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春、出会い、戸惑い

作者: 蒲生

とある新人賞の短編部門で一次落ちしたものの供養です。

ほとんどそのままですが、明らかに不要な部分はカットしたので元よりは短くなっています。

ぶっちゃけ一次落ちもやむなしの駄文なので暇潰し程度に読んでいただけると幸いです。

序章 木陰の公園にて


 高校最初の一年間が終わり、特に補修なんかに追われるでもなく平穏に進級の時を迎える春休み。

 そうなると、やはりというか、どうしても時間を持て余してしまう。ここで勤勉な学生なら塾の春期講習を入れたりするのだろうが、私はそうではなかった。

 そういった事の代わりに私が選んだのは、散歩だった。

 どこへ行くでもなく、近所を歩き回る。一応の目的地はあったが、特にそこへ行く用がある訳でもない。本当にただの散歩だった。

 私の家は、この辺りではそこそこ大きい部類に入ると思う。なぜそれだけの家に住めるのかと言えば、両親がその為だけに共働きをしているからなのだが、別に私はそう大きい家を望んだ事はない。単純に両親がそういう人達なのだ。一応、無理をしない程度の生活水準に留めてはいるらしいけど、どこまで本当だか分からない。仮にどちらかが働けなくなったらどうするのか。聞いた事はないけど、気になりはする。そういう程度の家で、そういう程度の両親だ。そして私も、そういう程度の娘だったりする。

 驕ったことはない。そういう家に住んでる事が、こと子供のコミュニティにおいて何のステータスになる訳でもないと知っていたから。別にそういう事を持ち出さなくても友達を作れる程度のスキルはあったし、友達も私の家を見た所で驚くような人達ではなかった。――単にそういう人を友達に選んでいた可能性もあるけど。

 そんな訳で、私は特に何かの才能がある訳でもないし、いわゆるお嬢様といった類の存在でもない。どこにでもいる、普通の女子高生。それが、水口千早という少女だった。

 Tシャツの上から雑にパーカーを羽織り、フードも深めに被る。そして、普通の女子高生には少し立派過ぎる玄関の扉を開ける。自然と、春の穏やかな空気が鼻腔をくすぐる。どちらかといえば田舎に分類されるこの地域では、案の定と言うか、尋常ではない量のスギ花粉が飛び交うらしい。幸いにして私はアレルギー持ちではなかったが、もしそうだったとしたらとんでもない地獄だっただろう。

 家の立ち並ぶ住宅地から外れて、近所の公園に向かう。公園と言っても小さな広場みたいなもので、特に整備も入ってないらしく、最近では木々に隠されてその存在すら知らない人も多い、一種の秘密基地のような場所になっている。

 そんな公園で、私は久しぶりに人の姿を見た。

 最初に見た時は、昼間とは思えない程の薄暗さと相まって幽霊かなにかと勘違いしかけたが、すぐにそれが実体のある人間だと分かった。

 その後ろ姿からして、私より少し年下ぐらいの少女らしいという事は分かったのだが、何より目を引いたのが、その白みがかった金髪だった。確かプラチナブロンドと呼ばれる、その日本人離れした髪が木漏れ日を反射して、遠目にもよく目立っていた。

 しかしすぐに、この状況の不自然さに気がついた。

 この公園を知っていて、かつわざわざ足を運ぶのはこの辺りの人でもごく一部。そして、この辺りにあんな目立つ髪色の少女がいたのならすぐに分かるはずだ。

「親戚の家に遊びに来たとかかな……」

 それでも一度ぐらいは見たことがあってもいいと思うのだが、たまたま見かけなかっただけなのだろうか。

 何にせよ、あんな綺麗な髪を持つ少女を見てそのまま回れ右をできるほど、私の好奇心は弱くなかった。

 辛うじて残されている道を進んで、少女の背後にに近づく。

「……こんにちは」

 最初になんと言うか迷ったが、当たり障りのない挨拶をする事にした。

「…………」

 驚くような素振りこそ見せたものの、こちらを振り返る事もない。完全な無視だった。

「君、この辺の子じゃないでしょ? だったらそんな綺麗な髪、見逃さないはずだし」

 『綺麗』と言った瞬間、少女がピクリと反応したのが分かった。手応えを感じて言葉を待つ。

「……この髪、綺麗だと思う?」

 三十秒ほどの間の後に、少女が初めて発したのは、そんな質問だった。

「多分、十人に聞いたら十人が綺麗だって言うんじゃないかな」

「……そっか」

 さっきよりも長い間をおいて、返ってきたのはそんな短い言葉だった。

「あの」

 そう声をかけようとした瞬間、少女が突然振り返った。

――綺麗だ。

 改めて、そんな感想を抱いた。

 腰まで伸びた長い髪で分からなかったが、少女はその肌も綺麗だった。やはり日本人離れした白い肌で、顔を見るとやはり日本人離れした、その髪色に似合った美少女だった。

 そんな彼女に見惚れていた私に、しかし降り掛かったのは、鋭い声だった。

「……わたしは嫌い。この髪も、顔も、声も、自分の全部が」

「…………」

 何も言えなかった。

 いや、確かにそうだ。日本で生きていくにあたって、その外見はあまりにも目立ちすぎる。その見事なプラチナブロンドの髪も、透き通るように白い肌も、その碧眼でさえも、この日本という国では目立ってしょうがないだろう。

「……いや、そういうのじゃないんだけど」

 違うのか。これは恥ずかしい早とちりだった。今までこういう失敗はあまりしてこなかっただけに、その恥ずかしさは人一倍だった。

「そういうのじゃなくて……ううん、やっぱりなんでもない」

 はぐらかす少女に、あえて追求するような事はしなかった。初対面の相手にそこまで踏み込むほど私は無神経ではない。……しかし、ただ黙っていられるほど、私は大人でもいられなかった。

