第81話 勝てないが負けない
「これでよし」
思いついた策通り、ある仕掛けを施し終えたところでブライトは一息ついた。見つめている先には、手すりに括り付けられたゴム、すなわちアスレチックラバーがあった。今立っているのは、このWー4研究所において、リニア乗降駅へと降って行くことのできる昇降階段だった。
ブライトは列車を使い、先ほどボーデンに案内されたWー1研究所から北上した先のWー4研究所まで辿ってきていた。いずれも警備状況に問題はなく、不審な動きも確認されていないとのことだった。
その仕掛けを施している最中、ブライトはなるべく周囲に見つからないように努めた。見つかれば、あのボーデンに勝手な行動を咎められ小言をつらつらと並べられることになるだろうし、何よりもこの策自体が無駄打ちに終わる可能性が考えられる。
そもそもどうしてブライトはこんな工作を人知れずやったのか。それはボーデンと話している最中に浮かんだある考えに起因していた。そのことを含めてひとまず安全確認が取れたことを上長に報告しようと、端末を取り出す。
唐突な不協和音が研究所内に鳴り響いた。咄嗟に研究所への階段を駆け上がり、広間へ出てから、それが非常を知らせるアラームであることを確信する。目に映る職員の顔が大小様々に危機感を帯びている。
ブライトは警備室へと向かい、状況を尋ねた。
「何があったんですか?」
ブライトの早口に警備員は余計に焦燥した様子になりながら、「わかりません。状況を確認しようと通信を試みていますが、応答がなく。発信源はWー3研究所のようですが……」と答えた。
先ほど通った時、Wー3研究所はまだ一部建設中のエリアだったはずだ。その関係で何か事故が起きたのだろうか。しかし、同区画内にまでアラームを飛ばすぐらいなら一研究所内に留まらない規模での危険、あるいは脅威があったのではないか。もしかするとーー。
思考の渦を描きながら、ブライトはリニア乗降口へ走っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「わかった、今すぐ向かう。でも、ウチらが到着するまでに何かあってもくれぐれも無茶はするなよ」
ブライトからの一報を受け、ライカはメドウに頷きかけた。
「ブライトくんが不穏な動きを察知したってさ」
二人はヒョウが撒いたアンテナが破壊された地点に着いたが、犯人の足取りは掴めず、周辺一帯の砂漠を捜索しているところだった。
呼びかけに応じたメドウの体の周りには、今、水の輪が浮遊していた。輪を構成する線は厳密には静止しておらず、常に微動し続けて、周辺で何か不審なものがあった際にその規模に応じて波形を描くようになっている。具体的には、物体が動いた際に生じる耳では拾えないほどの微細な音や空気の流れをも拾い上げて、波形として表出する。言わば、メドウが自身のイールウォーターを用いて作り上げる索敵用ソナーと呼べるものだった。
「こちらの異変は囮で、向こうが本命だったのかな」
「それはまだわからない。向こうがやはり囮で、こちらが本命という線も捨て切れはしないよ」
「ともかく今は向かって確認するしかないか。もし例のブルータルズがW区画に出没していた場合、彼一人では厳しい」
「だね」
捜索を始めた地点まで踵を返そうとした直前、メドウの輪が激しく震え出す。捜索を始めて以来、最も大きな波を作っていた。
続いて、風切り音が耳を掠める。メドウは水の輪を崩して、それで瞬時に音の正体に掴みかかった。
水が捉えたものの正体は紙飛行機だった。それを視認したのも束の間、第二、第三の飛行機の形をした矢が次々とメドウ達に向かってくる。さながらロックオンした目標へ放出される空対空ミサイルのようだ。
幸にして質量はそれに遠く及ばない。紙でできた飛行機はいくら鋭く機敏な速度で航行したところで、メドウの手繰る水に払い除けられ、損壊によって走力を失った順に地面へと叩きつけられた。しかし、不思議なことにいずれも湿気にふやけることなく、むしろその表面は不自然なくらいに水を弾いていた。
