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凍蝶  作者: 八花月
2/18

破局

「深山が、父上にそんな無礼な口を聞いたのですか?!」

 まだあどけなさの残る少女は、この場に父親と二人しかいないからか、激しい憤りを隠そうとしない。

 少女の父親……小塚幸生は憮然とした表情で口を結んでいる。

「あのような若輩者が……。身の程知らずな!」

「伊都、いくら何でもお前が若輩者はないぞ」 

 幸生は、目の前の少女の意気軒昂に思わず噴き出してしまった。苦笑しつつたしなめる。

 深山不器男は、Saltの知名度が上がるにつれ多少頭角を現してきているとはいえ、幸生に比べれば吹けば飛ぶような若手である。 しかしさすがにこのような、まだ年端のいかぬ少女に若輩者呼ばわりされる程の駆け出しではなかった。

 笑われた少女はしゅんとしてしまう。彼女の名は長尾伊都(ながおいと)。小塚幸生の実の娘である。

 離婚の際、母親についていったので名字は違うが、親子仲は良好なのであった。

「しかしさすがに少しな……。あのような若造に何を言われようと気にはならないのだが」

「そうでございましょうとも」

 伊都は熱心に相槌を打つ。

「だが、松山さんの前で恥をかかされた形になったのは我慢ならないんだよ」

「なんと! 松山様の御前での出来事でしたか!」

 伊都の心に、またもや沸々と怒りが生じてきたようであった。

「深山君は最近、松山さんのお気に入りだからな……。まあ、Saltは結果も出でいることだし」

 幸生は伊都に聞こえないような、小さな舌打ちをする。

「笑止! 残した業績であれば父上に及ぶところではございますまい」

 確かにそれは伊都の言う通りであった。

 芸能界で、プロデューサーとしての小塚幸生の名を知らぬ者はいまい。それほど輝かしい経歴を持つ男である。ただ最近は〝往年の大物〟のような扱いを受けることも多く、以前ほどの影響力を行使できないのも事実だった。それを知ってか知らずか、伊都は父親である幸生を褒め称えてくれる。嬉しくないはずがなかった。

「まあ、機会があれば少々お灸を据えてやってもいいかもしれんな……」

 幸生がこのように言ってしまったのは、あながち全て伊都のせいには出来ない。

ささやかなきっかけの一つにはなったかもしれないが。

 

