蠢動
ラウンドテーブルに着いた者達は、雪枝を除き皆ぐったりしていた。
新生Saltの練習場である室内から、壁を一つ隔てた廊下。ドアを開け通路を進み、一番奥まった部分にひっそりと存在している部署。――スノウセクションの活動する場所である。
「もうアタマパンクしそうだよ~!」
沙希が口を開くと、
「数字と単語が、脳内をぐるぐる回ってる~」
「さすがにちょっと疲れましたね……」
堰を切ったように、みな喋り始めた。
「ねえ室長、これまだやんの? そろそろ一週間じゃないの?」
室長、と言ったのは大江なりである。雪枝はそのような役職を名乗ったわけではないのだが、この肩書はなりの言い出したもので、彼女はこの呼び方が気に入っているようだった。
今ではスノウセクションのスタッフは、全員なりの言い方をマネして〝室長〟と雪枝を呼んでいる。
「ですね。今日でちょうど一週間。訓練期間は終わりです。みなさま、お疲れさまでした」
雪枝がにっこり笑って言うと、あ~、やった~、等と心から開放感溢れた声が上がった。
スノウセクションの皆が、この一週間おこなっていたのは言ってしまえばおもに記憶力を鍛える地味な訓練であった。
今は学校のない期間なので、朝から晩までみっちり訓練である。
わざわざこのために雪枝が制作した、意味不明の文章の羅列や、スタッフ達が無作為に持ってきた本や雑誌のコピーを読み、その中の特定の数字と単語を記憶する。
軽いミーティングやディスカッション、食事の時間にはテレビ、ラジオを同時に複数流し、なおかつ雪枝の制作した意味不明の音声ファイルも再生する。
しばらくたった後、ランダムで出題される問題に答えなくてはいけない。内容はテレビ、ラジオ、音声ファイル内で話題になっていた人物名、単語、数字を記憶しておいて解答用紙に書き込む、という単純なものだが、なにせ量が膨大なのでみな恐ろしく苦戦していた。出題者はは全員が持ち回りでやり、内容は即興である。
テレビやラジオは録画、録音しておき後から全員で答え合わせをする仕組みだ。
「なんか私、覚えるのクセになっちゃったよ~。家帰ってテレビ見てても。無意識に全部内容暗記してるの。やんなっちゃう」
伊予の言葉を受け、雪枝は〝大変良い兆候です〟と言って心から嬉しそうに笑顔を作る。
「わあやだ、室長ドSじゃん……。ちょっと引いちゃうな」
沙希が冗談交じりに言うと、すぐさま伊予が〝ドエスドエス~! ドエスフスキ~!〟と口を尖らせる。
「ねぇ、室長ホントにズルしてないの?」
「してませんよ」
雪枝はなりの質問にきっぱりと答えた。
雪枝も、スタッフ達と全く同じ問題を解いており、毎回満点を叩きだしていたのだ。
「自分で作ってきた文章や音声ファイルの分はともかく……室長、他のもきっちり全部覚えてますよね。すごいです」
真銀は、はあ、とため息をつきながら雪枝を尊敬の眼差しで見つめる。雪枝は〝た、たいしたことありません〟と応じながら頬を赤く染めた。
記憶訓練の他は、緊急時に使う簡単な暗合のようなものも覚えさせられたが、こちらは比較すると大して苦労はしなかった。
「私、絶対テストの時より頭使った気がする~」
「脳の普段使わない部分使った感じ……。汁が出てそう……」
伊予となりは、目を瞑って天を仰いでいる。
「本当にお疲れさまです。あとは……講師のかたに来ていただいて、作業の合間に簡単な護身術の講習を受けてもらいます」
「護身術っ!? 訓練終わりって言ってたのに~!」
「い、いえ、そんなに本格的なものではないですから……。そうですね、私達はダンスの練習を早めに切り上げさせてもらって、その時間を使い別室で護身術の講習を受けましょう」
沙希の悲鳴のような声を聞いて、さすがに慌てたのか雪枝は急いで付け足した。
「ご、護身術が必要になるような状況があるのでしょうか?」