「まあ、そう自分の事を嫌うもんじゃないと思うけどね。ご両親が聞いたら、きっと悲しむんじゃないかな?」

「そんな訳……!」

 私のそんな、ありきたりな気休めの言葉を、少女の掠れた声が遮った。

「悲しむなんて、ありえない。あんなの、私の両親じゃ……」

 悲痛な少女の言葉を、私は抱きしめる事で遮った。

「ほら、そういう事言うもんじゃないって。……あれ、泣いてる?」

 腕の中から、小さいすすり泣きのような声が聞こえた。

 事情は分からない。このまま突き放す事もできない。だからこのまま、時の流れに身をまかせる事にした。


 それから、どれぐらいそうしていただろうか。

 今は、少女が泣き腫らした赤い目でこちらを見据えていた。

「……ごめん」

「別に、気にしなくていいよ。……それより、スッキリした?」

 少女が黙って頷く。それを見て、ホッとしている自分がいた事に気付く。

「事情は聞かない。言いたくないんでしょ?」

 答えはなかった。

「じゃ、私はそろそろ帰るけど、そっちは大丈夫?」

「……大丈夫」

「そ。それじゃ、また縁があったら」

 最後に手を振って、私はそのまま踵を返した。

――また縁があったら。

 その『縁』が繋がるのは、意外とすぐの事だった。


一章 桜川梨沙


――四月。

 今日から高校二年生だというのに、朝からの光景はいつもと何ら変わりのないものだった。

 いつものように朝起きて、顔を洗って制服に着替えて、朝ご飯は少しつまむ程度に。そして家を出て学校に向かう。いつもの朝だった。

 学校についてからもそれは同じで、うちの高校は基本的にクラス替えがないのでそういった事で一喜一憂する必要もなく、淡々と新年度の段取りが進められる。

――そのはずだった。

 そこに変化があったのは、教室に入ってきた担任のこんな言葉がきっかけだった。

「えー、今日はまず、転入生の紹介から始めたいと思う」

 その言葉とともに、教室の扉が開かれた。と同時に、クラス中がざわめいた。

「えっ……」

 もちろん、私もその一人だった。

 ただ、驚く理由は周りとは違ったかもしれない。私が驚いたのは、それが最近見たことのある顔だったから。周りが驚いているのは、その日本人離れした容姿に対するものだろう。

「まず、自己紹介からだな」

 担任が騒ぐ教室に睨みをきかせつつ、転入生にそう促した。何を隠そうこの担任、女性であるにもかかわらずめちゃくちゃ恐い事で有名で、このクラスのみならず、全校レベルで恐れられている伝説の教師だったりする。そんな教師に睨まれては、誰も騒ごうなどとは思えない。

「……桜川、梨沙」

――思ったより普通の名前だ。

 そんな感想が真っ先に出てきた。見た目からしてハーフかなんかだろうと思ってたから、てっきりそっちに寄った名前なのかと思っていたけど、どうやら違うらしい。

「細かい自己紹介は後から本人に聞いてくれ。席はその空いてる所だ」

 そう言って担任が指定したのは、真ん中の一番後ろの席。出席番号的にそこにあたるのだろう。当たり前だけど。ぶっちゃけ、クラス替えがなくて欠席者もいなくて席が空いているという時点で、ほとんどの人は転入生がいる事に気がついていたと思う。

 それにしても驚いたのは、あの子が同い年だったという事だ。明らかに小柄だったから、完全に中学生と勘違いしていた。

「じゃあ、改めて出席確認だ。それが済んだら体育館に移動するぞ」

 そして、担任のそんな言葉で、いつものような学校の日常風景が戻って来るのだった。


 始業式が終わって教室に戻るなり、桜川梨沙はとんでもない人気ぶりを発揮していた。まあ、外国人風の美少女転入生だ。そこらの転入生では太刀打ちできない騒ぎになるのも頷ける。……まあ、実体はただの質問攻めだが。

「桜川さんって、ハーフなの?」

「前はどこに住んでたの? やっぱり海外にいたとか?」

「英語とか話せるの?」

――正直、可哀想に思えてきた。

 よくよく見たら、他クラスの子も混じってるし。

 しかし、私にはどうする事もできないので傍観者に徹する事にした。一応の顔見知りなのに。心の中で手を合わせる。申し訳ない。


 さすがに人も捌けてきて、とうとう教室には私と桜川梨沙の二人だけになった。なぜ私が残っていたのかと言うと、まあ困っている彼女を見るのが面白そうだったから。それ以外の目的はなかった。

 疲れ果て、机に突っ伏した状態の桜川梨沙を見る。長い白金の髪はだらんと垂れ下がり、黒いブレザーと相まってよく映えていた。こんな状態でさえ絵になるのだから、やはり本物の美少女はずるいと思った。

「転入早々、大変だったね」

 声をかけてみるが、返事はない。完全に疲れ切って、ぐったりしているようだった。

「まさか、君が同い年だとは思わなかったけど。……桜川さん?」

「……なんで、助けてくれなかったの?」

 沈黙の後に飛び出したのは、そんな私への非難の言葉だった。腕枕から目の部分だけ出して、こちらを睨みつけてくる。

「いや、ちゃんと助けようとは思ったんだけど、いざってなるとなかなか、その……」

 途中から面白くなってきたのであえて放置した、なんて口が裂けても言えない。

「……面白がってたんだ」

「そっ、そんな訳……!」

 ここで「ない」と言えないのが悔しかった。既視感。

「いいよ、別に。助けるには口実がなさすぎるのも確かだし。もう気にしてない。それより、あの日の事」

 あの日って、あの公園で会った時の事か。それ以外に彼女と会った記憶もないし。

「……誰かに言ったら、殺すから」

「言わない言わない。あと『殺す』なんて物騒な言葉、あまり使わないように。せっかくの可愛い顔が台無しになるから」

――言うはずがない。こんな美少女が私の腕の中で大泣きしてたなんて、誰にも言えない。

「……やっぱり、可愛いって思うんだ」

「そりゃあ、ね。あまり自分を否定しすぎるのって、良くないと思う。褒め言葉は素直に受け取っておくのが吉だって、偉い人も言ってたし」

「誰の言葉?」

「知らない。勝手に作った言葉だし」

「なにそれ」

 そう言って、彼女は笑った。それが私の初めて見た、桜川梨沙の笑顔だった。

 時計を見る。新年度早々に活動のある部も多いため、校舎は開放されている。しかし、そろそろ帰ったほうがいいだろう。

 なんとなく、私はこう言ってみる事にした。

「……一緒に帰る?」


 桜川さんにあえなく振られた私は、帰りがけにスーパーで買ったうどんを啜っていた。もちろん自分で茹でたやつ。一緒に買った天かす入り。

 一気にそれを完食し食器を洗っていると、玄関の扉が開く音がした。

「……あれ? 千早しかいないのか。飯、作ってあったりする?」

 入ってきたのは、私の六歳年上の兄だった。大学を去年卒業して、今ではシステムエンジニアになっている。今は家を出て近くのアパートで一人暮らしをしているが、時々こうしてご飯をたかりに実家に戻ってくる。

