第11話 霧吐く機械
保育園は長い坂道の上にあった。その坂道に行くのにも、20分かそこらの時間がかかる。
お母さんは朝早くに出かけるか、あるいは数日の間家を留守にする。だから、私と弟を保育園まで連れていってくれる人は別にいた。
私と弟はその人が作った朝ごはんを食べた後、支度をして、外へ出る。どちらかが自転車の荷台に乗って、どちらかが徒歩で自転車に続くようにして保育園を目指す。
自転車の荷台は楽チンでいい。座ったまま周りの景色を観察し放題なんて籠で運ばれるお姫様みたい。すれ違った車の色や形を記憶したり、目に映る物の名前を呟いたりする。なんとなく思いついたクイズを出すこともある。弟と、自転車を押して歩くその背中に。
その背中は小さくて、緩やかに曲がっている。つばの広いベージュの帽子を被っていて、黒っぽいコートに身を包んでいる。おかげで、体全体が余計に丸っこく見える。華美なアイテムを身につけず、派手な動きもしない。小ぶりで頼りなげな背中だが、毎日私と弟をあの坂道の上へ連れていってくれる。
保育園は、神社とお墓と同じ敷地の中にある。門をくぐると、神社に案内してくれる石畳が地面に敷かれている。私は土に落っこちないように、その石畳だけを踏んで、保育園へと歩いて行く。保育園の前には金網で六角状に覆われた鳥舎があって、孔雀が飼われている。
お墓、神社、孔雀はちょっと怖い。興味はあるけど、いつも遠くから眺めるだけだ。でも興味はあるからいつも眺める。それから、そそくさと保育園の入り口に小走りして、先生に挨拶をする。
保育園へと無事に送り届けられた私と弟は、今日もお絵かきをしたり、歌の練習をしたり、友達と遊んだりして、1日を過ごす。
1日が終わって、辺りが暗くなったら、迎えがくる。そして、私と弟はまた自転車を押すあの小さな背中を見て家に帰る。
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「ーーきて……起きて!」
ヴァーユの声が聞こえ、肩を揺すられる感覚を得て、ミナギは目を覚ました。
予想以上に歩くのに手間取って、1時間歩いたところでくたくたになっていた。それに、前回の昼休憩からなんだかんだ3、4時間は移動しっぱなしとあって休憩を取ることにした。
少し座って足腰を休めるつもりが、本格的に眠ってしまっていたのだと気づく。ミナギは人差し指と親指で両方の瞼を揉んだ。
視界が鮮明になると同時に、すぐさま異変が目に映った。というよりも、異変に覆われていると言ったほうが適切だった。
周囲が霧で満ちていた。白い煙が音もなく漂い、視界を狭めている。二、三十メートル先の景色を視認するのは困難だ。
「ーーこの時間に霧ぃ?」
携帯を取り出してタイマーを確認した。休憩に入ってから30分も経っていない。ということは、まだ夕刻になるかならないかという頃合いのはずだ。
ヴァーユが事の経緯を説明してくれた。
「10分くらい前からうっすら靄がかかってきた。最初は気のせいかと思ったけど、あっという間にこの有様」
頼みの綱とはぐれた上に、軽傷者1名。そしてこの霧。自分達は思った以上にツイていない。
「川が近くにあったのは不幸中の幸いだね」
ミナギ達は再び歩き始めた。沢が伸びている先に目的地の崖が立っていたので、それを追えば迷うことはない。
「暗くなる前に贅沢な晩ご飯にありついてやろう……あっ、あとシエルと合流」
「……あのオコジョに今の発言聞かせてやりたい」
先ほどまでの喧騒は嘘だったかのように、今は沢の流れの音が耳に染み入ってくる。河原の湿った土の柔らかさが足腰の負担を和らげてくれているとわかる。状況は霧のせいで少し悪化している気もするが、それ以上に休憩によって取り戻した余裕の方が大きいと言えた。
やがて、前方から影が浮かんできた。ミナギは初めこそ警戒したものの、それがさっきすれ違った雌鹿だと気づいて安堵した。
