The world change
美しい音色に目を覚ました。ベッドサイドに置かれたからくり時計を見ると、風車小屋とニワトリが忙しなく動き、オルゴールの音が時刻を伝えている。
午前六時。起床時間だ。
横向きの体勢から起き上がると、薄いタオルケットが肩から滑り落ちる。たったそれだけで、鋭い痛みが体を貫いた。内太ももへ目をやるとガーゼの上から巻いた包帯に血が滲んでいる。
この傷は、お兄様がつけたものだ。
お兄様は、半年前の火事で重度の火傷をおった。そのせいで、両腕の肘から下、両足の膝から下を切断している。だから、自力で立つことが出来ない。それどころか、ドアノブだって回せないし、一人で食事を摂ることもできない。ボクが世話しなければ、一週間もしないで死んでしまうのだ。
「……。」
朝食を作らなければ。
身支度を手早く済ませて、広々としたキッチンへ移動する。ここには、約百名分は賄えるよう、大きな調理器具が備え付けられている。最新のオーブンやフライヤーはもちろん、低温調理器、ミートテンダライザー、燻製マシンも用意されてる。
けれど、今となっては宝の持ち腐れだった。これらの調理器具を使う人物はいない。この屋敷にはお兄様とボクしか住んでいないのだから。
もちろん、ずっとそうだった訳じゃない。以前はお父様とお母様、それから使用人も数十名は超え、パーティーも頻繁に催していた。それなのに、半年前の火事で全て変わってしまったのだ。
「えーっと…バターとたまごが、三つ…」
使用人が残してくれたレシピを目で追う。お兄様の大好きなスクランブルエッグは、大量のバターが決め手なのだそうだ。そして、一番大事なのは火加減だという。だけど、これがものすごく難しい。ものの十秒でたまごの色と固さが変わってしまう。しかも、火を止めても余熱で固まってしまうのだ。レシピで味は近づけても、火加減はまだまだほど遠い。
自分の朝食として、トーストと紅茶を素早く流し込み、お兄様の分をお皿へ盛り付ける。サラダとトーストとスクランブルエッグ、それに挽きたてのコーヒーをトレイに乗せて二階へ向かった。
たった二人で住むにはこの屋敷は広すぎる。掃除なんて行き届かないし、換気のために窓を開けるのだって、全部屋となると骨が折れる。だから、ほとんどの部屋へ鍵を掛けていた。その鍵を持っているのはボクだけだ。
「ミゲルお兄様、ノアです。入りますね」
部屋の中はカサブランカの強烈な香りに満たされていた。ベッドサイドの真っ白な花瓶に、大輪の花がこれでもかと主張している。その花の下へ朝食を置き、ベッドへ目を向けると、何の面白みもなくお兄様は横たわっていた。
「ミゲルお兄様。おはようございます。今日もいいお天気ですね。せっかくなので、朝食のあとはお散歩に行きましょう」
真っ赤なカーテンを開け放つと、柔らかな朝日が部屋中を包む。容赦ない明かりに照らされて、体をくねらせるお兄様を、無理矢理起こして座らせる。自分はベッド脇へ腰を下ろして向かい合った。
「そんな顔で見ないでください。規則正しい生活は、お兄様の健康のためにしているんですから。…え? あぁ、待ってくださいね」
お兄様の声は火事の高熱で潰れ、掠れた音しか出ない。うまく伝わらない事に苛立ったお兄様は、今では筆談で会話をしている。
もっとも、ペンを持てないから、無様に口で咥えているんだけど。
「チョウショク イラナイ…? ダメですよ、食べないと」
ペンを取り上げようとすると、肘までしかない手ではたき落とされる。ため息まじりにノートを顔の前に持っていくと、ゆっくりとのんびりと、文字というより、記号のような単語を書いていく。ペンを伝って唾液まで垂らしている姿は、無様で可哀想で、ついつい笑ってしまった。
「キブン ジャナイ。…そんな事で食べないんですか? ワガママはいけませんよ」
有無を言わさずペンを取り上げる。そして、まだ湯気の上がっているコーヒーを口元に持っていくと、コップを肘で叩かれた。熱湯のコーヒーは、ボクの頬と腕にかかる。コップは絨毯の上へ転がり、腕に残った液体を叩き落とそうとするボクの背を、お兄様の腕が容赦なく殴りつけてきた。
「っ、ぁ、…ご、ごめんなさい」
ボクより大きなお兄様の胸に、思い切り額をぶつけてしまった。目線を上げると、薄く弧を描いた唇、その上に高く通った鼻筋、切れ長の二重に灰色の瞳。この顔を見るたびに、『あぁ、変わらなくて良かった』と思ってしまう。ブロンドの僕とは違い、美しかったアッシュブラウンの髪は焼けてなくなり、全身は焼けただれ、皮膚のあちこちが引き連れている。それなのに、不気味にも顔だけはなんの被害もなかった。ボクの願った通りに。