「……うどんなら一玉余ってるけど。あと、天かすも」

 本当は明日の昼に残しておくつもりだったけど、別にまた買いに行けばいいだけの話だ。

「たぬきかぁ……できればきつねが良かったんだが」

 落胆している様子の兄に、妹は優しい言葉をかけたりはしない。

「文句があるなら買ってくれば?」

「めんどくさいからここに来たんだよ分かれよ。……ま、たぬきでいいか。じゃあついでに俺の分も作っといて」

「いやもう食べちゃったし。事前に連絡しといてくれたら作ったけど」

「つっら」

 言いながら、兄はソファに座り込んだ。この兄はいつもこんな感じだ。最低限の生活能力はあるけど、基本的に面倒くさがりなので何もしようとしない。切羽詰まらないと何もできないタイプだった。

「……しょうがないなぁ」

 その呟きは、諦めだった。兄は期待される事に弱い。それを私は知っていた。だから私は、早々に諦める事にして、二杯目のうどんを作り始めたのだった。


 翌日、ふと散歩がしたくなった。ついでにお昼に食べるための何かを追加で買う必要もあったので、全くの無用な外出という訳ではない。

 さんざん悩んだ末にスーパーでうどんを一玉買って、なんとなくあの公園に足を運んだ。これは本当になんとなくで、別に何か考えがあって向かった訳ではない。

 しかし、期待はあった。そして、その期待通りの光景が、そこで待っていた。

「……おはよう」

 桜川梨沙は、あの日と同じように、そこに立っていた。

 声をかけると、こちらを振り返ってきた。制服は着ておらず、黒ベースのパーカーにその髪がよく映えていた。そういえば、前にここで会った時はどんな服を着ていたのか。まったく思い出せない。

 少女が、こちらを見て何か考え込む素振りを見せた。

「ああ、まだ自己紹介してなかったっけ。私は水口千早。よろしく」

 名乗ると、彼女は何度か私の名前を呟いて、こう訪ねてきた。

「……千早って、呼んでもいい?」

「ご自由に」

 そういえば、家族以外の誰かに下の名前で呼ばれるのは久しぶりな気がした。仲の良い友達も名字で呼ぶので、千早とはそんなに言いにくいものなのか、と一時期本気で悩んだ事さえあるぐらいだ。

「桜川さんは、この場所が好き?」

「……別に。引っ越してきた時に、たまたま見つけて。あまり人が来ないからよく来るだけ」

「そっか。……昔は、ここもみんなの遊び場だったんだけどね。いつの間にか誰も来なくなって、今じゃみんなに存在そのものを忘れられちゃった」

 たった十年で人が来なくなった公園。多分、変わったのは人でも公園でもなくて、時代の方なのだろう。

「近くにもっと広い公園ができちゃったのが大きいんだろうね。ここは薄暗くて狭いし」

 私の言葉に、桜川さんはへえ、と頷いた。

「……まるで、わたしみたい」

 その言葉を、私は聞かなかったフリをするべきだろうか。

「わたしね、ちょっと前までヴァイオリンやってたんだ。両親も演奏家で、その流れで。……最初は『天才二人の娘だから』って、そこそこ注目された。よくは知らないけど、結構有名な評論家も絶賛してたんだって。でも、わたしより年下で、なのにもっと上手い子が出てきた。そしたらみんなそっちばかり注目するようになった。結局みんな『天才音楽家のサラブレッド・桜川梨沙』しか求めてないんだって分かって、なんか冷めちゃった」

――だから『忘れられた』。

 それは、凡人である私には到底理解できない世界の話だった。

「……その、両親はどうだったの?」

「怒られた……ともちょっと違う、かな。厳密には、まだヴァイオリンもやめてないし。親がうるさいから、どうしてもやめられなくて、冷めてるなりにはやってるけど。……両親とも最近は上手くいかなくなって、だんだん家にいるのも嫌になってきた」

――親でさえも、『天才の娘』としてしか娘を見ていなかった。

 だから家を抜け出して、この公園にやってくる。ここにいれば、嫌な事を忘れられるから。

「……やっぱり、この公園とわたしは違うのかも」

 さっきの言葉を打ち消すように、桜川さんが呟く。

「千早が、ここを必要としてくれているから」

 消え入りそうな声で、桜川さんは続けた。

「そんなこと、ないんじゃないかな」

 ただの気休めだ。だけど、私にはこれぐらいしか言えない。

「きっと誰かが、桜川さんの事を必要としてくれる。誰の娘でもない、ただの桜川梨沙を。だから、もうちょっと自分に自信を持ってもいいと思う」

「……千早は?」

 桜川さんの声は、さっきよりももっとか細く、弱々しくなっていた。

「千早は、わたしの事を必要としてくれる?」

「…………」

 正直、答えに困った。無責任な慰めをしてしまった私が悪いといえばそうなのだが、まさかここまでとは思わなかった。

「……私って、実を言うとあまり友達がいないんだよね」

 苦し紛れに、そんな話をする。実際の所、嘘ではない。私はこれまで、友達らしい友達というものを持った事がない。仲の良い友達、という意味ではそれなりにいるつもりではあるけど、気心の知れた友達というのは、今まで一切作ってこなかった。

「桜川さんは、初めて会ったばかりの私に、本音を話してくれた。だからさ、友達になってくれない? これからずっと付き合っていく、一番の友達に」

――それは、本当の友達。

 正直な所、桜川さんと一緒にいると安心できた。恐らく、桜川さんが私にそう感じているように。こんな感覚は初めてだった。だから、私は桜川さんが気になったのだろう。

 そして、友達になりたいと願った。今まで私が作ってきた、一歩引いた関係とは違う、本当の友達に。

 対する桜川さんの答えは、簡潔だった。

「……ありがとう」


 『特別な友達』とは言うものの、実際に特別な感慨がある訳ではなかった。言ってしまえば、思いつき。

 そんなものでごまかすのが許されるとは思っていない。ただ、桜川梨沙という少女が気になっていたのは本当で、友達になりたいと思っていたのも本当だった。違う事といえば、それに特別な意味が付いてしまった事ぐらいか。

――それに、私は耐えられるのか。

 それだけが、気になってしょうがなかった。私は何の才能も持ってないし、特に家庭環境なんかに不満を抱えている訳でもない、普通の女子高生だ。そんな私が、あれだけの重みを背負って、立っていられるのだろうか。

 桜川梨沙という少女が一人で抱えきれなかった思いを、私は少しでも分かち合う事ができるのだろうか。

「……学校、行きたくないなぁ」

 時刻は既に午前二時。草木も眠る丑三つ時というやつだ。それなのに、ちょっとも眠くならない。考える事を打ち切って、すぐに寝てしまえばいいのに、それができない。

――桜川梨沙という少女の、涙を見た。笑顔を見た。声を聞いた。

 恐らく、彼女は今まで、本当に孤独だったのだろう。そこに私が土足で踏み込んだ。その重みを、私は知っている。だからこそ、私は怖かった。これ以上踏み込んでいいものか、と。

