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大家さんシリーズ②仔猫の鳴く時――怖くて悲しいお話たちより

作者: 天野秀作

都会の片隅で一生懸命生きる一人の女性。淋しさと悲しさと、ほんの少しの歓びを噛みしめて。

  仔猫の鳴く時 

 

 今からもう十年以上も前になる。ある時、周旋屋(不動産物件紹介屋)さんのSホームさんから、三階三〇三号室、2LDKファミリータイプに応募が来たと連絡があった。当時その部屋の家賃は八万円。前の住人が出てから三か月ほど空室だった。

 入居希望者は、三十才の独身女性、一人暮らし。仕事は飲食接客業――つまりお水さんですね。それも北新地のクラブ勤めだった。今までも何人か夜のお仕事の方が入居されていたが、パトロンさんが家賃を入れてくれることが多かった。仮に名前をM口さんとしよう。M口さんもご多望に洩れずやはりパトロンさんがいるらしかったが、家賃は自分の稼ぎで支払うとのこと。さすがは新地のホステスさんだ。

 そして一つだけ入居するに当たっての希望があった。

「大家さん、仔猫がいるんですけどかまいませんか?」

 お水系のお姉さんはなぜか仔猫とセットのことが多い。淋しいからかもしれない。うちは、本来ペットはNGだったが、まあ仔猫ぐらいならば、それも退居時にきれいに修復する、他の部屋に迷惑を掛けないという条件で受けることにした。

 初めてM口さんにお会いした時は、メイクもそこそこに、ユニクロを着ていたので、この平凡なお姉ちゃんが? と個人的な疑問を持った。しかし、出勤前にばったり玄関で出くわした時は別人だった。愛想も良く、品があってパトロンの一人や二人はいてもおかしくはない。逆にこれはうちにとっても上客ではないか、と思った。

 その予想通り、入居後は月末の家賃支払いは、まったく遅れるどころか、二カ月分前払いしてくれることもあり、周りに悪い噂も苦情も出ず、会えばいつも愛想良く、おまけに超美人。もう店子の鏡のような存在だった。たまにパトロンさんらしき上品そうな紳士が出入りしていたが、それも入居時にそういう人がいると聞き及んでいたので、まったく問題はなかった。また、連れて来た仔猫は高そうな猫で世話もしっかりされていたようなのでこちらも問題はなかった。

 

 一年ほど過ぎたころ。

 ある月の末日、初めてM口さんは家賃を持って来なかった。忙しいのか、たまたま忘れたのか、まあ、また持って来るだろうとそのまま放って置いた。

 ところが、月が開けて、一日たっても三日たっても音沙汰がない。いよいよこれはどうしたことかと、部屋を訪ねると鍵が閉まったまま、インターホンを押しても反応はなかった。そこで携帯に電話をしてみると、こちらも留守電だった。一応留守電にメッセージを残しておいたところ、夜、電話が掛かって来た。

「すみません大家さん、お家賃ですよね」

 消え入りそうなほど弱々しい声が響く。

「ええ、どうかしはったのですか?」

「それがちょっと体調を崩してしまいまして、先月末から急遽入院することになりました」

「大丈夫なんですか?」

「ええ、いずれわかることなんでお話しますね」

「はい」

「私ね、どうやら白血病になってしまったみたいなんです」

「ええ? それは大変です!」

「一応抗がん剤治療と免疫治療とかやってますが……」

 僕は言葉を失ってしまった。それでも頭の片隅に、家賃と猫と今後のことが浮んで来る。こんな時なのに、それを心配する自分も嫌だった。それが伝わったのか、M口さんは言う。

「大家さん、お家賃は必ずお支払いいたしますのでもうちょっと待っていただけませんか? それと猫は友達が預かってくれています」

「わかりました。どうぞ治療に専念してください」

「有難うございます。本当にご迷惑おかけしてすみません」

 M口さんは毅然と言ったが、言葉が心なしか震えていた。早く支払ってくださいね、とは言えなかった。

 その後、僕の心配をよそに、M口さんから直接の連絡はなかった。病院に問い合わせても個人情報を理由に詳しくは教えてもらえなかったが、M口さんをうちに紹介したSホームさんの話によれば、どうもあんまり調子がよくないらしい。

