第25話 賞味期限切れの缶詰とクイズと本と
「ミナギ様」と呼ぶ声に反応して、意識が深海から水面へと向かってゆく感覚がした。
水面から差し込んでくる光が、やがて現に自分が浴びているものだとわかると、ミナギはゆっくりと瞼を開けた。
目の前にシエルが立ち、心配そうな顔をしながらこちらを見ていた。
「おはようございます。大丈夫ですか? だいぶ魘されているようでしたが……」
シエルにそう言われてから額に手を当ててみる。じっとりとしたいやな心地の汗が滲んでいた。深く呼吸をしてから、取り直すように挨拶を返した。
「おはよう。平気平気。夢見心地はともかく、しっかり寝られたから」
起き上がって、テントを出る。所詮携帯用の折り畳み式テントなのでサイズはそれほどでもないが、屋根があるとやはり安心して眠ることができた。昨晩は黒々と静まり返っていた周囲の木々が、今は朝日を浴びて緑葉の光を地に投げている。
外では、メドウが杓子を手に鍋を見つめていた。ヴァーユは少し離れたところにある小岩の上に座って本を読んでいる。メドウがこちらに気づいて、挨拶をしてきた。
「ミナギさん、おはよう」
「おはよう。んー、良い匂い」
「もうすぐできるから、準備は僕とシエルに任せて、近くの川で顔でも洗ってきてください」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
歩いて5分もしないところに湖はあった。澄んだ水の溜まり場は、生命の溜まり場でもあるようで、ちょろちょろ泳ぐ小魚の姿が見える。
顔を洗い、タオルで拭く。すると、波紋が残った水面に微かに歪んだ自分の顔が浮かんでいた。
夢はここのところ少しずつ鮮明に、写実的になってきている。最初は明晰夢として観測していたけれど、今ではすっかり内側に取り込まれてしまったような気さえする。
夢は夢、現実は現実と唱えても、それを意識的に押し込めようとすればするほどに、無意識からかけ離れていく感覚に苛立ちすら覚え始めている。
目の前の波紋が落ち着き、水の鏡に映る自分の顔が定まったのを目に留めてから、ミナギはメドウ達のところで戻っていった。
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「みんな、本当に大丈夫なの!?」
ミナギは目を引き攣らせながら、目の前で繰り広げられている光景に疑いを投げた。
「問題ございません」小さな器ごと持ち上げて飲み干したシエルは言った。
「大丈夫だよ、ミナギさん。しっかり僕が毒味したから」指で丸を形作りながら、メドウは宥めるように言った。
森に来てから最初の数日の間、ミナギは食料を見つけては、もしもの時を考えて躊躇いがちにバッグパックに入れていた。賞味期限切れの缶詰も含まれていた。
中でもとりわけ期限を超過していたのが、鳥肉の缶詰だった。期限は10年近くを過ぎていることに後で気づいていたが、捨てそびれていた。それを、メドウはスープの素材に使っていた。
横に座っているヴァーユが、恐る恐るスプーンで掬った肉の塊を口に入れた。恐怖混じりの真顔で喉を動かすと、本人も意外そうに目を見開いた。
「……うん、味に問題はなし」
「ヴァーユまで、私をからかってる?」
そう言いつつも、場の流れに応じたくなる自分がいた。ミナギはスプーンを震わせながらも、それを口に運んだ。
舌は、美味しいという反応を脳に返した。スープに抽出された野菜の香りと、肉の塩味が絶妙なバランスで朝の食欲を刺激する。
「……ほんとだ。美味しい」
「でしょ」
メドウが悪戯に成功した子供のように微笑んでくる。
「最近の食品は保存料の質も向上しているみたいで、この森の穏やかな気候や環境と合わせて、意外とすぐには腐ったりはしないものなんだ」
「賞味期限切れって時点で、今まで動物的防衛本能が働いてたんだけど」
程よいサイズにカットされた野菜や肉の塊をスープと共にまた口に運ぶ。やはり錯覚などではなく、きちんと美味しい。
「意外といけるもんなんだね」
「それに、食べる前にもきちんと検査したんだ」