メドウはそれらを観察して、すぐさまこれらを仕向けた管制塔の姿を思い浮かべた。
「この防水性能。ということは」
「そういうことだ」
声と共に遠くの砂丘から姿を見せたのは、やはりあの黒豹、ダガーだった。
両者対峙の瞬間の僅かな余韻をメドウの射出した水弾が断ち切る。ダガーは紙でそれを寸断する。だが緊張を緩めることなく、さらにそこから数十メートル離れた位置に飛び退いた。分離した半球二つそれぞれが激しく弾け飛び、ダガーの飛んだ場所すれすれにまで達する規模のクレーターを作り出した。
慢心していれば致命傷を負っていたであろうことを思い知らせるその威力にダガーは敢えて口笛を吹いてみせた。
「ほう、意外と短気な性分なんだな。こっちとしてはなるべく長くお前さんと楽しみたいつもりなんだがな」
そんなダガーの挑発を無視してメドウは黙々と攻撃を放つが、ダガーも負けじと紙飛行機の大群を発進させ向かわせる。
その傍で、ライカは両者の攻防に何とかして立ち入る機械を伺っていた。
ダガーの攻撃を軽く往なしては攻撃を放つメドウ。入念に準備したらしい紙飛行機を飛ばして攻撃を続けるダガー。
まず単純に得策と思えるのは、メドウが攻撃するタイミングで彼に加勢することである。けれども、メドウの攻撃のタイミング、パターンは共に変則的で予測不可能な動きに映りながらも、その都度敵が苦しむ最適解を繰り出し続けていた。そこへ第三者が介入することは、かえってその完璧なリズムを崩しかねないという考えをライカに抱かせるほどだった。
一方のダガーも紙で生成した長い手足を操り、時折身を翻し跳躍しては、こちらへの警戒を全く怠らずに、メドウの攻撃に対処し続けている。
付け入る隙がない。そうとしか言いようのない攻防が目の前でくり広げられていた。
しかし、先の交戦から判断しても、ダガーがメドウに勝つことは考えにくい。では、どうしてこうして再度挑みかかってきたのか。
ライカは考える。一つに考えられるのは、勝機。何かしらの手段を講じてメドウに勝つ気でいるからこうして目の前に現れた。事実、事前に生成していたらしき紙飛行機が今も豊富に空を飛び交っている。だがそんな物量作戦だけで実力的な不利を覆せるとはとても思えなかった。
先ほどからダガーがメドウを倒せるような瞬間は一度たりとも訪れていない。そこまで考えたところで、不意にメドウの視線がライカのそれを交わった。ライカはその真意に気づき、静かに頷いた。それから、両者の戦いへの介入を一切諦めて、全く異なる方向に走り出した。向かう先はリニアへの乗車口だ。
ダガーがこうしてメドウに挑んできた理由、それはおそらく時間稼ぎだ。先ほどからダガーはメドウに決定打を与えることはないまま、ただ攻撃を防いでは大量の紙飛行機で手間を取らせるという展開に終始していた。だが、それこそが彼女の目的だったと考えると腑に落ちる。
逆に、メドウもまたダガーに決定打を与えられぬままだったのだ。距離を詰めようとすれば紙飛行機の猛襲がそれを阻み、それを払い除ければ、今度はダガーとの距離は遠ざかっている。勝つことができないと悟っているからこそ、勝とうとしない。しかし負けることもない。それが今度のダガーの戦い方だった。
「こっちとしてはなるべく長くお前さんと楽しみたいつもりなんだがな」
あの言葉は軽口に見せかけた真意だったのだろう。
合点がいくと同時に、一方では不安が襲ってくる。なぜダガーが時間稼ぎをしていたのかを考えれば、その目的の候補に今しがた異状を連絡してきた部下の存在が浮かび上がってくるからだ。
急ぎ端末でブライトに呼びかける。案の定、応答がない。
ライカは唇を噛み締めて、地下に降り、ホームにてリニアに乗車した。
扉が閉まる。それから発進音が鳴ると思われた。ところが、発進音は鳴らず、車内照明が一斉に落ちた。暗くなった車内でライカの焦燥は胸のざわめきへと変わり、目の前に広がる暗がりに胃を締め付けられるような感覚が巻き起こる。
ライカは異状の原因を探ろうと、管制室に呼びかけた。
「こちらライカ。電車が動かない。どうなってる?」