生唾を飲み込みながら問う真銀に、雪枝は〝あくまで用心のためです。他でも役に立つかもしれませんし。ほら、何かと物騒な世の中ですから〟と言い聞かせている。
「ウチらって、訓練の合間にライブに向けての練習にも参加してたけど……これからもするの? ライブにも出るわけ?」
「最終的なパフォーマンスのクォリティ如何による、と十子さんは仰ってました」
なりの質問に、涼しい顔で答える雪枝。
「ええ~?! ウソでしょ~! ライブに出られるかわかんないのに、歌やダンスの練習もするの~? スノウセクションの仕事もするんでしょ~?」
「出来得る限り並行しておこなうことになります」
「うわ~! 納得いかねー!」
伊予と沙希が、たちまち愚痴を並べはじめたが、
「同じ建物に入っているのに、Saltの中で私達だけ全く練習に参加していない、という状況は不自然ですから……みなさんには大変でしょうが、やっていただくしかありません」
と、雪枝はにべもなく言った。
「だ、大丈夫大丈夫~! 小塚だって、そんなの気にしない……てか、わかんないって~! 室長気にしすぎ~!」
そうそう、あのオジサン色々雑そうだもん~、と沙希に伊予も同調する。
「壁に耳あり、障子に目あり、と言いますからね」
雪枝は穏やかな微笑を二人に向け、ぴしゃりとこの話題を打ち切った。
「私たち、スノウセクションは、この任務を完璧にこなさなくてはいけないんです。細大漏らさず、抜かりなく……。誇張ではなく、一つのミスも許されません。カードで塔を立てるように、万事につけ繊細で注意深い行動が要求されます……。がんばりましょう」
随分タイトだね、と言って、なりは大きいため息をついた。
「室長がそこまでこれに入れ込んでるのって、やっぱ深山さんのためなの?」
「入れ込んでいる、というか、そうですね……」
雪枝はしばらく考えて、話し始める。
「単純にこのやり方しかない、と私が判断したんです。相手が大きすぎますから……。資金力でも業界内の力でも、人数でも圧倒的に向こうが勝っています。小塚さんがたには、出来得る限り私達を過小評価してもらいたいんです。可能であれば、理想的には私達のような部署が存在することを向こうに知られたくありません」
おそらくそれは難しいでしょうが、と雪枝は付け足した。
「まあ、しょうがないか……。室長、私達にやらせるだけじゃなくて自分もやってるもん」
「ねー」
沙希と伊予は、お互いに顔を見合わせながら頷いている。
「スノウセクションのリーダーとしての仕事もやった上で、私達の訓練にも参加しているんですから室長に文句は言えませんね」
真銀の言葉に、みな同調しかけたのだが、
「あ、頭の体操にちょうどいいんです。気にしないでください」
と、照れた雪枝が言ってしまい〝なんだそれー!〟と、沙希と伊予からブーイングが上がった。
「そこまで言っちゃうと、イヤミでしょ」
なりが指摘すると、みんなたまらず吹き出してしまう。
「な、なんだよ?」
なりの動揺した声を聞き、さらに笑い声が大きくなった。妙に子供っぽい、拗ねたような口調が、スノウセクションのスタッフたちのツボを刺激したようである。
「さて、それではいよいよラストスパートです。問題を配りますよ」
一しきり笑って場が和んだあと、雪枝は立ち上がった。
「えっ?! 終わりなんでしょ~? どういうこと?」
「今日で最後、ですから……今日の分は済まさないと」
雪枝が答えると、〝あ~〟〝うあ~〟と、心底うんざりした呻きがそちこちから聞こえてくる。
「あーあ、私、こっちのほうが気楽でなんか面白そう、って思ったのにな……」
瞼を半分閉じ、机に突っ伏している伊予に、
「世の中そんなに甘くはありません」
と、雪枝は爽やかな笑みで言い放った。
あ、お二人ともお揃いですか、と言いながら、週刊誌の記者である芳木羽依が入って来る。
