第四話
二章・深い海の底から
1
森の木々が下を駆け去っていく。やがて朝日を反射して真珠を散りばめたようにキラキラと輝くエルアナ湖をも過ぎ去ると、私の脚を運んだ事もないような方面まで来た。ほうきはいよいよスピードに乗って、爽快だった。
「気持ちいいわ!リィディ。私ほうきの魔法がこんなに気持ちよかったなんて知らなかった――風を切って進む心地よさ、高い所から見渡せる広い視界――いいなぁ…私も一人で、飛んでみたいなぁ」
ほうき飛びの魔法、つまり飛翔の呪文は魔女の中では代名詞ともいえる魔法だ。
意志無きほうきに生命を吹き込み、飛べよ進めよ。その姿、まさに風、まさに鳥の如し――。
人間の伝承に残る魔女の絵にだって、必ずほうきにまたがり空を飛ぶ絵が描いてある。
だけどこの魔法、実は上級魔法なんだ。魔女の魔法にはいくつか種類があって、それぞれに難度が決められている。
例えば精霊魔法と言って、大気中などあらゆる場所に存在する精霊に交信する事ができる魔法なんだけど、それ自体はその精霊が存在できる周囲の状況――火の精霊なら火が近くにある事、樹の精霊なら森の中、とか――の条件が揃っていればそれ程難しい魔法ではない。
上級の精霊であるとか、周囲の状況が揃っていない時に交信しようとすれば、それなりに大変ではあるのだけれど。
だけどこの飛翔の魔法などは違う。何が違うって、全くの無から力を発生させる事なのだ。私達が念入りに作ったとしても、ほうき自体には大した魔力はない。それに魔法を施し、鳥のように飛ばせるには卓越した魔力が必要だ。今の私に到底できる魔法ではないのだ。
「あなたにもきっとそのうちできるわよ」
リィディはその長い髪をなびかせながら、そう言った。
「できないよ」
「あなたって魔法の勉強している時、詰まると本当に何日も何日も詰まる事があるわよね。でもあなた、覚えているかしら。昔銀の魔よけを作る時に、ずっとできないできないって困っていたわよね?でもあの時、ちょっとしたコツを教えたらあなたさっと魔法をかけられたじゃない?私、あの時思ったのよ
――ああ、この娘は魔法の才能があるんだって。魔力の使い方を覚えれば、きっとすごい魔法を使えるようになるって。だから急ぐ事はないわよ。その才能がきっと開花される時が来るから――さあもうちょっと飛ばそうかしら。ラン、しっかりつかまってなさいね」
「そうかなぁぁあああ…っ!」
ほうきは更に速度を増した。風がびゅうびゅうと顔に当るので私はさっきよりリィディにしっかりつかまった。
魔法の才能―――本当にあるのかな。そう思った。
2
「ここまでくれば大丈夫ね」
ベイロンドの南の果て、森の開けた場所にリィディはほうきを降ろした。塔を発ってから一時間と半程過ぎた頃だ。太陽もすっかり登っていつもの暑さが首筋をちりちりさせた。
ここからベイロンド側には人間を迷わせる大森林が広がっている。私の立っている場所からは森の彼方にベイロンドの森を囲むピネレイ山脈がうっすらとその峰を連ねているのが見える。一方こちらから南に進むとようやく人間の住む領域となるのだ。
赤い土の街道が遠く続いている。この先にシェナの街があるはずである。
「ここから歩いていけば今日の夕方には街道沿いにある小屋が見えるはずよ。そこにルックさんという人がいるから、事情を話して今日はそこに泊めてもらうといいわ。そして明日の朝また出発して、半日も歩けばシェナにつくはずよ」
「うん、わかった」
リィディの話を聞いているうちに、私は魔女の皆が通ってきた初仕事という、最初の道に立っているのだなあと改めて実感した。
「いよいよ一人ね、ラン」
「うん。本当にありがとうね。リィディ」
「一人で寝れるかしら?あなたが寝る前はいつも私かコリネロスが部屋を見に行ってあげていたものね。一人で服を洗ってたたんで綺麗にしておけるかしら?あなたが脱ぎ捨ててそのままにしておいた服を、私がたまに洗っておいてあげたものね…フフ」
「あ――っ!大丈夫だよ――っ!一人でそのくらいやれるわよ…あは、あはははは…」
「あはははは」
リィディが悪戯っぽくそんな事をいきなり言うものだから、私はリィディに怒るふりをした。普段リィディはあんまり冗談を言わないから、何だかとてもおかしかった。私達はお腹が痛くなるまでばかみたいに笑い合った。
