第85話 イップス
予想外の方向から攻撃を受けたバレルは、僅かながら体勢を崩す。
バレルの背後からお見舞いされた一撃、それは事前にブライトが警備視察と称して施設内部を巡回していた際に仕掛けた罠であった。ブライトは万が一敵が侵入してきた際に意表をつくための手段を講じていたのだ。
彼は、先にかのダガーに敗北した経験を顧み、自身の実力の至らなさを身をもって知っていた。それは図らずも、目の前でメドウの幻影に平静さを失っていたバレルとは対照的な姿勢であった。
結果、格下とみくびって挑んできたバレルはつけ入る隙を相手に与えてしまったのだ。ブライトが万が一にと仕掛けていたトラップの、万が一がまさに到来した瞬間だった。
襟を掴まれて不自由を強いられていたブライトはその隙を見逃さない。
バレルに頭突きをお見舞いすると、取り出した一本のアスレチックラバーを彼の体にくぐらせた。彼らを運んでいた砂の波は主人の精神的動揺の影響を受けて、安定を失い始める。ぐらつく視界の中、ブライトはバレルの体に巻きつけたゴムを鉄骨とのすれ違い様にそちらへくくりつけた。
ぐおう、と呻き声を上げるバレルの体は、流砂の進行方向とは真逆の方へと引っ張られていく。とうとう制御下を外れた流砂の大群はみるみるうちに瓦解し、柔らかな砂の山に成り果て着地する。
ブライトはその状況を千載一遇のチャンスとみた。アスレチックラバーは使い手の意の如く伸縮自在に変化するマテリアロイドだ。それが今敵の体を囲い、鉄骨に縛り付けようとしている。
ブライトは己の全神経をそのゴムに集中させる。頭痛や眩暈が訪れようと決して揺らぐことなく仕留めてみせんとするブライトの意思は見開かれた瞳に現れ、相対するバレルを焦燥させる。
だが、皮肉にも勝利を確信しかけるブライトの表情は追い詰められたバレルを触発させる。
バレルは全身で吠えた。狩人の罠にかかった動物の最後の足掻きというには並はずれて獰猛な抵抗だった。つまさきからふくらはぎにかけての筋肉が異様に膨らみ、突き立てられた爪はコンクリートの地面に食い込む。
怒りに染まれば染まる程、砂粒がその主に引き寄せられていく様は、不吉の前兆のように思えた。そして不幸にも、それは杞憂には終わらなかった。
視界がみるみる黄色く濁っていき、ブライトが気づいた時には、その建設中の一棟を覆うほどの砂嵐が発生していた。
バレルの体を中心に砂の大群が渦を巻いている。ただでさえ土壇場の馬鹿力で膨れ上がっている彼の肉体を、その砂が幇助でもするかのようにして次々に巻き付いている。
ふんじばろうと持てる最大の気力をアスレチックラバーの帯に集中させるブライトと、感情的にそれを振り解こうと砂嵐を巻き起こすバレルの両者は、膠着状態に陥る。
先に気力が尽きたのはブライトの方だった。抵抗する獣の内側からの爆発力が勝り、ゴムは千切れないながらも、強引に引き伸ばされ、やがて拘束を外れたバレルにボロ雑巾のように投げ飛ばされた。
それと同時に、バレルの体を覆っていた砂の鎧も弾け飛んだ。土壇場の危機に対し、相当のエネルギーがそこに凝縮されていたということらしい。バレル本体もまたその大掛かりなエネルギーに頼った結果、疲労困憊に陥っていた。
ブライトは追い討ちをかけるべく、控えていた残りのゴムを弓矢のように射出し、バレルにぶつけた。いくつかは去なされてしまったが、数発は免れ、バレルの身体に更なるダメージを蓄積させる。
後退りし距離を取りつつ、飛び道具による攻撃を繰り出す。その繰り返しで、バレルの残り少ない体力も着実に消耗に追い込める。ブライトはそう確信した。
バレルは目の前の格下に対処できない自分に更に苛立ち、無理な体勢で踏み込む。しかし突き出した拳はブライトに達せず、むしろ彼はあらぬ方向に引っ張られていくようだった。
見れば事前に仕掛けていたらしいゴムを使って自らの体を壁際に引き寄せていた。バレルは予想外の回避方法に虚をつかれ、隙を生む。
「しめた!」
バレルは腕を伸ばしたまま体勢を変えられずにいる。ブライトは敵に目がけてゴムの反動を利用し、自らの体を射出した。
後退した敵が直後に突進してくることなど予測もできず、バレルはブライトの打撃をその身に受ける。平時ならばびくともしなかったであろう軽い一撃が、今はとてつもなく重く感じられた。一打、二打がすぐさま続く。
防ごうにももはやバレルのリズムは完全に崩れていた。崩れたリズムで敵の攻撃に応じようとすれば遅れが生じ、予測を立てて構えればどういうわけか当てが外れる。
ーーまた負けるのか。
否。こんな番狂わせあっていいわけが無い。圧倒的に有利なはず戦いに負けるなど、あるわけがないのだ。
先の記憶が蘇る。
自らのマテリアロイドが無限に補給できる砂漠で挑んだメドウとの一戦。言ってしまえば舞台そのものがバレルの味方とも言える条件下で、対照的に不利なはずのメドウはこちらの攻撃を尽く去なし、たった一打で勝負を決したのだ。メドウにより叩き込まれたあのみぞおちへの強打。その痛みが体に駆け巡った。
無意識にみぞおちを両手で覆っていたことに気付いたのは、別の場所に痛みが走った後だった。痛みの原因は、現実にブライトが叩き込んでいた一打だった。
ブライトは見当違いの部位を守っていたバレルを一瞬訝しんだ。何か深い意図があっての防御姿勢だと疑ってかかっていた。だが、何のことはなく攻撃は通用してしまったのだ。
