第十八話
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日付は八月の十四日になっていた。コリネロスの言った満月の日は、もう四日後まで迫っていた…。
あれから――あれから私はほとんど塔から一歩も外に出る事は無かった。食事とわずかな雑事以外の時は部屋でベッドの上に横たわりながら外を見たりしていた。ふと考えに沈んでしまうと、必ずひたひたと押し寄せる、先行きの見えない不安に恐れを抱き、自分が虚ろになる。
こないだリィディが私の部屋に来た時、魔女の定めについての話をした。
魔女の道を捨てる者、は他の魔女と一緒にいつまでも暮らしていてはいけないのだという。魔女を捨てるという事は、魔女という存在ではなくなるという事。魔女だけが住まう魔女の聖域に、魔女を捨てた者はいる事はできない。
それが魔女の、魔女を捨てる者の定め。その決断を次の満月までにしなければならない。
人間だって色々なものに縛られ、とらわれている。私達魔女はそれよりももっともっと多くの定め、禁忌と呼ばれるものに縛られて生きなければならないんだ。
魔女は人間が及びもつかないような精霊力、魔力をその身に宿している。それを維持するのも定めや禁忌が条件となる儀式を済ませているからで、それを破れば儀式の効果は無くなるらしい。
「よく一人で考えてみて。答えをすぐに出してしまうような事はしないで」
それがリィディが私に言った言葉だ。その後リィディは特に私に何かを言う事はなかった。コリネロスもそうだった。二人はまったくいつも通りの生活をしながら時折私に寂しげな眼を送るだけで、私の迷いには手を出そうとはしなかった。塔の中には重苦しい雰囲気が漂った。
*
八月の十五日。
その日は朝から曇り空で、夜には雨が降るかと思われた。そんな釈然としない天気を察してか、窓の外で鳴くセミの声もやや元気がないような気がする。
答えの見えない迷いに、段々と気持ちがくさくさし始めてきた私の心を表したような嫌な雲だった。
「今日はコリネロスはいないわよ」
料理の盛られた食器を並べながら、リィディは言った。
「仕事?」
「ええ、そうらしいわよ。近々魔女の会合があるらしいの。私もあさっては仕事にでなきゃ…もちろんランの決断の日までには帰って来るわよ。ランがどんな答えを出すのか、私にとってはすごく大事な事だから」
「そっか…」
私はスープをすすりながらつぶやいた。忽然と行き場の無い事の苛立ちと焦りが、私の中に黒い炎をあげさせた。それは嫉妬という感情に最も近かったかもしれなかった。
「リィディはいいわね。私なんかと違って何でもうまくやれるもの。仕事をしたって辛い事なんてないんでしょう」
「ラン」
リィディは食事の手を止め、はっとしたような表情で私を見た。
「私、リィディみたいになれたらなあって、ずっと思ってた。魔法だって、料理だって!…でも、私は結局私でしかないもの。リィディとは違う。リィディみたいにいい魔女にはなれない」
「……」
リィディは黙って席を立つと、私の席の後に廻って私の肩に手を置いた。
「そんな事…」
「や、やめてよ!」
私ははね飛ぶようにその手を振り放した。
「なんで…なんでリィディはそんなに大人なのよ!それが私にとっては辛い時だってあるの!リィディに私が助けてもらう時は、いつもいつも私がリィディみたいにはなれないって感じる時なんだもの!」
「ラン!」
「そんな事をいつも感じなければならないのだったら、私はやっぱりいっその事誰もいない所に行くべきなんだわ!誰も私を必要となんてしてくれない!
私はこ、こんなに困った、嫌な女なのだもの!リィディだってそのうち私を嫌いになるわよっ!」
バシッ!