「あはは…ふふふ…そう、そ、それなら心配ないかしらね(ふぅ―――と息をついて落ち着くと)…でもね、もしも、もしも私に助けに来て欲しい時があったら、心の中で呪文を唱えなさい」
リィディはそう言って真顔に戻ると、私に一つの魔法の呪文を教えてくれた。私も笑うのをやめてリィディの魔法の呪文を注意深く聞いた。それは、魔女と魔女同士の魔力を通じてどんな遠くにいても呼びかける魔法。
「わかったわ。でもこの魔法、使わないで初仕事が終えられるといいな。私一人でこの仕事はやり遂げたいから…」
「…そうね…」
リィディはもう一度私の頭を撫でると、再びほうきに飛翔の魔法を施した。僅かに浮遊したほうきに腰掛け、ベイロンドの森の方に進路を定めると
「それじゃあね。ラン!頑張りなさいな。くじけないで…」
と言い残して風を巻き上げ飛んで行った。
「ありがと―――頑張るわ!」
両手で大きく手を振り、リィディが見えなくなるまで見送った。
「さて、と…」
私は赤土の街道を一歩踏み出した。リィディの言う通り、ここからは本当に一人。私の力で全てやるしかないんだ。帽子を深めにかぶり直すと、私はシェナに向かって歩き出した。
※
昼過ぎになってからは温度も更に上がって暑かったけど、街道の近くに川が流れていたのでそこで休憩を取った。昼食を食べたり水を汲みなおしたりした後再び街道に戻り歩く事四時間程。もちろんその間何度も休憩を取った。
日が西に沈んで林にかかろうと言う頃、私はリィディの言った小屋を発見したのだった。
その小屋は二階建てのちょっと大き目のログハウスだった。窓には綺麗な柄のカーテンがかけられ、一階からは灯りがもれている。
私が小屋の近くまで行くと、偶然小屋の中から人が現れた。
「おや?」
長くも短くもない黒髪を綺麗にくしで下ろして、顎にに小さな髭をたくわえた中年の男の人。体つきが細くて落ち着いた眼をしているので、優しそうな人だという印象を受けた。この人がリィディの言っていたルックさんだろうか。
「旅の人かね?」
私に気付くなりその人はそう聞いた。
「は、はい!私ランと申します。ルックさんですか?私、魔女の初仕事でシェナまで行かなくてはいけないんですけど…あの、申し訳ないのですが一晩の宿を貸して頂けないでしょうか」
「おお!あんた魔女さんなんだね…。いかにも私はルックだ。シェナまで行くのか…さあさあ疲れたろう。中にお入り」
ルックさんは目を大きくして私を見つめると、私の背中を押しやって家の中に入れてくれた。
「おぅい、お前!旅の方だ。部屋に案内してやってくれ!」
男の人は入り口で中にいる誰かを呼ぶと、外に出て行ってしまった。ややあってぱたぱたと床を鳴らしながら人が近づいてくる音が聞こえると、「まぁまぁ」と言いながら奥から女の人がやって来た。年頃は男の人と同じくらいだろう。おっとりした顔の痩せた女の人だった。
「あらあら可愛らしいお客さんねぇ。どこからやって来たの?」
「あ…ベイロンドからです…」
「あらあら!それじゃああなた魔女さんなのかしら?」
「そ、そうです。ランと申します」
「あらあらーっ、あなた――っ、この方魔女さんなんですって――!」
何だかものすごくマイペースな人だ。女の人が外の男の人に声を掛けると、男の人も
「ああ――知っているよ!この娘は明日初仕事でシェナまで行くんだそうだ」
と言って中に戻ってきた。リィディは私達魔女の事をよく知っている人達だから心配要らないと言っていたけど、どうして普通の人間の人達がこんなに魔女の事を知っているんだろうと、疑問に思った。
とにかく私は、歓迎されて小屋のリビングに通されたのだった。
「紹介が遅れたね。こいつは僕の嫁さんのアンナだ」
「ランちゃんよろしくね」
ルックさんが座るソファの後に、お盆を持って立っているアンナさんがにこにこと言った。
「はい、こちらこそ泊めて頂いてありがとうございました」
「さあさ、冷たいココアを飲んでおくれ」
そう言うと、ルックさんはアンナさんが入れてくれたアイスココアを勧めてくれた。
リビングの窓からはそよ風が吹いて少し涼しい。外はもう日がほとんど姿を隠し、わずかに空の端を紫色に染めていた。
