夢の放物線
走り幅跳びの知識が薄いので、詳しくない方でも読んで頂けると思います。逆に、詳しい方には物足りないかもしれませんが、ご容赦下さい。
遠い夏の日の記憶。
炎天下のグラウンドは、夕方だというのに容赦なく降り注ぐ太陽の熱を反射しながら、ユラユラと揺れていた。
合間なく鳴き続けるセミの群れ。
見上げると、大きな入道雲が大空から見下ろしていた。
こめかみ辺りから流れ出る汗を、シャツの袖で拭った。
遠くで彼は右手を上げた。
オレンジのランニングシャツと短パン。
その右手が降りた時、これから何が始まるのかドキドキした。
彼は風を切りながら、もの凄いスピードで走ってくる。
まるで川原土手から見る電車のように、前を向いて一直線に走ってくる。
加速するスピードに比例するように、僕の心臓もどんどん高鳴る。
次の瞬間、彼は力強く大地を蹴った。
その体は、重力に逆らいながら大空に舞い上がった。
目の前を飛んでいくオレンジが、一瞬だけ僕に降り注いでいた光を遮り、僕は彼の影に包まれる。
その美しい放物線は、ずっと遠くの砂地に降り立った。
彼は足についた砂を払いながら、僕ににっこりと微笑む。
体の底から込み上げる興奮で、僕は言葉もなく彼を見つめる。
僕も飛びたい。
その時、押さえられない欲求が芽生えた。
杉野翔太が走り幅跳びを始めたのは、小学四年生の頃からだった。
以来、中、高と陸上部に在籍し、高校のインターハイでは二位に入った。
大学に進学しても陸上を続けた。
選手権で入賞した事をきっかけに、陸上部のある中堅の建設会社にも就職できた。
大手の実業団のように、陸上だけをしていれば良いという訳ではなかったが、コーチや専門のスタッフを抱え、充実した毎日を過ごす事ができていた。
そんな順風満帆な人生も、入社二年目に悪夢が待っていた。
練習中に、ハムストリング筋断裂を起こし、半年間のリハビリ生活を余儀なくされた。
その他にも、半月版損傷や足首の疲労骨折など、翔太の体は長年の選手生活でボロボロになっていた。
それでも二十七の歳まで陸上に情熱を注いできた。
実業団の大会でもそこそこの成績を収め、アジア大会に選抜された事もあった。
しかし、二十七という年齢は、翔太の競技者としての限界を噂するには充分な年月だった。
翔太は午前中の業務を終え、いつものようにグラウンドにいた。
念入りにストレッチを行い、ランニングを始めようとした時、コーチに声を掛けられた。
「翔太、ちょっと良いか?」
翔太はトラックから出ると、コーチに着いて行った。
走り幅跳びのフィールドはトラックの横、グラウンドの右端にある。
コーチは砂場の横に立った。
「翔太。お前のベストは?」
「七メートル七十一センチです」
翔太もコーチの横に立った。
「ここ三年では?」
「……去年の大会の七メートル四十センチです」
コーチは八メートルのライン上に立っていた。
「なぁ翔太。世界では九メートルに届こうかとしている。世界と戦う為には八メートルにどれだけ近づけるかが重要だ」
コーチは空を見上げた。
「もう充分頑張ったんじゃないか?」
選手生活にピリオドを打ち、トラックを去っていった選手をたくさん見てきた。
自分がいつか引退しなければならない事もわかっていた。
しかし、その時はもっと先だと思っていた。
自分はまだ跳べる。
翔太はそう信じていた。
突然の引退勧告に、翔太は言葉を失った。
「選手を引退しても、会社に残る事はできる。これからの事を考えたら、決断は早い方が良い」
コーチが翔太の肩に手を掛けた。
「でも、まだ跳べます!」
翔太は懇願した。
しかし、コーチは翔太の顔を見る事はなかった。
「上はそう思ってはいない。このまま陸上を続けたいのなら、ここにはいられなくなるぞ」
コーチの声から、翔太への評価が厳しい事は明白だった。
「会社も厳しい状況が続いている。陸上部の予算も年々抑えられてきているしな」
