春暮れる日のこと
素晴らしい休日だった。
私は、ひとり娘を連れて、公園に出かけた。
ユキヤナギからサクラの季節を過ぎ、サクラを吹き散らした風があたたかみをぐんと増して、キクモモが濃いピンクの花を枝先に咲きこぼしている。
花の色と同じくらい、空の青さも濃い。
陽光は充分にあたりに降り注いでいる。私は目を守るために、サングラスをかけ、日傘を差していた。
「おひさまから体を守るために、お帽子をかぶりましょうね」
娘は、帽子の縫い目があたって痒いだの、蒸れるだの、五歳なりに理屈をこねたが、結局折れて帽子を被った。
青々とした芝生の海の向こうに連なる大きな木は、風を受けてゆさゆさと梢を揺らしていた。
あまりに大きく枝を広げているので、一枝一枝の揺れはささやかで、樹木が生きてざわめているみたいだった。
昼前の公園には、そこら中から休日を楽しむ親子連れが集まってきていた。父親に連れられた兄妹の姿など見ると、私の胸は痛んだ。
毎日、娘のために割く時間は殆ど無い。家事と仕事の間に保育園の送り迎えが食い込んで、私の日々は今にもはち切れそうだ。
「ママ、滑り台やる」
娘は私の手を握って言った。彼女の手はまだまだ小さく、けれども赤ん坊の頃よりも随分大きくなった。
私は喉に何かが膨れあがってくるのを必死で押さえ込んで、「うん、行こうね」と彼女に答えた。
遊具が置いてある広場には、沢山の子供がめいめい生き生きとした表情で遊んでいた。
着いたなり娘は私の手からするりと柔らかな手を抜いて、お目当ての滑り台にかけていった。
木陰に移動して、娘の背中を見守る。
「ふう」
ため息は、存外に大きく私の耳に響いた。娘は、私とは違ってすぐに友達を作り、仲良く遊ぶ。
娘のための水筒や弁当が入ったリュックを背負って立つ私のまわりには、ご同輩が何人も同じように立っていた。
彼らの視線の先には、きっと彼らの子供がいるのだろう。子供達の五月の陽光そのもののような溌剌とした笑顔に比べ、彼らの表情は日陰のせいか鬱々としている。
それもそうか。子供に付き合うのは疲れるものだ。いくら愛しい子供であっても。
そこここにあるアウトドアブランドの高機能なリュックや、動きやすくデザインされた可愛らしい洋服や、ピクニックにぴったりのすてきな小物たちは、光と影のコントラストのうちにおいては、折り紙細工のようにちゃちで、薄っぺらい。
私は自分自身がまるで空ろな管か、空気でやっと膨らんだボールにでもなった気持ちで、日陰に憩う人々を眺めていた。
しばらくすると、娘が戻ってきた。
「ママ、おしっこ出ちゃう」
「まあ、じゃあ急がなくっちゃ」
私は戻ってきた娘によって、母親の顔を取り戻した。
娘と私は、追い越し追い越されしながら公園内のトイレに向かった。
女子トイレと男子トイレの間に設えられた車いすのマークのついた広い個室のトイレに、娘を先に入らせる。
娘はトイレの床の片隅に死んだ虫がいることを殊の外怖がった。光溢れる園内とは対照的に、トイレはじめじめとして饐えたような匂いが鼻をついた。
用を足し終えた娘が手を洗い始め、私はトイレの引き戸を開けた。
その時である。男子トイレの方から、おええ、うげぇ、と異様な呻きが聞こえてきた。
誰かが吐いているのだ、と私は直感した。
男子トイレの方をちらりと見遣って、男性がいるのが見えた。
私は何でも無い振りを装いながら、気配を窺った。
男性は個室と手洗い場を行ったり来たりしながら吐いている。ちらりと見えたその身なりは、着古した作業着であろうか。薄汚い。浮浪者か。
もしかしたら、アルコール中毒なのかも知れない。
私の視線に気づいたのか、ちらりとこちらを見遣った男と、目が合った。
男は老人であった。老人斑が浮いた顔に、濁った目をしていた。骨の浮き出た顔全体には影が落ち、顎を突き出すようにして立つ男の背骨と腰は、折れたのをボンドでひっつけたみたいによじれていた。
男は嘔吐で喉をやられたのか二三度咳いて、目隠しの向こうに消えた。そして、げええ、げええとまた聞こえてきて、私は怖じ気をふるった。
