第9話 賞味期限切れはお断り
ミナギは、目の前を行くシエルを眺めていた。黒くて細い胴と真っ白で丸い頭が小刻みに揺れる様は、不思議と飽き来ない。
シエルは小さい手足をうまく使いせっせと前進しているように見えるものの、ミナギ達のスピードに合わせて彼なりに手加減してくれているに違いなかった。のべつ幕なし撫でたいと思わせるそのふさふさの毛並みと掌にすっかり治りそうなフォルムに見惚れながらも、ミナギはこの案内人をすっかり頼りにしているのであった。
自覚もなしに安心感と愛嬌を与えてくれている彼に、ミナギは事あるごとにちょっかいを出してみるのが、すっかりお馴染みのやりとりのようになっていた。
「ねぇ、シエル。もしよかったら、ここから出られた後、家へ来ない?私んち、それなりに広いから1匹増えたところでどうってことないのだけど。猫飼ってたこともあるし」
「ミナギ様、それは有り難いお誘いです」
シエルもそうした会話のキャッチボールには慣れたらしく、今ではルーチンワークをこなすかのように、落ち着いた口調でボールを返す。
「しかし、私には既に心に決めた人がいるのです」
「そりゃ残念……ってお相手がいるの?」
「ええ、同じ職場の同僚でして。といっても、所詮ワタクシの岡惚れ。距離を測りかねているところです……」
「それじゃあ私が相談相手になったげよう」
ミナギが自身ありげに喋っていると、少し後ろから「他人のことより今は自分の心配だろ」という呟きが聞こえてくる。その声の主、一歩引いたところで歩くヴァーユは、2人のやり取りに水を差すことが多い。といってもその差し水は、時に過熱の様相を呈するその場の空気を冷ますこともある。
森からの脱出に若干前のめりなミナギは、時にシエルよりも先に出て違う方向へ行こうとしたり、あるいは何かに気を取られて足を止めたりすることもある。そういう時も、「こっち」とか「置いてくよ」と声を掛けるのはヴァーユであった。
ミナギは振り返った。ヴァーユの胸には相変わらず紺碧色のガラスペンがささっている。前日からそのペンの様子が気になっていた。
「やっぱし、効き目はホンモノだね。あのスプレー」
出発の際、蝶が寄ってくるのを防ぐため、ミナギとヴァーユがあれこれ策を講じていた。
それを見ていたシエルは、黒い燕尾服状の模様が走る下腹部あたりに手を突っ込み、ある物を取り出した。ミナギはただの模様だと思っていた場所にポケットがついていたことに軽く驚きを覚えたのだが、取り出した物はそれを上回って驚きだった。
「防虫スプレーです。この蝶限定ですが」
ヴァーユの持つペンに散布すると、蝶は露骨に強い羽ばたきをやめて、四散し始めた。徐々に数を減らし、とうとう1匹も近寄らなくなった。ミナギの頭の中では、混雑していた公園に激しいにわか雨が降った時の変わり様が、フラッシュバックしていた。
火が苦手な蝶の性質を利用して、発火していると誤認させる臭気を放つスプレー。それがシエルの説明だった。ミナギは試しに嗅いでみたが、彼女からすれば無臭としかいいようがなかった。「なんでもすぐ嗅ぐ」と、ヴァーユはやはり引き気味だった。
キャンピングカーがあった場所から出発して1日が経っていた。舗装されていない森の中、靴の裏に少しだけ神経を使いながら歩くことも、必要に応じて水分や食事を摂る日課も、意識せずとも出来るようになった。
しかし、相変わらず慣れないこともある。どこへ行っても不揃いの物が不規則に散らばっている光景は、初日以来ずっと、ミナギとヴァーユの関心を強く引いていた。バリエーションも尽きることはなく、見かける度にあれは何、これは何と話題を切り出すのも今や3人の間では日常茶飯事だ。時に珍しい物が落ちていたりすると、それを拾い上げてバッグに入れることもあった。
中でもバッグやアタッシュケースといった入れ物にミナギは特に注意を向けていた。そして見つけ次第、シエルに声を掛けて探りに行く。食料が入っているかもしれないからだ。
「さっきから何やってんの?」とヴァーユが尋ねて来たので、ミナギは見つけた手提げカバンを物色する手を止めて答えた。