「あぁ、あなたさっきの。さっきは、ごめんなさいね」
こちらの存在に気付いた雌鹿がペコリと頭を下げてきた。いやいやこちらこそ、とミナギも応じた。
雌鹿だけではなく、他にも様々な動物達が向こうから歩いてくる。皆さっきまでの焦燥は顔になく、弛緩した雰囲気を醸し出していた。
ミナギはその雌鹿に何があったのかを尋ねた。
「いやね、怪獣が出たんですって! 黄色くて大きな体で長い首を持ってて、大木を簡単に薙ぎ倒しちゃったっていうの。耳障りな鳴き声まで上げたものだから、それを見た人が怪獣が出たって大騒ぎ。それでみんな慌てて逃げたんですけどね、さっき誤解だってわかって、今こうしてみんな住処へ帰っているの」
「黄色い怪獣?」
ミナギは聞いた話から想像を膨らませた。真っ黄色のブラキオサウルスが、森の中で暴れている絵になった。そんな現場に出くわしたら、逃げるどころか心臓が止まるに違いない。
ミナギは雌鹿から崖の上に行く道も教えてもらった。そこはシエル以外の人々からも休憩所として有名らしく、彼女もまたそこのファンなのだと言った。
「なるべく早く行った方がいいですよ。何せ気まぐれなお店だから」
雌鹿にお礼を言って別れた。別れ際、彼女の手足には高価そうな皮の手袋と白いスポーズシューズがつけられていることに気付いた。シエルといい、さっきのバイソンといい、あの雌鹿といい、この森は一度見ただけでも妙な印象を残す動物ばかりだと今更ながらに思った。
ミナギは教えてもらった道を歩いた。
沢は崖の前で二手に分かれていて、左に沿って進むとトンネルがある。トンネルを抜けると、高台に続く緩やかな坂があるので、そこを登ればここから見えている崖の上に着くというのだ。そこからそう遠くないところに"お店"とやらはあるという。
進むにつれて、霧がますます濃くなっていく。
心配していたが、沢の分岐点には橋がかかっていて、容易に越えることができた。
そしてしばらく進むとトンネルを発見した。入り口が角材で補強されている。自然にではなく、誰かに整備されてできたもののようだ。入り口の前には木製の看板が立っていて、「Tunnel to the cliff top (崖の上へのトンネル)」と書かれている。ここを通ればいいわけだ。
だが、トンネルに入ろうとしたところで、ミナギは強い違和感に見舞われた。トンネルの中から霧がもくもくと吹き出していた。更には、あの青い蝶がトンネルの中へと入っていくのが見えた。偶然迷い込んでいるというより、明らかに何かに誘き寄せられている様子だった。
「ねえ、これって」
荷台に乗っているヴァーユに声をかけた。彼も異変を自分なりに観察していたみたいだった。
「いきなり濃くなったから、自然発生した霧じゃない可能性も考えてたけど……」
「目的地に向かう道すがら、蝶研究の成果が得られるかもね。確かめてみよう」
自転車を押し、トンネルへ入っていった。どうやら天井に電球がついているらしく、霧に混じって橙色の光が降り注いでいる。地面は舗装されていて、工事現場なんかで使われていそうな鉄板が敷かれていた。
高さは5メートル、横幅10メートル程度といったところか。照明といい、足場といい、意外にも通りやすく作られているため、安心だった。唯一、充満した霧とその中を泳ぐ蝶だけがミナギ達の不安を煽る。
出口と蝶の両方に注意を向けつつ先へ進んでいたその時。片側から突如として何かのファンが作動する音が聞こえてきた。
見れば、右側に大きな穴蔵があった。巨大なアイスクリームディッシャーで抉って作られたようなその部屋も相変わらず霧で埋め尽くされているが、その中央に何かが赤く光っていた。蝶はその光が発している物をめがけて飛んできている。
ミナギが目を凝らしていると、自転車が揺れた。ヴァーユが自転車を降りていたのだ。彼は壁に手をつきながら、その部屋へ躊躇なく入っていった。
「ちょ、ちょっと!」
