i ベnト
その日は唐突にやってきた。
「あら?人が多いわね…」
「どうやら薬学部が部員勧誘で廊下の一角を占拠しているようですね。あちらの階段から移動しましょう」
薬の匂いなのか、つんと鼻につくようなすえた匂いが廊下を漂っていた。人混みを縫っていくように進んでいくと、他の生徒に押されてスレイの手を離してしまう。
「…あっ、ちょっと待ってスレイ、人の波が……っ!?」
「悪役令嬢、かくほー!!」
「え、マリ…がはっ!?」
ぐるんと視界が暗転して、強い力で何かに押し込められる。
俺は突然の衝撃に反応できずに、肺につき刺さるような匂いの女に引き摺られた。
***
場所は何処かの空き教室の中だろうか。マリと見知らぬ男子生徒3人が俺の周りを囲んでいる。例の甘い匂いが部屋を満たしていて、それは鼻が取れそうなくらいに濃い匂いになっていた。吸う度に肺が針で何度も刺されているみたいにズキズキと痛んだ。
「レジーナちゃん、もうそろ限界なんじゃない?ねね、どうかな?スレイくんをくれる気持ちになった?」
そう言ったマリは椅子の上に立ちこちらを見下ろしている。その手には魔法で作りあげられたのか、白く光り輝く刃の長いナイフを持っていた。顔にはうっすらとした笑みが浮かんでいて、明らかにこの状況を楽しんでいる。
「げほ、無理、ですし…私は限界なんかじゃ……」
しかしこちらは満身創痍だった。
マリの甘いキツイ匂いで気分が悪くなり、それに気づいた彼女がさらにその匂いを濃く、匂いの量を増やしたのだ。空き教室の床に這いつくばり、口からはひゅーひゅーと息を漏らしてしまう。内蔵がずきりと軋む度に、意識が朦朧としていく。
「限界だよ〜?強い闇の魔力持ちは光の魔力と相性が悪いんだもんね?私のラブ魔法だけでも、すっごいHP減ってるはずだもん!」
マリが俺の顎を掴むと、顔を片手で持ち上げる。
女子とは思えない強い力に思わず顔を顰めてしまう。
「レジーナちゃん!貴女がバグっちゃったのがいけないんだよ!そりゃ、イベントは裏技で無理やり進めてきたけどさぁ?いつのまにかメルタ以外にも生徒会の好感度がすっごく下がってるし、隠しキャラは攻略できないんだもん」
「何を言って…」
「スレイくんとか本当におかしいよねぇ!全然!好感度が上がらないんだよ?あーやだやだ。来月から隣国の王子だって攻略できるはずだったのに。攻略終わったキャラ、放置するんじゃなかった」
バグ?裏技?キャラ…?一体何を言っているんだ…?
ぐいと顔を近づけてくるマリの匂いに、吐き気が込み上げてくる。なんとか気力を奮い立たせるが、マリは良い事を思いついたようにニコッと笑って、その手に持ったナイフで制服を切っていく。露わになる素肌に思わず目を閉じると、マリは鼻を鳴らしながら言う。
「ふふ~ん!ゲームでも見ない表情するじゃん!攻略サイトで見た、ネルス会長ルートスチル!悪役令嬢の嫌がらせの真似だよ!でもやっぱりレジーナってビジュは綺麗だよねぇ。でもほんと、私が知ってるレジーナちゃんとちょっと違うような…。……あれ…?」
俺の制服を切り刻んで、とうとう制服のブラウスまで破くと笑っていたマリの顔色が変わった。切り裂かれた制服の上着を持ったマリの顔が真っ赤に染まって、ふるふると震え出していく。何が起こったのかと咳き込むと、マリは手に持っていたナイフを地面に落として口を抑えた。
「……貴方……ルシア=ブラッド…しゃま………!?」
「なんで…名前…」
その言葉に目を瞬くと、信じられないものを見たというように目を大きく開いて固まっている少女が目に入った。
「はぁあぁ!?にゃんで、ルシアしゃまが、女装…!?あぁあ待って、スマホ…!そこのモブA!鞄から出して寄越しなさい!今すぐよ!」
名前、それに性別を知っているということは、マリは既に学園長すらも掌握しているのだろうか。だったら何でこんなまどろっこしいことをしているんだ。
俺はマリの奇行に混乱していた。だけど、巡る思考とは裏腹に、マリの手が離れた俺はまた教室の床にべたんと座り込む。呼吸がままならないどころか、もう足の感覚すらも無くなってきた。しかしそんな俺に構わずマリは手に持った服と、板のような魔道具を構えながら興奮した様子で近づいてくる。思わず腕の力で後ずさるも後ろにあった机に背中がぶつかった。
「えぇ……待って、いや、ルシアしゃまって、ここに居たのぉ……!?レジーナお嬢様じゃなくて!?」
閃光が魔道具から放たれるたびに、晒された肌に静電気の様な痛みが走る。うめき声さえもマリを喜ばせるようで、彼女は恍惚とした表情でこちらを見ていた。
「う…痛っ…やめろ…っ」
「ひゃあぁぁ…すっごい素敵!スチルみたい…あれ?写ってないや。えぇー…ざんねん…。…折角だから、ルシアしゃまの身体、全部見とこうかな?」
「…!?やめろ!」
スカートの中に潜り込んできたマリの手を咄嵯に押さえると鋭い視線が返ってくる。マリの目がキラリと光ると同時にバチッと強い衝撃を感じた。
「もぉー!設定画と一緒なのか確認するだけだよぉ?ほら、ここの脇腹の古傷でルシアしゃまだって分かったんだよ?これって昔事故にあって出来たものなんだよね?妹のリリアたんは元気?」
「…は…?」
リリア。
マリがその名前を口にした途端、ルシアが『替わった』
身体の血が、ごぽりと沸騰するように熱くなる。
学園長を掌握している、などではない。
この女は、『全て』を知っている。
俺の事を全て。
頭が冴えるような感覚と乾くような飢餓感。強烈な殺意が身体を満たしていく。匂いも吐き気も痛みも何も感じない。
ただ今はこの目の前の人間を消す。
その意識だけが、俺の全身を占めていた。