そう言って、メドウは端末機器を取り出した。遺失物管理委員が連絡手段に使っている他、森の落とし物の物質や成分を調べるのにも、それは役立つのだという。シエルもより小型化された端末を持っていて、メドウとはそれで通信していたのだとも言った。
一抹の不安を取り除かれてから、ミナギとヴァーユは朝食をあっという間に平らげた。
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最初はシエルの小さな背中を前にして森を歩いていた。それが今やメドウの大きな背中を追うようにしてミナギ達は歩いていた。
黒い革の大きなトランクケースを背負い、赤い着物をゆったりと着こなした大柄な背中は、シエルのそれよりも迫力がある。けれども、その落ち着いた動作のひとつひとつに、安心感を覚えさせられもする。
隣にいるヴァーユは手帳を広げ、不思議そうにとあるページを眺めていた。マザー・グランがくれたという赤い表紙の手帳の見開きページに、劇団プリマヴィスタのメンバーそれぞれがサインを書いてくれていた。
マザー・グランはあの巨体から連想できないほどの達筆でサインを書いている。一方でデックが書いたサインは名前を見ずとも彼女の恥じらい顔が見えそうなか細いタッチで書かれていた。
「よかったね。有名人のサインなんてなかなか貰えるもんじゃないよ」
「俺はあの人達のこと全然知らなかったけどね。それに、持って帰ったところで誰も羨ましがったりしないだろうし」
「でもほら、こっちの世界では有名だし、実力派の俳優には変わりないでしょ? それにこういうのは思い出の証なんだよ。誰かに自慢するためのものじゃなくって確かに出会ったっていう証拠。出会いは本来は形にならないからね」
「思い出の証、ね……」
理屈はわかるが釈然としない様子だった。
それからヴァーユはページをめくって、思いつき次第書き留めていたクイズに目を走らせる。歩いている最中にも、休憩の時間にも、ヴァーユはクイズを出してくるようになった。大半は生物や自然、あるいは宇宙についてのものだ。
「絶対零度は摂氏何度?」
「それは知ってる。マイナス273.15度。エネルギーが停止するんだっけ」
「さっきの缶詰みたいに、技術が進化して行けば、賞味期限のない保存食だっていつかはできると思う。絶対零度下の運動エネルギーの停止を平常時にも再現できれば、わざわざ凍らせなくたって、理論上は永久保存ができるんだ。食料廃棄率を改善して食糧危機だって回避できる」
「SF映画とかに出てくるコールドスリープみたいに、人間の寿命も伸ばせるのかな」
「そうなったら人間がどんどん増えて、結局食糧危機は解決しないってこともあるか……」
何気ない一言にも、彼は真面目に考え込んだりする。ミナギには、それが何だかとてもおかしく思えた。
「暇さえあれば知的活動とは、感心感心」と、メドウが言う。
「そういえば、ヴァーユとは会った時もクイズだったね。それも、なかなか難しめの。普段から日課なの?」
「父さんとよくクイズを出し合うんだ。難しいのを解いたり、良問を出せれば、インセンティヴが出る」
「インセンティヴって言ったら、お菓子とかお小遣いとか?」
「だいたい新しい本だね」
「うわぁ……私には考えられない」
ミナギは自分がこれまでに触れてきた本の数々を思い出す。
「ミナギは本読まないの?」
「読書はするけど、だいたい小説。参考書や専門書の類は、受験勉強とか資格勉強で必要な時に買ってたけど……」
「そういうのは、家で埃被って眠ってるか。失くしたりしたんなら、こっちの世界に落ちてることもあるのかな」
「いやあ、それがね、燃やした」
「は?」
「目的を達成した時、庭で燃やした」
ヴァーユが口を開いて唖然としていると、前にいるメドウが笑いかけてきた。
「ミナギさんは、思い切りがいいね。後ろは振り返らない、か」
「そうかも。あまり同窓会とかも行かないし」
「それにしても、燃やすって……」
ヴァーユはそのことにしばらく引きずられているようだった。ミナギは本好きの少年には刺激の強い情報だったかなと思い、取り繕うためにもクイズを再開した。




