第123話 隻眼
黒光りする重たい得物。それが今、ミナギの眼前に据えられている。金属の冷たい感触を味わいながら、止まらぬ手の震えが銃に伝わる。ミナギはまるで自分がFPSゲームの主人公にでもなったような気分と、目の前で固まる追手たちへのふしぎ同情心が同居していた。
「どうした、姉ちゃんよ。早く撃てよ」
両手を挙げる追手たちの奥で、力なく伏せったままの銀狼が掠れた声でミナギにそのように告げる。
ミナギは引き金に震えた指をかける。撃てば、どうなるか。その結果を知っているが故だ。
ミナギは銃を構えたまま必死に思考を巡らす。
この隘路に立たされるまでの道のりを思い出しながら――。
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「やっば。メドウさんに叱られる!」
ミナギがこの“樹海”に迷い込んだ最初の段階では、心にゆとりのある独り言でまだそんな軽はずみな言動を取ることができた。何せ、来た道を一直線に戻れば、元の場所には辿り着くはずだから。
しかしその安易な考え方は奇妙な壁によって阻まれる。元の位置に戻ろうとすると、見たこともない景色が広がっていたのだ。
あの地面を這う長いチューブの代わりに現れたのは絡み合った巨木の壁だった。
侵入を拒むように太い樹木同士が犇めき合い、伸びた先は天井と呼べるほどにそり立っている。これを生身で登っていける生物はいないだろうと思えるほどに急峻な壁だった。
ミナギはジャケットのポケットを弄り、呼びかける。
「シエル、隙間から出てって助けを呼べない? っていないんだった……」
一人であることを真に理解し始め、急に寂しさが襲いかかってくる。
壁の向こうの様子をなんとか探ろうとするも、隙間からはまた更に刺々しい樹木が行く手を阻む光景が広がるばかりだ。耳を澄ませても、自分がやってきた場所の気配は拾うことができない。
カスミちゃんは大丈夫だろうか。
我が身の心配と同時に、先に進んでしまった彼女のことも気にかかってくる。
いても立ってもいられず、ミナギは結局出口だったはずの方向から踵を返して進んでみることにした。
それにしてもこの森の様子は今までにも増して奇妙だった。転送されてきたという遺失物がそこら辺に埋まってはいるものの、いずれも変色しているか、原型を留めていないほどに歪んでいた。例の如く、多くの燐光蟲が翅を輝かせながら物物に留まっている。
店頭で客を迎えるマスコットキャラだったと思しき置物は、全体の塗装の色味がネガポジ反転し、もはや誰も寄り付かないであろう顔貌のまま、案の定誰の気配もしないこの森にひっそり佇んでいる。またあるいは、チクタクチクタクと童謡にでも出てきそうな古い振り子時計もまたよくよく見ると秒針が巻き戻っている。
今まで森の中で見かけた遺失物と異なり、ここでは何もかもが不調をきたしているように思えた。
ミナギはこの不思議な森の世界に来てから最初にしたことを思い出す。あの時は幸いなことに食料も寝床もすぐに見つかったが、今はどうか。
試しに燐光蟲がとりわけ群がっていた遺失物に失敬して寄ってみると、厚紙でできた玩具のパッケージが落ちていた。パッケージに描かれた銃は、あまり銃火器方面に疎いミナギでさえどこかで見たことのある自動式拳銃だった。蓋を開けると、BB弾が散らばった箱の中に銃が収められていた。
――ただの玩具か。
どうやら食料はすぐには見つからなさそうだ。
ミナギは目の前の木肌を触った。不規則に生えている樹木はどれも鮮やかな虹色に染まっている。天高く空を遮るようにして伸びた枝葉のせいで、陽の光も足元まで届いてこない。
この世界に来てからというもの大体の不可思議には慣れたと思っていたが、それでもなおここは奇怪だった。
しかし仄暗い地面に埋まる遺失物を照らす燐光蟲の光と、その光を返してぎらつく虹色の木々の騒がしいほどのその奇怪さが、この森に入ってから抱いている不安を多少は紛らわせてくれているようにも思えてくる。
しばらく辺りを物色しながら歩いたところで、渓流に出た。
川上からなだらかな小滝が連なり、水面が絶えず流れていく。滝壺から弾け飛んでいく飛沫に、周囲を漂う燐光蟲の青い煌めきが、混ざり合っている。
ミナギは、消えた彼女の姿を追っていたこともあわや忘れかけてしまうほど、一瞬だけその景色に見とれていた。
「隠れても無駄だっ!」
しかし、この光景にふさわしくない、猛々しい叫びがせせらぎをかき消した。
見上げると、川上の方に四足で立つ大きな山狗がいた。銀色の体の中に浮かぶ、くすんだ金色の瞳孔の一つが川下を睨んでいる。しかしもう片方の瞳はなにかで塞がっており、影に溶けている。どうも今しがた走り回っていたと言わんばかりに身体全体が息で揺れていた。
わけもわからず反射的にすみません、と発しかけると、ミナギとその四足獣を挟んで、二つの獣人の影が茂みから飛び出た。マントヒヒとヘラジカの組み合わせだった。
ミナギは咄嗟に姿勢を低くし、近くの岩陰に身を寄せた。彼らはミナギの存在にひとまず気づいてはいないようだ。
獣人達の背中しか見えないが、茂みで待ち伏せていた彼らは舌打ちをしながらも、どうにも余裕のある出で立ちで川上の山狗を見上げていた。
「さっすが、ウワサの隻眼さまだ。小細工は通じねえみてえだな」
両手を上げて、手にしていた小銃を大袈裟に地べたに捨てた。それからゆっくりとした足取りで山狗に近寄っていこうとする。
ミナギは岩陰から彼らの背中を見て、息を飲んだ。装着しているホルスターの背面部分に拳銃がまだもう一つ、挟み込まれていたのだ。
どのような衝突が起ころうとしているのか。傍目からは判別がつかないが、自分は着実に近づいていく彼らの足取りをただ見守るだけでいいのだろうか。
一方の山狗は丸腰で彼らを迎えようとしている。だが、ミナギは山狗の姿を観察しているうちに、とある確信に行き着く。いま味方につくべきは、あの大きな山狗の方だと。
獣人達があと数メートルのところまで山狗に迫っている。ミナギは膝を伸ばし、先ほど拾った銃を構えた。
「動くな!」