コーチは翔太に背を向け、うなだれた声で言った。
「本当にすまない。わかってくれ」
コーチはそのままトラックの方へと歩を進めた。
残された翔太は俯いた。
悔しさだけが体中を駆け巡り、拳はトレーニングパンツを握り締めたまま固まっていた。
「取材に行ってきます」
松本恵理は一眼レフのデジタルカメラを肩に掛け、慌しくオフィスを出た。
恵理がスポーツジャーナリストを目指すようになったきっかけは、子供の時にテレビで見たオリンピックだった。
元々スポーツが好きで、高校まではハードルの選手だった。
しかし成績はぱっとせず、大学に進学してからは陸上を諦めた。
翔太と出会ったのは、高校の陸上部仲間に誘われて、大学のグラウンドに見学に行った時だった。
当時の翔太は逸材と言われていて、周囲からの期待も高かった。
そんな先入観もあって、初めてコンパで話すまでは、英雄気取りの嫌な奴だと思い込んでいた。
しかし、いざ話してみると普通で、周囲からちやほやされている事は全く感じられなかった。
逆に、競技への熱い思いを延々と語る、ただの陸上バカに感じた。
オリンピックで見た世界最高のアスリートたちに話が及ぶと、恵理も一緒になって語り合った。
意気投合した二人は次第に惹かれ合い、自然と付き合うようになった。
あれから九年、喧嘩も沢山したけど、今でもその思いは変わってはいなかった。
恵理には夢があった。
いつの日か、オリンピックの取材を任されるようなジャーナリストになって、あの感動と興奮を日本中に伝えたいという夢を。
そしてそのオリンピックで、翔太が跳ぶ姿を見たい。
しかし現実は厳しく、月間の陸上専門誌の小さな記事を扱うのが精一杯だった。
その日も、高校生の地区大会の取材だった。
学校を訪れ、有力選手や監督のコメントを取り、練習風景をカメラに収めると、時刻は既に十九時を回っていた。
「はぁ〜、嫌になっちゃう」
「お疲れ様です」
オフィスには数人のスタッフが残っていた。
「大分お疲れですね」
一人がインスタントコーヒーの入ったカップを差し出した。
「昨日も徹夜したのに、今日中に上げろって言うんだよ」
恵理は写真の入った茶封筒をデスクに投げやると、自席でパソコンに向かう編集長に向かって、気付かれないように舌を出した。
「あの鬼め!」
その様子を見ていたスタッフは苦笑いした。
「しょうがないですよ。先月号の売り上げ、相当酷かったらしいですから」
「そうなの?」
「局長にかなり絞られたって話ですよ」
「ふ〜ん。良い気味よ」
編集長を横目で見ると、カップに口を付けた。
「でも、僕たちもうかうかしてられませんよ。廃刊なんて事になったら、最初に首切られるのは僕たちですから」
「わかってる。だからこうして働いてるんでしょ?」
恵理は壁に掛けられた鏡を覗き込み、目じりを指できゅっと上げた。
「はぁ、このまま老け込んだら労災で訴えてやるんだから」
「最近デートしてないんじゃないですか?」
女子社員が後から覗き込んできた。
「そんな時間がどこにある訳?」
「その内、女じゃなくなっちゃいますよ」
「イーだ!」
恵理は鏡越しに顔をしかめた。
「あっ、その顔可愛い」
女子社員も真似して顔をしかめた。
そんな日々の繰り返しにも、それなりの充実感はあった。
けれども、同級生の披露宴の招待状や、出産の噂を耳にする度に、恵理の心も揺れていた。
(私も二十七だもんなぁ。そろそろ結婚も考えなきゃいけないのかな)
両親からは、まだかまだかと言われていた。
都会では初婚が三十過ぎなんてざらだと言っても、田舎の両親には全く通じない。
見合い写真を送ってきた事もあった。
姉が二十三歳で結婚し、既に二児の母である事も両親の焦りを招いているのだろう。
(翔太はどう思ってる訳?)
携帯電話の待ち受け画面には、ただ笑っている翔太がいた。
その横で笑っている自分に向かって、心の中で呟いた。
(あんたはどうしたいの?)
