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時をなくした彼女と森で  作者: ワタリドリ(wataridley)
第九章 デザートパラダイス
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第95話 有意義にして有限なる時間

 もう何度目なのかもわからない、あの夢の中。


 自分は過去の姿になり、過去の景色を見ている。そのことに気づいていながらも過去を書き換えようと気を起こすことすらできないままに、ミナギの身体はノートPCに向かっていた。


 場所は先ほどまで講義が行われていた大学校内の一室だった。モニター内に並んだ論文の文字列を見つめ、手先では忙しない速度でキーボードを叩き続ける。ミナギの集中力が続く限り、その手は止まることがなかった。


 携帯電話が鳴った。ミナギは一瞬手を止め、傍に置いていた携帯の画面を見遣る。電話はいつもの発信元からだった。


 応答を迫るバイブレーションがしばらく続いていたものの、持ち主は再びPCのモニターに視線を戻した。


「出なくていいの?」


 隣に腰掛けていたトウコがエナジードリンクの缶を片手に指差してくる。彼女は同じゼミ生で、いくつか同じ講義に出ているため、空きコマの時間にこうして一緒に作業することが多い。


「いーの」とミナギは返答した。「どうせ大した用じゃないんだから」


 電話の発信元である祖母には「大した用がないならかけてこないで」と、以前にそう伝えていた。それでも懲りずに電話はかかってくる。案の定、出てみたところで結局のところ取り止めのない話に終始する。「きちんと寝ているの」とか、「トマトは疲労回復によく効くからね」とか、「お金に困ったら来なさい」といった話にわざわざ手間をかけさせられ、手を取られ、人生の岐路とも言うべき大学生活にあって思考を割かねばならないのは、それ自体が不毛に感じられた。


 注意した後も電話は多少頻度が落ちる気配があっても、相変わらず事あるごとにかかってくる。その度にミナギは携帯の画面に対して眉を寄せていた。


 論文作成が一区切りついた所で、荷物をまとめて講義室の外へ出て、下りのエスカレーターに乗る。


 タワー構造の大学施設は毎回下層まで降りるのにも上層まで上るのにも時間がかかる。エレベーターも各階に設置されてはいるが、それでもこうして友人と雑談しながらであればエスカレーターの時間も苦にはならなかった。


「そんなこと言って、大事な用だったら?」


「火急の用だった試しなし。些細な注意ごとで有意義にして有限なる学生の時間を浪費させないでほしいよ」


「おや、今晩飲みの会合に参加する者の台詞とは思えませんね」


「息抜きもまた学生の本分なのだよ」


「バイ、ミナギってか」


「それに仲間の内定祝いという歴とした目的と意義もあるし」


「特にミナギのところは、ゼミ長のミナギさんも、副ゼミ長のソンくんも第一志望に内定だものね。おめでたいおめでたい。飯もそれに見合うような美味いとこを選んどいたよ」


 二人はエスカレーターを乗り継いで三階にまで降りてきていた。エスカレーターから大学の掲示板が見え、そこに就職説明会や講演会等のポスターが画鋲止めで掲示されていた。


「トウコのとこはどうなの」


 二階まで降りたところでミナギはそう尋ねた。二階の階層は一階まで見下ろすことのできる大広間となっている。そのおかげで、ミナギ達と同様に本年の終わりも見えてきたこの時期を口実に親睦を深め合おうという雰囲気のグループが一階で待ち合わせている群れがあった。


「わたしのサークルの幹事長ならね、まだ頑張ってるみたい」


「ゼミのことを聞いたつもりなんだけどな」


「てっきりサークルのことかと」


「流れ的にゼミでしょ」


 そう指摘するも、ミナギの胸中を察してそのように誤答したトウコにありがたい気持ちと苛立ちの両方を感じていた。


「もし気になるなら、本人から直接聞けばいいじゃない」と、トウコはなんてことないように言う。


「そういうのはいいや」


 ミナギは素っ気なく言った。


 なぜなら、ミナギとしてはそれは絶対に取りたくない方法だったのだ。本人に近況を聞くということは実際的な行動を伴う行為であり、それをすることは相手に対してそれだけの労力と関心を費やすことになる。それだけにとどまらず、もし相手にその行為を知られれば、それだけの関心があると相手に情報開示すことにほかならないのだ。やる気が起きない上に、絶対に避けたいことだった。