 本当なら、最初に彼女を見た時、すぐに引き返していればよかった。そうすれば、私は彼女の事なんて知らないまま、のうのうと生きていられたかもしれないのに。

――春休みの光景が蘇る。

「……ほんと、泣けるって、ずるい」


二章 友達


 友達になった。

 そもそも友達とは互いに宣言して『なる』ものなのかと聞かれたら、一般的にはノーだろうと応える。ある程度の間柄の人物を便宜上『友達』と呼ぶだけで、そこに明確な定義などある訳もない。強いて言うなら、お互いに相手を『友達』だと認識していたらそれは友達なのだろうけど、それもやはり難しい基準だ。

「あれ? そうなると友達って、やっぱりお互いに宣言してなる方が自然じゃない?」

「……そうならどれだけ良かったろうな。だが残念。実際は友達なんて曖昧なモンだ。曖昧じゃない関係なんて、金の縁と血縁ぐらいだよ」

 学校帰り、私は時々兄の住むアパートを訪れる。生存確認と、あとはちょっとした話し相手として丁度いいからだ。

「えーと、その心は?」

「『金の切れ目が縁の切れ目』っていう格言がある。これは実際その通りで、いくら友情とかがあっても、連帯保証人やマルチ商法の話を振るだけで簡単に切れる。逆にそこで引っかかるような奴とはヤバいからさっさと絶縁しろ。これマジな話な。大学時代にマルチで騙された上に連帯保証人のダブルコンボ食らって沈んだやつとか見た俺が言うんだから間違いはない。……で、そんな恐ろしい金をもってしても切れないのが血縁だ。少なくとも日本に住んでいる以上は、いくら金を積んでも血縁は切れない。悲しい事に、な」

「な、生々しい……けど詭弁だ……」

――オタクと中二病を拗らせた兄に聞くのが間違っていた。

 そもそもの話として、論点が微妙にズレてるし。

「冗談はおいといて、そういう関係は大事だと思うぞ。俺は残念ながら良縁に恵まれなくてこんなになってしまったが、千早ならそういうのも掴める。兄ちゃんはそう信じてるからな」

「うっわシスコン……」

「うっせ。邪険にされないだけマシだと思え」

 それはそうだ。この齢二十三の兄が私の事を大切に思ってくれていて、私もこの兄が家庭内で孤立しないか心配している。そういう兄妹関係が成立しているのは、恐らく恵まれている方なのだろう。

「いや、でもこれ、冷静に考えたら結構気持ち悪くない……?」

「普通だろ、多分、きっと、自信ないけど」

 この兄妹関係についてそんな曖昧な結論が出た所で、話題を元の所に戻す。

「……お兄ちゃんって、友達関係で失敗した事とか、あるの?」

 大方答えは予想できているけど、なんとなく気になってしまった。

「ない訳ないだろ。なかったらもうちょっと人生上手くやってたわ。……まあ、どれも人生経験としては得難いものだったけどな」

 ポジティブなように見えて、これは多分違う。恐らくだけど、そう思わないとやっていられないのだ。

 あらゆる失敗から教訓を得て、それを次に活かそうとする。だけど失敗そのものは認めたくないから『得難い経験をした』という言葉で封じ込める。そうする事で、心の安寧を保つ事ができるから。

 時計を見ると、そろそろ六時を回りそうだった。一時間ほど話していた事になる。

「……じゃ、そろそろ帰るから」

 鞄を拾い上げて、玄関の方に向かう。

「おう、外はもう暗いし、気をつけろよ」

 そこで『送っていこう』と言わないのが、私の兄らしいというか。

 私のローファーの隣には、履き潰されたスニーカーが転がっていた。


 私の兄は臆病なのだ。きっと。だから、失敗を教訓として、その失敗を『繰り返さない』事だけに特化し、最終的に『行動しない』事が万能解であると悟る。実際、最善解ではないけど、それが一番楽な生き方ではある。それを実践してきた結果が、今の兄だ。

 さっき私を送っていこうとしなかったのも、多分そういう事だ。なぜって、私は自分の兄が優しい事を知ってるから。昔の兄なら、きっと私を家まで送っていってくれたはずだ。だけどそうしなかったのは、やはり兄が色々な事を知って、臆病になったからだ。本人が以前そう言っていただけだから、実際どうなのかは分からないけど。

 その視点をアリとするなら、私もやはり臆病なのだろう。今日だって、桜川さんとの距離を測りかねて、目を合わせる事すらしなかった。

 それでも私は行動したい。しなければならない。

「……明日こそ」

 そう意気込んではみるものの、やはり自信は湧いてこないのであった。


 翌日。月曜日が始業式で次の日が休みで、その休みがもう一昨日の事だから、今日は木曜日。

 特に必要もないのに、その日は早くに家を出た。なぜかは分からない。分かっていたのは、昨日私が教室に入った時にはもう桜川さんは自分の席に座っていて、つまり私より早くに登校しているという事だけだった。

 果たして、桜川梨沙はそこにいた。

 誰もいない教室に一人、窓際で黄昏れていた少女こそが、桜川梨沙だった。

「おはよ。深窓の令嬢さん」

「……なに、それ」

 なんとなく雰囲気的にそれっぽかったので言ってみただけだったのだが、言った後でなんとなく恥ずかしくなった。

「なんでもない。……朝、早いんだね」

「まあ、それなりには。家にいるより、ここで過ごしてる方が気が楽だし」

 だろうな、と思った。家にいるより学校にいた方がマシ、というのはよくある話だ。私の兄が昔、そんな感じだったのを思い出す。

「そういえば、桜川さんって何か趣味とかあるの?」

「趣味? ……なんだろ。考えた事もなかった」

 本当にやりたい事が見つからない。持てる者が持たざる者になった時というのは、やっぱりそういう物なのだろうか。

「千早は? 何か趣味とか、あるの?」

「うっ……」

 改めて聞かれると、答えに困る。読書……は答えとしてありきたりすぎるし、かと言って他に何をしている訳でもない。

「……読書、かな」

 結局、そう答えるしかない。事実としてそうなのだから、何も気にする必要はないはずなのだが、どうしてかそれを答えるのに躊躇してしまう。

「ふうん」

 終わり。特に興味もない話題だったのか、それっきり話が広がる事はなかった。

「……今度の土日、どっか遊びにいかない?」

 代わりに思いついたのは、そんな事ぐらいだった。

「今度は……ごめん、多分無理だと思う」

 桜川さんは、とても言いづらそうにそう断ってきた。

 こちらも思いつきで言っただけなので、あまり申し訳なさそうにしなくてもいいのだが。あまり深刻そうに言われるとこちらも流しづらい。

 他に何か振れる話題もなく、気まずい空気が流れる。外で朝練をする部活の声だけが、私たちの間に割って入る。

 改めて、窓辺に立つ桜川さんを見る。

 ここの窓は南東を向いているので、朝は特に日差しが強い。そんな春の日差しを受けて光る白金の髪は、眩しさよりも美しさを感じさせた。そんな髪を持つ桜川さん本人は逆光気味になり、表情はよく見えない。