 Sホームさん曰く、溜まった家賃に関しては法的措置を取ることもできると教えていただいたが、そんなことできるわけはないと感じた。僕はやはり商売人としては失格なのかもしれない。

 それから数カ月が経ち、M口さんのお姉さんと言われる方から電話があった。それによると、残念ながらM口さんは「もう部屋に戻ることはありません」と告げられた。

 その次の日曜日に、お姉さんが郷里の山口県からうちにやって来られた。M口さんの部屋をきれいに片付けて、溜まった家賃もすべて支払われた。

 僕は、退居時の部屋確認で初めてM口さんの部屋に入った。ほとんど後片付けの済んだ部屋は、まるで入居時と変わらないぐらいにきれいだった。

 ドアを開けた時、気密性の高い部屋の中にはまだ半年前の空気が残っていた。

 ほんのりと甘い香りが漂っている。それは玄関で彼女とすれ違った時と同じ香りだった。僕は心なしか、香りだけではなく、いる筈もないのに、まるでまだ彼女がここに居るような気配すら感じていた。

 ざっとすべての部屋、洗面、バスルーム、トイレなどを見て回る。本当にきれいだった。住んでいる時だけでなく、退居時もM口さんは百点満点だ。

 煙草を吸わないM口さんの部屋の壁紙も貼り替える必要がないほどの白さを保っていた。 

 そのリビングの壁にたった一枚のポスターだけが貼られたままになっていた。お姉さんはそれを指差して「このポスターだけうまく剥がせないのでリフォーム屋さんにお願いしていいですか?」と聞く。

「ああ、かまいません。どうせクロスも貼り替えますので」

「すみません、あの子、こう言うところがだらしなくて……」

 それはエメラルドグリーンの海の上に掛けられた白く長い橋のポスターだった。

「きれいなポスターですね」

「これ、あの子の一番好きな場所なんですよ」

 それは彼女の生まれ故郷を代表する観光名所、角島つのしま大橋だった。

「これは持って帰らなくてもいいんですか?」

「ええ、これを見ていたら悲しくなってしまうので……」

 お姉さんの頬に涙が伝う。

 M口さんは、たった一人、この都会の片隅で、つらい時はこの景色を眺めながら頑張って来たのだろう。

 僕の知る限り、うちに引っ越して来てから一度も郷里の山口へ帰っていなかったはずだ。もしかしたら何か帰ることのできない事情があったのかもしれない。

 僕は最後に残されたポスターをじっと見ていた。物言わぬM口さんのどうしようもない淋しさが思い浮かぶ。きっと帰りたかったに違いない。

 そういえばパトロンさんの顔を見なくなって久しい。もちろん今日も顔を見せなかった。彼女の病気が発覚した途端に手を引いたのだろうか。夜の女とそれを買う客とのドライな関係なのだろうか。切ない。

 そしてお姉さんは、大事な遺品といっしょに、小さな箱に入ってしまったM口さんを連れて郷里に帰って行った。

 お姉さんが帰った後、僕はもう一度部屋に入った。再びポスターを見たところ、うまく剥がせば業者に頼むほどでもなさそうだったので、そっと剥がそうとした。

 と、その時、「ミャア」と鳴き声が聞こえた。

 僕は驚いて部屋中を探した。クローゼットから押し入れまですべて開けて見た。しかし猫はいなかった。もしかしたら猫もここへ戻りたかったのかもしれない。

「M口さん、あなたは本当によく頑張った。どうぞゆっくり休んでください」

 僕はポスターに手を合わせて彼女の冥福を祈った。  

 季節は冬。午後五時を過ぎ、辺りは黄昏に包まれ始めていた。

 僕はがらんどうになった三〇三号室の南側のサッシを開ける。冷たい空気が部屋の中にすーっと流れ込み、半年前の空気とゆっくり混ざり合った。

 ベランダの前に佇むと、ここからハルカスがきれいに見える。完成間近のハルカスの頂上付近に点滅する灯りが、蒼い空に滲んだ光を放っている。

 M口さんもここから日に日に上へと伸びて行くビルをずっと見ていたのだろう。でも結局、彼女は完成を見ることはなかった。部屋にはまだ微かに香水の匂いが漂っていた。

 猫はもう鳴かなかった。

                     了


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