「少しくらい平気」とあっけらかんとした口調で言った。この少年は正体不明の何かを前にしても、好奇心を優先するタイプなのだ。
「やっぱり、これが霧を作っていたみたいだ」
ミナギも部屋に入って、光の源に近づいた。くっきりと輪郭が浮かび上がった。
それは、この森に来て以来どころか、生まれて初めて見る機械だった。
底は緩やかな弧を描いている。弦に相当する部分も地面に向かってカーブしている。全体的には船のような形をしているが、三日月が横たわっていると形容してもいいかもしれない。船でいうところの、船首と船尾の部分から一定間隔で霧が噴射されていた。
機体は白を基調としているが、角を縁取っている線は赤く点滅している。製造からだいぶ月日が立っているのか、メッキが所々剥げていて、ささくれた箇所が錆びついている。
船上の中心部には黒光りしたドーム状の半球が備えつけられている。材質が他の部位と違って、ガラスかプラスチックの類で出来ているみたいで、薄っすらと中に何かが格納されているのが見えた。
機械の高さは1m程度で、異様な形状を気にしなければ、学習机くらいの存在感だ。ミナギ達のいる側面に操作盤らしきパーツが付いている。白いボタンの縁がこれまた赤く点滅しているのを見るに、バッテリー切れか、あるいは故障しているのだろうかと思った。
船を思わせる形状だが、用途はまるで想像がつかなかった。
しかしそれ以上に不可解なのは、別のパーツだ。
船より高く離れたところで、白い球体が宙に浮いている。その球体はその場で安定していて、落ちたり、揺れたり、何処か別の方へ行ったりする気配はない。そこに在るのが当然とでも言いたげな様子だ。
どのような原理で”それ”が浮かんでいるのか、ミナギには見当がつかなかった。
“それ”は中心部に穴があいていて、ビーズの玉を彷彿とさせる。けれども糸を通す代わりに何をするのかはわからない。
「磁力で浮いているのかな」
ヴァーユの呟きに即座に応じられるほど、ミナギは目の前の機械を整理し切れていない。彼の呟きは独り言となって霧に溶けた。
ぐるぐると機械の周りを回ってから、ヴァーユはふと操作盤の前に立った。そして、そこについていたスイッチを押した。
「ドッカーン」と声に出して戯れてみるが、ヴァーユに無視され、呆気なく霧に消えた。
ボタンを押してから数秒はファンの音がうるさくなった。点滅していた機械のラインは赤から青へと変わり、行きすぎた動作音は機体を激しく揺らしている。
蝶達がその機械の黒い半球部分に集中した。激しい揺れに驚いて逃げ出すのではないか思ったが、震える機体に集り、一斉に狂喜乱舞している。体も例の如く青く眩しく発光し、船の上に鱗粉を撒き散らした。
すると突然、上方に浮かんでいた穴あきビーズ状の球が、回転を始めた。それは徐々に徐々にスピードを増し、ものの数秒で中央の穴が穴でなくなる。高速回転により、視覚はその穴を球に巻き付けられた太い帯のように捉えた。
表面でパチッと電気が弾けたと思えば、次の瞬間、球は空中に無数の光線を放った。光線は空中のとある部分に到達し、集中し、像を作った。
人形のホログラムだ。周囲の霧に投影されている。ホログラムはすぐそこに本物の人がいるのかと思うぐらい立体的かつ鮮明に形作られていて、ミナギは一瞬どきりとした。いつか遊園地のアトラクションで目にした人形へのプロジェクションマッピングを思い出した。
しかし、いくつか見えにくい部分が散見される。例えば、顔は細かい砂が付着してキメの細かいモザイクがかかっているせいで、顔は判別できない。胴体や下半身もいくつか掠れている。時折ノイズが走って映像が乱れるのを見るに、性能に不備や不足があるのかもしれない。
ホログラムが2人の人間を形作ったところで、ファンの音が落ち着いた。誰かが再生ボタンを押したかのようにして、その2人は動き始めた。
片方はドレスを着た女性、もう片方はラウンジスーツを着た男性だ。初めは2人は恋人なのかと思ったけれど、男性から女性に対する振る舞いと口ぶりから、どうもそうではないのだとわかった。