 一方で、全く無関心であるといえば嘘になる。急激に相手への興味を失いはしたが、それでも一応の人情か野次馬根性か、何とはなしにその顛末を知りたいとも思ってはいた。だから、その欲求はなるべく相手にさとられず、偶然を装った形で満たされる必要があったのだ。そしてそれは同じサークルに所属しているトウコの口から得られると思っていた。トウコはミナギのこうした思考を熟知する仲にあったのだ。だが、回答をはぐらかしたということは彼女も詳細は知らないということになる。


 校舎の外へ出ると、急激に冷めたい夜風が頬を擦った。吐いた息は白く濁って空へと昇っていく。すぐに数え終えてしまえる程度の星々が浮かぶ都会の空は、もうすっかり暗くなっていた。そうしてミナギ達は、さみー、と互いに余計に寒くなるような不満を垂れて祝賀会の会場へと向かうのだった。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 就職内定者を祝福する祝賀会の目的と意義にそぐわず、ミナギの表情は晴れなかった。目の前に盛り付けられたシーフードパスタやサラダは大学近くの飲み屋で出てくる酒のオマケを自覚しきったようなそれとは異なり、上品な店内照明を受けて具材が爛々と輝いている。門出を祝うここぞの機会にと、いい食材と酒がテーブルを埋め尽くしている。それなのに、ミナギは周囲を覆う喧騒に表面上は応える一方で、食欲が減退していた。


 原因は座っている座席の対角線上に座っているある存在だった。


 かんじちょお、とTPOを弁えぬボリュームで声を上げて、その一団は盛り上がっていた。


 後輩らしき学生に肩を掴まれては、大げさにあやすような仕草をして自らも酒を呷っているその人こそ、ミナギが今最も直接会いたがらない相手であった。さっき参加者一言ずつ祝辞を述べたからには、こちらの存在にも気づいているはずなのだが、敢えてかこちらに気づく素振りを見せないことだけが幸いだった。


 トウコの方に視線をよこすと、彼女は両手を合わせて申し訳なさげなジェスチャーでそれに応えた。


「ごめん! まさかの店被り」とは、店に入ってこの嬉しくない偶然に気づいたトウコの言葉だった。


 化粧室の鏡の前でメイク直しをしていたトウコに鉢合わせると、彼女は鏡に映るミナギに再び謝った。


「別にいいよ。もっと静かにお食事してくれるといいけど」


 ミナギは手を洗って、ハンカチで水気を拭き取ると、手ぐしで髪の毛を整え直した。


「あはは、お子様かよ」


「お子様でしょー」


「こちらに触れないようにしてくれているとは思うけど」


「そこも含めて、お子様」


「は? なんで?」


「気にしてない自分を大人だと思ってる感じがむしろ、余計に、却って」


「手厳しいね」


「私も大概わがままだから」と言い残して、ミナギはドアの向こうへ出た。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 席へ戻ると、ちょうど遅れてやってきたグループが合流してくるところだった。事前に幾人かがグループチャットで遅れてやってくることを連絡していることを思い出す。


「ソンくん、お疲れ様。待ちくたびれたよ」


 見知った顔を見つけると、手をこまねいた。


「ミナギさん、お疲れ様」


 同じゼミ生のソンが隣の向かいの空いていた席に腰掛けようとする。


「そちらは?」


 ミナギは見知らぬ顔を連れている彼にそう尋ねた。


「グループワークで一緒の班だったタナビキくん」


 二人は席につくなり店員に飲み物を頼んだ。ちょうどカルパッチョを乗せた大皿が運ばれてきたので、ミナギが配膳しよう腰を浮かせると、タナビキがなんの滞りもなく店員から皿を受け取り、小皿に分け始めた。


 その慣れた手つきになんとはなしに注目しているせいで、どうぞ、といざ渡された時には数拍反応が遅れてしまった。


「グループワークって、前言ってた西洋なんたらってやつ?」


 ミナギはグラスに入った酒を揺らして、ソンに問いかけた。


「西洋文化史ね。前半に講義やって、後半に各グループでテーマを組んでプレゼンするんだ」


「楽単とは程遠そうだね」


 それに時限も夕方遅くだし、とソンは不平を漏らしながら魚の切り身を口に運んだ。二人の会話にタナビキが割って入ってきた。


「でも、裏を返せばそれだけやれば貰えるという意味では楽だよ。試験一発勝負よりは」


 だが、その言葉ほどタナビキの顔は楽観的に見えなかった。何か別の深刻なことを思案しているようでもあり、祝いの場に相応しくない違和感をそこはかとなく漂わせているように見えた。それは彼の服装が黒ずくめなことも一因だったのかもしれない。