「部活とか、桜川さんは入らないの?」

 うちの高校は、正直に言って部活が活発な方ではなかった。外で朝練をしている野球部やサッカー部だって、特に輝かしい功績を持っている訳でもない。文化系の部活もあまり多くはないので、必然的に帰宅部となる生徒の方が多くなる。

「多分、入らないと思う」

 特に変な答えでもなかった。私だって帰宅部だし、このクラスに限って言うなら五人を除いたら全員帰宅部だ。

「でも、家には帰りたくないんでしょ?」

「……まあ、うん」

 時間を潰すだけの部活でもあればよかったのだが、あいにくとそういう部は我が校には存在しない。

 そんな事を話しているうちに、廊下を近づいてくる足音に気付く。

 桜川さんとの会話を打ち切って、私は自分の席に向かう。まだ注目を浴びている桜川さんと話しているのを見られると、色々とややこしい事になりそうだったから。

 鞄から取り出した文庫本を読みながら、まだ窓辺にいる桜川さんを横目で見る。

――日差しを反射する白金の髪が、今度は眩しく感じられた。


「――キミのクラスに入ってきた転入生、かなりの美少女らしいね。いや、羨ましい」

 放課後、私は携帯に来ていた呼び出しメールに応じて、学校の四階にある空き教室に足を運んでいた。

「相変わらずですね、大島先輩は。たまにはちゃんと授業出たらどうですか? 今年受験じゃないんですか?」

 目の前にいるのは、私を呼び出した張本人にして、この空き教室の主。名前は大島美香。私よりひとつ上の先輩で、高校三年生。つまり今年で受験生のはずなのだが、そういった雰囲気はまるで感じられない。何を隠そうこの先輩は、学校でも有数のサボり魔として有名なのだ。今日も、二年生と三年生の両方を担当している数学教師がずっと大島先輩の愚痴ばかり言っていた。

「キミは相変わらず先輩に対して遠慮がなさすぎる。ちゃんと計算して出席しているし、定期試験と模試の成績は常に一位を保っている。誰にも文句を言われる筋合いなどありはしない」

「そこが不思議なんですよね……」

 この先輩が有名なのは、ただサボり魔だからという訳ではない。サボり魔でありながら、体育のありとあらゆる種目で最上位の成績を残し、学業面でも入学以来トップを維持している。それがこの大島美香という、前代未聞のサボり魔なのだった。その上美人で、性格以外に非の打ち所がない。正直、教師達が気の毒でならなかった。

「……それで、今日は何の用ですか?」

「その転入生について話を聞きたい。話した事ぐらいはあるだろう?」

「そりゃあ、話した事ぐらいは」

 話すどころか友達になっていた、なんてこの先輩には絶対に教えられない。この色々とクセが強すぎる先輩と桜川さんを、なんとしても会わせる訳にはいかなかった。

 とりあえず、かいつまんで桜川さんのプロフィールを話す。名前と、大まかな容姿ぐらいは話してもいいだろう。

「……なるほど。しかし、桜川梨沙か」

「知ってるんですか?」

 気になる反応をした先輩だったが、すぐに首を横に振った。

「いや、名前をどこかで聞いた気がするだけだ。まあ、単に思い違いだろう」

 本当に思い違いか、単に私をからかってるだけならいいけど。

 かつては『天才音楽家の娘』と持て囃されたらしい桜川さんを、この先輩が知らないという保証はない。こう見えてこの人は、結構なお嬢様だったりするのだ。どこかで会ってる可能性すら否定できない。

「しかし、聞けば聞くほど勿体無い。そんな美少女、一度お目にかかりたいものだ。……今度、連れてきてくれないか?」

「そこまで仲良くないですし、仲良かったとしても絶対に嫌です」

 それだけは、きっぱりと宣言しておく必要があった。

「キミなら、大抵の人とは仲良くなれると思うがね」

「さすがにそれは買い被りすぎですよ。別に社交的な性格でもないですし、私」

 どういう訳か目を細める大島先輩。

「謙遜は美徳と言うが、だからこそキミは人に好かれるのだろうね。ただ、行き過ぎた謙遜は毒だ。それは肝に銘じておいた方がいい」

「……今度は何のパクリですか?」

 この先輩は、よく他人の格言や作品のセリフをパク……引用して話す癖がある。この人がたまに良い事を言った時は、大体それだ。

「さあね、忘れたよ。こんなセリフ、どこにでもありふれてるし」

 最初こそ否定していた先輩も、最近はこんな風に開き直る事が増えてきた。

「……まあ、忠告はありがたく受け取っておきます」

 言い回しはともかくとして、先輩の指摘そのものは至極真っ当な事の方が多い。少なくとも、素直に受け取って損をする事はまずないと経験上分かっていたので、今回もそうしておく。

「さて、と。ワタシはそろそろ帰るが、そっちはどうする?」

「帰ります。……本当なら、今頃は家でゆっくりしてたはずなんですけどね。私も」

 なんでだろうな〜と笑いながら出ていく先輩を見送って、私も自分の鞄を肩にかける。

「……さて、帰りますか」


「おはよ、桜川さん」

「……ん、おはよ」

 結局、昨日は朝以外ロクに話せなかった。だからという訳でもないが、今日も私は早めに登校して、桜川さんとの雑談に興じようと試みる。

 今日の彼女は、最初から自分の席に座っていた。いかにも気だるそう……というか、すごく眠そうだった。机に突っ伏すとまではいかないけど、まぶたは半分閉じかけていて、声にも覇気がなかった。心なしか、肌や髪の色までくすんで見える。