「深山くん、調子いいらしいね」 

不器男は、事務所で話しかけられたので顔を向けると、サングラスをかけた女が立っていた。女優の月坂幽である。何カ月ぶりだろう。

「あの娘たちは私も好きだよ。こないだのライブもよかったよね」

 幽はSaltについて話しているのだ。

「来てくれてたの?」

 楽屋にも顔を出してくれれば良かったのに、と不器男は付け足した。

「ただ、最後にちょっと余計なのがくっついちゃったけど。アレがなければもっと良かった」 

 ハハハ、と幽は明るく笑う。hasのことを言っているのだ。対照的に、不器男の表情に少し翳りが差した。

「盾突くような態度をとったらしいじゃないか? かの老人は、だいぶお冠だったそうだぞ」

「冗談じゃないよ」

 不器男はため息をつく。迷惑を蒙ったのはこちらのほうだ、と言いたかった。

「君の気持ちはわかるけどね。小塚幸生が怒っているのは確からしい。私の聞いた噂ではSaltを潰したい、とまで言ったそうだよ」

 月坂幽は不器男の幼馴染である。良き友人として相身互いに何かあった時は相談し合う仲であった。

「まあ充分に注意することだね。あの老人、なかなかしつこい性格らしいからな」

「……小塚さんには、お世話になったこともあるんだ。あまり悪く言いたくはないんだけどね」

 不器男は、ほんの駆け出しの頃に幸生に業界のイロハを教えてもらったことがある。その頃のことは、素直に感謝していた。

「ああ、舘君と一緒に良くくっついてたね」

 幽の言った舘とは、不器男が新人の頃、組んで色々やっていた他事務所の人間である。

 今はもう、あまり会うこともないが元気でやっているだろうか、と考えていると、

「状況が変われば人も変わるぞ。昔良い人間だったからといって、ずっとそのままとは限らない。まあ、小塚は元々のデキもちょっとわからないと思うけど」

 幽がため息をついて、髪を掻きあげながら言った。

「深山君、Saltを守りたいならそういう甘さは捨てた方が良いかもしれない」

 〝いや、私が口を出すことじゃないか〟と笑い、幽は去っていく。不器男はその背中に、ありがとうとだけ投げかけた。

 数日後、幽の心配は現実のものとなる。


 不器男が急な呼び出しを受け、松山一大の部屋のをノックすると中から〝入りなさい〟と横柄で機嫌の悪そうな声が聞こえてきた。

「君はいったい、何を考えているんだ!」

 開口一番で、一大の声が耳に飛び込んでくる。

「何のお話ですか?」

 不器男は本心からそう言ったのだが、それがいよいよ一大の逆鱗に触れる結果となった。

「君と白楽丁のことだよ!」

 一大は拳を振り上げる。そのままデスクに叩きつけるかと思われたが、ゆっくりと下ろした。辛

うじて理性が勝ったと見える所作であった。

「白楽……丁がどうしましたか?」

「こっちがそれを聞いてるんだよ!」

 再び激昂し、一大はため息をつく。

「君と白楽が恋仲だという噂が広がっている」

「え……?」

 あまりのことに、不器男は唖然としてしまい呆けたように黙ってしまった。

「そ、それは、週刊誌か何かに記事として掲載されたんですか?」

「事実なのか?」

 一大は不器男の質問には答えず、苦々しい口調で言う。

「事実なわけがないでしょう! どうして、折角今上がり調子の担当アイドルに手を出さなきゃいけないんですか? だいたい僕は既婚ですよ?!」

「そこも非常にマズいところだ。ただの恋愛ならまだどうにかなるかもしれんが……不倫となるともう、マイナスイメージを払拭するのは、ほぼ無理だろうな」 

 一大は大きな音を立てて舌打ちした。

「白楽丁は、アイドルをやめたがっていたらしいじゃないか? それも今回のことの伏線のように、まことしやかに囁かれている」

「丁がやめたがっているのは、元々そういう約束だからですよ!」

 大衆は面白いほうの話に飛び付くもんさ、と一大は鼻を鳴らす。

「その話は、どこかのマスコミが?」

 不器男は、再度聞き直した。

「いや、業界内で非常に信憑性のある噂、として流れているだけだ。だがまあ、こうなると時間の問題だろうな」

「噂の出所はどこなんでしょうか?」

「それは今の所ちょっとわからん……もう一度確認するが、事実ではないんだな?」

「違います!」

 はっきり言うと、一大は〝そうか、信じる〟と短く応えた。

「奥さんを大事にしろよ」

 静かにそう言われ、不器男は部屋を出る。

 どうやら、一大の怒りは一応峠を越したようでほっとしていたが、何か釈然としない気持ちも残った。全く身に覚えのないことで叱責を受けた、ということもあったが、最後の一大の態度に何

か諦念のようなものを感じたのだ。

 彼はSaltを諦めたのだろうか?

 それは、しょうがないといえばしょうがないことだ。営利目的でやっているのだから、これ以上や

ると自分の事務所が損害を蒙る、と考えるのは仕方のない話である。丁が辞めて体制が変わるの

なら、先のことはともかく一時は確実に人気が落ちるだろうし、ここらで手を引くという判断は

理解できる。

ただ、もう少しは守ろうとしてくれても良いのではないか?

 自分の考え方は甘いのだろうか? と不器男は自問する。自分のことは良いのだ。どうとでもなる。

 しかし丁は、いや他のSaltのメンバーも、アイドルを辞めてもその後の人生は続いていく。

 スキャンダルでボロボロになって辞める、などというのは下の下ではないか。

 不器男の頭の中を、そのような考えが巡った。

 Saltの面々は事務所所属の契約はしていない。

 かといって、養成所の生徒というわけでもない、という非常に曖昧な立場である。Saltそのものには『研修生』と呼ばれる立場の者達はいるが、それは単純に正規メンバーに対する『二軍』『補欠』というほどの立ち位置である。