 そんなことをぼんやり考えていると、後ろの方でさっきよりもいっそう喧しい声が上がるのが聞こえた。嫌々な気持ちでそちらへ目を向けると、特に騒がしくしていた一団のテーブルが転覆していた。例の“幹事長”は座席からずり落ちて、力無く椅子の足にもたれていた。


 頭上で室内を覆っていた祝杯ムードが一気に解けていくように、みんなその一瞬で声を沈めていった。


 周囲を囲んでいた人らが泥酔しきった彼を揺すっているがなかなか起きそうになく、周縁の人達も大丈夫かな、と感想を漏らす以外に目立って動こうともしていなかった。店の備品を壊したり汚したりのちょっとのトラブルなら当事者間でどうこうしてほしいと言うのがこの場の最大公約数的な思考で、わざわざ楽しいひと時をそれだけのために濁されたくはないようだった。


 みんながその処理を気にしつつ歓談を再開する中、目の前に座っていたタナビキだけが早々に立ち上がり、様子を伺いにいった。


 ハメを外した自業自得の彼とその取り巻きにタナビキは「怪我とかない?」と直接語りかけ、その後はペーパータオルでテーブルクロスになだれ込んだ酒を拭き取り、割れた食器類を掃除し始めた。ミナギもソンもそれを見過ごすわけにもいかずに、いつの間にやら手伝いに席を立っていた。


 結局、後の収拾はトウコが呼んでいた店員に後を任せて再び食事を取ることにした。対応に当たっている間に料理はすっかり冷めてしまっていた。


「あれで酔ってる本人は仔細を覚えちゃいないんだから困っちゃうよ」


 祝賀会が終わり、二次会にいく者以外は解散の運びとなった後、駅の方へ向かっている道中に、トウコはそのように不満を口にしていた。


「とんでもない貧乏くじ引かされたね。今度会ったら何か高いものをねだった方がいいよ、タナビキくん。どうせ恩を売った相手は事の次第を正確に覚えちゃいないんだし」


 ミナギも手を擦り合わせながら歩くタナビキにそう忠告する。彼はただ気まずそうに笑っていた。


「迷惑かけた相手には律儀に埋め合わせはするタイプではあるよ」


 愚痴をこぼす対象を共有したせいか、本来自分達の近況について話し合うべきレストランよりも、駅を目指してぶらつく寒空の下の方が舌が回っている気がした。


「あの人、私の元カレなんだ」


 その愚痴大会のついでにミナギは自ら先の“幹事長”との関係を話すことにした。どうせ自分から言わずとも誰かを伝手に知られる話なのだから、自分から話す方が良いと思った。このタナビキくんとやらの目も多少は好奇の色に染まるだろうかと身構えていたが、特段そんなことはなく、むしろ我が身のように眉根を寄せて心配しているようだった。


「それは申し訳ないことをしたかな。あそこで出張ったばかりにミナギさん達にも手伝わせることになってしまって」


「いやいや。ああいう場面で咄嗟に動ける人、なかなかいないと思う。気まずいとかよりそっちの方に感心してたよ。あ、これ、履歴書でアピールできるんじゃない?」


「もう就職終わったけどね」


 そうして今度こそは和やかに笑っているようだった。


 ミナギ達は互いに卒業後の進路について語り合った。つい先日内定者の集まりに行ったというトウコはやけに肩肘張った職場や同期の雰囲気を評して「新卒三年以内離職率に貢献しそう」と言って肩を揺らし、ソンはIT系の会社に入るにあたっての資格試験中だよ、となんて事なさげに言っていた。


「ミナギさんは出版系だっけ」


 ミナギがタナビキに就職先について尋ねようとしたところ、彼の方からそう切り出した。へえ、よく知っているな、誰かから聞いたのかな、などと考えていると、タナビキは「ソンから聞いてたんだよ」と補足した。