頬に鋭い痛みが走った。
「ランが私と同じになる必要なんてないでしょうに――」
リィディが私の頬を張った。
「ぶ、ぶったわね…」
「……」
「ウ…ウ…」
私は席を立ち上がるとリィディを押しのけて自分の部屋に戻った。ぶたれた頬はじんじんとして熱かった。机に突っ伏してまた、泣いた――。
*
八月の十六日。満月まで三日。
その日やはり、昼を過ぎた頃から雨が降り始めた。初めぽつぽつと降っていた雨はやがて強風を伴い、雨脚を強くした。
「嵐――?」
私は窓を閉めると、ガラス越しに外を覗いた。強風で木々が煽られる。昼過ぎだというのに薄暗い、分厚く黒い雲の狭間から、ごろごろと音が響く。雷も鳴っている。がたがたと音を鳴らして震える窓ガラスの音がやけに寂しく、恐ろしくて私は部屋を出た。
「リィディ」
部屋を出ると階段を上ってくるリィディとあった。
「ああラン、どうやら嵐みたいね。空の精霊が狂ったように外を飛び廻っている。窓を全部閉めて、しっかりと鎧戸も閉めなくてはならない。ランも手伝って」
「わかった――」
昨日の事が未だに謝れない自分が、何て子供で嫌だろうと思える。リィディはもう気にしないで普通に接してくれているというのに――。
ようやく全ての窓を閉めきり、私達は窓から吹き込んだ雨にその服を濡らしながら食堂へ行った。
タオルで濡れた部分を拭いていると、リィディがコーヒーを入れてくれた。
「随分降っているわねぇ」
「…昨日はごめん。リィディ」
熱いコーヒーカップを両手で囲みながら、私はつぶやいた。
「いいのよ」リィディは笑って私の前の席に座った。
二人で静かにコーヒーを飲んでいた。
ゴーゴーと吹きすさぶ嵐の音が、鎧戸を通して聞こえる。オレンジ色のランプの光が、いつもよりも心持ち頼りなげにちろちろと揺れていた。
「満月まで後三日ね…」
「…」
「本当に魔女を――やめるの?」
「…私は――」
言いかけて私は止まってしまった。まだはっきりと私の中で答えが出たわけではない。
逃げたままでいいのだろうか。とも考える事はある。アバンテは自分の家族の抱えた問題に押し潰されないで、明るかった。私に悩みを打ち明けても、それに向かっていこうとした。
だけど…私はそのアバンテからも恐怖される魔女で…。
その時塔の外で大音響がした。
「キャッ」
「すごい音ね…どこかに雷が落ちたのかしら…」
(ゴン、ゴン、ゴン…)
(あれ…)
一向に収まる気配のない嵐の音の中、私にはかすかな音が聞こえたような気がした。
(ゴン…ゴン…)
「…リィディ」
「――何?どうかした?」
「…何か、音がしない?」
「音――」
(ゴン、ゴン…)
「あら…本当ね。下…」
それは降りしきる雨の中、注意を怠っていては聞こえぬほどの音だった。食堂の下、階段の底から今は小さくだがはっきりと音が聞こえる。入り口の木製のドアを叩く音だ。
「コリネロス?」
私はふと雨に濡れながら締め切られたドアを叩くコリネロスの姿を想像した――。
「それはないと思うけれど…今日は帰ってこないってはっきりと言っていたもの…とにかく下に行ってみよう」
「うん」私とリィディは急ぎ階段を降り一階のホールに出た。
ゴンゴン…ゴン…。
やっぱり誰か外でドアを叩く人がいる。突然の謎の来訪者に、私達の胸は得体の知れぬ恐怖で弾けそうだった。
「だ、誰――?」
ゴン…ゴン…ゴッ…ズ、ズズズ…。
しかしその問いには言葉が返ってくる事はなく、今までに増して強い音――何かがドアにぶつかり、ずり落ちるような音がしただけで、後にはドアを叩く音もなくなってしまった。
「…開けるわ」
リィディがこっちに目配せをしながら用心深い手つきでドアのかんぬきを外した。中側に開く形になっているドアを開けると、一斉に雨と風とが舞い込む。
「キャッッッ!」
と、同時にごろりと倒れ込んだ、黒い影!
*
「…男の…人…」
ドアを空けて倒れ込んだその影は、男の人だった。長く背あたりまで伸ばした黒髪が雨に濡れそぼって、海藻の様に顔を覆い隠している。男の人にしては白い肌に、上品そうな服装をしていた。
突然の出来事にもようやく我に返ると、私は反射的にその人を引きずって中に入れた。気を失っている――。
雨が入り込むのでドアの外を見回して確認をした後、閉めてかんぬきを再び掛けた。
奇妙な事にこういった不測の事態に頭の回転の早いはずのリィディは動かなかった。それどころかその男の人を見るなり、顔面は蒼白になり肩は震え始めたようだったのだ。
「リィディ、この人を知っているの…?」
「……」
苦痛そうな、しかもそれだけでは済まされない複雑な感情を秘めた表情をしたリィディは、やっとの事で首をかすかに横に振った。
「――と、とにかく、このままでは肺炎になってしまうわね、私の部屋に運びましょう」
「うん」
私達は男の人を担ぐと、三階のリィディの部屋まで運んだ。
とりあえず上半身のびしょぬれの服を脱がせて、頭と身体を拭いた。その後大き目のセーターを着せて、部屋のベッドに布団を目一杯かけて寝かせる。リィディはそれらの動作をてきぱきとこなしていたけど、心ここにあらずといった体で、どこか遠くを見るような虚ろな眼でいた。
暖炉に薪を沢山入れた。私達もドアを開けた時に少し濡れていたので、そうしてようやくひとごこちが着いた。
「……」
「ああ、ラン、私達も着替えよう。私は部屋の服に着替えるから、あなたも一旦自分の部屋で着替えなさい」
「わかった」
私は自室に向かうべく部屋のドアを開けた。ドアを閉める時に見たリィディは、しかしまるきり着替えようともせず、ただただ男の人を虚ろな表情で見ていたのだった。
部屋に戻り薄手のクリーム色の服に着替えると、私は再びリィディの部屋に戻った。
私が部屋に入ると、リィディはようやく新しい服に袖を通した所だった。
男の人は依然気を失ったまま、だけどドアの前で倒れた時よりかはいくぶんか顔に赤みが戻っている。濡れた髪を拭きあげて後頭部にかきあげたので、男の人の顔ははっきりと見えた。
年の頃は二十五歳くらいだろうか、鼻筋が通っていて、その下で何か悪い夢でも見ているのか、引き締まった唇がわずかに歪められていた。端整な男の人だ。
私達はベッドの脇に椅子を持ち寄り、男の人を見つめた。