「眠そうだけど、何かあった?」

「別に、どうもしないけど……。元々、朝は弱いし」

 少し驚いたけど、特に意外という訳ではなかった。朝一番に登校しているから朝は強いものと思っていたけど、よくよく考えたら、基本的に線の細い桜川さんが朝に弱いのは意外でもなんでもなく、むしろそっちの方が感覚的に自然ではあった。

「それより、千早が元気そうなのが羨ましい」

「私は……まあ、ね」

 私だって、朝が特段強いという訳ではない。というか、朝は弱い方だ。それでもこうして早くから登校できているのは、幼い頃から早起きを習慣付けていたからだろう。

 疲れている人に絡みすぎるのもよくないと思い、自分の席に移動する。

 手持ちの本は全て読みきってしまったので、スマホに繋がったイヤホンを耳に突っ込む。特にお気に入りのアーティストがいたりする訳ではないけど、一昔前の邦楽を聞くのが最近のマイブームだった。

 そのまま机に突っ伏して、目を閉じる。後ろで流れるカノンコードが耳に心地良い。今でも使われている有名なコード進行だけど、やっぱりこのぐらいの時期の曲が耳に馴染んだ。父や兄の影響だろうか、と考える。気付けば、むかし父の車で流れていた曲ばかり聞いている気がしたからだ。

 そんな事が、ふと気になった。


 それからは特に変わったイベントもなく、無事に放課後を迎える事ができた。

「桜川さんも、もう少し社交性というか、せめてその刺々しいオーラはどうにかした方がいいんじゃないかな……」

 二人で歩く帰り道、ふと昼休みの出来事を思い出す。学級委員がプリントを渡そうとしていたのだが、中々話しかけられずにひと悶着あったのだ。結局私が取り次ぐことで事なきを得たが、このままだとどうにも不安が残る。

「別に、千早が気にする必要ないんじゃないの?」

「いや気にするって……そう何度も私が取り次ぐ訳にもいかないし」

 そう言っても、桜川さんは素知らぬ顔だった。

「別に仲良くしてなんて言わないからさ、もう少し愛想よく……」

「……それならさ、わたしの事、名前で呼んでくれない?」

「名前で……って」

 突然の要求に、一瞬理解が送れた。

「名前、名前……桜川、梨沙……」

「梨沙。『桜川さん』なんて他人行儀に呼ばれるより、そっちの方がいい」

――『友達』なんだから。

 実際に彼女がそう言った訳ではない。が、今の言葉には、そういった含みのようなものが感じられた。

「じゃ、じゃあ……梨沙」

 ああ、照れくさい。誰かの事を名前で呼ぶなんて久しぶりだ。いや、そもそもそんな事が一度だってあっただろうか。思い出せない。思わず口元を手で隠す。耳たぶまで熱い。多分赤くなってるんだろうな。

「そんなに照れなくていいのに。こっちまで恥ずかしくなってくる」

 言って、桜川さん――梨沙は、その長い髪で自分の顔を隠す。

――そんな仕草が、たまらなくかわいらしかった。

 他の人の前ではずっと無表情で、何を考えているのかも分からないような梨沙が、私の前ではここまで饒舌に、表情豊かになる。

 それを見て、何か言いようのない気持ちが、私の中を駆け巡る。

「……ッ」

――まずい。

 何がまずいのかは分からない。ただ、これ以上ここにいたらいけない。本能がそう警告していた。

 それを理性で黙らせて、なんとか言葉を紡ぐ。

「……ごめん、駅前のスーパーに行かないと。完全に忘れちゃってた」

 大嘘だった。事実なんて何一つない。駅の方に行く用事すらないし、私はこの後普通に帰ってダラダラするだけの予定だ。

「あ、そうなんだ。じゃあ、また明日……は休みか」

「うん。じゃあ、また月曜日」

 最後にそれだけ言って、急いで回れ右をする。駅の方へ歩く足は、だんだんその歩調を早めていって、最後には駆け足になっていた。

 駅前の広場に着く頃には、息はすっかり上がっていて、体中が熱を持っていた。それが走ったからか、また別の理由によるものかは分からない。

「……ふう」

 一息ついて、空を見上げる。六限まで授業があったおかげで、日はすっかり傾いていた。

「……今日も、あまり話せなかったな」


 悶々とした気分は、家に帰っても続いていた。金曜日になると、両親は大体飲みに行ってしまうので、明日までこの家には私しかいない。

 スマホをベッドに放り投げ、私もその後に飛び込む。真っ暗な部屋にいると、聴覚が研ぎ澄まされて、色々な音が聞こえる。……例えば、自分の心音とか。脈拍が速く感じるのは、走って帰ってきたからだろうか。

 ふと、自分がまだ制服を着ていた事に気付いた。

「……制服、シワになっちゃうな」

 だけど、着替えようという気は起きなかった。どちらにせよお風呂には入らなきゃいけないのだが、今は体を起こすのすら億劫になっていた。

 何も考えないようにしても心音は速く、高くなっていく一方だ。これがありきたりな曲の歌詞だったら、いっそ止めてしまおうとするのだろうか。しかしそんな事はできるはずもないので、ただそれを受け入れるしかないのだった。

 諦めて、今日の出来事について思い出す。といっても、ただ梨沙の事を考えているだけだった。というか、梨沙について以外の記憶がまるで残っていない。まさかそんなはずはないと思っても、実際そうなのだからどうしようもなかった。

「私、梨沙の事が――」

――好きなのかな。

 言わない。言えなかった。それを言ってしまったら、本当になってしまう気がしたから。だから、口には出さない。

 そんな程度しか、今の私にはできなかった。


三章 転回


「梨沙って、音楽とか聞くの?」

 私は、梨沙にそう聞いた。

 土曜日であっても、相変わらずこの公園は寂れている。そんな無人の公園で、またしても私と梨沙は遭遇したのだった。特に示し合わせたとか、そういう事はない。まあ、最近は散歩の頻度が上がっていた気はしないでもない。しかし、本当にただそれだけのはずなのに、今のところ梨沙との遭遇率は十割だった。

 梨沙は、公園の片隅にあるフェンスに背中を預けていた。私はそんな彼女を、遠巻きに見守る形で立っている。その白金の髪がフェンスに絡め取られないかとかヒヤヒヤしているから、これは見守っているで正しいと思う。