 元々素人でアイドル活動していた学生達を、不器男がスカウトしてきたのがそもそもの始まりであった。

 ただ、最初にスカウトされた丁達が『自分達はプロになるつもりはない』とはっきり明言したから、このような特殊な関わり方になってしまったのだ。

 期間を決め、それが終わればアイドル活動とはすっぱり縁を切る。養成所に通っているわけでは

ないので事務所に金は払わない。

 プロデュースやマネージメントは不器男個人と松山一大の事務所に一任。時々小塚幸生がコンサルタントのように口を出し微調整する。芸能活動で得た報酬は一切受け取らない。大雑把にいうと、Saltと事務所はこのような関係である。

 報酬を受け取らない、という部分で随分Salt側に不利なようにも思えるが、プロデュースやマ

ネージメントにはそれなりに金がかかるので、実際そこまで不平等な約定でもなかった。

 事務所の者の中には、ただで宣伝してやっているようなものだ、と皮肉る人間もいた。

 不器男は、センスのない嫌味だ、くらいの気持ちで聞き流していたが、実際Saltが売れてくると、メンバーのトップクラスには他事務所からのスカウトがやってきたし、決して大袈裟な物言いではなかったのだということが理解できた。

 Saltに関することは全て不器男の責任でやっていることで、一大の事務所に迷惑をかけたつもりはない。

 知名度に比してメディアへの露出は極端に少ないものの、メジャーレーベルから出したCDの売れ

行きは好調だし、ライブのたびに行われる物販もいつも完売だ。

 経営的には確実に黒字だし、事務所の名も上がった。丁の意志は堅そうだが、もしかしたら人気メンバーの中にアイドル活動を続ける道を選び、この事務所に正式に所属する者もいるかもしれない。決して万事順調というわけではないが、松山一大の事務所にはかなり貢献しているグループであると不器男は自負している。

 それが、このようないいかげんな噂で、簡単に切り捨てられていいわけがない。

 表にこそ出さなかったものの、不器男の心の底では自分や松山一大に対する忸怩たる思いが煮

え滾っていた。


 平成二十九年、三月十四日。事が起こった日付である。

 この日のことは、尾川一夜というTV局のバイトスタッフが、詳細に書き残している。

 彼女の他にも目撃者は多数いた。しかし彼女はある意味、偶然の産物ではあるが当事者の一人というポジションにあったので、信憑性が高いと多くの人は判断した。

 他の情報源も合わせ構成したものを、以下に書き出してみよう。

 

 ある大手民放TV局の中を、不器男が歩いていた時のこと。この日はSaltの用事ではなく別件で局に来ていた。

 不器男はその時、疲れきっていた。白楽丁と自分に関する噂の発生源を調べていたのだ。

 通常の業務を休めるわけではないので、その合間合間に細かく時間を作り色んな人間に話を聞いていた。みな巻き込まれたくないのか口が重いし、不器男は自分の責務としていちいち噂を否定していかなければならない。

 それにしても一大の言っていた通り、噂は業界内ではかなり人口に膾炙していた。

 このままでは、週刊誌の記者等に嗅ぎつけられてしまうのも時間の問題と思われ、不器男は焦燥感に追い立てられている。

 早く、噂を根元から断ってしまわないと……。

「おい、それはなんて顔だ?」

 不器男が振り向くと、月坂幽が衒いのない眩しい笑顔で立っていた。

「まったく、落ち武者のようなツラでフラフラしてるんじゃない。ただでさえ、ここは戦場だ。カラ元気でいいから明るく振舞ってくれなきゃ、見てる方まで辛くなってしまうよ」