「ええ、お話した通り、月坂さんは少し遅れていらっしゃるようなので……。約束の時間より少し早いですが、始めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
丁が言うと、他二人も快くそれに応じた。
ここは、Saltの練習場のあるビルの近くにある、カラオケボックスである。
丁と、羽依。それに、芸能レポーターである榊原采女が、この場にはいた。
今日、十子は、龍珂とともに、メンバーのレッスンの監督のようなことをしている。十子は、レッスンのスケジュールやメンバー間の調整、龍珂と乙女が直接の講師のようなことをする、というのがSaltのライブに向けてのレッスンの現状であった。
「その、丁さんを目の前にして言いにくいんですが……今の感じではちょっと、汀子さんがデビューするのは厳しそう、ですかね」
まず羽依が、難しい顔をして口火を切った。
「汀子ちゃんの場合、わかりやすいウリがない、というのも問題なんですよね。演技力と度胸の良さを買われて、一旦デビューすることになったみたいなんですけど……。松山さんに睨まれている状態で、あえて汀子ちゃんを使う、っていうほどパンチがあるわけではない、みたいな」
采女は、側頭部をカリカリ掻きながら、わりと遠慮無い発言をする。
「そうですか……」
丁は厳しい表情で、唇を噛んだ。始める前からわかっていたことであるが、汀子の状況は想像以上に多難であることが再認識されたのだ。羽依と采女は、解散する、ということを旧Saltに好意的に報道してくれた、数少ないマスコミ人である。月坂幽に頼んで引きあわせて貰い、汀子の再起に力を貸してもらおうとしているのだ。
汀子がこの場にいないのは、丁と月坂が示し合わせてのことである。汀子は非常な癇癪持ちなので、このような場にはいないほうが良い、という二人の判断であった。
また、幽はともかく丁は、汀子にあまり心良く思われてはいない。
「なんとか松山さんに汀子さんのことをお願いする伝手はないでしょうか?」
「それなんですけど……ウチの編集長は無理っぽいんですよね~。聞いてみたんですけど、あの人松山さんにメチャクチャ嫌われてるんですって。本人がそう言ってました」
羽依が、面目ない、といった様子で答える。
「まあ……最近松山さん周辺については、トバしすぎちゃったからなあ……。本当にごめんなさい」
「あの、私も知ってる限りのコネを使ってみたんだけど」
采女も、遠慮がちに喋り始めた。
「業界関係者は全滅だった。ただどうにかなるかも、ってセンが一つあって、そこをちょっと月坂さんにお願いしてるんだけど……」
「あ、あれ、本当だったの?」
羽依が意外そうに問うと、うん、と采女は神妙な顔で頷く。
「そのセンというのは?」
丁が身を乗り出すと同時に、ドアが開いた。
「悪い悪い、できるだけ急いで来たんだけどね」
良いタイミングで到着した月坂幽に、羽依と采女が今までの流れを説明する。
「ああ、その件なんだけど……一応、会うだけならどうにかなりそうだね」
「どのようなかたなのでしょうか?」
いよいよ色めき立つ丁に、幽は笑いかけた。
「熱心だね、丁。相変わらずだ。君は他人のことになると熱心になる。そういうとこは深山君にとても似てるよ」
「えっ……?」
唐突に自分の話題になり、丁は絶句する。
「君がSaltを辞めたがってたの、ってそういうところもあるんじゃないのかな? 順調に回るようになってきたから、自分が必要とされてない、って風に思うようになったんじゃないか?」
「いえ、最初から活動期間は決まって……」
「深山君と、丁達初期メンバーが決めた? よせよ。そんな口約束、無いも同然だろう? 芸能界なんて引退とカムバックを繰り返してる人間が山ほどいるところだ。ましてや君たちSaltの場合、運営とファンとの間の約束ですらない。仲間内だけのものだ。反故にしたところで、怒る人間なんて誰もいやしないよ」