 名前を呼ぶ事に、昨日のような照れくささは感じなかった。私の中で折り合いがついたのか、あるいは彼女と物理的に距離をとっているからか、それは分からないけど。

 しばらく間をおいて、答えがあった。

「別に、音楽は嫌いじゃない。今だってクラシックを聞くのは好きだし、それ以外の音楽も、聞くのは楽しい」

 私が考えているより、彼女はよっぽど強いのかも知れない、と思った。

「……でも、親はそうじゃない」

 長い髪に隠されて、表情を窺い知る事はできなかった。

「それは……」

 梨沙が親を好きじゃないのか、あるいは親が音楽を好きでないのか。

「前に、両親は演奏家だって言ったでしょ。音楽家じゃなくて」

 その言葉に、私は首をひねる。音楽家と演奏家、そこにどういう違いがあるのか。

「わたしの両親は、別に音楽なんて好きじゃない。ただ演奏して名声を浴びて、それを娘にも押し付けているだけ」

 そこまで言われて、私にも得心がいった。

 中学校の頃、音楽教師が言っていた言葉を思い出す。

――音楽とは本来、音を楽しむためのものだ。

 大体こんな趣旨だったその言葉を、当時はなんとなく聞き流していた。しかし今、やっとその違いが分かった気がした。

「……梨沙は、音楽家になりたかったんだ」

 その言葉は、半ば無意識にこぼれ出たものだった。

「別に、そういう訳じゃない、と思う。ヴァイオリンだって、ほとんど強制されてやってるようなものだし。……さっきも言ったけど、わたしは聞くのが好きなだけだから」

 だけど、彼女の両親は許さなかったのだろう。結局彼らは『天才音楽家である自身の娘』としてしか、彼女を見ていなかったのだ。

 なんて悪しざまに言っても、私は実際の彼らを知らない。これは歪んだものの見方だ。だから、私は必要以上の事を言えなかった。

 ただ唯一言えるのは、さっき私が抱いた疑問は、両方とも正解だったという事だけだった。


 それからは、特に何か話をするでもなく、自然に別れた。その後で、私は兄の住むアパートに寄る事にしたのだった。親との折り合いが悪い兄が、今何を考えて生きているのか、それが気になったからだった。

「両親との仲が悪い友達、ね。……まあ、無責任な事言うなら、ほっとけ」

 かいつまんで経緯を話した所で、兄はまずそう切り捨てた。

「実際、大きなお世話にしかならないんだよ、そういうのは。賢いお前なんだから、言わなくても分かるだろ?」

「そりゃまあ、うん、そうだけど……」

 言葉の上では分かっていても、納得行かない事というのはあった。

「何かきっかけがあるならいい。あからさまな虐待とか、そういうのなら出る所に出れば解決するからな。でも、そういう訳じゃない」

 確認するような兄の言葉に、私はうなずくしかなかった。

「明確に助けを求められた訳でもないが、本人は両親が嫌いだと言っている。……なあ、その友達が親と喧嘩していた所で、なんかお前に不都合、あるか?」

 兄の言葉は、偏ってはいるものの正しかった。少なくとも私にはそう感じられたから、何も返す言葉が見つからなかった。

「この際だから言っておくけどな、少しは自分の分を弁えたほうがいいんだよ。特に千早には、そういうのが足りてない」

「分を弁えて……って」

「そのまんまの意味だ。一昔前の自分を見てるみたいで、イライラするんだよ。自分なんか大した事ないって口では言って、実際はそんな事ない、自分にはできるはずだって思って色々抱え込む。そういう生き方をやめろって、そう言ってるんだ、俺は」

「それはそっちが勝手に思ってるだけでしょ。私は、そんなつもりなんてない」

 自分にできない事がある事ぐらい、誰より私が知っている。だというのに、何を言ってるのだ、この兄は。

「いいや、そんなつもりだ。言っただろ、俺がそうだって」

――最悪だった。

 勝手に妹に自己投影して、その挙げ句に同族嫌悪を押し付ける兄が、この時ばかりは忌まわしく思えた。

「……そう。お兄ちゃんに相談した私が馬鹿だった」

 それだけ言い残して、私は兄のアパートを後にする。雨が降っているのも構わずに、走って家に帰る。


 日曜日は特に何をするでもなく過ごした。雨上がりとともに二日酔いから復活した両親と他愛もない話をしたり、あまり外では読めない単行本の小説や漫画を読んだり、まあそういう日曜日だった。

 そして月曜日、梨沙は学校を休んでいた。担任が何も語らなかった為、詳細は分からない。家まで出向こうとも思ったが、梨沙の家という事はつまり、彼女の両親どちらかがいる可能性も高い。少し考えた末に断念した。根本的に私が面倒くさがりな事も手伝っての判断だった。

 退屈な午前の授業が終わり、昼休みを迎える。昼食は購買のパンで済ませる。いつもは自前の弁当を食べるのだが、今日は両親も弁当不要の日という事もあって、わざわざ自分の為だけに弁当を用意する気は起こらなかったのだ。

 午後の授業はひたすら眠気との戦いだった。科目は世界史と現代文。どちらも苦手ではないしむしろ好きな方ではあるのだが、どちらも担当教師の声が眠気を誘うものだから、必然、眠気との戦いになる。昼食の直後というのがまた憎らしい。

 そして放課後、当然のように大島先輩からの呼び出しメールが入っていたので、いつもの空き教室に向かう。

「今日は珍しく早い……割には浮かない顔だね。何か心配事でも?」

 開口一番、大島先輩のそんな言葉で、私は自分が落ち込んでいた事に気付く。

「……別に、なんでもないですよ」

 それより用件を、と先輩に促す。

「用件というより、単純に話がある。メールに書いてあっただろう?」

 言われて、そのメールをもう一度確認する。確かに、そういって趣旨の事が書かれていた。送信元のアドレスを見た時点でこちらに向かっていたので、そんな所までは確認していなかった。

「確かに、そうですね。……じゃあ、話ってなんですか?」

 改めて、私はそう切り出す。

「なんだ、その投げやりな態度は。今回は、キミにとっても無視できない話だと思うんだが」

 そう言われて、改めて大島先輩を見る。その顔は、いつになく真剣な表情だった。

 大島先輩は、勿体ぶる事もなく、あっさりとその要点を話した。

「……桜川梨沙についての話だ」


「桜川梨沙という名前を、ワタシは知っていた」

 端的に、大島先輩はそう言った。

 それは、まあ、驚く事ではなかった。実際、その名前を知っていてもおかしくはない人なのだ。本来は。

「まあ、キミにとっては意外性はないだろうね。キミが彼女とワタシを会わせたがらなかったのも頷ける」

「だけど、先輩は自分で思い出したじゃないですか」

 その時点で、私の努力は水泡に帰した。努力と言うほどでもないし、別に先輩が梨沙の事を知っていようがいまいが、別にどちらでもいいと思っていたけど。まあ、色々と考えを巡らせたのは無駄に終わった。

