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時をなくした彼女と森で  作者: ワタリドリ(wataridley)
第八章 砂漠
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第53話 ある夏の日のこと

 マウンテンバイクを漕いでいる最中にポケットの携帯が鳴り、ミナギはブレーキをかけた。


 焦り気味に携帯のメールを確認する。だが、送信主は期待していた相手ではなく、体育祭実行委員である同級生だった。内容は打ち上げ日程をいつにするかの相談だった。


『打ち上げそろそろやろうかなって話になっているんだけど、下に書いた日程で都合のいい日があったら教えてください。(学園祭実行委員も兼任しているなら、やっぱり平日は難しいかな?)』


 ミナギはそのメールを見たついでに自分が先週送ったメールを見直す。


『今日大事な話がある。今日の放課後いつもの場所で』


 自分が送ったそのメールを最後に、やりとりは途絶えている。周囲で蝉がやかましく鳴いている。来ないはずの返事をなおも頭の片隅で期待して待っている自分を囃し立てているかのように、蝉は鳴いている。


 暗くなった携帯の画面に映る自分の顔から目を逸らす。振り切るように、ミナギは再びペダルに足を乗せた。


 マウンテンバイクを漕いで、橋を渡る。風が髪を乱し、肌を滑ってゆく。水面を通ってきた風は、今日が夏日だということを一瞬は忘れさせてくれる。


 大きな主塔をくぐって橋を抜けると、目当てのマンションが近づいてくる。そのマンションは川沿いに面していて、部屋を出入りする時はいつも川を望むことができた。今日は天候もよく、遠くに立つ高い電波塔が陽炎で多少歪みながらもくっきりと浮かんでいた。


 暑さに思わずため息をついて、自転車をマンションの前に止める。それからエレベーターで二階へと登った。エレベーターを降りてすぐの踊り場に面した部屋が目的地だった。鍵を差し込み、ドアノブを回して中へと入っていく。


「ただいまー」


 いつものように相手に呼びかけてみる。けれども、返事がすぐに返ってくることは極めてまれだ。どうせいつものようにしているんだろう、とミナギは毎回思う。


 左手の洗面所には目もくれず居間へと歩く。クーラーの冷気が客人を出迎え、ひんやりとした空気が汗ばんだ顔を覆う。ふとみるとテーブルの上には血圧計が置かれていた。薬や買い物用のメモ、ペン立てといった物も整理されて置かれている。いつ見てもテーブルも床も壁もつやつやした光を返している。


 居間に面している寝室の引き戸から、ミナギは顔を覗かせた。案の定、この家の主は仰向けになって耳にイヤホンをさしていた。イヤホンケーブルの先は、枕元に置いてある銀色のポータブルラジオに繋がっている。


「ただいま」


 ぬっと寝顔の上に顔を出す。さすがにそこで気づいたようで、彼女は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。


「あら、おかえりなさい」


「ただいま」と再度告げる。「ただいま」が一回で済むこともまた極めてまれだった。


 バッグからコンビニで買ってきた食パンを取り出すと、テーブルの上に置いて「食パン、ここに置いておくね」と言った。「あら、ありがとう」と小さな声が寝室から返って来る。


 ミナギは冷蔵庫を開いた。冷蔵庫の下段にはいつものように板チョコレートが置いてあった。


 小学生の頃、一緒に映画を観に行った時からずっと切らさぬよう買い置きしてあるのが当たり前になっていた。なぜ映画とチョコレートが関係しているかと言われれば、それは映画の舞台がチョコレート工場で、従ってチョコレートがひっきりなしに出てくるからだ。そしてなぜ冷蔵庫に常時備蓄されるようになったと言われれば、帰り道にミナギが食べたいと言ったのがきっかけだった。それ以来、買い物に出ると必ずチョコレートを買って冷蔵庫に置いてくれるようになった。それが何年も続いて今に至る。


 ミナギは板チョコレートを取り出し、バッグに入れた。それから麦茶の入ったボトルを取り出し、コップに注いで飲み干す。冷えた部屋に体を浸し、冷水で追い討ちをかけると、さっきまで炎天下にいたことなど嘘だったかのように汗はひいていく。


