第134話 死の淵
「いやあ、あなた方が罠にかかってくれなかったらずっと独りぼっちのままでした」
ニコと名乗ったそのニシキヘビは、ミナギの靴を見つめて感謝を告げた。
ニコのこれまでの経緯を背中で聞きながら、ミナギはふわふわと宙に浮いたコンゴウに繋がったロープを引いて歩く。向かうべき方角はテールが都度指示してくれていた。
なんでも、ニコは遺失物管理委員会の任務でこの樹海を訪れていたが、この広大で複雑な樹海を探索するうち仲間とはぐれてしまったのだという。そんな折にブルータルズの一味と鉢合わせした。曰く戦闘向きでない彼はなんとかして賊から逃げ切ったが、電波が繋がらない樹海にあって仲間と合流する術はない。それに、怪しい連中を見つけた以上、ただで逃げ帰るわけにもいかないと覚悟し、罠を張ってその動向を掴んでおくことにしたのだ。
手持ちのカラーボールを樹海のあちこちに設置し、息を潜めていたところ案の定、反応があった。カラーボールは破裂し対象に付着すると、どんな物体をもすり抜けてその色を視認することができるマテリアロイドだった。その色を頼りに罠にかかった対象を追った。すると――。
「あの水路へと続くトンネルを見つけました。しかし、どういうわけか奴らが後ろから尾けていたのです。はてさて、ではあのカラーボールは一体誰に付いたのでしょう? そう疑問に思いながら、必死に逃げた先にいたのが貴女方でした。私はこのアンルッキング・グラスで、先程のように姿を隠して、なんとかここまで追いついた次第です……」
ニコは体に巻き付けていた装飾品を見せびらかすように、細長い身体をくねらせた。いくつもの輝く石の欠片が紐でくくりつけられており、ジャラジャラと金属の装飾が擦れる音が鳴る。周囲の木肌から発せらている怪しい光を跳ね返しており、時折その周囲の光が歪んで見えた。なるほど、“姿見”ならぬ“姿見ず”ということか。光の屈折率を操って自信の身体を見えにくくするマテリアロイドということらしい、とミナギはここまで見てきた不思議な物質や現象の数々と照らし合わせて納得した。
そして、その納得と共にミナギは目を伏せ、大きく肩を落とした。腹の底から込み上げてくる感情があった。
「はー、自分のせいだと思って損した……」
「完全に巻き込まれたって感じよねー」
「……その節は本当に申し訳ございません」
ここまで流暢に説明していたニコも二人の様子を見て眉根を下げた。
「しかし、ここから先はご安心ください。電波の届くところまで行けば、仲間に連絡して外へご案内させていただきます」
そうしてニコは地面に這わせた腹を素早く滑らせる。
霧のせいで前が見えにくいものの、テールによればもうすぐで彼女達の住処にたどり着くということだった。
「たぶんアタシらの隠れ里に近づかないと電波は無理ねー」
「左様ですか」
「理屈はわからないけど、樹海の中ではそんなの通じないのよう。この虹色に光る木立を抜けないとダメみたい」
「なるほど、ずいぶんと暮らし慣れておられるようで」
「いやー、それほどでもー」
テール達は人見知りなどなんのその、すぐに打ち解けたようだった。
いくらコンゴウが風船のように浮いているとはいえ、上方向に気を遣いながら自然の段差や木の根や遺失物の散らばる悪地を歩き続けるのは、あまりにしんどい。ミナギは休憩を申し入れて、焚き火を囲って歓談することにしていた。
今が夕時であることはかろうじて時計でわかるが、生い茂った樹冠に阻まれ日光も月光も殆ど届かない空からはまるで察しがつかない。おまけに霧も濃くなってきており、この樹海に入ってからというものずっと閉所に閉じ込められているような心地も抜けない。