長かった梅雨も明け、初夏の訪れを告げるように、きらきらと輝く日差しがグラウンドの芝生に降り注いでいた。
翔太に残された時間は、あと一ヵ月だけ。
一ヵ月後に行われる大会を最後に、翔太は陸上部から除名される。
退社して、他の会社で陸上を続ける事も考えた。
しかし、大きな実績を持たない翔太に、手を上げてくれる会社はないだろう。
そして二十七という年齢も、競技者人生の再出発にはハードルとなる。
だからと言って、会社に残っても良い事は少ない。
同期の連中は翔太が練習している合間にも仕事をこなし、実績を上げた者から昇進していった。
既に役職を持っている者もいる。
そんな中、平社員で大した仕事もなかった翔太にとって、サラリーマンとして働くには大きな格差がある。
しかし、転職した所で手に職を持っている訳でもないので、結局はゼロからのスタートになる。
大学の時に取った教員免許も、少子化のご時世では効力を発揮するとは思えない。
色々と悩んだ結果、翔太は会社に残る事を決めた。
帰りにふと立ち寄った本屋で、ビジネスマンのHow to本を手にした。
表紙にはスーツ姿の男性が躍動的に歩く姿が載っていた。
(これが十八年の結果か)
走り幅跳びを始めて十八年、それまでの練習が何だったのか、翔太にはわからなくなった。
翔太はいつものバスに乗らず、大通りからタクシーを捕まえた。
今日は恵理に話すと決めていた。
そんな事とは知らず、恵理は久しぶりのデートの為に、必死に原稿を書いていた。
「やっと上がったー」
恵理は編集長からOKをもらった最終稿を担当に渡し、大きく伸びをした。
壁に掛けられた時計に目をやると、十九時を回っていた。
「お先」
周りのスタッフに声を掛け、愛用のショルダーバッグを手にとってエレベーターに飛び乗った。
最後に翔太とデートしたのは、まだ桜の季節だった気がする。
春から夏に掛けては、例年の事だが忙しくなる。
インターハイやら高校野球やらで学生スポーツが盛り上がり、小さな取材が立て込んでくるからだ。
しかも学生相手なので、日中や夜の取材ができない為、夕方に取材して社に戻り、そのまま夜まで原稿をまとめる毎日だ。
次の日になれば次の取材が待っているので、結局帰るのは深夜に近くなる。
電車に飛び乗ると、帰宅途中のサラリーマンやOLで満員だった。
自転車通勤の恵理には無縁の世界だ。
梅雨明けしたというのに、車内はむしむしと熱気がこもり、慣れないせいもあって耐え難い不快感が襲ってきた。
(何か面倒になってきた)
久しぶりに会う約束をしたというのに、恵理は今すぐにでも降りたい気分だった。
ようやく目的の駅に着くと、扉が開くのももどかしく感じた。
ホームで新鮮な空気を思いっきり吸い込んでから改札へ向かった。
腕時計を見ると、約束の時間の二分前だった。
改札を抜けると、目の前にオブジェがある。
周りには待ち合わせをしているだろう人影が数人あった。
その中に翔太の姿を見つけ、恵理は小走りに駆け寄った。
「久しぶりだね」
車内で思った事も忘れ、翔太の顔を見ると少し嬉しくなった。
「仕事、大丈夫だった?」
「平気。それよりもお腹すいた」
二人は近くの洋食レストランに入った。
ここのハンバーグを食べた次の大会で、翔太は三位入賞を果たした、云わば縁起の良い店だ。
お互いが住んでいる場所の、丁度中間点に当たる駅という事もあって、待ち合わせによく使う場所でもある。
料理の前にワインで乾杯した。
翔太はアルコールをほとんど飲まないが、ワインだけは唯一飲める酒だった。
前菜代わりに頼んだ料理をつまみながら、翔太はグラスのワインを飲み干した。
恵理はその様子を見て、何かあると感じていた。
「どうかした?」
「うん。ちょっと話があって」
そこまで言うと黙り込んでしまった翔太に、恵理は少し緊張した。
(もしかして、話って…プロポーズ!)
