第10話 日常の崩壊は突然に
遭難、と呼べるかはわからないものの、森を歩いて4日目。
天気は晴れ。空を覆う木々の葉を透過して降り注ぐ緑の光と、葉を避けて直接大地を差してくる白い光とが、森の空気を明るくしてくれている。
広葉樹の幹は日の光が当たった部分だけ色が白く飛んでいる。光が当たらない場所は黒ずんで余計に木肌がごつごつと見えるが、うっすら苔に覆われ緑がかっている場所は柔らかそうだ。茶色のクレヨンだけでは表現しきれないくらいに、一本の幹も微細な色と質感で構成されているのだとミナギは改めて気づく。
一行は沢に沿うようにして移動している。ミナギ達が立っている場所は土手のように高くなっていて、坂道を下りると狭い河原がある。その先が沢だ。沢と一行の間にある坂道は急勾配で登るのには一苦労しそうだ。「足元にお気をつけ下さい」というシエルの忠告は頭の片隅に強く留め置いて、ミナギは歩いていた。
目的地に向かって歩くルーティーンに変わりはない。落ちている物を手当たり次第に拾って使えるか使えないかを考えるのも変わりはない。
ただ、キャンピングカーで寝泊まりできた初日の夜からずっと野宿で、さして変わらない景色の中を歩き続けるために、気力も体力も少しずつ最大容量が削れている感覚があった。
落ちている物もそう運よく気晴らしになる高級食材というわけにはいかず、大半がチョコやらガムやらといった軽食だ。それらも賞味期限の問題に加えて、食べかけ状態か否かという絶妙に個人のボーダーラインを問いかけてくることがある。
「2人はさ、3秒ルール肯定派? 否定派? 私は敬虔なる否定派だね。何処の馬の骨とも分からない落とし主が開封した物はゼッタイ無理!」
「3秒ルールとは何でしょう?」と首を傾げるシエル。「拾ってる物を食べてる時点で同じじゃないか」と理屈っぽいことを述べるヴァーユ。食糧事情に一番気を使っているのは自分であるとミナギはこの時再認識した。
思案顔で歩いているミナギを気遣うようにシエルが明るく語りかけてきた。
「もうすぐ休憩できる場所に着く予定です。そこでならこの頃食べている物より美味しい手作り料理が食べられますよーーあ! ご覧下さい。あの煙が立っているところです」
シエルは向かっている先にそり立っている崖の上を指差した。確かに煙が立っているが、その火元がどうなっているのかまでは目に見えない。ミナギは誰かが焚き火でもしているんだろうと考えた。
「あそこに行くには迂回が必要そうです。でも、遅くとも今日の晩には贅沢ができるかと」
「それ聞いてエネルギー回復してきた」
食べ物の恨みは大きいと言うが、もたらす幸福もまた大きい。吉報に胸をすくわれ、楽しみで体を揺らした。
しかし、気分が落ち着き、体を揺らすのをやめても、なぜか揺れは収まらない。
「んん?」
実際に地響きが起きている。だが瞬時に地震でもないことに気づく。大地の地盤の揺れにしてはやけに小刻みな上に、遠くから聞こえてくるおどろおどろしい音と連動していたからだ。
後ろを振り返ると、1匹の鹿が全力で走っていた。すぐにそれは1匹でも、鹿だけでもなくなった。
リス、カモといった小柄な種類から、羊、猿、牛、猪、犬といったそれなりの体躯を持つ種類まで、数えきれない獣たちが駆けてきた。手持ちの知識では判別できない獣もいるが、遠慮など当然なく次々と雪崩れ込んでくる。
「んん!?」
種々様々な動物たちが忙しなく走ってきた。みんな焦っているようで、統率からはかけ離れた各々の走りは、パニック映画で逃げ惑う人混みとまるで変わらない。地面を蹴る乱暴な音、乱れた息遣い、体を伝う汗が混じり合って、一気に辺り一帯の空気は熱気と混沌に満ち始めた。先ほどまで耳に響いていた川の音は、もう見る影もない。
「ミナギ様っ! 右に避けて!」
前方から聞こえてきたシエルの声に反射的に応じて、ミナギは敏速に右へ体を動かした。
茶色の巨体を震わせて走るバイソンもこちらを目に留め、ひょいと身をかわして先へ進んでいった。すれ違いざま、バイソンは「すまん!」という手短に言葉を発した。体の表面には、世界地図のような模様が見えた。だが、そんなことに気を取られ続ける間もなく、第二、第三、第四と獣が続いてくる。
なるべく安全な場所を、とミナギもヴァーユの手を取り走った。
その最中も、人混みならぬ獣混みは、雑多な情報をミナギに与えてくる。灰色で短毛の形をした猫が視線の右端に映ったかと思えば、左には黄色がかった首と胸が目につく大きなペンギンと灰色の毛羽立った体の小さなペンギンがよちよちと走っている。
