なんも言ってないっす」
「目が口ほどに語ってるの!!」
「分かったんで早く喋ってくださいよ」
「こんのガキぃ」
「淑女らしくないっすね」
「こんの若造ぉ」
「お爺さんじゃないですそれ?」
淑女だったらほら……やかましいですわね? とか……?
それはそれで違う気するけど。
「……もういい。でー、何の話してたんだっけ?」
「お姉さんの仕事っすよ」
「あーそれね。いわゆるイラストレーター? やってるの」
「へー、すごいっすね」
「目がアイスに戻ってるけどね? ほんとに思ってる?」
「スプーン握らない程度には」
「君が言うと割と説得力あるね……」
イラストレーターっているんだ。──ああいや、そりゃいるのは当たり前なんだけど。
ネットでしか見ないから身近な存在でもないし。
有象無象って話なら居るんだろうけど、所詮一般人に過ぎない俺が見るのは玉石混交のネットで浮き上がって来た上澄みだけ。
こんな豪雨の中で特定の雨粒を探せと言われたって無理な話だし、探そうとも思わない。
その雨粒が光ってるとかなら別だけど。
──でも
「ほへでふへへふのはふほいっすね」
「でしょ? アイス食べながらじゃなかったらもっと嬉しかったな」
「──んん。今夏っすよ。ぐだぐだしたら溶けますって」
「つまんない正論どうもありがとー」
わざわざ厳しい道のりを選ぶくらいだ。
別に理由もなく近くでそこそこの大学に進学して、社会への猶予を得るモラトリアムな俺よりはよっぽど偉い。アイスには叶わないけど、鞄にストックしてあるミント味のチョコならくれてやれそう。
思ったより話に聞き入ってしまって、二段目を食べ終えるのが遅れた。
だから、最後の三段目にスプーンを突き刺して──アイスと同じくらい気になったお姉さんへつい質問を重ねてしまう。
「──イラストレーター。なんで始めたんすか?」
「お、続いての質問いいねぇ。人に興味を持たれるのって私最高だと思う」
「あー、承認欲求っすね。分かりました、あざーす」
「ちょいちょいちょい!? なんも言ってないから! 悲しいモンスターにしないでくれる!?」
「え、人に褒め称えられたいとかじゃ?」
「失礼だねぇ!? 間違ってもないけどさぁ!!」
水を吸って重くなった髪をぶんぶん振り回すお姉さん。
ヒステリックな人ってのはこういう感じなのか。鈍器みたくなってるし、当たったら痛いから落ち着いて欲しい。
「アイス食べます? 熱冷めますよ」
「君が付けた火種だよ!! あーと、そんな冷めた目で見ないでくれるー? 私悲しくなるから」
「アイスが冷ましてくれるんです」
「あー……そう。そりゃ冷たいもんね」
「ほうっふね」
適当に頷きながらスプーンを口にする。
溶け始めたアイスの汁が喉から胃へと流れていった。
「始めた理由だけど……。ま、単純。それしか出来なかったし、私にとって楽だから」
「出来ないことはないでしょ。やろうともしていない人間が出来ないと言い訳するならともかく」
「ほんと口だけは容赦ないね……。一生アイス食ってても良いかもよ君」
想像してみる。
春秋の昼下がりの熱と溶け合うチョコミント。冬の冷凍庫と張り合えそうな中で食べるチョコミント。夏の炎天下は言うまでもない。
どれも完璧そうだ。
「幸せそうな未来っすね」
「それこそただのニートだっての。──ともかく、私面接が苦手でさぁ」
「適当に、それらしいこと、言ってればいいんじゃないすか?」
「私を抑え込むってことじゃない? それ」
「確かに、お姉さんには無理そう」
「失礼だけど、今のは許して進ぜましょう。事実だし」
「だから──です?」
「そ、自分の好きな絵で、食ってこうってワケ」
そうしたいと思って出来る人はそんなに多くないと思う。
願望を持つ人がこのチョコミントアイス全体だとして、実際に叶えられるのはアイスに浮かぶチョコチップの数だけ。
割合にしてみれば、精々一割か二割。
もしかすると、もっと少ないのかもしれない。
去年行った同窓会を思い出してみれば、クリエイターで個人の奴なんて一人も居なかった。
会社に属するなら話は変わるけれど、それはあくまで会社の意向を受けて働くから違うと思う。
俺がチョコミント味を食べたくても、常に期間限定しか食べられない──みたいに。
「はっは、ふほいっふね」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、口からモノなくしてから言って欲しいかなぁ」
「だって──」
「溶けるから。でしょ?」