その霧がより濃くなっていくにつれて、ミナギの脳裏にはひとつの懸念事項が思い浮かんだ。
さきほど遭遇したマテリアロイド使いは、ドライアイスのような化学物質を操って自分たちに襲いかかってきたのだ。この霧は霧などではなく、その一部ではないのか。あるいは――。
そんなことを考えていると、ミナギの眼の前に燐光蟲がひらひらと舞った。この樹海に踏み入る前に見掛け、さっき廃屋の中でも現れた個体が、ここまでついてきていたようだった。
その蝶が何かを知らせるように、周囲の遺失物に目もくれずに、ぐるぐると舞い続けている。
ミナギはその様を見てふと気づくことがあった。
「ちょっと周囲を見てくるから、この人をお願いね」
あまり離れすぎないように、と声を掛けてきたニコに手を振り、ミナギはその場を離れた。
蝶が向かう先は、霧が流れてくる方角だった。ミナギが立ち上がると、蝶はミナギを誘い出すように先を行くのだった。
――この匂い、やっぱり。
蝶は覚えのあるピオニーの香りを振りまきながら、どんどん進んでいく。
やがて誘われるがままにたどり着いた先には、霧を噴射する例の舟があった。
あっ、と声を漏らすと同時に、機械は光を放ち、ミナギを再び異なる世界へ誘うのだった。
轟轟と激しい雨の音がした。雨足が大地をつんざく度に地面からは泥が撥ねているが、激しい飛沫を上げる河はその雨を音ごと飲み込んでいく。
激しい閃光から瞼を開けて、ミナギの目に飛び込んできたのは、止め処なく流れ続ける濁流だった。大雨で荒れ放題の河原で、土と草の苦味が鼻をつくような感覚に襲われるが、あまりに現実に近い光景に脳が錯覚を起こしていることに時間差で気づく。
「許さねえぞ、てめえがテールを!」
近くから怒鳴り声がした。林を前にして二つの影が立ち並んでいる。
顔を見れば、今しがたの声の主はシャドだった。先程見た映像と異なり、その姿はミナギがこれまで見てきたシャドと殆ど変わらないように見える。
「くくく、裏切り者に相応しい惨めな最期だったぞ」
シャドに語りかけているその影は激しい雨のせいで輪郭がぼやけていたが、シャドの元へ駆け寄ると、その正体が鮮明になった。
それは見覚えがある、というよりもさっき見たばかりの人物だった。
さっき廃屋で遭遇したハゲワシだ。今は邪悪な笑みを浮かべながら、シャドに銃を向けている。
シャドは隙さえあれば今にも飛びかかりそうな姿勢でいるが、勝算は万に一つもないであろうことはミナギの目にも明らかだった。このハゲワシは対象への警戒を緩めることなく、手にした銃の引き金さえ引けば今にも仕留めることは容易と見える。
しかし、ハゲワシはなにか考えでもあるようで、シャドににじり寄っていくにつれ、片方の黒黒とした翼を宥めるように広げていった。
「だが貴様らにも、あのテールとかいう愚鈍にも同情してやらんこともない。元はといえば全ての元凶はコンゴウ、あいつだ。あいつさえ組織を抜けていなかったら、今ごろお前のもう一人の父親は死なずに済んだのだ。お前達も逃げ隠れするような生活を送らずに済んだ。違うか?」
「何が言いてえんだ」
「憎むべきはコンゴウだということだ。お前さえ手を貸してくれれば、この俺が代わりに復讐を果たしてやろうではないか。貴様が人質になれば、あの男も容易に反撃できまい」
その提案を耳にし、雨でずぶ濡れになったシャドの表情は呆気に取られている様子だった。
それから、数瞬、敵意が鳴りを潜める気配があった。
ハゲワシはそんなシャドの様子に満足したように頷き、シャドの身体に触れようとした。
だが、シャドはハゲワシの慢心により生まれた一瞬の隙を見逃さなかった。すかさず、姿勢を落としてから相手の腹を頭突いた。牙を立ててハゲワシの腹に齧り付くと、その拍子で手にしていた銃から弾が空に発砲された。