恵理も黙ったまま、翔太の一言目を待った。
「あのさ、実は」
言い淀む翔太に、もどかしさを感じていた。
「その、ロンジャン辞めようと思って」
「えっ?」
想像していた言葉と全く違う一言に、恵理は思わず固まった。
「引退しようと思ってさ」
そう言って目を伏せる翔太に、恵理は驚きを隠せなかった。
「何で?どうしてそうなるの?」
「俺も二十七だしさ。会社から仕事に専念しろって言われて、そうした方が良いかなぁと思って」
「まだこれからじゃない。三十歳がアスリートの一番良い時でしょ?」
「一流の選手はそうかもしれないけど、俺にはこれ以上無理だよ」
恵理は言葉を失った。
あんなにロングジャンプに全てを掛けていた翔太が、まさか引退するなんて言い出すとは思ってもいなかったから。
二人の間に沈黙が訪れ、恵理は呆然としていた。
「それに、恵理との事も考えなきゃいけないしさ」
かろうじて聞き取れるほどの小さな声を、恵理は聞き逃さなかった。
「どういう意味?」
翔太はテーブルのいたる所に目を移しながら、声を振り絞るように言った。
「だから、結婚の事とか」
陸上の事になると饒舌な翔太だが、肝心な話になるとからっきしになる。
翔太は恵理の様子を覗うように、そっと顔を上げた。
恵理の視線は真っ直ぐに翔太を捉えていた。
その瞳は少し潤んでいた。
「私のせい?」
翔太はその言葉の意味がわからなかった。
「私のせいでロンジャン辞めるの?」
恵理は瞬きも忘れて翔太を見詰めていた。
「そういう訳じゃないよ。会社から辞めろって言われたから、そろそろ良い頃かなって思っただけで」
「何それ」
恵理は必死に涙を堪えていたが、ついにその瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「だから諦めるの?だから私と結婚するの?そんなのおかしいよ」
翔太は慌てて弁解した。
「違うよ。恵理とは結婚したいってずっと思ってた。だから…」
「結婚なんてどうでも良い!」
翔太が言い終わるのを待たずに、恵理は声を荒げた。
周囲にいた客が、恵理の声に驚いて振り向いた。
そんな事にも気付かず、溢れてくる涙を拭いもせずに、恵理は翔太の目を見詰めた。
「そんな事は良いの。本当に引退するつもりなのかを知りたいの」
翔太は恵理の気迫に押され、思わず顔を逸らした。
「俺だって辞めたくないけど、しょうがないよ」
その言葉を聞いて、恵理は顔を伏せた。
テーブルに恵理の涙がこぼれた。
「そう」
震える声を振り絞ると、恵理は席を立った。
そのまま立ち去ろうとした瞬間、恵理は振り返った。
「翔太」
翔太が恵理を見ると、見た事のない程の悲しい顔があった。
「翔太は何の為に跳んできたの?」
そう言い残し、恵理は外へと飛び出して行った。
翔太はピットに立っていた。
走り幅跳びの助走路をピットと呼ぶ。
その先に踏切板があり、選手が降り立つ砂場が広がっている。
今まで何千回、何万回と見た風景。
ボロボロになるまで走り続けた、翔太の花道だ。
1センチでも遠くへ跳ぶ為に、必死で練習してきた。
翔太の心の中で、恵理の言葉が何度も繰り返されていた。
(何の為に跳んできたの?)
あの日の悲しそうな顔が浮かんでくる。
しかしその顔は、照りつける日差しにかき消されるように消えた。
翔太は一瞬目を閉じると、たどり着くべき場所を見据えて走り出した。
踏切板の手前で力強く蹴り跳ぶと、翔太の体は弾き飛ばされたビー玉のように、美しい放物線を描いていった。
恵理は慌しい生活の中で、やりきれない思いと戦っていた。
翔太が結婚を口にした事は嬉しかった。
例え何が理由でも、そうなる事を望んでいたはずだった。
それなのに、素直に受け入れる事ができずにいた。
それだけではない。
それ以上に、心が晴れない何かがあった。
いつもなら山のように膨れ上がる仕事に忙殺され、個人的な事は忘れて仕事に打ち込めるのに、何をしていても身が入らない日々が続いていた。
「恵理さん、今日は帰った方が良いんじゃないですか?」
その日も恵理らしからぬミスをしてしまい、印刷所に迷惑を掛けてしまっていた。
「編集長も気にしてましたよ。疲れてるんじゃないかって」
スタッフの問い掛けにも、気のない返事を繰り返すばかりだった。
「松本、ニ、三日ゆっくりしてこい」
編集長の気遣いで、恵理は休みを取った。
しかし、家にいても気が抜けたように横になっているだけだった。
(私はどうすれば良いの?)
