今日は少し冷えるから
「おかえ…ふぁぷち!ふぁっぷしゅ!」
俺たちが屋敷に帰ると、出迎えてくれたメイドのキャルはくしゃみが止まらなくなった。どうやら犬の毛が合わないらしく、鼻水がずるずると垂れてくる。
「気にし、ぶしゅっ!気にしないでくだしゃい…今日は少し冷え、ぶしゅん!昔からこうなので、はくちゅん!」
「ごめんな、突然つれてきちゃって。よかったらハンカチ使ってくれ」
「ずびっ!いえ!このくらい平気でしゅう!それより、スレイは?」
『…ここです』
申し訳無さそうに懐から出てきたスレイを指差すと、キャルはサッと顔を青ざめさせた。今までに見たことのない、絶望に染まった表情だ。
「スレ、ぶしゅっ!ふぁくしょい!無理です!」
『ちょっ、キャル?』
「くしゅん!くしゃん!くひゅん!あー!もうダメ!やっぱりムリ!はくちゅ!くしゅん!!」
くしゃみが止まらなくなったキャルは、屋敷の奥に駆け出して行った。
「悪いことしちゃったな……とりあえず、俺の部屋に行くか」
なるべく毛を撒かないようにそっとスレイを懐にしまいこむと、俺の自室に隔離させる。あの様子なら、スレイはしばらくキャルと顔を合わせないようにした方が良いだろう。
『…後が面倒そうです』
「あはは、スレイも大変だな」
苦笑しながらベッドに腰掛けると、スレイは不満そうに頬を膨らませた。
「でも、ちょっと楽しいな。こうやって犬を飼うの夢だったんだよ。へへっ、もっかい撫でてもいい?」
『……はい』
照れたように俯いたスレイの頭を撫でると、気持ち良さげに身を預けてきた。その様子が可愛くて、思わず口元が綻んだ。普段はしっかりしてるスレイがこうやって甘えてくれてるなんて、嬉しいな。
(あ)
そこで、ある考えが浮かぶ。これは、普段の仕返…いや、お返しが出来るのでは無いだろうか。いつもは俺の専属執事として甲斐甲斐しくお仕えしてくれるスレイに、たまにはお礼がしたいと思っていたのだ。
よし、決めた。
「なぁ、スレイ。この後一日、スレイのこと本当のわんちゃん扱いするけどいいかな」
『えっ』
***
ベッドの上で、真っ白な子犬を抱きしめる。
「よーしよし。良い子にしてたら、明日は一緒に遊ぼうな〜」
『……』
スレイは無言でされるがままになっている。
「へへ、可愛い」
『……』
返事はない。ただの子犬である。
「ほら、ごろんってしような。沢山撫でてやるから、ゆっくりするんだぞ」
『……』
スレイは何も言わない。ルシアは子犬に話しかけ続けるが、相変わらず無反応だ。
「……んん、やり過ぎたかな、ごめん」
『……い、いえ……』
何も言ってくれないことに不安になって、声が小さくなっていくルシアだったが、スレイはポツリとつぶやいて体を捻る。別に嫌な訳ではないのだが、スレイの頭の中はパニックになっているのだ。
いつもよりも効く鼻は、ルシアさんの甘い香りをしっかりと捉えているし、思考も子犬に寄っているのか頭の中ではルシアさんに甘えたいし、くんくん嗅いだりペロペロしたい、という獣の欲望ばかり溢れてくる。こんな状態でまともに会話できるわけがない。
それに、ルシアさんの体温に包まれている今の状況はもう、正しい考えができない。
「じゃあ、そろそろちゃんと寝ようか」
『はい……あの、本当にここで眠るんですか?』
「うん?そりゃ、使用人部屋に戻ったらキャルが酷い事になるだろ。外に出すわけにもいかないし」
『……』
外に放り出してしまえばいいのにと思うが。でも、せめてと思って僕はベッドから出て丸くなる。なるべくルシアさんから離れる様にすると、彼の手に捕まった。
「ん、こっちおいで」
『っ!』
思わず息を飲むとルシアはクスッと笑って、僕を胸に抱いたまま目を閉じた。
「おやすみ、スレイ」
(ああああ…また、これは、これはダメだぁぁ…)
スレイは重くなる瞼に何もかも諦めて、そのまま眠りについた。
***
翌朝、朝日が差し込む部屋の中、ベッドの上で目が覚めた。結局ルシアさんのベッドの中で眠ってしまったらしい。
隣を見ると、すやすやと眠っている彼の姿があった。
「……きゅぅ」
その姿を見て、思わずペロンと舌を出して頬を舐める。くすぐったそうに身じろいだが、起きる気配はない。それどころか、「えへへ……」なんて笑いながら擦り付いてくるものだから堪らない。
「…わふん(…好きです、ルシアさん…)」
口づけをするように、舌が頬や額を丁寧に舐める。犬のした事として許して欲しい、なんて思いながら。だが、口にちょんと触れた時に異変が起きた。
「…!?」
身体が熱い、と感じる間もなく視界が高くなっていく。手も足も、毛が無くなって皮膚が現れる。そして、全身を覆っていた体毛が全て抜けた時、そこには人間の形に戻ったスレイの姿があった。
「んー……うるさいぞ…」
「…っルシアさ、うわっ…!?」
寝ぼけているのか、彼は僕の体を引き寄せて胸の上に乗っかる。
「むふー…あったかいなぁ」
「ちょっ!ルシアさんっ!!」
今日はいつもより冷えるから、なんて思えない。首筋に顔を埋めて匂いを嗅ぐルシアさんに、僕の顔は赤くなる。何も着ていない今の状態は、子犬の時よりもまずい。必死に抵抗するが、寝ぼけたルシアさんの力を振りほどくことはできない。
「…大好き…」
「っひ……!」
耳元で囁かれた言葉に、心臓が跳ね上がる。きっと彼はまた僕と最愛の妹さんを間違えている。
「ずっと一緒だから…」
「るる、ルシアさん、また貴方は…!ちょっと待ってくださ……!」
「むにゃ、んん……」
ああもう、本当にこの人は……!!
何度も声をかけて、やっとルシアさんはゆっくりと目を開けた。赤い瞳には真っ赤になった僕の顔が映っている。寝ぼけ眼の彼に、なんて文句を言ってやろうかと考えて。僕は熱い顔のまま、いつも通りの挨拶をした。
次回より、3章「吸血鬼の休日」が始まります。




