第90話 自転車を制する者はすべての乗り物を制す
ミナギは眉を寄せ、腕を組み、足踏みをし、ありとあらゆる部位で不機嫌を示して見せた。
不機嫌の原因はメドウだった。見回りに出たメドウがあれきり帰ってこない。それはつまり彼女にとっては、帰路の上で足踏みさせられているも同然だった。
「ミナギさん、申し訳ないけど、もう少し待ってもらうことになると思う」
デザートパラダイスに到着した翌日の朝のことである。電話越しに言葉通り申し訳なさそうなメドウの声が伝わってきた時には寛容に承諾してみせた。
更に翌日の朝のことである。
「ミナギさん、申し訳ないけど、もう少し待ってもらうことになると思う」
更に更に翌日の朝のことである。
「ミナギさん、申し訳ないけどーー」
「ストーップ!」
電話を片手に、もう片方の手でつい制止するポーズを取ってしまうミナギ。それから息を整え、彼女はこう切り出した。
「部外者の私には詳しくはわからないけど、警備の仕事はとても大事だと思う。昨日の夜、ニュース聞いたよ。周辺施設が襲撃されたって。メドウさん、その関係の警備に携わってるってことは隠さなくても想像はつく。でも、それなら私たちのことは他の誰かに任せて、メドウさんはそっちに注力するのはどうかな? 私は待てるとしてーーいや、流石に延々待つのは厳しいけどーーヴァーユも、あの子も早くお家に帰してあげないと」
ミナギは多少失礼な物言いになるのを承知で言葉を紡いだ。途中、ヴァーユのことを「あの子」と婉曲に言い直したのは、便宜上、他人を理由に使っているのが悪いと感じてのことだった。
メドウはそうしたミナギの意図を察しながら、意外な返答をした。
「ーーヴァーユくん、本当に家に帰りたがっているのかな」
「え?」
「いや、なんでもない」
なんでもない、なんてことはないだろう。とても意味深で気になる一言だ。しかしミナギが真意を問いただそうとするよりも前にメドウはこう言い加えた。
「ミナギさん達を待たせてしまっていることは謝ります。けど、代わりの誰かに案内を任せる訳にはいかないんだ」
「それは、どうして」
「前にも言ったように、家に帰れなくなるような危険がこの世界には満ちているから」
「だからそれってどういうーー」
言いかけたところで、電話の向こうで誰かがメドウを呼びかける声がした。
「ごめん、行かないと。でもミナギさん達を必ず安全に家に帰すことは約束する。それだけは信じてほしい」
ぷつっと電話が切れた。
「ミ、ミナギ様……」
近くでそれまでのやり取りを見ていたシエルが恐る恐るミナギの機嫌を伺う。
「インフォームドコンセントを知らんのか! あの人は!」
ミナギは受話器を元の位置に掛けると、大股で歩き出した。
「で、今はご機嫌斜めって訳か」
以上のあらましを聞いたヴァーユの第一声がそれだった。勿論、ヴァーユが本当に家に帰りたがっているかどうかのくだりは省略していた。
「はい、休憩終わり! 皮肉を言ってないで足を動す!」
今ミナギとヴァーユは海岸沿いに出来た野外運動場にいた。転んでも痛くないゴム床で出来たスペースで、ヴァーユはヘルメットを被り、レンタル自転車に乗ってはよろめいて、転ぶのを繰り返していた。
メドウが帰ってこない状況が続く中、せめてもの暇つぶしにとミナギは室内で本を読んでばかりいたヴァーユに「バイクの乗り方を教えてあげよう」と言って、ここへ連れ出したのだ。
自転車に乗るヴァーユは「バイクの練習じゃないのかよ」と不満げに言うが、その間にもハンドルが左右にぐらぐら揺れていた。
「自転車を制する者はすべての乗り物を制す、だよ」
「そんな格言、聞いたことないけど」
「私が今作った」
はあ、とため息を吐きながらも、ヴァーユはなんとかバランスを取ろうと手元に力を入れる。それが仇となり、かえってハンドルを片方に大振りする結果を招き、自転車ごと横転した。
昨日から初めて今日が二日目だが、なかなか苦戦しているのが現状だった。
「冷静に考えてもさ」ヴァーユは地べたに尻をついたまま言った。「自転車なんか乗れなくたってこの現代社会、じゅうぶん生きていけると思うけどな」
「言ったでしょう、自転車を制する者はすべての乗り物を制すって」
ミナギは見せつけるようにマウンテンバイクに立ち乗りしてバランスを保つ。そのまま飄々と喋り続けているのを見て、ヴァーユは唇を噛んだ。
「ねえ、知ってる? 自転車と飛行機は実は仲間ってこと」
ミナギの質問にヴァーユはなんてことない顔をして答えた。
「知ってるよ。人類初の有人飛行を成功させた人達は元は自転車屋だったって話だろ」
「そう。自転車と飛行機はどちらも自走によってバランスを安定させる性質がある。スピードを出している最中に曲がるには車体ごと傾ける必要があったり、走行中に風を受けるから空気を受け流す車体設計も求められるんだよ。その元自転車屋さんは自転車業で培ったこういう理論を飛行機でも応用して成功させたって訳だね」
ヴァーユは何が言いたいんだとでも言いたげな瞳をミナギに向けた。ミナギはこう締めくくった。