「すごいっすね」
「……君が単純なだけだよ。あーあ、世の中君みたいな人ばっかなら簡単に稼げそうだなぁ」
随分と失礼なお姉さんだ。
俺は俺の欲しいモノがあれば満足なだけ。大抵の人間も同じだろうに。
「稼げてるんじゃ?」
「あのねぇ、世の中そんな甘くないの。本当に好きな絵だけじゃ無理。SNSならフォローしてくれる人がどんな絵を望んでいるか、絵に付いたリアクション数で察して、その傾向に沿ったものを描くの。あとは流行り物とかね」
「……」
「興味ないからってアイス食うなー!」
興味はたぶんある。でも相槌要らなさそうだったから……。
「いや、ちょっと。口が暇だったんで」
「私と喋ってるでしょ!?」
「お姉さんが勝手に喋ってるだけっす」
「君友達いるの?」
それこそ失礼な。
大学に絞れば入学初期の友達しかいないけど、いないこともない。
これでも縁は大事にするほうだ。あ、チョコミントアイスを否定するのは許せないかもしれない。
「居ますよ? 身内は大事にする主義なので」
「……まー、君物持ちとか良さそうだね。一生同じモノ使ってそう」
「壊れたら買い換えますよ」
「……そうしてくれなきゃ困るね私は」
呆れ顔をしないで欲しい。
そう思った矢先、あれだけ土砂降りだった雨が忽然と消えてなくなる。
それどころか、まだ流れ切っていない暗雲の隙間から日が差してきた。
アイスが溶けかねないので、急いで残りを口に放り込む。ちょっと頭が痛くなった。
「おー! 止んだねぇ!」
「へふへ」
「まーた食ってるよ。──じゃ、私は帰るから。若人君も達者でね?」
「んんっ──! ストップ!」
ひらひらと手を振り歩き出そうとするお姉さんを俺は慌てて呼び止める。
貴重な最後の一口を飲み込んでしまったじゃないか。
「ん? なーに?」
「これ、どうぞ」
今ばかりはそんな残念な気持ちも投げ捨て、代わりに取り出したカーディガンを押し付ける。
「……君、アイスは控えた方がいいんじゃない? 今夏だよ?」
「誤解っす。大学の強冷房のせいなんで」
「……はぁ? で、なんでこれを? 別に家近くだし風邪なんて引かないよ」
「良いものを見せてもらったお礼ってことで」
「良い、もの……? あーー!!!」
そこでお姉さんはようやく自分の格好を思い出したらしい。
流石に透けたブラウスのまま帰り道を闊歩されるのは俺も気の毒だった。
「見たね!?」
「見せつけられたので」
「私が痴女みたいじゃない!?」
「別に、興味ないんで」
「平野で悪かったね!?」
「うるさいっす。わざわざ最後の一口すぐ飲み込んでまで止めたんすから、とっとと着てもらって」
「……はーい。お言葉に甘えさせて頂きます……」
男物なので少々丈があまるけれど、隠したいものがある今ばかりはむしろ丁度良さげだ。
暑いのは、我慢してもらうしかないけど。
「じゃ、俺はこれで」
「あ、ちょっと!?」
アイスで体が冷えているうちに日向を通り抜けようとするも、今度はお姉さんに呼び止められる。
「なんすか」
「これ! どうやって返したらいい?」
「いや、いっすよ。安モンなんで。帰ったら捨てるなりご自由に」
「いやいや! 学生から服せしめたとか外聞が悪いから!」
「えぇ……。しょうもない面子は要らないっす。──じゃあ、俺が好きそうな絵、SNSにでも上げてくださいよ。見ないかもですけど」
それっぽいその場しのぎの妥協案。突然の雨を凌ぐために逃げ込んだここみたく、適当な選択。
けれど、俺の提案にお姉さんは太陽に負けないくらい目を輝かせた。
「おー? いいね。それ乗った! 君が嫌でも見るくらいバズらせるよ!」
「うっす。適当に期待してます」
そう返して俺は大学へ帰った。
後ろから聞こえてくる威勢のいい声も、もう聞くことはないから。
*
それから二か月後。
大学の休み時間でスマホを弄っていた俺の目に、見覚えのあるものが映った。
カーディガンを羽織った女の子が木陰でアイスを食べている絵。
見覚えのあるカーディガンと、三段重ねなのに全部チョコミント味で埋め尽くされたトリプルアイス。
照り付ける太陽の雰囲気から夏っぽさを感じるが、カーディガンを羽織っている歪なテーマ。
なまじ作者の技量が高く、女の子も可愛いためか多くのリアクションを得ていた。
コメント欄には三段重ねなのに全てチョコミントにしていることへの聞き慣れたツッコミが書かれている。
俺は周囲に怪しまれないようニヤつきそうな顔を必死にこらえ、その絵師のアカウントをそっとフォローした。