「月坂……!」 

 不器男は不覚にも泣きそうになってしまった。

「おっと、みっともない真似はするなよ」

 言い聞かせるように言うと幽は不器男の肩を掴み、人の少ない方に引っ張って行った。

「嗅ぎ回ってるようだね、深山君」

「嗅ぎ回ってる? 人を芸能レポーターみたいに言わないでくれ!」

「いや、悪い悪い。私の言い方がまずかった」

 幽は、ため息をつきながら雑に謝った。

「深山君が、あの娘達のことを一番に思って行動してるのは良くわかってるよ。ついでに噂が全て根も葉もないことだ、っていうのも」

「……僕のほうこそ、子供みたいな物言いをして悪かったよ。ちょっと疲れてて」

 不器男も深呼吸し、素直に頭を下げる。

「無理もない。状況は一向に芳しくないからね」

 幽は声のトーンを一段下げた。

「深山君、あまり派手に動くのはよせ。藪をつついて蛇を出すことになるかもしれない」

「それはわかるけど……何もしないわけにはいかない」

 不可解なことを言うな、と不器男は思った。放っておいてもどうにもならないし、騒ぎが大きくなるであろうことは目に見えている。

「……何か知ってるのか?」

 幽は考え無しにこんな助言をする人間ではない、と不器男は思い当たった。恐らく何か掴んでいるのだ。

「まあ、知っているといえば知っているんだけどね」

 幽は珍しく言葉尻を濁した。

「とにかく私も今動いてるんだ。出来るだけのことはする。約束するよ。少しだけ私を信じて待っていてくれないか?」

「わかった」

 不器男は素直に頷く。

「ただ、誰が噂を流したのか教えてくれないか?」 

 続いた言葉を聞いて、幽は一瞬押し黙った。

「必要ないだろう」

「そういうわけにはいかない」 

 不器男はあくまで食い下がる。

「約束は守る。幽が信じて待っていろというなら待ってる。ただ噂の出所は知っておきたいんだ。今後のためにも」

「……まあ、対応の参考にはなるかもしれない」

 幽のわかったようなわからないような返事に、不器男は、ああ、とだけ返事をした。

「小塚のご老人だよ」 

 幽は、そっと顔を近づけ耳打ちする。

「小塚さんが……?」

「信じられない、って顔だね。私は深山君が信じられない、ってのが信じられないよ」

「しかしなんでまた小塚さんが……。あの件でまだ怒ってるってことかな」 

 幽は瞼を閉じ、深く深呼吸した。

「怒ってるってことかな? じゃないよ。前にも私が忠告しただろう?」

「あんなことくらいで根に持って、こんなことをするなんて信じられないよ!」

 大きな声を出すな、と叱責し、幽は言葉を継ぐ。

「元々の性格もあるが、歳をとって意固地になってるんだよ。ま、次からは気をつけることだね」

 そう言い残し、幽は去って行った。

 

 局での用事が済み、不器男は玄関ロビーを足早に通り過ぎようとしていた。来る時に比べ、幾分か心も歩調も軽くなっている。

 とりあえず、噂の発生源がわかったのだ。今までの五里霧中の状況よりは、だいぶマシである。

 ふと、足が止まる。ちょうど建物に入ってくる小塚幸生が目に入ったのだ。

 不器男は一礼して行き交おうとしたが、

「小塚さん、お聞きしたいことがあるのですが」

 一瞬の逡巡の末、声をかけてしまった。

「噂について……。Saltの白楽丁の噂について、ご存じですか?」

「……知らんね」

 幸生は、わざとらしく中空を睨んだ後、こう答えた。

「全く根拠のない噂のせいで、丁が苦境に立たされるかもしれないんです。この先小塚さんが何か聞いたとしても、無視してくださるとありがたいのですが」

「そんな具体性のない曖昧なことを言われても、なんとも言えんよ」

 不器男は、わかりました、と言い軽く頭を下げた。この〝わかりました〟は、やはり噂を流したのはあなただったのですね、という意味と、あくまで惚けるつもりなのですね、という二つの意味が