「それにミナギさんは有名人だしね」


「だってさ」とトウコが肘を突いてくるのを軽くあしらい、ミナギは「まあ、業種的に珍しいもんね」と返した。


 凄いなあ、とタナビキは感心している。おだてるためでも機械的に反応しているでもなく、本心からそう思っているように白い息を吐いてそう言っていた。


「これでも留学経験あるし、学業にも励んでいたし」


「この人、おだてるとすぐこうなっちゃうから」とトウコが向けてくる人差し指をミナギは握るが、もう片方の手でまた指を差そうとするので、結果的に両の人差し指を掴む羽目になってしまう。そんな二人のやり取りについて、ソンは「無視していいよ」とタナビキに教えていた。


「でもさ、今日でわかってよかったね」


 戯れ合っている最中に口をついて出たようにトウコは言った。


「祝賀会に出てたってことはあの人も就職決まったんでしょうよ」


「そりゃあね」


「妙にはしゃいでいたのも算段があったんでしょうよ」


 トウコの声はそこだけやけに落ち着いていた。その調子はまるでミナギに考えを促している。


 よくよく考えてみると、あのはしゃぎっぷりも実は裏に何か算段があったんじゃないかと言う気がしてきた。


 終始目を合わせることはなかったが、あの音量で騒げば会場にいる誰かしらに存在を知覚してもらうことは確実だ。ついていた座席も、どこからでも様子が見える場所にあった。


 そこまで考えたところで、なんだかくだらない推察を繰り広げている自分に嫌気がさしてきていた。といった以上のことを、酒気を帯びて理性と本能の境界が幾らか溶けかかっていた思考力で喋っていた。


「寂しかったんだろうね」


 タナビキが真っ直ぐにミナギの方に向き直っていた。熱した肌に突き刺さる夜風を急に感じた。


 言葉の真意がわからず、「へえ?」と素っ頓狂な反応を返す。


「自分を置いて行ってどんどん別世界へ行ってしまいそうになるミナギさんを見て、寂しかったんじゃないかって」


「はあ」と恐る恐るの相槌を打つ。置いていくとか、そんなことを考えたこともなかったな、と気付けば自らの言動を振り返っていた。


「さっき就職の話をしていて考えてたんだけど、この時期の大学って不思議だなあって。みんな同じ大学の、同じ学部や学科、ゼミやサークルで同じ括りの中にいるのに、みんなが向かう先は別々でしょ。海外の大学だとそんなことはないんだろうけど。身近に感じていた相手がおいそれと踏み入れない世界に足を踏み入れようとしていたってのに、自分だけは出遅れていたっていうことが尚のこと許せなかったのかなって」


「その反動でああやって騒いでた……か。それってなんだか馬鹿馬鹿しいね」


 一瞬でもタナビキが相手の肩を持とうとしているのかと思い、ミナギの声音はいつの間にか夜風にも似た冷たさを伴っていた。


「うん、馬鹿馬鹿しいね」しかしタナビキはあっさりとミナギの言葉に頷いた。「でも、何も言えずに朽ちていくよりかは、惨めでも叫びたかったんじゃないかな。女性に置いていかれる恐怖というのは、本人にとってみれば深刻なんだよ。呪いのように纏わりつかれておいそれと離せない」


「それ、社会学の講義で言ってたっけな。王子様とお姫様にまつわるジェンダーギャップ」


 社会学は基礎教養の科目として必ず受講する必要のあるコースのひとつだった。物言いのはきはきとした女性の教授が話す内容に真剣に耳を傾ける学生は半分もいたのかわからないが、“呪い”の話は、教授による個人的見解であると断りを入れた上での余談ではありながら印象的な一節だった。概して社会的に優位に置かれる男性というのは、その優位性と引き換えにそれを維持しなければならないという呪いに取り憑かれているのではないかという話だった。


 講義を受けていて無意識に埋もれていた偏りを見つめる度、このことを知らない人たちはどうするのだろうと、漠然とした不安に駆られたことを覚えていた。知らないことを知らないままにして生き続けるのは、それが生み出す弊害にすらも気づけないことを意味している。


「受け売りなのがバレちゃったけど、そういうこと」タナビキは破顔した。「でも、人は幼少期にそういう物語を見て、刷り込まれて育っちゃうところはたしかだよ。毒りんごを食べて眠りについたお姫様を口づけで救った王子様も本当は存在しないのにね」