「食料があるか探し中。死活問題だからね」
「それで成果は?」
「ガムとタブレット菓子発見。でも賞味期限が1年前と、なかなかにアヤシイ。これは置いてくか」
手に取ったガムを手提げカバンに戻そうとしたところ、シエルが口を出してきた。さっきまでそわそわしていたのだが、見るに見かねての発言のようだ。
「問題ありませんよ。賞味期限とやらが切れていても平気です」
「でもお腹とか壊したら大変だよ?変な物口に入れても病院とかないしね、この森じゃ」
「はぁ……しかし……」
シエルは食い下がらず依然何か言いたげな様子ではあった。だが、人間社会の生産物に関しては自分の方が精通している。ただでさえ地面に落ちている物を拾って食べることに抵抗があるのに、更に賞味期限が切れているとなれば流石に許容しきれない。そう思いながら、ミナギはシエルを宥めた。
「安全第一。幸い、食べても良さそうな物のストックで、切り詰めれば2、3日はやっていけるし、下手に手を出すのはやめとこ?」
少しの間を置いてから、シエルは頷いた。
「そうですね。食糧の判断はお任せします。でも、底をつきそうでしたら、時間が経っている物にも頼るということにしましょう」
「そだね」
それからまたしばらくシエルの後ろ姿を目で追いながら、目的地への道のりを歩き続けた。
食糧集めの方向性を決めた夜は、早速道中で拾ったものを3人で分けて食べた。主食は残っていたブロック状の非常食、おかずは道中に見つけたタンスに入っていた粉末状の素から作ったわかめスープだ。いかにもありあわせで初日のカレーからグレードダウンした感じは否めないが、空腹に程遠い状態のままここまで来れていることにミナギは心底安心していた。
その上、今晩はその辺で見つけたビーチパラソルやキャンプセットを使って、それなりに豪華な食卓兼寝床を作っていた。焚き火の代わりにこれまた拾った懐中電灯を木の枝に吊るしており、原始的な灯りに頼らずとも視界も確保できている。
「昼間の続きなんだけどさ、シエルの職場にいるその子もこういう事してるの?」
食事をひと段落させた後の高まった体温と木の匂いの混じった涼しい空気に、心地良さを感じながら、昼のコイバナをミナギは再開した。
「ワタクシのような案内役は他にも沢山いますが、その人は自分とは違う部署でして、なかなか接点が持てませんね。それが喫緊の悩み事でして……」
「部署内恋愛じゃなく、部署外恋愛ってわけね。その部署はどういうことしてるの?」
「それは企業秘密でお答えできません」
シエルはちっぽけな指を口許で立てた。こちらの不快感を煽らぬような丁重な声色だったので、それ以上突っ込む気にはなれなかった。
「ずいぶんと隠し事が多いんだな」
傍聴していたヴァーユの声が鋭く飛んだ。彼は1日の終わりの振り返りをしているといった感じで、空豆色の手帳に目を通している。
「あの蝶のことも、オマエの素性ことも、なんだか知られちゃ不味い事を俺達に隠しているように聞こえるんだけど」
シエルはやんわりとした拒否が少年には通用していないことに困惑したみたいで、途端に目尻を下げる。困り顔もまた愛くるしいったらない。コイツはますます家に連れ帰ってやりたいものだ。そんな事を考えながら、ミナギは2人のやりとりに耳を傾けた。
「すべてをお話できればとは思いますが、ワタクシにも知り得ることの限界があります。蝶はその一例です。企業秘密も、厳粛なルールとしてワタクシのような下働きにも徹底するよう申し付けられているのです。どうかご理解ください」
「安全に出口まで連れて行ってくれるっていうなら文句はない。でも、何もかも訳のわからないことに囲まれたら、知りたいと思うのも自然なことだろ」
「ごもっともです。ワタクシもできるだけ、知っていることや許可されていることはお話します。それでご納得頂けますか」
「嘘偽りがなければね」
シエルは丁寧な姿勢を崩さない一方で、ヴァーユは懐疑の視線を向けていた。なんだかヴァーユが一方的に火花を散らそうとしているといった光景に思えた。
