第24話 小さな背中
よく通りがかる駅前が、その日は少し違って見えた。
夕方の駅前広場には、雨除けとベンチがあるバス停、そしてタクシーがぐるぐる回るドーナツ状の道路がある。道路沿いには赤い看板が目印のファストフード店と黄色い看板を掲げたドーナツショップが並んでいて、駅へ行く人、駅から来る人をめいめいに吸い込んでいる。更に離れたところにはデパートが聳え立っていて、人生で必要なものはすべて揃う場所のように思える。
けれども、ミナギはこの場所で満足するつもりは毛頭なかった。将来はきっと世界中を駆け巡って、沢山の言葉を話して、色々な人々と出会うのだから。今背負っているラケットバッグだって、きっとそういう将来への足掛かりになるのかも、と考えたりする。あるいは、もっと勉強して身につけた知識がそうなるのかもしれない。
何はともあれ、きっと自分はこのいつもいつも変わらない駅前広場とは、いずれ飛び出していく将来有望なのだと自負して憚らないのが、ミナギという名の子供だった。
しかし、その日はひとつだけ変化があった。
駅へと続く階段と脇にあるスロープ。その上に登ると、証明写真の撮影機がある。変化の根本はその横に段ボールを敷いて座っているホームレスだった。
白髪の割合の多い灰色の髪に赤茶げた肌のホームレスは、いつも何をするでもなくそこに座っていた。今よりもっと寒い時期も、雨が降っている日も、変わらない調子でそこで座っていた。
それが今は、カップヌードルを啜っている。敷かれた段ボールの下は灰色の地べたで、机もない。食べ物を食べるにはずいぶん居心地が悪いように思えたが、そんなこと気にもせず、彼の視線はカップ容器の中に只管に注がれている。
彼が何かを食べているのを見るのは初めてだった。駅前にはもっと色々なレストランやフードショップがあるのに、その人の食べるカップヌードルがいちばん美味しそうに見えた。
しかしその出来事は、「ただいまあ」と言いながら家の玄関で靴を脱ぎ、「あら、おかえりなさい」というその声を聞くと、あっという間に大昔のことのように薄れた。
「今日の夕飯なに?」
「今夜はさんまよ。大好物でしょ」
「やた」
「先にお風呂入ってなさい。準備しとくから」
「はあい」
風呂から上がると、食卓には既にお皿と箸が並べられていた。弟のハヤは先に席について、学校の宿題をしている。「料理は3人揃ってから」というのが暗黙の了解だった。
一方、彼女は台所でせっせと準備をしていた。小さくてやや丸まった背中がおとなしめのリズムを刻んでいる。
「手伝うよ」と言っても、「いいのよ」とあまり大きなことをさせてはくれない。彼女は「子どもは遊ぶのが仕事だから」と言って、家のことはなんでも自分ひとりでやる。
「いただきます」と3人共が声を揃えた。
食事中、特になんのきっかけもなく彼女は口を開いた。
「お魚はねぇ、食べると頭が良くなるのよ」
「ばあば、それもう何回も聞いたよ」
「魚食べる時、毎回言ってるよ」
ハヤも苦笑いしながら付け加えた。
「そうだったかしら」
とぼけるのは彼女のいつもの癖だ。さんまの骨を除けるのに手間取りつつ食べていると、「お骨に気をつけてね」とも口出ししてくる。こういうやり取りは飽きるくらいに繰り返されてきたけれど、骨を除けた末に口に入れるさんまの味もまた変わらず美味しい。
「そうそう、トマトは疲労回復にいいのよ」
今度はトマトを齧りながら講釈を垂れる。それも既に耳にタコができるくらい聞いたよ、と口にするのも馬鹿らしく思えた。
3人でいつも通りに食事している最中も、テレビではニュース番組が流れている。真面目な表情のアナウンサーがいっそう真面目な表情で、不穏なニュースを読み上げ始めた。都会の某所で殺人事件が発生したという内容だった。
テレビの画面がバラエティ番組に切り替わった。先ほどまでいたアナウンサーの位置には、ベテランのコメディアンがいて、多数のゲストを相手に大袈裟なリアクションを取りながら番組を進行させている。
「なんでチャンネル変えたの?」
彼女はいつの間に手に取っていたリモコンを机の脇に置いた。
「お食事中に暗いニュースは見たくないの。それよりこの人のお話、面白いわよ」
「昨日と言ってること真逆じゃない?」
「あら、なんて言ってたかしら」
「昨日、バラエティ番組見てたら、くだらないから世の中で起きたことを知るためニュース見ましょって変えたじゃん」
「この司会者の番組で」
ハヤが苦笑いしながらまたも付け加えた。
「そうだったしら」
とぼけるのは彼女のいつもの癖だ。
食事を終えて皿を片付けた後、彼女は「明日は何にしようかしら」と言ってきた。
「カレーは先週作ったでしょ。で、今日はさんま。じゃあ明日はお肉の番じゃない。それか生魚」
「じゃあお刺身にしましょ」
「さんま以外でね」
それから彼女は台所の流し台で皿を洗い始めた。
彼女が作る料理のレパートリーは大体決まりきっている。同じ週はもちろんのこと、2週連続で同じメニューにならないようにレパートリーを回していき、大体3、4週間で一巡する。あとは、たまに母親が買ってくる高級デパートの惣菜や出張先のお土産、季節の料理が加わることで、我が家の1年間の料理は成り立っている。
新鮮味はないかもしれない。けれども、駅前のファストフード店のメニューと違う、薄い味付けの食事は口にすると、一日中遊び回った日でもくたびれた足腰や背中が急速に回復していく。ミナギにはそれがなんだか不思議でならなかった。
ハヤとミナギは6畳ほどのリビングの壁沿いに置かれた学習机に座り、宿題のテキストを広げた。小さなテレビを横目に宿題をしていると、大手のカップヌードル商品のCMが流れ始めた。
思わず「あ」という極小のリアクションをミナギは発し、ハヤはテキストに向けていた顔をこちらに向けてきた。
「いやさ、駅前にいつもいるホームレス、わかる?」
「それがどうかしたの」
「今日このカップ麺啜っててさ。CM見たら思い出した。このタレントより美味しそうな食べっぷりだったんよ」
カップヌードルからホームレスを連想した。ただそれだけの他愛のない話である。すぐさま広げていたテキストの問題文に目を落としかけた時、ハヤの口から思いがけない反応が返ってきた。
「それ、ばあばのおかげだ」
「え」
「昼に一緒に駅前のデパート行った帰りに『あの人いつもあそこにいるわねえ』って言って、それから近寄ってさ、お札1枚渡してた」
ミナギはあのホームレスを思い出した。あの人がいつもいる駅前広場の店は普段はただの飾りだったのかもしれないが、1枚のお札がある今はきっと中に入れる場所に様変わりしたのではないか。何か物を食べている姿を見るだけで、それが頭に思い浮かぶ。だから、見え方が変わったのかもしれない。
「一応お礼は言ってきたけど、喜んでるのかわからない反応してたんだよね。でも、いい食べっぷりならばあばの行いにも意義はあったんじゃないの」
締め括るように言って、ハヤは再び机に向き直った。
ミナギは皿洗いをしている彼女の背中に目を向けた。スポンジで皿を擦る度に揺らめくあの小さな背中に。




