第31話 銀幕の裏側で③<SIDE: ヴァーユ>
「ホテルには行かないのですか?」
右肩の上からシエルの声がした。すっかりそこが定位置であるかのようにリラックスした彼は、ヴァーユの手元を観察しながら、疑問を投げてきたのだ。
ホテルで待っていてもすることがない。それならば、少しばかりホテルの付近を探検したって構いやしない。そう思ったヴァーユは色々な店を回っては、その様子や特徴をメモに記録しているのだった。
「あれは何の建物だろう?」
ホテルとレストランがある通りの先を行くと、噴水のある広場にでた。その周りにある雑貨店やカフェや書店といった面々が自分の存在を雑踏に向けて主張している。
ヴァーユが指さしたのは、その並びの内の一軒だった。外装は真っ白で、厳かな装飾が施された入り口の扉は両開きで、屋根には角柱が3つ、ツノのように生えていた。
「教会ですよ。ちょうど礼拝の時間が終わったようです」
扉が開くと、中からぞろぞろと礼拝終わりの人達が出てきた。ヴァーユはその人の波を縫って、すれ違うようにして教会の中へ入った。
並べられた座席で親しげに会話をしている者の姿もあるが、入ってきたヴァーユのことは気にも留めていないようだった。
内装は外と同じ白い壁が一面に広がっていた。壁には何かの伝承を称えた彫刻が施され、奥の天窓はカラフルなステンドグラスが構内を見下ろしていた。
そのステンドグラスの下、恐らくは牧師や僧侶が立つべき場所に横長の机が置かれている。その上に置いてある物にヴァーユは注目した。
「このでかい球は何?」
肩の上に乗ったシエルに問いかけた。この広い空間に、ヴァーユの声が微かに響いた。
「これはハートバースの模型です。ヴァーユ様のいる世界にもこういった模型はあるはずですが……」
「でもこんな変な形してない。色だって緑に偏りすぎ」
その模型はよく見る地球儀と同じ球体だったが、それを貫くような穴が空いているという奇妙な特徴を持っていた。もう一つ奇妙なのは、地形を示す線が表面を走っているが、そのどの枠内も大地を意味する緑と土の色で塗りつぶされていることだった。つまり、地球儀にあって然るべきものが欠けていた。
「この地球儀、海がない」
「海! 海というのはアレですね。しょっぱい水がどこまでも広がっているという、あの!」
シエルが些か前のめりに、海という単語に反応してきた。
「ワタクシ、生で見たことはありませんが、やはり実在するのですね……うむむ」
「なあ、この穴は何なの?」
「アニムスです。この世界に空いた穴にして、ここの宗派が崇める対象です。ミナギ様とヴァーユ様もこの穴へ向かわれているのです」
シエルが説明すると、近くにいた牧師風の格好をしたブルドッグが近づいてきた。やはりハートバースの形を模したペンダントを首から下げている。
「こんにちは。君は、教会へ来るのは初めてかな?」
ヴァーユはこくりと頷いた。
「どうしてここではこの穴を神様だと思うの?」
「アニムスはこの世界の秩序を調整してくれているからだよ。この世界にもたらされる遺失物はアニムスが呼び、我々の生活を豊かにしてくれている。時に、向こうの世界からもたらされた厄災をも飲み込んで向こうの世界に返してくれる。幸をもたらし、不浄を飲み込む。だから祈るのだよ」
「俺とミナギは不浄ってことか」ヴァーユは呟いてみる。「何か?」と尋ねてくる牧師に「何でもない」と返した。
ヴァーユは手帳のページをめくった。ビーズ玉のように大きな穴が中心を貫き、海のないハートバースの模型。それを模写し終えると、胸の奥で何かが引っかかった。
「これって……」
間違いなかった。シエルとはぐれた時に、ミナギと一緒に見つけた濃霧を生み出す舟のような形をした機械。ハートバースの模型は、その上部に浮遊したプロジェクターのような役目を果たしていたあの球体ともまるっきり同じ形をしていた。あの時に模写した絵とこの模型を見比べてみると、貫通している穴のサイズも、中へ進んでいくにつれて太くなっていく穴の形も、概ね一致している。
「そこの君ィ!」
書き込んだページを捲りながら、思考を巡らせていると、突如としてこちらを呼び止める声がした。
咄嗟に後ろに振り返ってみても、その声の主はいないようだ。代わりに、席で談笑していた人々がその声に驚き、天井の方を見上げていた。そう、声は上から降ってきたのだ。
考え事を遮られたことに少し苛立ちながらヴァーユは見上げた。
教会の天井部にはいくつかの梁が橋のようにかかっていた。その橋の上からこちらに顔を覗かせている者の姿が見えた。
それは紛れもなくパンダだった。ビビッドな水色のパーカーを着たパンダが、再度叫んだ。
「話がある!」