ーーロシアンブルー? コウテイペンギン? 生態系どうなってんの、この森。
ヴァーユがミナギと繋がれた左手をぐいっと引っ張った。
「あのオコジョ、見当たらない」
ミナギははっとして彼がいた方向を見た。だが、サイズも体色も種類も全く別のダチョウが猛スピードで走り去っていくだけだった。小さな紳士とは完全にはぐれてしまったらしい。
「こっち!」
ミナギは左手にあった坂道を滑り落ちた。ヴァーユも慌てて続いた。
坂道を降りた先の河原は、さっきまでと比べて逃げている動物の数が少なかった。木も生えておらず、走ってくる動物達の間隔にも余裕がある。しかし、空いているために、こちらのルートを選択している動物は遠慮なしにスピードを出しているように見えた。
タイミング悪く、ミナギが降りてきた先を1匹の雌鹿が通ろうとしていた。雌鹿はいきなり視界に現れた人間に驚き、すんでのところで体をストップした。咄嗟のことに体中の筋肉を硬らせ、ミナギも後退りした。雌鹿に「わっ! ごめんなさい!」と謝られたが、彼女も先を急いでいたらしく直後には元のスピードで走り去っていった。
ほっと胸を撫で下ろしたものの、ミナギは背中にドンという衝撃を受けた。後ろから降りてきたヴァーユが背中に顔をぶつけていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「乗れ」
「乗らない」
「乗れって」
「乗らないってば」
ミナギはその辺に転がっていた自転車のハンドルを握り、左右に揺らす。ヴァーユは坂道に手をつき、立つか立たぬかという中途半端な姿勢でそっぽを向く。
坂道を滑り降りる時、ミナギの後ろにいたヴァーユは着地に失敗していた。先に降りたミナギがその場を離れず、むしろ後退していたことに驚いたのが原因だったらしい。ヴァーユは体をよろめかせた勢いで足を捻り、ミナギの背中に衝突して止まった。
「怪我したでしょ」
「してない」
怪我した箇所を見せるように言っても頑なに拒まれた。
案内人とはぐれてしまった状況の中、さらに自分が足手纏いになってはいけないという彼なりの強がりなのかも、とミナギは考える。しかし、無理して立ち上がろうとしてこちらを困らせるあたりはやはりまだ子供だ、とも思う。
「こんなの大したことない。それにさっきのは不可抗力だろ。だから、そっちが責任を取る必要なんてないし、俺も自分で歩く」
ヴァーユは一見理路整然と答えるが、こっちとしてはいくら論理的に正しかろうが、受け入れるわけにはいかない。
「そうかそうか……。つまり君は私に無理して歩く怪我人を手助けせず罪悪感を募らせよ、というわけかい。それなら仕方ない。私は胸を痛めながら先へ行くよ」
「いや、そんなつもりは」
ヴァーユが慌てて、釈明しようとする。だが、それを制するようにしてミナギは続ける。
「同じことだよ。お姉さんに罪悪感を覚えさせたくないなら、乗って頂戴」
簡単なことだ。少年は私に手間をかけさせることに躊躇している。それなら、その躊躇の対象をひっくり返してしまえばいいのだ。我ながら悪どい。
ミナギのその思惑は成功したらしく、ヴァーユは渋々という様子でついに承諾した。露骨にため息を吐いて、牛歩戦術の如き遅さで自転車の荷台に歩いてくる。彼なりの最後の抵抗なのだろう。
ともかく、これで問題なく先へ進める。
ーーまったく、手間のかかるガキンチョだ。
ミナギはハンドルを握る手と足腰の両方に力を込めて歩き始めた。自転車前方に取り付けられた籠にはさっきまでヴァーユが背負っていたバッグがあり、後方の荷台には彼が座っている。ミナギ自身もバックパックを背負っている。
自転車が台車の役割を果たしてくれるから楽だろうとタカをくくっていた。だが、やってみるとバランスを取ること自体に体力を使うし、車輪があるとはいえ、それなりの重みがかかっている自転車を押すことにもそれなりの力が必要だった。おまけに、河原には石ころが転がっていたり、土が所々隆起していたりするので足下も気が抜けない。
あの崖の上まで直線距離にして1kmもないだろうが、先は不安だ。慣れない移動手段に下は悪路。そしてシエルの言っていたように崖に登るための迂回路か何かを探さねばならない。
2、3時間はかかることを覚悟し、ミナギはハンドルを強く握り直した。