『いよいよ出発だね。何よりも体に気をつけて。向こうに着いたらまず手紙を寄越すんだよ。何か特別なことがなくとも、毎月、欠かさず』
『わかってる。あの人にも耳にタコが出来るぐらい散々言われたもの。やっぱり兄さん達、そっくりね』
『前言撤回。じゃあ僕は電話だ。向こうに着いたら電話を寄越しなさい』
『何言ってるの。海を超えて電話なんて』
『冗談冗談。でもそのうちきっと出来るようになる。世界中が一瞬で繋がる時代なんてあっという間さ』
『そういう想像力豊かなところも似てるんだよねぇ』
『なんだよ、結局そうなるのか』
元から強固な絆で結ばれているような安堵感に満ちた会話、そして「兄さん」という言葉から察するに、2人は兄妹らしい。女性の側には大きな旅行カバンが置いてあって、見るからに他所行きの服装に身を包んでいる。見送りをしている場面が再生されているのだと気づいた。
『じゃあ、私、もう行くね』
『あぁ、本当、体には気をつけて』
2人は抱擁を交わす。妹を包んでいた兄が、ポケットから何かを取り出し、妹に握らせた。
『これって』
『リアのことだから、身支度や荷造りに夢中でうっかり忘れるだろうと思ってね。忘れ物にも気をつけなさい』
『気づかなかった……ありがとう。こういう先回りは兄さんの専売特許ね』
妹はその懐中時計を大切そうに握りしめた。そしてカバンを手に持ち、兄に背を向けて歩き始めた。
だが、暫く歩いたところで振り返った。彼女は言葉を紡いだ。言い出せなくてウズウズしていたものを吐き出すように。
『兄さん、どうか私がいない間もあの人と仲良くね』
『わかってるって』
男の人の表情は映像が掠れてよく見えない。けれども、きっと旅立つ妹を安心させるべく、とびきりに穏やかな笑顔を向けているに違いない。ミナギはそう思った。
喧しいファンの音が突如として鎮まった。時を同じくして、ホログラムの映像も瞬時に消えた。
機械を見ると、さっきまでの赤い光も青い光も発していなかった。シンとした無音がその部屋を支配した。
蝶達もすっかり興味を失ったらしく、部屋の外へとまばらに散っていった。
「なんだったんだろ?すごい映像技術ってことだけは、伝わってきたけど」
機械が動いているのはものの5分程度だったが、映画のワンシーンを見終えたような感慨を覚えた。
ヴァーユはそそくさと停止した機械に近づいた。黒い半球のパーツが2つに分かれて開いていた。
ヴァーユがそこから取り出した物を見て、ミナギは目を見開いた。
「それって……」
「あの映像に出てきた時計だ」
間違いなかった。ローマ数字で時刻が表記されている、丸い手の平サイズの銀時計。首に下げられそうなぐらいの長さの鎖がついていて、時計本体の下部にあるボタンを押すと蓋が開閉する昔ながらの懐中時計だ。
ヴァーユは手帳を取り出して、たった今見たことを記録していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
あの機械が停止してから、霧の発生も止まり、すっかり視界は良好になった。
トンネルを抜けたミナギ達は、坂道を登り、ついにさっきまで見上げていた崖の上へと到着した。
崖からの見晴らしは最高だった。紅色に染まった地平線に、太陽が沈んでいく。眼下に広がる緑の大地とのコントラスト、そして高所に吹く爽やかな風。それらが、一際変なことに遭遇し続けたこの身を清めてくれる。
「動物の大群といい、霧といい、さっきのホログラムといい、謎が謎を呼びすぎだっつの」
荷台に乗っていたヴァーユが何かを目に留めて、クスリと笑った。
ーーお、笑った。初笑顔ゲット。
そんなことを考えていたミナギに、ヴァーユが首で視線を誘導した。
誘導された先に目を向けると、黄色いショベルカーが首を伸ばしたまま、黄昏時の森の中で佇んでいるのが見えた。
「なるほど黄色い怪獣、ね」