ましてや、Saltは上がり調子だったんだしね、と幽は付け足した。
「モチベーションが保てなくなったんじゃないか? 続ければファンは喜んでくれるけど、君は仲間に喜んでほしい、仲間を幸せにしたい、って考えるタイプだろう? そのために自分が必要じゃなくなった時、ふっと、力が抜けてしまったんじゃないか? 俗にいう、燃え尽き症候群、みたいな」
「月坂さんは勘違いなさっておいでです。わたくしはそれほど利他的な人間ではありません」
丁は、俯き加減で机を見つめたまま微動だにしない。
「それに、わたくしはわたくし個人が引退したい、と言っていたのではなく、Saltを解散したい、と言っていたのです」
「それは随分思い切ったね」
幽のくすくす笑いに対しても、丁は眉一つ動かさなかった。何か異様な雰囲気を感じ取った、羽依と采女は口を挟むのも躊躇われ、ただただ二人を注視している。
「そうですね……」
少し間を置いて、丁はポツポツと喋り始めた。
「始めは五人だったんです」
「しょ、初期メンバーの話ですか?」
思わず口を挟んだ羽依に対し、丁は〝ええ〟と笑いかける。
「それが、だんだん人気と知名度が上がって、メンバーが増えてきて……。それは不器男さんの定めた方針でもあったのですが、勿論わたくしも反対しませんでした。……いえ、メンバーが増えるのは素直に嬉しかったですね」
丁は、そっとため息をついて睫毛を揺らした。
「その、わたくし、なぜこんな話をしてるのでしょうね?」
「いえ、それはなんとも、私達には」
羽依と采女は互いに顔を見合わせ、慎重に応える。
「何と言いますか、楽しかったんですよ。不器男さんとこれを始めた頃……手作りのような趣があって。みんな真剣で、アイディアがあって……。おそらくあれが、わたくしの人生で一番楽しい季節だと思います」
「十代の子供のいう言葉じゃないぞ」
苦笑して忠告する幽に、丁はそうですね、と鷹揚に返事をした。
「本当に、どうしてこんな話をしてしまったのか……。ああ、要はわたくしは、とても自分勝手でわがままなのだ、と言いたかったのですね。そう。月坂さんが仰ったように、子供なんです。過ぎてしまった楽しい時間は二度と帰ってこない、と頭ではわかってるんですけれど」
ふう、一息ついて、丁は顎を下げた。
「申し訳ありません。とりとめのない話をしてしまって……。あの、ご希望であれば全て終わったあと、まとめてこの辺りの話もしますので……」
「あ、ああ、はい! それは是非お願いします」
「ロングインタビューみたいな感じになりますかね」
采女と羽依は、急に話を振られまごついている。二人は、丁に協力する代わりに、独占的に取材をするという取り決めを交わしていた。
「その、話を戻しますが、采女さんの仰った〝どうにかなりそうなセン〟と申しますのは……?」
「ああ、そうそう。その話」
幽は、ようやく本題に入れる、と身を乗り出す。
「芸能界関係から、松山さんに近づくというのは現状ほぼ無理筋なんだけど、色々聞いてみたら一つ抜け道があるらしくてね」
はい、と相槌を打ちつつ、丁も顔を寄せた。
「松山さんが、母親を大事にしているのは知っているだろう?」
「ええ」
松山一大の親孝行は有名な話しであった。父親が亡くなってからは対象が母親一人になり、ますます孝行に拍車がかかっているという。
「そのご母堂が、懇意にしている住職が居てね。柳光和尚という方らしいんだが……。現在松山家のアドバイザーのような立場になっているらしい」
「では、そのお坊様が……?」
「ああ、この柳光和尚が口添えすれば、汀子ちゃんのデビューも解禁になるかもしれない」
おお、と室内に歓声が上がる。
「これが連絡先だ。会ってくれるかどうかはわからないが……。ここから先は丁達がやってくれ。私が出来るのはここまでだ」