今しがたの優位はどこへやら、ハゲワシは大きく悲鳴を上げる。
「貴様っ、俺様の親切を仇で返しおって!」
ハゲワシが翼を大きく広げる。咄嗟に片翼だけを羽ばたかせてその場で回転した。シャドも唐突な遠心力に耐えきれず、遠くへ投げ飛ばされた。
宙に放られたシャドに銃口を向け、ハゲワシは今度こそ引き金を躊躇なく引いた。
豪雨をもかき消す銃声が辺り一帯に鳴り響いた。
ところが、その銃弾を受けたのは、大柄な銀狼――コンゴウだった。すぐ近くの林から飛び出し、シャドの前に覆いかぶさるようにして身を乗り出していた。
「な!?」
ハゲワシもこれに驚く。命中したはずだが飛び出した巨体の勢いは留まることなく、コンゴウはハゲワシを突いた。
シャドとは桁違いの威力の体当たりに、ハゲワシは大きく体勢を崩す。そのまま、近くの濁流に飲み込まれて成す術なく流されていった。
目の前の光景をしばらく呆然と眺めていたミナギは半ばパニックになりながらも、シャドが飛ばされた方に駆けていった。
シャドは河原に面していた樹林を通り過ぎ、ちょう地面に空いていた穴に転がり落ちていた。気絶をしているようだったが、腹で息をしていることだけは遠目からでも確認できた。
ミナギは安堵すると同時に納得する。こんな心配をしてどうする、そもそもシャドは今も存命なのだ。
そこまで考えたところで、ミナギの脳裏には撃たれた瞬間のコンゴウの姿が浮かぶ。コンゴウにしたって先ほど出会い、共に樹海を歩き回り、こうして運んでいる最中ではないか。それなのに、ミナギの胸の奥では不安が閂のように支えて仕方がなかった。
ミナギはさっきの場所に駆け出した。遠目に木立の向こうに辿々しい足取りで歩いていくコンゴウの後ろ姿を捉える。
ミナギもその木立を抜けて、後を追った。ミナギはこれが再現された映像の中だということも忘れて焦燥した。
コンゴウの姿がどこにも見当たらない。今、眼の前にあるのは、鬱蒼とした茂みに囲われ、不気味に泡立つ沼だけだ。
注意深く地面を見渡し、足跡が残っていないか見てみると、茶色い沼のそばに、色づいた折り紙が落ちているのを目撃する。試しに手を伸ばしてみると、それは案の定手に触れることができた。サイの形を模したそれは色違いだが、さっき水路の一室で拾い上げたものと同じものだった。だがこちらは何度も触ったりしたのか汚れが目立つ上、くたびれて柔らかくなっていた。
先程の水路の一件といい、今回の件といい、ミナギはこの折り紙がこの映像を引き起こす鍵なのではないかと考えた。この世界にやってきて間もなく、ヴァーユと共に洞窟の中で発見した装置や最初に訪れた街にあった装置と状況がかなり似ているのだ。原理はわからないが、この不思議な装置は物体を媒介にしてそれにまつわる映像を書き起こしているのではないか。彼はそういう推測を述べていた。
しばらく立ち尽くしていると、先程の燐光蟲がミナギの嵌めている指輪に止まった。
「もしかして、これを見せたかったの?」
不思議な映像装置のある場所まで案内した蝶にそう尋ねてみる。そういう因果や意思をなにかに求めなければ、今しがた目にしたことを消化することは到底できそうになかった。つまり、半分は他愛のない独り言のつもりだった。
しかし、次の瞬間、ミナギは凍りついた。
「ご明察」
指輪の上に乗っていた燐光蟲が、そう返事をしたからだった。
「失礼、このままだと話しづらいかな」
フリーズするミナギに問いかけたそれは、返答を待つことなくミナギの指輪から降り、翅の光を強めて辺り一面に瞬かせた。
「これでどうかな」
ミナギのよく知る人物がそこに立っていた。
「カスミちゃん……」
と、ミナギは反射的にその名を呼んだ。