私はソファーに座っていたが、ココアを一口飲むと途端に疲労を感じた。休憩を入れながら歩いたとはいえ、朝から何時間も歩き通しだったので疲れていたのだ。
「とってもおいしいです…あの…聞いてもよろしいでしょうか?」
「うん、何だね?」
「どうして私が魔女なのか、とか―――初仕事なのか――とかお詳しいのでしょうか?昔リィディという、私の姉貴分の魔女がやっぱりここに泊めてもらったと聞きましたが…?」
私がそう聞くと、ルックさんはココアを口につけながら片方の眉を興味深そうに吊り上げて
「うん、ベイロンドのリィディちゃんだろう?あの娘が初仕事に出る時も、たった一泊だったけど子供のいない私達はそりゃあ可愛がったものさ。君と同じように、初仕事に緊張していたな。最近はあまり見かけないが元気かな?――でも私達夫婦は魔女さんの事に詳しい訳もあってね、ランちゃんは(大地の人々)っていう部族を知っているかな?」
「大地の…人々」
そう言えば塔で勉強した時があったような気がする。昔々まだずっと人間の文明が進んでいなかった頃、魔女は人々から神聖視されていたんだ。だから精霊の力が暴走してしまったりして人々が困った時、人々は魔女にそれを治めてくれるように頼む事にしたんだけど、普通の人が魔女に直接会うのは恐れ多いという事で、最も森や大地などの自然に近しい場所に暮らす部族――大地の人々――という人達に魔女に依頼をしに行ってもらったのだという…そんな話だったような気がする。
「私達は――その部族の末裔なんだがね、元来魔女さんと関わりがあったんだよ。実際魔女さん程ではないが魔力と呼べるものも多少備わっていてね。今は血も薄れて大した力は残っちゃいないが、ベイロンドの森で迷わず塔に辿り着ける事くらいはできるんだよ。ただ古来よりの習わしからろくに用事もないのに神聖な森に入る事はできなくてね。一応コリネロスさんとは何度かお会いした事があるんだが、私達にできる事と言えばこうして初仕事に出る魔女さんに一晩の宿を貸すくらいなのさ。大地の人々は今でも魔女さん達を応援しているんだよ」
「そうだったんですか…」
ルックさんは更に話を続けた。
「我々の生活は自然に根付いている。昔と比べ文明の発達した今でも、あんまり機械などに頼る事は許されていないのさ。そんな訳でこの小屋には最低限の設備しかないから、ランちゃんには窮屈な思いをさせてしまうかもしれないけどなっ、ハハハ。しかし初仕事がシェナか―――ルピス様よりの災厄の啓示…ランちゃん、気を付けて初仕事頑張ってな。それと―――」
「ハイあなた、おかわりよ」
話しながらココアを飲みきってしまった手持ち無沙汰なルックさんの目の前に、アンナさんがおかわりのココアを差し出した。
「お?おお、アンナありがとう」
ルックさんがそう言うと、アンナさんはにっこりしてルックさんの隣に腰を降ろした。
ルックさんは何故かそのココアを慌てて飲んでいた。
「さあさあ、それじゃランちゃんも疲れているでしょうからお部屋に案内するわね」
そう言ってアンナさんは小屋の二階の一室をあてがってくれた。
南向きの窓のついたさっぱりとした部屋。
ベッドの布団と枕はふかふかで、思わずそのまま倒れ込みたくなった。
「ぐっすり寝て疲れを取って、シェナまでの道を頑張ってね。今あの人がお風呂を沸かしているから、沸いたら入りましょうね」
「はい。わかりました!」
私はアンナさんにペこっとお辞儀をした。
「うん、それじゃあお風呂が沸いたら呼ぶわよ。ゆっくりしててね」
そう言ってアンナさんは部屋を出てぱたぱたと階段を降りて行った。
私はベッドに仰向けになると、眼をつぶった。脚の疲れがじわーっとしてきて、脚はもちろん、背中も頭もベッドに吸い付くような感覚を覚えた。そう言えば…今日はいつもより朝早くに起きて仕事に出たんだっけ…。
ここまでの道のりを今日歩いた事、リィディにほうきで森を抜けてもらった事、コリネロスがバラのオイルをくれた事。そんな色々な事を思い出しているうちに、頭もぼうっとしてきて何も考えられなくなってきた。眼の奥を侵食していく闇が私の意識を完全に奪い去ると、私はどうやら夢を見たらしかった。