込められている。

 この幸生の態度を見て、不器男はほぼ幽の言ったことは本当だな、と確信していた。

 幸生は決して不器男と目を合わせようとせず、早口だった。存外に気の小さいところがあるようだ。

 二人が別れ、逆方向に歩き始めた瞬間〝父上!〟と大きな声が、玄関ホールに響いた。

 女優件バラエティタレントの長尾伊都である。幸生の実の娘であった。

 業界では、親子仲の良いことで有名である。不器男も気にせず玄関口に向かおうとしたが

「ほほう。あの男、Saltのプロデューサーをやっている深山ではありませんか?」

と、伊都の大きな声が聞こえ足が止まってしまう。

「……そうだ」

 幸生は少し躊躇した後、答えた。

「見ると、なかなか憔悴している様子。父上の策が図に当たったようですな」

 伊都の声は大きい。自然、周囲の人々の足が止まる。

「ああ、そうだな」

 幸生は窘めることもなく、伊都に頷いて見せた。

「これで彼も、目上の人間に対する態度を学んでくれればいいんだがね」

本来、幸生はこのような場所で他人を侮辱するような性格の人間ではない。表では愛想よく、陰で様々な画策をするタイプである。ただこの場合、娘の前で自分を図太く見せたいという心理が働いてしまったのであろう。それを聞いた伊都は、ハハハ、と甲高い声で高笑いする。

「左様でございますな。小物は小物らしく、大人しくしておれば斯様な目に合わず安穏としておれましたものを」

「まあ……自分の不始末で白楽丁とSaltを危機に追い込んだわけだからな。彼も勉強になっただろう」

 不器男は聞かぬ素振りで歩いていたが、幸生の次の台詞が彼の逆鱗に触れてしまった。

「まあ、正直私は自分の印象を喋っただけだ。証拠はないが、これだけ広まったところを見ると、皆薄々感じていたことではないのかな? 火の無いところに煙は立たないと言ったところか」

 不器男は回れ右し、ツカツカと幸生に近づいていく。

「訂正してください」

 不器男は静かに幸生に詰め寄った。

「何を訂正すればいいのかね?」

 幸生は冷静を装っていたが、若干自分の発言を後悔し始めている。

「ご自分でも、ご自分の触れまわったことが何の根拠もない、とわかっているのでしょう? それなら、訂正して回ってください。あなたが話して回った人達に」

 不器男の何か尋常でない様子に、周囲の人間も足を止め見守り始めた。

「な、何の話か……」

「下郎、何をするか! 身の程をわきまえろ!」

 伊都が叱りつけるが、不器男は意に介さない。

「さっき仰ってたじゃないですか。聞こえましたよ。証拠はないけど自分の印象を話しただけなんでしょう? 謝罪しろとは言いませんよ。ただ、訂正してください。迷惑しています」

「君が駆け出しの頃、色々世話をしてやったはずだがな。これだから恩知らずは困る」

 ここまで言われた以上、幸生は引けなかった。

「隙があったということだ。こういう目に会うというのはな。君もそうだが、あの丁という娘も学習することだ。普段の態度、振舞いに現れるんだよ。下劣な感情というのはね。たとえ口には出さずとも……」

 幸生は最後まで言えなかった、不器男の拳が鼻頭にめり込んだのだ。噴き出る鼻血を手で抑えながら幸生は背中から倒れ込む。

「貴様!」 

 伊都が飛びかかるまでもなく、不器男は背後からTV局のスタッフに首根っこにしがみつかれ、動

きを封じられた。

 女性スタッフで軽いからか、完全に取り押さえることは出来ない。不器男はなおも幸生に対する

加害を続けようとしていたが、集まって来た数人に羽交い絞めにされ間もなく抵抗をやめた。

「きゅ、救急車を……」

「いらん!」 

 オロオロしている伊都に一喝し、幸生はスタッフに肩を借りながら局の奥に向かう。応急処置で充分だと思ったのだろう。

 

「どうしたんだ? この騒ぎは」

 突然慌ただしくなった局内に驚き、幽は走ってきた女性スタッフに問い質した。

 彼女は、背中から不器男の首にしがみつき、幸生に対する暴行を止めた人物である。名を尾川一夜(おがわひとよ)といった。

「あ……よくわからないんですが、急に……深山……不器男さんが、小塚さんに殴りかかったんです。私、ちょうどその場に居て……後ろから必死で深山さんを抑えたんです」

 幽は、しばらく無言で一夜を見つめる。

「止めたのか?」

「はい。もうホントに無我夢中で……深山さん、あのままだとまだ小塚さんに暴力を振るいそうな勢いだったので……」

「やらせてやればよかったものを」

 幽は、ため息とともに言葉を絞り出した。

「えっ?」

 一夜は聞き違いかと思い声を上げたが、幽は何も答えなかった。


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