「まあ、つまり、私が言いたいのは一見関係ないように見えても、すべては巧妙に繋がってることもあるってこと! ヴァーユが将来自転車に乗る必要があるかどうかなんて私にはわからないけど、色んな乗り物に乗るかもしれない第一歩がこれかもしれないじゃない。まさに自転車屋さんが飛行機を作ってしまったみたいにね。自転車に乗れなくてもいいなんて冷めたこと言ってる若人に、そういう可能性を伝えたかったのよ」
熱弁するミナギは今もなお立ち乗りのまま、マウンテンバイクをジャンプさせたり、バックさせたりと、その運動神経と操縦技術で遊んでいた。
「はあ、でも、こうも失敗が続くと流石にね」
ヴァーユは、ぽんぽんと尻を叩いて立ち上がると、自転車を持って借りた場所へ歩き始めた。
「ちょっとー、やめちゃうのー?」とミナギは口元に両手を添えて尋ねかける。
「そうだよ。このまま根を詰めたってどんどん自転車と遠ざかるだけだと思う。こんな時は気晴らしでもした方がいいね」
部屋に戻って本の続きを読むか、これまでの記録を見直すか。ヴァーユはそんなことを考えていたのだが、ミナギは「それもいいね!」と予想外に賛同してくる。
思わぬリアクションにヴァーユが「はあ?」と振り返ると、ミナギは妙案でも思いついたように目を輝かせてすぐ側に立っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「水神様の伝説ねえ。そりゃ、俺が生まれる前の話だから……。あっ店長! 店長なら知ってるんじゃないですか? 水神様」
さっきまで暇そうに店番をしていたコウテイペンギンの青年は、ドレッドヘアーを蓄えたアルパカの女性を呼び止めた。
ここはデザートパラダイスのショッピングモールエリアにあるアパレルショップだった。たくさんのテナントが並ぶ通りの一角にあり、ガラス戸の向こうには今も沢山の客がそれぞれの店に出入りしている様子が見える。上を見渡せば吹き抜けになっている広々とした空間があり、二階三階の階層に溢れる商いの活気が下層にまで降ってきているようにも感じられた。案内によると、ここは施設全体が豪華客船をイメージした設計になっているとのことだった。
「知ってるも何もだよ。この目で直接見たことがあるよ」
「本当ですか?」
やっと証人に会えてミナギは喜んだ。横に未だに疑り深い目を向けたヴァーユを連れて。
「うん、あれはもう三十年は昔だったかなあ。その時は両親の知り合いがいる砂漠の集落に泊まっていたんだけどーー」
それから店長は語り始めた。ミナギ達が例のおじさんに聞いた話と同様に、やはり移動式遊園地が砂漠にやってきた時に大火事が起きたのだと言う。そしてその大事件を、突如として現れた大きな龍が大雨を降らせて収めたことまで一緒だった。
「幻覚? 見間違い? それは考えにくいね。私はその時から今に至るまで両目とも5.0を維持しているんだ。それに、このデザートパラダイスの資料館にだってその歴史展示があるんだよ」
その資料館の場所をメモして、ミナギ達はそこへ向かった。
資料館には水神様を遠くから収めた写真が展示されていた。今までは人伝の存在だった水神様が、些か不鮮明な形ではあるものの、きちんと実体として目の前に現れたのだ。
「うーん、幻覚説は否定されるか」
「少なくとも物体として実在する、あるいは実在したものみたいだね」
「確かに龍には見えるけど、そう断定するにはまだ早いな」
それから他にもこの件に関する展示がないか、二人で見て回った。
あいにく確証を得られる展示は見当たらなかったけれども、ミナギにとっては興味深い情報が数多く見受けられた。
このデザートパラダイスが作られるに至った経緯について、これまたおじさんが語っていたように、戦争の兵器がこちらの世界へ流入して、その誤爆や毒素の悪影響を受けてここは砂漠化したという解説があった。あのおじさんはホラ吹きおじさんなどではなく、真面目なおじさんだったのだ。
解説はそこから、このハートバース世界の原理も説明していた。世界の内側にはアニムスと呼ばれるワープホールが存在しており、それは向こうの世界に通じているのだという。こちらの地表へ遺失物を表出させているのもそのワープホールのエネルギー活動の一端とみられており、森の中のスポットと呼ばれる地点に気まぐれに出現する遺失物を管理しているのが管理委員である。スポットの出現には、燐光蟲がそれら遺失物のエネルギーを吸い取って振り撒く燐粉の散布が必須で、それらは森を育む生命力でもある。この砂漠は、燐光蟲に見放されて枯れてていく一方で、燐光蟲を惹きつけるスポットも出現しないために、八方塞がりな状況にある。このデザートパラダイスはそんな状況を打破するために設立された研究所兼レジャー施設なのですーーこれらが様々な展示物から読み取れたことの要約である。
ふうん、なるほどねと一人で相槌を打って、館内を回っていると、意外なものを目にした。