緊張が走りつつある空気を緩ますべく、ミナギは助け舟を出すことにした。
「ストップ。シエルが困ってるじゃない。それに蝶の研究は私も共同でって言ったでしょ。この洞察力と知性に満ち溢れた共同研究者を信用できないのかい、君は」
そう言って、シエルの喉を人差し指で撫でる。さっきまで困惑の色を浮かべていた彼の顔は、瞬く間に恍惚に満ちていった。瞼を閉じ、人差し指の動向に合わせて首を揺すり、更には「おぉ……おぉ……」という声まで漏らしている。
「だからいつの間に共同研究者になったんだよ……」
「今日もひとつ発見があったよ」
「発見?」
「そ、あの手帳に書き加えるべき発見ーーお、ちょうどいいからデモンストレーションしたげよう」
ミナギは立ち上がり、数十メートル先まで木の間を縫って歩いて行った。そして目的の物を見つけてすぐに戻ってきた。
手にはそれぞれ写真立てと野球グローブが乗っている。写真立てには家族と思しき4人組が遊園地らしい場所でピースをしている写真が入ったままだ。野球グローブは本来は黄土色だったであろう表皮に煤けたような土汚れやひび割れがあって、それなりに年季が入っている。
そのどちらにも例の蝶が舞っていた。野球グローブの方がやや数が多く7、8匹が引き付けられている。
懐中電灯が照らしている場所にそれらを並べ、ミナギが灯りを消すと、蝶の体は暗闇の中でぼんやりと儚げに浮かび上がった。辛うじて薄い青の輪郭だけが視認できる。
「こんなのとっくに見た」
ヴァーユの不満げな言葉をミナギはシッと静めて、暫く見守るよう促した。すると、青く輝く蝶の羽は、徐々にではあるが時間が経過するにつれて、その光をより強めていく。初めは薄く弱々しい印象だったそれらは、ついには主張の強い蛍光色のブルーへと移り変わった。周囲にいる3人の顔をはっきりと青で照らす。緑に満ちた森の中のはずが、水族館でトンネル状の水槽をくぐっているような青を目の当たりにしている。
たっぷりと光を蓄えた蝶から順に飛び去り始めた。その際に羽から零れ落ちる鱗粉は、鱗粉というよりも光子のようだった。細かい粒は漏れなく光り輝き、空気抵抗を受けてゆっくりと漂い落ちる。そして地面に落ちた瞬間に、寂しく溶けて消えていく。線香花火が消える瞬間を見守るようなもの惜しさと、次々と蝶の羽から光が生み落とされる高揚感とが、しきりに繰り返された。
だが、それも更なる時間の経過により終わりを告げた。さっきまであれだけ物に執着していた蝶は全て飛び立ち、新たな蝶がやってくることもなかった。
「今のが発見。しかも1つじゃなく、2つかな?」
情景に浸っていた一同の沈黙を破ったのは、このショーの仕掛け人たるミナギだった。
「1つ目。あの蝶は物に取り付くとより強く発光する。エネルギーを蓄えているみたいにね。どうやら羽虫が電光に惹かれて飛び回る習性とは違うご様子」
「そういえば、暗いところで物にとまっているのは見たことなかったな」
「そして2つ目。これはもっと検証がいると思うんだけども、蝶は取り付く物に関しての好き嫌いは、多分ない。燃えてる物以外なら、見つけ次第飛びついて、飽きたら去っていく。私の当初の見立ては誤りで、匂いは関係ないのかな……このグローブ、超臭い。私ならスルー確実」
「あんたの好き嫌いはともかくとして、峻別しているかどうかさえ怪しいってのは確かに仮説たりえる。でも、蝶たちが何に惹かれて物に集ってるのかは、まだわかりそうもない」
根本的な謎もまだ残されてはいる。しかし、こうして角度や条件を変えていけば、更にいろいろなことがわかるかもしれない。ミナギはそうした期待感を膨らませていた。ヴァーユもさっきまでのシエルへの懐疑心をとうに忘れて、頭の中は新種の蝶研究に切り替わっているみたいだ。
ーーとりあえず、シエルへの助け舟とヴァーユの研究のお手伝いの一石二鳥ができたし、今晩も気持ちよく眠れそうかな。
だが、ミナギはふとしたことに引っ掛かりを感じていた。
ノートにペンを走らせるヴァーユの姿を、シエルが不安げな表情で眺めているのをミナギは見逃さなかった。




