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天色の倖  作者: 六日
第1章
8/14

薄氷の上で蹲る

 差し込む光に、目が覚めた。

 もう見飽きた天井を見つめて、11日目だと胸の内で数えた。

 ああ、支度しなきゃ、と起き上がろうとしてぐらりと視界が歪んだ。思わず額を押さえると、額の熱さに驚いた。これは確実に熱がある。思い出したかのように頭痛までしてきて、ぎゅっと目を閉じる。


 そこで、初めて、あれ、昨日何してたっけ、という疑問が浮かんだ。そうだ、私、確か、昨日、禊で。

 蘇るのは、水の冷たさ。重さ。苦しさ。理不尽な境遇への恨み言。意識を失う直前に感じた、死ぬかもしれないという圧倒的な恐怖。

 そして、思い知る。これは夢じゃないかもしれないという最も恐ろしい可能性。

 熱がまだ上がるのか、それとも、その悍ましい可能性にか、ぞわり、と寒気が背筋を撫でた。


 その時、不意に、肩に触れられて、反射的にとっさに払いのける。払いのけてから、ハッとした。

 慌ててそちらを見やると、名も知らぬ女性が一歩後退って畳に額を押し付けた。


「……出過ぎた真似を失礼致しました。申し訳ございません」


 藍色の紋の入った紫色の袴。今まで社の中で見かけたどの女性とも違う色である。一瞬チラリと見えた顔は随分と顔の整った美人で、私より少し年上に見えた。

 しかしながら、長い黒髪を畳に垂らすその姿を眺めて、なぜか急に冷ややかな気持ちになった。口から出かけた謝罪の言葉も声になることはなく口の中で溶けて無くなった。


「……昨日はあれから」


 自分でも驚く程、抑揚のない冷え切った声が出た。しかし、言葉と共に吐いた息は熱のせいかやけに熱い。

 私がそれ以上問いかけないことに気付いたその女性が、一拍置いてから、慌てたように口を開く。未だに頭を下げ続けたまま。


「はい。椿御前は、昨日、お禊の儀の際に……熱で倒れられたようでして。如月の君が椿御前をお運びさになり、医者に診させたのですが意識は戻られず、只今、明日みょうじつの正午で御座います。体調を崩されていたことに気付けなかった神職一同、誠に情けなく存じます。このような事態になってしまい謝罪の言葉も御座いません。如月の君も今回の事態を大変重く受け止め、悔いておりました。重ね重ねにはなりますが、誠に申し訳御座いませんでした」


 神子様が溺れ死にかけたのだから、さぞ大ごとになったのだろうことはその言葉から十分に伺えた。頭を上げる気配もなく、畳についた指には震えるほど力が入っているらしかった。しかし、そんな謝罪を聞いたところで私の心は1ミリも晴れない。むしろ、自らの機嫌がますます急降下するのがわかった。無性にムシャクシャした。畏まった態度も、土下座も、的外れの謝罪も、何もかもが気に入らなかった。そんなことを謝られたいのではない。

 気付けば、ふるふると自らの唇が震えていた。


「……出て行って。誰も部屋に入ってこないで」

「申し訳御座いません。……後ほど、医者と共に参りますので、それだけは何卒ご容赦下さいませ」


 それだけ言い残して、その女性は静かに部屋から退出した。


 私は一度大きく息を吐き出した拍子に盛大に咳き込んだ。それが落ち着くと、もう一度息を吸い込んで、吐き出し、そのまま後ろに倒れ込んだ。頭がガンガンする。熱いのに寒い。紛うことなき風邪の症状だった。

 しんどいと半目で天井を見上げていると、押し込めてきた感情が水面を目指す泡のように、ぷかりとぷかりと浮かび上がる。


 どうして、こんなところにいるのだろうか。

 なんで、こんな姿になっているのだろうか。

 なぜ、夢は覚めないのか。

 なんでどうしてなぜ何があってなんの恨みがあって誰のせいで、私なのか。


 何も考えたくなんかなかった。考えれば考えるほど何も納得できなくて、なんでどうしてという疑問が際限なく溢れて止まない。意味がわからない。こんなこと、あり得ない。あり得ていいはずがない。それでも、一度抱いてしまった恨みは消えてなくなってなんかくれなくて、ついには視界には膜が張っていた。熱のせいではない熱さが喉の奥で燻り始めている。