公園のトイレで吐き続ける汚らしい老人。私は彼と目を合わせてしまった。もし、逆上した男が襲ってきたらどうしよう。目を合わせてしまった。何はなくとも、娘だけは助けなければいけない。
トイレの周りに人はいるだろうか。助けを呼んだら聞こえるだろうか。「ママ、どうしたの」
娘の声は、高く響いた。私は咄嗟にドアの引き戸を閉めていた。
「どうしたの?」
「しーっ、男の子のトイレにね、吐いて……げえげえってしてるひとがいたのよ」
娘はハンカチで手を拭きながら、私のところまでやってきて、言った。
「げえげえしてるの? その人、具合、悪いの? だいじょうぶかなあ。ママ、心配だね」
手洗いの鏡に、青ざめた顔の私が映っていた。
けれど、娘は――私の娘はとても優しくて思いやりのある娘で、お迎えが遅くても文句の一つも言わない、甘えんぼでだっことおんぶが大好きで――娘がいたから、私はどんな辛いことがあっても頑張れたし、これからも頑張れる――そういう私の娘はお友達が熱を出したりすると言う――だいじょうぶかなぁ。ママ、心配だね。
娘がきく度に私は答えた。――きっとだいじょうぶよ。
私は答える言葉を失った。
娘は私のわきをすり抜けて、引き戸を開けた。
爽やかな空気がさぁっと吹いてきて、私は眩しさに目を細めた。
老人は男子トイレから出てきたのだろう。植え込みの向こうに、老人が歩いて行くところであった。立ち止まり、老人はまた吐く。
水のように黄色っぽい液体を植え込みに吐きかけて、一瞬、こちらを見た――見たと私は思う――それから、ゆっくりと陽光によろめくようにして去って行った。
私は老人を見送った。
爽やかなはずの空気に、老人の吐いたものの匂いが混じっているように感じられて、私は立ち尽くした。
娘は私を置いて、遊歩道を歩いて行く。
慌てて追いついた私の腕を引っ張って、娘は耳元に口を近づけると、
「ママ、手品見せてあげようか」
と、いたずらを打ち明けるときのように囁いた。私は自分を襲った動揺を押し隠し、ほほえみを浮かべて同意した。子供と言うものは移り気で、この子は何もわかっていない。
娘はポケットからハンカチを出すと、それを広げた。
「じゃーん、ハンカチは濡れているでしょうか? 濡れていないでしょうか?」
用を足した時に使ったハンカチである。濡れているに決まっている。
「どっちだろう。濡れてないんじゃないかな」
彼女が望むだろう答えを言うと、娘はにやにやしながら、ハンカチを私の腕に押し当てた。ひんやりと冷たいのは、濡れたハンカチが風に吹かれたせいだ。ハンカチは黒地に色とりどりの星が散っている、夜空の柄だ。
「黒いからねえ、濡れても、見えないんだよ」
娘はそう言って私は頷いた。
もとが黒いから、それが濡れて色濃くなっても、判別はできない。
娘と私は並んで遊歩道を歩いていったが、老人の姿はもうどこにもなかった。
私は老人に怯えた。老人に害意を向けられることを恐れた。
見えない害意を、私は老人に見つけた。
それでは反対に、あのように不潔な公園のトイレで一人、嘔吐を繰り返していた老人は、私達親子に何を見つけただろう。
背中をさすってくれたり、「だいじょうぶ?」と声をかけてくれる人の誰もいない老人に、どう映っただろうか。
老人はトイレで吐くことを繰り返していた。それがなぜ、わざわざトイレを出て、植え込みに吐いたのか。
それはきっと、私達が老人をトイレから追い出したのだ。
間違って地上に顔を出して、太陽を恐れ暗いところを探し逃げる土中の虫。
私達はおそらく、老人の目を、孤独を、惨めさを――灼いたのだ。
「ママ、はやく!」
娘は駆けていき、ツツジの花の咲く前にしゃがみ込んだ。
陽光は葉を黄緑に輝かせ、娘はつやつやとした光の珠をその笑顔に纏わせている。
素晴らしい休日で、素晴らしい笑顔だった。
私は自分に問いかけた。この娘の笑顔を、私はどれ程、自分の心に焼き付けていられるだろうか。
なぜなら、闇の中の闇がそうであるように、光の中の光もまた、見えないのだから。