「いえ、これだけやっていただけたら充分です。本当にありがとうございました」
丁は深々と頭を下げた。お礼の言葉は嘘偽りのない本心である。
「あの、我々はあまりお力になれず……」
申し訳なさそうに、采女が口を挟む。
「いえ、お二人にも感謝しております。ただこれから先、もしかしたらお力を貸していただけることがあれば……」
「ええ、ええ、その時は喜んで!」
羽依は、急いで相槌を打ち、
「ただ、本職に差し触りがでる程のご協力はできないかもしれません。Saltには極力便宜を図るようにはいたしますので……」
と、恐縮しながら縷々と述べた。
丁はお礼を言いながら、内心自分に対する不甲斐なさを感じていた。声には出さず〝結局スノウセクションに頼ってしまうことになってしまいますね……〟と愚痴を呟いてしまう。
丁は、基本的にスノウセクションにはあまり負担を増やしたくないと考えているのだ。
十子がスノウセクションの設立を言い出した時、反対していたはずなのだが、いつのまにか雪枝たちをあてにしてしまう自分が歯痒い。
会合がおひらきになり、四人はカラオケボックスを出た。
丁はこの後、Saltのレッスン場に顔を出すことになっている。
今まで居たカラオケボックスと近かったこともあり、幽と他二人は、レッスン場のあるビルの前まで丁を送ることになった。
軽く別れの挨拶をしている丁が、不意に前のめりに倒れそうになる。
後ろの階段から誰かが、背中が飛びついてきたのだ。
「大丈夫か!?」
幽が慌てて、丁を支えた。
「な、なに?」
「け、けっ、警察呼びますよっ!」
羽依と采女は、不審者かと思い携帯電話を取り出している。
「あ、あ、あの、大丈夫です……」
丁も、最初は驚いたようだが、今では落ち着いていた。ううーっ、と呻いている背後の人物に心当たりがあるようだった。
「じらぐざああぁぁん! どうじでごえがげでぐでないんでずがー!!」
「数凪……その、人目を気にしてください」
嘆息しながら、丁はその人物を自分の背中から引き剝がしにかかる。
「だっでぇ! わだじががえるばえにぞるどががいざんじだだげでもじょっぐだっだのでぃ……」
まだ嗚咽を漏らしている娘に、ハンカチを貸しながら〝ほら、涙を拭いて〟と丁は優しく声をかけた。
「あ、あの、もしかして、縁間数凪……さん?」
羽依が恐る恐る訊ねると、
「ぞうだけど……あんた誰?」
と、数凪が鋭い視線を向ける。
「数凪、この方々は、わたくしたちに力を貸してくれているのです。無礼な態度は取らないように」
丁がやんわり注意すると〝あ、すいません〟と、縁間数凪は申し訳程度に頭を下げた。
「あーっ!」
と思うと、いきなり大声を上げ、幽に人差し指を向ける。忙しい娘である。
「月坂さんもいるー!」
「来なくていい」
駆け寄ろうとした数凪を、幽はきっぱりと押し止めた。
「その……別にあなたを仲間外れにしていたわけではないのです。落ち着いたら呼ぼうと思っていたのですよ。誤解しないでくださいね」
幽に拒絶され、しょんぼりしている数凪に丁が語りかける。
「だいたいどうしたのですか? こんなところで。レッスン場の場所はわかっているのでしょう? わたくしを待つにしても、上で待っていればいいではないですか」
「なんか正式に白楽さんが復帰を認めなきゃ入っちゃダメだ、って、乙女が中に入れてくれなかったんです」
言いそうなことだ、と思い、不意に緩みそうになる頬を、丁は必死で引き締めた。
「乙女も別にあなたが憎くて言ったわけではないと思いますよ。あの娘も変なところで真面目で、ケジメみたいなものを重視しますから……。ところで、十子は何も言わなかったのですか?」
「土佐さんもなんか〝それでいいんじゃない? 丁にまかせよう〟って……」
またわたくしに押し付けて、と、丁は心中で呟いたつもりだったが、声に出ていたようで、