バレルは流石に直撃に耐えきれず、尻餅をついた。
息絶え絶えになりながら、ブライトは諭すように言った。
「大人しく投降するんだ。こんなことして、周囲に迷惑をかけ続けたところで、何にもなりはしない」
その言葉はバレルの耳に入っていなかった。何か口を動かしているのは認識していたが、音を伴って響いてこない。彼の頭を支配している耐え難い怒りが周囲の音を拾わせなかった。
ーーいや、負けていいはずがねえ。
再び周囲の空気が黄色く濁り始める。堅牢に思えた鉄筋コンクリートが低い唸り声を上げている。ブライトが再度起こった事象に焦りを見せ始めていたが、いつの間にか一帯を満たしていた砂の煙の向こうへと姿が消えた。
足元から地響きが伝わってくる。やがてそれが自ら引き起こしていたものとわかると、両の手のひらを確認する。サンドウィッチマンが何をしているのか、同調していたバレルは感覚的に理解する。体を覆っていた砂は彼の怒りに呼応するようにして増長し、砂嵐となってこの建設現場一帯を覆っていた。
ーーそうだ、ボスなら絶対に負けるわけがないんだ。
細かな地響きは、大きな震動になり変わっていた。建物は砂煙を上げて倒壊した。
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瞼を開くと、誰かがこちらを心配そうに覗き込む顔がぼやけて見えた。
仰向けになって担架に乗せられていたブライトは「隊長?」と、躊躇気味に問いを投げる。それはちょっとした願望でもあった。
だが、声の主はブライトに残酷な回答を返す。
「管理委員さん! 目が覚めましたか! この度はどうも助けていただきまして……」
涙ぐんで介抱してくれていたのはここの責任者であるボーデンであった。大きな鼻のサイズに見合わない小さなハンカチを当てて鼻水を啜っている。
「……貴方でしたか」
ブライトは寝たきりの姿勢で肩を落としたが、そこへ聞き慣れた声が上から降ってきた。
「ちゃんと私もいるよ」
「隊長!」
ブライトは跳ね起きた。直後に激痛を感じて片腕を抑えた。
「安静にしてなさい。骨折しているらしいから」
ライカはそう言って自らの腕をぽんぽんと叩く仕草をした。
ブライトは息を整えてから、ライカに尋ねた。
「面目ありません。気絶していたみたいですね。今はどういう状況でしょう?」
「残念ながらあのバレルとかいうブルータルズには逃げられた。目撃者によるとここの建物を壊した後、よろめいた足取りで用水路に身を投げたって。なにぶん、ダムと繋がっていて流れが激しいから追跡も難しかったらしくてね」
「申し訳ございません。もう少しで捕えられたかもしれなかったのに」
ブライトは拳を握り締めて目を瞑った。
「ブライトくん」
ライカの真剣な声が降りてくる。ブライトとしても何かしらの叱責は受けるつもりだった。
「よくやった」
だが、ライカの口から出てきたのは労いの文句だった。
「聞いた話じゃ、このボーデン所長を助けたってね。君が交戦して時間を稼いでいる間に他の職員たちも避難できた。建設中の一棟は倒壊してやり直しみたいだけど、人命に被害はない。ここはやり直せる、君のおかげでね。何より無事で安心した」
ブライトは先の覚悟を内心で恥じた。そういえばこの人はこういう人だったのだ。それからライカはこう付け加えた。
「ともかく今は安静にしていること。見回りの仕事は私とメドウくん、それからヒョウ爺で何とかしておく。その腕を治すのが私からの隊長命令だ」
そう言って、ライカは後の収集をつけるために立ち上がった。
ブライトは相変わらずハンカチで鼻をすすっていたボーデンに「すみませんが、何か拭くものはありますか? それじゃなくて他に」と尋ねた。
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「面白いな」
そう言うホルツの顔は全く笑っていなかった。遠くの砂丘からバレルとブライトの様子を観察し終えての第一声がそれだった。
「何が?」
無線からカイムの興味なさげな声が流れてくる。カイムはホルツとは別行動でたった今までメドウとライカの足止め工作を行なっていた。
「たしかに、マテリアロイドの動態は使用者の精神と肉体のありように左右される。だが、あれほど顕著な例は見たことがない、という意味でだ。あのサンドウィッチマンは使用者の怒りに共鳴し、その能力を大幅に引き上げたように観察できる。使用者本体に付着し、身体能力を引き上げるなどという現象までも確認できた。その際に測定されたエネルギー波もアベレージを大幅に上回っている」
カイムは後始末のためキーボードに指を走らせているようで、それは無線越しでもはっきり聞こえてくる。タイピングを終えてから、カイムは隠さずにため息をついた。
「へえ、良かったじゃん。私にこんな仕事させたこととそれが何か関係しているの?」
「あるといえばある」
「それはどんな? あいつら揃いも揃って護衛の管理委員に完敗だったじゃん。足止めにはなってはいるだろうけど」
「そう、足止め役さえ演じて貰えばそれでいい。今まではそう思っていた。だが、もしかすると、勝ち目はあるのかもしれないぞ。そうなれば我々が後に残す“本命”の必要もなくなる」
ホルツはそこで僅かばかり口角を上げた。
「あのサンプル体は大いに利用価値がある」