「それは初耳。存在しないっていうのは、どういうこと?」


「僕、あの人のゼミなんだ。そこで聞いた話でさ、あれって口づけで救われるお話になったのは実はもっと後の方で、元々グリム童話なんかに収められた段階では、お姫様の入った棺を運ぼうとした家来がつまづいた拍子に、喉に詰まらせていたりんごを吐き出したらしいんだよ」


「へえ、真相はずいぶん滑稽なんだねえ」と、トウコが茶々を入れる。トモビキはそれすらも真正面から深くうなずいてこういった。


「だからさ、本当はお姫様を格好よく救う王子様の姿も幻で、本当は時代を経て読む人たちの理想像を投影して生まれた産物なんじゃないかって結論付けられるんだ。その幻を僕たちはそうとは気づかないくらい当たり前のように日々テレビや本やそれを見た人同士の会話で刷り込まれて、こうあるべき、みたいな思い込みを抱いて、それがやがては呪いになってしまう」


たしかにね、とミナギは白い息を飛ばした。その呪われた人たちは再び自分たちで呪いを再生産してしまう、ということも思い当たる。それは文化や風習として必要とされて残ることもあれば、次の世代の首を締めるなんてことだってあり得るのだ。


「何歳までに結婚しなきゃだとか、美白って売り文句だとか、子育ては母親の役割だとか、ぜんぶ他人の言葉がいつの間にか侵入してそう思い込ませられるもんね」


それと同じように、あの幹事長は自分といて、常識によって形作られた男らしさを履行できないもどかしさに苛まれていたのだろうか。


「ああ、でも、勝手に他人の心中を推し量っておいて矛盾しているようだけど、ミナギさんは気にする必要ないと思うよ」


「言われなくても、もう今晩限りでキッパリ気にしないつもり。あとは勝手にしろっての」


「それがいい。いくら他人を悩みの種にしたところで、結局解決しなければならないのは自分自身だからね。もちろん、政治とか利害に結びつく話は別だけど」


 駅前の交差点に着くと、じゃあ、僕はこっちの路線だから、とタナビキは片手を上げてミナギ達とは別方向の昇降口へ向かった。


 駅から乗ってすぐの間は飲み会帰りと思われるスーツ姿の大人達や学生の群れが車内を埋めていたが、都心から離れて住宅街へと入っていくにつれてそれらは綺麗に消えていった。


 電車の駆動音だけが車内に伝わる束の間の沈黙の中で、ソンがぽつりとこう言った。


「タナビキくん、葬式上がりって感じじゃなかったなあ」


「葬式?」


 唐突に出てきた予期せぬ言葉に顔を引き寄せられ、ミナギはソンの丸い頬を見つめた。


「飼ってた猫が昨日死んじゃったんだってさ。その葬式が今日の午前にあったんだって」


 ミナギは何か適当なことを言ってその先の間を埋めようとした。けれども、口をつぐんでただ目の前の暗い窓に映る自分達を眺めた。


「十五年も飼ってたらしいんだけど、それってもう家族も同然だよね。弱っていることはわかってたけど、最期は看取ることが出来なかったって。そんな状況なら、今日のプレゼンだって、会だって自分が引き受けるから出なくていいって言ったんだけどーー」


 でも本人がなるべく予定は普通にこなしたいと言ったのだという。その気持ちはなんとなくわかる気がした。


 一方で、無邪気に新しい知り合いを得たような気分で浮かれ、その心中を憶測することなく接していた自分が恥ずかしい気持ちになった。黒づくめの服は、今考えると喪に服していることの表れだったのかもしれない。


「そういやタナビキくんの就職先とかも聞いてなかったな」トウコが呟いた。「連絡先も聞いてないや」


「それはグループチャットから探せるでしょ」


 ミナギは自ずと携帯を取り出し、画面を見た。案の定、祖母から数件の不在着信があったが、それに引き続いて母親から数件のメッセージが届いていた。


 え、と思わず声を上げていた。


「どした?」


 トウコが心配そうに横顔を見てくる。


 母親とのメッセージ欄に目線を落としたまま、ミナギは答えた。


「いや、うちのおばあちゃんが救急車を呼んだって連絡が……」

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