「お兄さ…んっ」
お兄様の薄い唇が、ボクの唇に重なる。隙間から、ねっとりと熱い舌が割り込んできた。これが、お兄様の合図なのだった。
「ぁあ、そういうことですね。…素直に仰ってくれたらいいのに」
幼いボクにとって、お兄様は完璧な存在だった。勉強もスポーツも申し分なくできて、友人は大勢いて、いつも輪の中心にいた。どれだけ忙しくても、ボクに勉強を教えてくれてどんな時も優しく接してくれた。
五歳も歳が離れていたことや、類を見ないほど美しかったことも、憧れを強くした要因だと思う。
ボクがどれだけ努力しても追いつけない存在。それがお兄様だったのに、今では一人で食事をとることも着替えることも、排泄の処理も、自分を慰めることもできない。こうしてボクに、すべてを頼むしかない。
たったそれだけで、お兄様の人間性やプライドを粉々に壊したと思った。排泄の処理をするたびに、わざわざ言葉にしてやったし、わざと熱い料理をこぼしてやったこともあった。自殺してもいいくらい、プライドをめちゃめちゃにしたはずなのに、お兄様は生きている。
だから、そろそろ最後の切り札を使おう。
「…あの日、火をつけたのはボクなんですよ。知っていましたか?」
タオルケットを捲りあげ、お兄様のズボンと下着をはぎ取る。荒々しくそれに触れると、掠れた吐息が漏れた。
「お父様とお母様が、僕達を売ろうとしていたんです。だから、正当防衛なんですよ」
汚らしく唾を垂らし、ゆっくりと上下に動かす。お兄様の好きな場所を執拗に撫でながら、滑らかな頬へ唇を寄せた。
「ケーキに睡眠薬を入れて、眠っている間に手足とお部屋にガソリンをまいたんです。だって、あの人がお兄様に触れるのが嫌だったから。近づかないようにしたかったんです」
快楽なのか驚きなのか、お兄様は歯を食いしばっている。
「お父様とお母様の寝室にもまいて火をつけたんです。そしたらほら、全部うまくいったでしょう?」
お兄様自身がぐちゃぐちゃに濡れてきた所で、口内へ迎え入れ、舌で嬲りつつ吸い上げる。お兄様はあっと言う間に果てた。それと同時に、大きな笑い声が部屋中へこだまする。その主は、お兄様だった。
「オ、マエ…ハ、…バカ、ダ」
おかしくて堪らないとばかりに、お兄様は歯を見せて笑う。呆気にとられているボクをよそに、お兄様はぐっと息を詰めたかと思うと、白目をむいて痙攣しだした。
激しい動きに、驚きと恐怖で何もできないまま、お兄様は泡を吹き出す。そして、体の動きが止まり全く動かなくなった。
「ミゲルお兄様?」
血の混じった泡で美しかった顔が汚れている。触れてみると体は温かかった。しかし、脈がない。
「な、なんで…お、お兄様‼ ミゲルお兄様!」
体を揺すっても起きるはずがない。分かっていても何度も激しく体を揺さぶった。そのせいで、枕やシーツへ血の泡が飛んでいく。何度も揺さぶっていると、透明な何かが滑り落ちた。拾ってみれば、五センチほどのガラス小瓶だ。
「何…これ」
揺れている。小瓶が? いや、違う。ボクの指が小刻みに震えているのだ。それどころか、触れている感覚、握っている感触。それらがしない。何かがおかしい。
「ぅっ、」
手足がしびれて力が抜けていく。思わず床にしゃがんだけれど、座っているのもつらくて寝転んでしまった。浅い呼吸を素早く繰り返しているのに、酸素が足りない。そのうちに、ガタガタと体が震え始めた。
何がどうなっているんだ。いつもと変わらない朝だった。お兄様に作った料理だって、変なものは使っていない。もちろん、ボクの朝食だってそうだ。それなのに、まるで毒を飲んだような反応じゃないか。それも、お兄様が先だった。
「…ぁ、」
どこからか出てきた小瓶。まさか、アレなんじゃ。
起き上がろうとうつ伏せになると、視線の先に誰かが立っていた。ガタガタと震える体にムチを打って体を起こすと、その人物はボクの目の高さに合わせてしゃがむ。そして、頭を撫でた。
「な、んで…ここに」
「うん、何でだろうね。でも、そんな事はどうでもいいんじゃないかな? 君はもう死ぬんだし」
「っ、まさか」
今の今まで気づかなかった。この人は、半年以上前からこうなるように仕組んでいたのかもしれない。
だとしても、なんの為に?
問いの答えを出す時間もなく、ボクの体は激しく痙攣して意識は途切れた。
「…おやすみ、ノア。いい夢を」
おわり
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