「押し付けるとか言わないでくださいよぉ! 傷つくんですからぁ!」
と騒ぎ始めた。
「なんかとりこんでるみたいだね。私達はお暇しようか」
采女も羽依も、月坂に異論はない。困っている丁を放っておくのも忍びないが、Salt内部のことだから、と割り切った。
「なんか、劇的な場面に出くわしちゃったみたいね」
「あーっ!」
羽依は突然大声を上げ、立ち止まる。
「ど、どうしたの? 急に」
「写真撮っとけばよかった、って思って……。まだ間に合うかもしれないから行って来る!」
采女は、回れ右して駆け出す羽依の手をとった。
「やめときなって! 後から話聞くだけでいいでしょ!」
「でも……」
「ダメダメダメ」
とりつくしまもない采女の様子に、ついに羽依も諦め二人と同じ方向に歩を進め始める。少し距離を行ったところで、幽が口を開いた。
「数凪は感情表現が豊かだから、ああいう場面を撮っておけばウケやすいとは思うけど……まあ、私もやめておいたほうがいいと思うね」
「あ、なんかお知り合いみたいでしたね」
幽は采女の問いかけに軽く頷き、
「うん。わりと最初のほうからSaltにいたから知ってる。いいヤツなんだけど……。その、ちょっと苦手なんだ。うん……いいヤツなんだけど」
「月坂さんって、ぐいぐいこられると引いちゃうほうですか?」
羽依はついつい不用意な発言をしてしまい〝余計なこと言わないの〟と、采女につっこまれた。
幽たちが去った後、丁とやっと気持ちが落ち着いてきた数凪は共に、レッスン場に向かって狭い階段を登っていた。エレベーターもあるのだが、数凪の頭を冷やすためもあって、あえて階段を使ったのである。
「あ、これ洗って返しますね」
階段を上がりながら、数凪は貸して貰ったハンカチを示しながら言ったが、丁の返答は〝差し上げます〟と素っ気ないものであった。
「来たか、千里」
兵藤千里が部屋に入ると、伊都は背中を向けたまま、こう声を掛けた。
千里は、長尾伊都のマネージャーをしている人物である。
伊都はまだ十代であり、当然千里よりもかなり歳若いが、このような喋り方をする。
このような伊都の態度を、傲岸不遜と捉え毛嫌いする者もいたが、千里は基本的にこのマネジメントを担当しているタレントのことを好いていた。何かこの、幼さの残る娘の気位の高さは見た目とのズレもあり、可愛いとすら思っている。
「頼みがあるんだ」
振り返った伊都は、いつになく真剣な表情であった。千里は〝なんなりと〟と簡潔に返事をする。
「しばらく、父上の元へ行ってくれないか?」
「……? 小塚様の?」
思わず、千里は聞き返してしまう。今までこんなことを頼まれたことはなかったし、だいたい系列は同じであるものの、伊都の所属している事務所と小塚の事務所は別会社である。
「ああ。その……Saltの残党が何か動いているようでな」
「動いている、と言いますと?」
「どうも、深山汀子のデビューを画策しているらしい」
「深山様の……!」
もちろん千里は、深山汀子が例の深山不器男の妹であることは知っていた。女優で、映画で初の主演が決定する寸前の汀子が松山一大と小塚幸生に邪魔されて、その話が無くなってしまったことも知っている。
知っているだけに、頭の中に疑問符が次々に浮かんてきてしまう。
「それは……誰が動いているのでしょう? Saltの中の誰が……?」
「はっきりしないのだが、おそらく白楽丁が中心になっている」
「丁様がですか? それはおかしいと思います」
「当たり前だ。私をバカにしているのか? 千里」
いえいえそんな、と千里は真面目に否定した。
「丁はそんな愚か者ではない。今更何をしようが汀子のデビューなど不可能だということはわかっているはずだ」
「そうとは言い切れないと思いますが……」
千里の考えは、少し伊都とは違っていた。