「ああ、いいよ起きなくて。私もう出るから」


 わざわざ寝ていた体を起こそうとする彼女にミナギはそう言う。けれども、こちらの言う事など聞こえていないかのように結局は体を起こして、こちらの近況を尋ねてくるのが常だった。


「お金困ってないかい」


「困ってないよ。バイトしてるんだし」


「お昼は食べたのかい」


「……さっき食べたよ」


 ミナギは片方の眉を歪めながら、マニュアル通りのような回答を返す。だがそれも仕方がない。聞いてくる内容はいつも大体同じで、こちらのお財布事情、お腹の空き具合、体調、身長の伸び、学業や部活がうまくいっているか、それから家族の様子といった話題をここへくる度毎回聞いてくるのだった。


 彼女は腰を曲げて椅子の下にあるリュックサックを開いた。そこから財布を取り出し、紙幣を差し出してくる。


「これで何か良いもの食べなさい。そこのファミレスとかで」


「いや、さっき食べたって」


 この人は私を太らせたいのだろうか。あまりにこちらの回答内容を無視した行為にミナギは少々困惑する。差し出してくるそれは紛れもない好意で、だから邪険に扱うわけにもいかない。断ってもいつも向こうの手は引かず、無視してもまるで自分が悪者みたいになる。となれば受け取るしか実質的に選択肢はないのだ。


 これはそれすらも見越しての策略なのではないか。恩を売っておき後で膨れ上がったそれを返すよう求めるまでの策謀なのではないか。ミナギは、たまにそんな妄想に近い想像をすることもあった。


 結局、こちらが折れる形で紙幣札を受け取り、「ありがとう」と不貞腐れた調子でミナギはお礼を言う。


 用を済ませ立ち去ろうとするミナギに彼女は言った。


「あら、洒落てるわねえ」


 それはミナギが履いているスキニーパンツのことを指していた。最近新しく買ったもので、水色の涼しい色合いが気に入っていた。茶色や白やベージュといった基本色しか着ない彼女からすると、きっとこの色味は珍しく映っているに違いない。


 ミナギは見せびらかすようにポーズを取る。自分が見繕ったファッションを褒められるのはそう悪い気はしない。


「また背伸びたんじゃないの」


「……伸びてないって」


 上機嫌になっていた所に水をさされ、ミナギはまたいつもの調子に戻される。


「じゃあまた来るから」


 玄関で靴紐を結びながらミナギは背中越に声をかけた。


「ちょっとお待ち」


「なに」


「顔をよく見せて頂戴」


 ミナギは玄関先で立ち上がり、老眼鏡をかけた彼女の顔を見た。


 部活やバイトで遅くならない日にはなるべくここへ通うようにはしていた。けれども、やはり住まいを別々にしていると、つい来ない日が続いてしまいもする。「ばあばが食パンが切れたから買って来てだってさ」と母親に言われて、今日やっと二週間ぶりにここへ来たのだった。


 自分の背は二週間で伸びるはずもないが、彼女は少し痩せたように見える。頬は元からこんなにこけていただろうか。皺もここまで多かっただろうか。見つめながら多少狼狽している自分に気づき、そう思うのは前回頭を染めた日から白髪が伸びてきたことで、全体像が老けて見えるようになっただけだろうと結論づけることにした。


「綺麗な顔ねえ」


 去り際に言われるこの言葉に、ミナギは明確な回答を投げることができない。謙遜すればいいのか、誇ればいいのか。謙遜はせっかくの言葉を無下にするのが憚られる。けれども、誇るにもつい最近好意を向けていた相手に振られたばかりなのだ。その振られた顔を、彼女は綺麗だと言ってくれる。彼女の言葉は、崖から落ちてしまったところを引っ掛けて助けてくれた枝先のようだった。心許ないが、転落して荒波に揉まれて溺れ死ぬようなことはひとまず免れた。


「じゃあ行くね」


「あちらのお父さんにもよろしくね」


「うん、また近くに来るね」


 ミナギは扉を開けて外へ出た。途端に蝉の声が耳に飛び込んでくる。踊り場から見える川の水面は細かな青海波を刻み、そのひとつひとつが陽光で煌めいていた。


 暑さにやられそうになりながらも、ミナギは自転車に跨り力強く漕ぎ出した。

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