4.第一層・境界侵食
境界に触れた瞬間世界が“沈んだ”。
足場が消えたわけじゃない。
落ちたわけでもない。
ただ、自分という存在の輪郭が曖昧になる。
現実と何かが重なった。
その感覚だけがあった。
次に気付いた時俺はそこに立っていた。
薄暗い空間。
洞窟のようでどこか違う。
壁は黒く濡れ空気は重い。
息を吸うたびに肺の奥がじわりと痛む。
「……ここが、界孔の中か」
言葉にすると少しだけ現実味が出る。
だが同時に理解する。
ここは“普通じゃない”。
ただ立っているだけで何かが削られていく。
体力じゃない。
もっと奥。
意識とか感情とか。
そういう曖昧な部分が少しずつ削れている。
「……なるほどな」
小さく息を吐く。
危険だ。
それは間違いない。
けれど。
それ以上に。
すべてが濃い。
音も、匂いも、自分の鼓動も。
外の世界よりずっとはっきりしている。
その時、背後で“何か”が動いた。
反射的に振り向く。
暗闇の中。
壁の一部が剥がれるように動いた。
黒い塊。
人の形に近いが、どこか歪んでいる。
顔の位置には穴のような影。
視線が合った気がした。
瞬間、本能が叫ぶ。
危険だと。
次の瞬間、そいつは跳んだ。
速い。
考えるより先に体が動いた。
横に転がる。
地面に叩きつけられる。
頬が切れる。
それでも思考は止まらなかった。
どう動く。
どこを見ろ。
次はどこから来る。
恐怖が頭を満たす。
だが、その奥で。
妙に冷静な自分がいる。
見える。
さっきよりもはっきりと。
動きが読める。
踏み込みのタイミング。
腕の軌道。
すべてが線のように繋がる。
「……なんだよ、これ」
呟いた瞬間、胸の奥で何かが脈打った。
ドクンと一度。
大きく。
視界が研ぎ澄まされる。
音が遅れる。
世界が一段はっきりする。
そして理解する。
これが――刻能。
まだ不完全。
名前もない。
けれど確かに“刻まれ始めている”。
化け物が再び迫る。
今度は見える。
避ける。
ギリギリでかわす。
爪が空を裂く。
息が荒くなる。
心臓がうるさい。
怖い。
それでも。
ほんの少しだけ。
楽しいと感じている自分がいる。
「……は」
笑いが漏れる。
その瞬間。
違和感が走る。
恐怖が少しだけ薄れた。
代わりに。
冷たい何かが入り込んでくる。
理解する。
これが代償だ。
刻まれるほどに、削れていく。
それでも。
体は止まらない。
むしろ前に出る。
もっと見たい。
もっと理解したい。
もっとこの“感覚”を味わいたい。
その衝動が確かにあった。
気付けば呼吸が浅くなっている。
足も重い。
長くはいられない。
「……チッ」
舌打ちして距離を取る。
逃げる。
今はそれしかない。
振り返らず走る。
背後で気配が追ってくる。
それでも。
さっきよりも動きが分かる。
避ける。
躱す。
滑り込む。
出口が見える。
黒い歪み。
入口と同じ形。
そこへ飛び込む。
瞬間。
空気が変わった。
光が戻る。
音が戻る。
世界が“軽くなる”。
膝が崩れた。
「……はぁ……っ」
息が荒い。
全身が震えている。
恐怖。
疲労。
それと――
妙な高揚。
手を見る。
小さな手。
だが、さっきまでとは違う。
確かに何かが残っている。
胸の奥。
ほんのわずかに。
刻まれた感覚。
「……これが」
呟く。
言葉にする。
「刻能……」
その言葉と同時に。
心のどこかが、わずかに削れた気がした。
けれど。
それ以上に。
もう一度、あそこへ戻りたいと思っている自分がいた。




