第118話 見舞い
バイクを走らせ、目的の場所にたどり着いた頃には、グローブや靴の中にまで風が入り込んでいて、防寒した格好の中で、手首と足首だけがくっきりと浮いたように冷えていた。
ヘルメットを脱いだ途端に追い打ちをかけるように風が吹く。道路を挟んだ先にある公園は、道沿いに立ちすくむ街灯と、孤立した自販機と、幽かな月明かりだけが頼りの寂しい暗がりだった。昼間は家族連れや子どもたちで賑わう広い芝生のある公園だが、今は北風で舞い上がった乾いた葉のかすれる音しか聞こえない。
ミナギは服を正しながら、体をさすり、まるで避難場所にでも駆け込むようにして公園の向かいにある病院へと入っていった。中は空調が効いていて、今度はしばらくすれば服の下が汗ばんでいくようだった。
エレベーターに乗っている途中、大きな鏡で髪が乱れてないかを確認する。スタッフステーションで目的の部屋を訊いてから、ミナギはそこへと向かった。
たどり着いた先は複数の入院患者のいる大部屋だった。夜の時間帯、規則的で並んだベッドはカーテンで仕切られている病室内は、どうにも人気が感じられない。
おそるおそるカーテンの隙間を確認しつつ、そういえば母からもらった連絡で「奥の方」と言われたことを思い出し、そこへ顔を出した。
見舞いの相手は穏やかな表情で仰向けで目を閉じて横たわっていた。耳にはいつも使っていたラジオから伸びるイヤホンが刺さっていた。
病室の室内灯に照らされた彼女の顔は、いつも以上に黄色く映った。いや、顔だけじゃない。もっと大きく何かが違う気がした。
「おばあちゃん」
他の同室者も驚かさないよう、静かに声をかけると、向こうも静かにこちらを向いて目を開けた。やはりラジオを聴いていて、眠ってはいなかった。
「あら、きたの」
声はか弱かったが、久々の孫の見舞いに喜んでいるようだった。前にあった仕事の用事が押して、今日は諦めてまた先に来ようかとも考えていたが、少々無理してでも来た甲斐があったらしい。
「まあね。これ、お見舞いの品。暇な時食べてよ」
「ありがとうね」
そう言って鞄からデパートのお菓子売り場で買ってきた老舗のどら焼きを見せつけた。ベッドの脇にあるキャビネットに近寄り、前回お見舞いに来た時お菓子を入れていた引き出しを見た。
「あれ? 食べなかったの」
引き出しの中には前回買ってきたお菓子の箱がほとんど手つかずのまま残されていた。
「うん、なかなか食べ切れなくてね」
ううん、と小さく咳払いをし、体をこちらに向けようとしていたが、それも今の彼女には一苦労のようで、ばつの悪い顔を浮かべている。
「ああ、いいからいいから。そのまま寝てて。じゃあ、食べきれなかった分もらってくから」
「本当に美味しかったのよ。ちょっと量が多かっただけ」
「うん」
バッグに詰めながら、天井を眺める祖母の顔をちらりと見る。その時やっと、いつもこまめに茶色く染めていた髪の毛がすっかり白くなってしまっていたことに気づく。皺が増え、ずいぶんとこけた頬を見ても、自分の送ったお菓子の箱の大きさは不釣り合いだった。
「仕事は忙しいかい? ちゃんと食べているかい」
そんなこっちの心配をよそに、またいつもの言葉をかけてくる。細く干からびてしまったように見えても、孫を捉える黒い瞳はまだずいぶんと潤んでいた。
「忙しいは忙しいけど、なんとかなってるよ。ちゃんと食べてるし、寝てるから心配しないで」
持ってきた着替えやタオルを引き出しにしまい込みながら、なんてことないように答える。言いながら、軽々しく嘘をついていることに若干の引け目はあったが、今は心配させるようなことを言わない方がいいと思った。
「なにか必要な物は他にある?」
「ありがとう。ないわ、それよりも」
よいしょ、と大きく息をついて体をまた起こそうとする。制止してもまるで気にかけず起き上がるのは前回、前々回と同じだった。
引き出しの一段目から財布を取り出し、「これで美味しいものでも食べなさい」と紙幣を差し出してくる。
「いいっていいって。もう十分働いて自分で稼いでいるんだし」
ミナギは苦笑いしてやんわりと断るが、内心ではすっかり諦めていた。
「食べなさいな」
そう言って骨に最低限の皮だけが張り付いたような力ない手に押し切られて、ミナギはお金を仕方なく受け取る。押し付けられているといってもよいが、目の前の元気のない祖母に対して、それを口に出して反抗する気は起こらない。
それからいつもの調子で近況を話す。あの弟が最近出張で単身海外に行ったことや、仕事のこと、飼っている猫のこと、住んでいる家のこと、母親とその再婚相手の父のこと。
「もう遅いけど大丈夫? ここへはいつもどうやって来ているの」
「自転車だよー」
仕事のことは心配させないように忙しくないのだと念を押して言った。それにここへバイクで来たことも、そもそもバイクに乗っていることも言っていない。彼女を安心させるため、善良な孫を演じるために、取り繕うのはミナギにとってひとつの気苦労ではあったが、これも当然言わなかった。
「たしかにもうそろそろ時間だ。じゃあ行くね。おやすみなさい」
「ミナちゃん」
去り際に、祖母は手を取った。そして両手で大切そうにさすっていた。
触ってみると、小柄な祖母の手はいっそう小さくなっていることがわかる。いつかのミイラ展で見た展示品を目にしたときに想像した感触はまさにこうだった。けれども、これから再び立ち向かわなければならない外気を思えば、この温もりは離したくないものだった。
帰る途中、再びエレベーターの中で、鏡に映る自分と目が合った。少し乱れた髪に気づいて今更手ぐしで整える。
きっと、いい孫だ、私は。
精一杯鏡の中の自分に言い聞かせたが、外へ出るとさっきよりも冷たい風が水を差すように吹き荒れていた。