ある展示の前で、ミナギは見間違いかと思い、それを二度見した。あの遊園地の歴史を紹介した写真が額縁に入れて飾ってあったのだ。
解説には、ハートバース世界でも有数の移動式遊園地として誕生したバルニバービ遊園地の歴史は半世紀以上にも渡り、多くの人々がここで思い出を作ってきたのだといったことが書いてあった。解説によると今の園長は三代目とのことだった。思い出作りに是非ともデザートパラダイス内に今もある遊園地に訪れてはいかがでしょうか、という一文で解説は締めくくられていた。
その下には、訪れた人の感想と称して吹き出し型の用紙がいくつも貼り付けられていた。やけに丸っこい手書きの文字で「足が不自由なわたしも歓迎して楽しませてくれる遊園地でした」というコメントをはじめ、各々に感想が記してあった。しかしそのどれもが古びていて、かえって哀愁を醸し出している。
剥がれ落ちていた吹き出しをミナギは拾い上げた。
「先代から受け継いだ遊園地が自分の代で落ちぶれるってのは中々辛いものだろうね」
「あの人にちょっと悪いこと言っちゃったかな」
ヴァーユが珍しくそんなことを口にするので、ミナギはこの資料館のどの展示物を見たときよりも驚いた。以前に園長のいる前で遊園地の寂れ具合を辛辣に言ってしまったことを彼なりに反省しているらしい。
「驚きすぎ」
「ごめんごめん。いや、私も内心じゃもう時代に置いてけぼりならさっさと畳んで次に行けばいいのにぐらいに思ってたから、ヴァーユがそう言うのはなんか意外で」
「意外で結構。ていうか、ミナギも中々辛辣じゃないか」
「そうかな? うまくいかないならさっさと切り替えるメンタルも大事だと思うけど」
そこまで口にして、なんだか空気が微妙に悪くなっていくのを実感する。ヴァーユはミナギの考えを咀嚼しきれていないようだった。
だが、幸いにしてヴァーユが何か別のことに気を取られて会話は中断される。
「ねえ、これ」
ヴァーユが指差した先に、水神様の姿があった。さっき見た写真とは違うものの、それもまた証拠の一つたり得る物だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ヨークがペイントブラシを壁に走らせていると、女子供が背後で立ち止まった。確かミナギとヴァーユとかいう名前の人間だ。
「へえ、真面目に働いているね」
「なんだ? 冷やかしに来たのか」
ヨークはヴァーユの方をちらりと見る。胸ポケットに兄貴が狙っていたペンが収まっている。
しかし、更に彼らの背後に気配を察知し、変な気を起こすのはやめることにした。働いている最中にも物陰からクルムがこちらの様子をしっかり監視しているのだ。流石に丸腰の自分がここで騒ぎを起こしても即座に取り押さえられるに違いなかった。それに、今のヨークには騒ぎを起こしてこの遊園地に迷惑をかける気がすっかり薄らいでいたのもある。
「いやね、前にここへ来た時に見逃したものを見に来たんだよ」
そう言ってミナギはヨークが向かっている壁を指差す。そこには空を泳ぐ龍の姿が描かれていた。ジェットコースターの奥の外壁に、歴史の絵巻物がこうして収められていることにミナギ達は初めは気づいていなかったし、それを補修しているヨークもそんな由緒あるものだとは知らなかった。
「おお、お客さんまた遊びに来てくれたんですねえ」と園長が気づいて声をかけてきた。
「すみません、チケットは持ってないですけど」
「いいのいいの、人がいてくれるだけでも遊園地は活気付くものだから。坊やには飴を上げよう」
だが、いらない、とヴァーユにはあっさり冷たくあしらわれてしまう。
「これが園長さんが描いたんですか? すごい迫力ですね」
「ええ、そうでしょう! なにしろ水神様をこの目で間近で見られたんですから」
「間近で?」
「ちょうど大火事があった時、実は自分はここで友達と遊んでいたんです。その時は先代の親父が園長でしたから。ゴンドラが丁度真上に達したぐらいに、止まってしまってねえ。あの時は怖かったけどお陰様で神秘を誰よりも近くで目撃できましたよ」
「へえ、じゃあこれはあの証拠写真よりもありのままに水神様を捉えた一枚ってわけだ」
頷くミナギとは対照的に、ヴァーユはその絵の一部分に納得いかない様子で質問した。
「ねえ、なんで目が赤く描かれているの?」
園長はキョトンとした顔で答えた。
「なんでって、そりゃあ赤かったから。いや、正確には燃えていたんだ」
「燃えていた?」とヴァーユは疑念の色を強める。「でも、水を司る龍なんだよね、水神様って。体は水のように透けているのに、眼だけが燃えているなんてことあるのかな。光の加減で見間違えた可能性は?」
「坊や、中々の探偵さんだ。もう三十年以上前のことではあるけど、水神様の目はメラメラと燃えていたよ。いや、実際に燃えているかまではわからないけど、少なくとも証人である少年の私の目にはそう映ったんだ」
「面白い話だね。でもますます謎は深まるばかりだ」
ミナギは気難しさを増した顔つきのヴァーユにそう言った。