可能性は非常に低いが、汀子の再起は有り得る話だと思っているのだ。ただ、丁が熱心にそんなことをやる理由が薄いのではないか、と考えていた。
千里は、丁と付き合いがあるわけではないが、最近伊都がいつも憎々しく語っていたのでSaltの中心メンバーの性格については割と詳しくなっている。ある程度人づてに話を聞いて情報を集めたりもしていた。
「月坂様が色々してらっしゃるのは知っていましたが……」
あれは義理人情で出来ているような人間だからな、と伊都はため息をつく。
「その月坂幽と丁が組んでいるようなのだ。というか、丁のほうが主になって動いているらしい」
「月坂様に引っ張られて……ということでは?」
「たわけ。丁は誰かに引っ張られるようなヤツではない、と言っているのだ。落ち着いているというのか、動じないというのか……まあそれはいい」
苛々した様子で、伊都は五月蠅そうに手を振る。
「何か嫌な予感がする。はっきりとはわからないのだが……。しかし父上は豪気なお方だからな。私が忠告しようとしてもまともに聞いて貰えない」
伊都は厳しい目をしていた。心から幸生を心配しているのが伝わってくる。
「伊都様。余計なことかもしれませんが言わせていただきます。お父様のゴタゴタに関わるのは、もうおやめなさいませ」
「本当に余計なことだ、千里。分をわきまえよ」
「いえ、続けさせてください。担当のタレントの暴走を諌めるのも自らの役目と心得ております」
良い機会なので、きっちり伝えておこう、と千里は思った。
「今回の出来事は先に手を出したのが向こうなので、非は確実に深山様にありますが、小塚様の発表なされた声明のこともあり、世間では次第に深山様とSaltへの同情の声も高まっています」
「衆愚どもが何を囀ろうと知ったことかよ」
伊都は吐き捨てるように言う。
「あなたのご職業はなんですか? 芸能人というのは、その衆愚どもの落とすお金をいただいているのです。小塚様に引きずられ伊都様にまで非難の声が飛び火したら、致命傷になりかねません」
間を置いて
「伊都様、今はご自分のことを優先なさいませ。それが結果的には孝行の道にも繋がりましょう」
千里は根気よく諭した。しばらくの沈黙の後、言いたいことはそれだけか? と伊都は口を開く。
「行くのか? 行かないのか? お前が行かないのなら、他の者に行かせるだけだ」
「……いえ、私が参りましょう」
やはり無理だったか。
千里の胸中は、暗澹たる雲に覆われていた。せめて、この歳若い自分の担当タレントに余計な火の粉がかからぬよう守らなければ。
「行ってくれるか!」
さっきまでのふくれっ面が嘘のように、伊都の表情がパッと華やぐ。千里は、伊都のこういう単純なところがとても気に入っていた。
「そうだな、千里は丁に直接会ったことはなかったか?」
「ええ……ステージ上の丁様は拝見したことはありますが」
「話したことはないだろう? 一度会っておけ。どんな人間が分かるだろう。手配はしておく」
伊都は弾んだ声でどんどん話を進めていく。
「その、すまないな」
用が済み、退室しようとしていた千里に、伊都はしおらしく声をかけた。
「父上はおそらく、お前の言に耳など貸さないだろう。……私の忠告さえ聞かないのだからな。千里にとっては針の筵かもしれない」
伊都は千里に頭を下げる。
「本当に悪いと思っている。私が行ければいいのだが……。ただ、世間で何と言われていようが、私にとってはこの世でたった一人の父上なんだ。何か危険が迫っているのなら、守りたいと願っている」
「頭をお上げください、伊都様。あなたにそんな恰好は似合いません」
千里は一歩踏み出し、伊都の前に立った。
「私はいつでもあなたの味方です。伊都様が本気で願っていることなら、喜んでお力になりますよ」
語りかけながら千里は伊都の頭を抱き、一瞬だけぎゅっと力を込める。
すまない、と伊都は千里の腕の中でもう一度繰り返した。