「家に、帰りたい……っ」


 思わずポロリと口から零れ落ちた。

 そうすると、視界を覆っていた膜も、同じくして滑り落ちていく。滑り落ちた側からまた膜を作って、そして、また零れ落ちた。喉の奥で嗚咽が鳴く。視界はもうぐしゃぐしゃで、そこにあるはずの天井ももう色しか認識できない。


 私は、確かに、普通の高校生だった、はずなのだ。

 都心から少し離れたよくある自然の残る街並み。古さも新しさもある、都会でもなければ僻地でもない普通の田舎。住宅街の一角にごく普通の一軒家があって、お父さんとお母さんがいて、琴子ことこ——双子のお姉ちゃんがいて。


 お父さんは、口数は少ないけど、いつも優しくて、お仕事大変なのに、いつもにこにこしてて。

 お母さんは、口うるさいけど、いつも私のためを思って言ってくれてて、喧嘩した後のご飯は絶対私の好きな物で。

 琴子は、双子だけど私なんかよりもよっぽどしっかりしてて、真面目で、お人好しで、勉強ができて、私のわがままに呆れた顔をしながらも、なんだかんだ付き合ってくれて。

 私は、そんなごく普通の神楽かぐら家の問題児で。ただ、問題児と言っても、別に犯罪を犯したわけではない。少し勉強が苦手だとか、ちょっと気まぐれでちょっと感情の波が激しいだとか、ちょっとワガママだとか、ちょっと忘れ物が多いとか、そんな程度だ。


「季咲、さてはその顔……、ダメだからね。宿題見せないからね。自分でやんないと季咲のためになんないでしょ」

「えーヤダヤダお願い! 今日当たるのお願い琴子〜〜助けて〜〜〜無理ほんとわかんない〜無理だよ〜〜〜!」

「今日当たるってわかってて、準備してない方が悪い」

「完全に忘れてたのほんとごめん今回だけお願い一生のお願い〜!」

「あんたは何回、輪廻天生を繰り返せば気が済むのよ……、もう、本当に今回が最後だからね。絶対だからね!」

「神様仏様季咲の唯一神最高好き愛してる」

「それももう聞き飽きた」


 いつも最後には、呆れたように笑ってくれる琴子が大好きだった。その笑顔を思い出して、尚更涙は止まらない。琴子に会いたい。お家に帰りたい。ここはどこで私は一体何の因果でこんな目に合っているんだ。なんだこれ。なんなんだこれ。


 両手で顔を覆い隠す。洩れそうになる嗚咽を、必死に押し殺す。


 助けて、琴子。お願い。今度こそ、本当の本当に一生のお願いだから。


 生暖かい水滴が指の間を伝っていく。いつもいつもなんだかんだ何回目になるかもわからない私の一生のお願いを聞いてくれた琴子だがら、何とかしてくれるのではないか。なんの根拠もないそんな願望。当然ながら、叶うわけもなく。

 浅くなる呼吸を繰り返す。空気を取り込もうとすると、ひゅうひゅうと嫌な音が耳につく。


 こんなことなら、一生のお願いをちゃんととっておけばよかった。


 そんなものは見当違いだとは自分でもよくわかっていた。それでも、わかってはいても受け入れることは到底できそうにない。

 お願い助けて。そんな祈りも虚しく、ひ、と喉の奥から殺し損ねた悲鳴が微かに空気を震わせるだけで。


 帰りたい帰りたい帰りたい。嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ。誰にも届かない声を叫び続ける。どれだけ駄々を捏ねたところで、救いは訪れない。

 それどころか、ひたひたと迫っていた不穏な足音は、今、正に背後に立ち構えていて、私の肩に手を置きかけてすらいる。


 それでも尚、嫌だ嫌だと固く目を瞑り、耳も塞ぐ。しかしながら、そんな私の抵抗などなかったかのように、その絶望は塞いだ耳元の更に内側で囁き、閉じた瞼よりも近くで映し出す。


 ——夢じゃなかったら、じゃあ、ここは一体どこなのか。


 音も光も拒絶した真っ暗闇の中で、その絶望の淵だけが、ただゆらゆらと揺れていた。

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