「そうだ。そして、キミの考えはある意味では正しかった。ワタシが彼女を見ていれば、キミに忠告しただろうからね」

「忠告って、何のですか?」

「簡単だよ」

 そう言って、大島先輩は私に向き直る。

「……桜川梨沙に、近づくな」

「それが、忠告ですか?」

 忠告と言うよりは、拒否権のない、命令に近い語調だった。そんな事も手伝ってか、返す私の声も少し震えていた気がする。

「実際、命令だよ。キミを一年間観察してきたワタシが言うんだ。キミは彼女と一緒にいるべきではない。……これは、キミたち両方の為に言っている」

「……理由を、聞いてもいいですか?」

 私の言葉に、先輩はあっさりとうなずいた。

「簡単な話だ。キミは何かと全てを抱え込もうとする癖がある。ただの癖なら良かったのだが、キミのそれは悪癖と呼んでもいい。キミは恐らく彼女に何か情を感じていて、キミはその感情を大義に、何か行動を起こすつもりだ。だが、そんなまやかしの感情では、誰も幸せにならない。キミも、桜川梨沙も」

 自分の、桜川梨沙に対する感情。

 私自身、それが何なのか理解していない。しかし、まやかしであると人に断言されるほど、この感情が軽くない事だけは、分かっていた。

「……人の事を、そうやって決めつけないでください」

 大島先輩が目を細める。面白がっているようなその軽薄な表情が、余計に私の神経を逆撫でしていた。

「まあ、そうやって失敗するのも経験の内か。……ワタシの話はこれだけだ。後は、キミ自身が考えて行動するといい」

 私の脇をすり抜けて、大島先輩が出ていく。

 足音が遠くなるのを確認してから、私もその空き教室を飛び出したのだった。


四章 真実


 翌日。火曜日になっても、梨沙は学校に来ていなかった。

 さすがに不安になって、放課後すぐに梨沙の家へ向かう。以前に大体の場所と、その特徴は聞いていたので、すぐに分かった。

 梨沙の家は、控えめに言って豪邸だった。別に大きい訳ではなく、むしろ大きさで言えば私の家だった。しかし、その門構えなどからは、音楽家という肩書に恥じない風格を感じさせた。

 しかし、違和感があった。おそらく普段は車が入っているであろう家の前のスペースに、何も停まっていなかった。人の気配も全く感じないその家は、少し不気味ですらあった。

 スマホを取り出すが、梨沙の連絡先は知らなかった。友達でありながら、連絡をとる手段すらないなんて。

「……帰ろう」

 スマホを鞄にしまい、踵を返す。こういう時に、自分の勇気のなさが恨めしかった。

「――水口千早」

 背後から呼び止められる。その声には聞き覚えがあった。

「大島、先輩」

 その名前を呼びながら、私は振り返った。

「……キミの行動力には感服するばかりだが、この分だと家は留守だったのだろう?」

「…………」

 何か言い返したかったが、私は沈黙を貫いた。

「まあ、ワタシは知っていたけど」

「なっ」

 どうして、まで言えなかった。

 しかし、それを汲み取ってくれたらしい先輩が、スマホをこちらに押し付けてきた。

「これは……」

「クラシックのコンサート。出演予定者を見るといい」

 どこかで聞いたような名前、全く知らない名前。それらに混じって『桜川梨沙』の名前があった。

「……これって」

「ああ、見ての通りだ。ちなみに、彼女の両親も一緒に演奏するらしい」

 つまりそれは、桜川家が揃って演奏するという意味か。

「じゃあ、昨日言ってたのは」

「キミが何か早とちりして、おかしな行動を起こすのは目に見えていたからね。だから忠告したんだが、どうやら無駄に終わったらしい。どちらにせよ杞憂に済んだ訳だが」

 それで、とりあえずの疑問は解消された。

 しかし、他にも疑問は残っている。

「……いつから、気付いてたんですか」

「別に、ただのカンだよ。桜川梨沙の名前を忘れていたのも事実だ。しかし、キミはあからさまにワタシと彼女を会わせる事を拒んでいた。ソレに加えて、あの時キミは自分の事を必要以上に卑下していた。あの時も指摘したが、あれもキミの悪癖の一つだ」

「悪癖……って」

 自分ではそんなつもりはなかった。だから癖なのだろうけど。

「何か行動を起こそうとしている時に、自分を無力だと思い込みがちな癖。『無力な自分でも桜川梨沙の為に何かできるかもしれない』――そういうシナリオを作る為の演技。自分では気付いていないだろうけどね。そういうのに対して、ワタシの直感が働いた。それだけの話に過ぎない」

 大島先輩が黙る。この間は、私に言葉を飲み込む暇を与える為のものなのだろうか。

「桜川夫妻は、ワタシの音楽の師匠でね。桜川梨沙の名前もその時に知った。もちろん、当時の彼女の名声と、その後に辿った道も含めて」

 私は黙ったまま、その言葉に耳を傾ける。今更何を言っても、もはや終わった話だ。

「彼女は六年前、確かに一度、表舞台から姿を消した。だが、彼女は《《ヴァイオリンをやめていなかった》》」

「やめていなかったって……あ」

 そこで、私は思い出す。彼女は――梨沙は確かに、ヴァイオリンはまだやっていると言っていた。

「あのご両親が、音楽家としての娘しか見ていなかったのは事実だ。彼らに師事していたワタシが言うのだから間違いはない。そして、彼女が六年前味わった挫折も本物だろう。それで、ここからの推測が成り立つ訳だ。――根本的に親の愛に飢えていた彼女から、どうやってか親愛の情を引き出す事に成功したキミは、勘違いに陥ってしまった。そういう筋書きが、ね」

 そこまで言われて、私はようやく気付いた。

 ただ親と喧嘩していただけの彼女と出会い、その胸の内を聞いた。そして、彼女は守るべき存在だと、そういう風に自分に思い込ませる事で、自分の英雄願望を満たそうとしていたのだ、と。

「……なんか、惨めですね」

 兄の言葉が、今なら理解できた。

「今のうちに知る事ができて良かった。そう思っておくといい」

「梨沙とは、もう会わないほうがいいんですかね?」

 ふと、そんな事を聞いてしまう。

「そう臆病になる事はないよ。彼女はキミの勘違いを知らないし、彼女がキミを心の拠り所にしていたのも事実だ。また何かあった時に、今度こそちゃんと彼女と向き合って、その助けになればいい」

 先輩の言葉に、私は何も言えなかった。

――ただ、春の夕焼けがひどく痛かった。


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