答えの出ない自問を繰り返すばかりで、時間は瞬く間に過ぎていった。
三日目にやっと行動を起こした。
翔太が本当に引退するつもりなのかを確かめる為、友人に電話を掛けた。
翔太と同じ会社の女の子で、陸上部のスタッフも兼ねている。
「もしもし、松本ですけど」
翔太が引退するなんて信じられない。
その気持ちを正直に伝えた。
「それが、会社が辞めろって。酷い話ですよ」
翔太も同じような事を言っていた。
「杉野さんも大分苦しんだんだと思います。だからあんな事になって」
「あんな事って?」
「えっ?聞いてないんですか?」
友人の言葉に、恵理は呆然とした。
練習中に肉離れを起こし、そのまま病院に担ぎ込まれていた。
以前に断裂した箇所と同じらしく、無理な練習が祟ったのだろうという話だった。
「それなのに、おとといから練習再開しちゃって。幸い大事には至らなかったみたいですけど、ドクターからも反対されてるみたいなのに」
その言葉に、更なる衝撃が走った。
肉離れといっても筋肉組織の損傷だ。
軽度だとしても、数日で練習を再開する事が危険だという事は、スポーツジャーナリストを目指す恵理にとっては容易に想像できた。
「でも、誰が止めてもダメなんです。これが最後のチャンスなんだからって」
肉離れは機能的な問題だけではなく、かなりの激痛が伴う。
特に走り幅跳びの場合は、跳躍時に跳ぶ方の足に急激な負荷がかかる。
軽く跳んだだけでも相当な痛みが走るはずだ。
恵理は受話器の口を手で押さえた。
嗚咽が込み上げてくる。
落ち着こうと深呼吸を繰り返し、涙を拭った。
友人に礼を言って受話器を置いた。
バッグからスケジュール帳を取り出して開いた。
社会人競技会が来週の日曜に予定されていた。
恵理は携帯電話を握り、もう一度深呼吸した。
「もしもし」
七回目の電話でやっと翔太が出た。
「肉離れしたって本当?」
突然の質問に、翔太は少し驚いた。
「誰に聞いたの?大丈夫だよ。古傷みたいなものだから」
「それなのに練習してるの?」
「だから大丈夫だって」
恵理は黙り込んだ。
翔太も何も言わなかった。
少しの沈黙の後、恵理は大きく息を吸い込んで呟いた。
「もう止めて」
翔太は応えなかった。
「お願いだから」
恵理は震える声を隠そうと、その一言が精一杯だった。
「来週の日曜、見にきてくれよな」
翔太の応えは、恵理の期待しているものではなかった。
「お願いだから止めて」
「ジャーナリストだろ?取材だよ、取材」
「止めて」
「まあ個人的な応援も大歓迎だけどね」
「止めて!」
抑えきれなくなった感情が噴出し、恵理は涙声で叫んだ。
「どうして?もう辞めるんでしょ?だったら頑張らなくて良いじゃない!」
翔太は何も応えなかった。
「お願い。お願いだから…もう止めて」
涙ながらの懇願に、翔太は呟いた。
「待ってるから」
切れた携帯電話を片手に、恵理は膝から崩れ落ちた。
不安だけが広がり、声を上げて泣いた。
恵理は時計を見た。
あと一時間で競技会が始まる。
走り幅跳びの予選は十三時からだ。
ベッドに寝転がったまま、天井を見詰めた。
競技場には行かないと決めていた。
これが二人にとっての別れになるとしても。
男というものが自分勝手な生き物だという事はわかっている。
格好付けて、勝手に決めて、それが愛情だと勘違いする事も。
引退するのも、怪我を押して競技会に出るのも、翔太が一人で決めた事だ。
一緒に歩いてきた時間が何だったのか、恵理には何もかもがわからなくなっていた。
自分には何も相談してくれない、何も変える事ができない。
そんな悲しみは、簡単に拭えるものではなかった。
(最後まで好きにすれば良いわ。気の済むように)
恵理は再び時計を見ると、ブランケットを頭から被った。
前日の雨の影響もなく、競技場には青空が広がった。
その日の翔太は絶好調だった。
予選も一発でクリアし、最低限の負担で決勝に駒を進めた。
しかし、一回のジャンプで右足の痛みは確実に強くなっていた。
(大丈夫。あと五回なら跳べる)
翔太には自信があった。
記録が伸びなくなった原因に気付いたからだ。
高校や大学の時は、がむしゃらに跳んでいた。
しかし、少し名が通り始めると、跳躍のフォームや理想の空中姿勢を意識するようになった。
結果、確かに自己ベストを出す事ができた。
しかし、理想を追い求めるあまり、自分の本来の跳躍を見失った。
ただ空を飛びたい。
それが自分の原点だったはずなのに。
その事を思い出した時、翔太は跳ぶ事の喜びを思い出していた。
ただ夢中に跳んでいたあの頃、昨日の自分より少しでも高く、さっきの自分より少しでも遠くへとあがいていたあの頃を。
決勝に進んだ選手は十二名。
翔太はシーズンベストの七メートル五十八センチを跳んで、全体の二番目の記録を出した。
記録の低い順に飛ぶので、翔太は十一番目の跳躍になる。
翔太はスタンドに目をやった。
スタンドは半分ほどが埋まっていた。
ほとんどが会社の応援団や家族だった。
トラックで走る同僚や恋人に声を掛け、手を振りながら応援していた。
その中に恵理がいないかを探した。
しかし、恵理の姿はどこにもなかった。
来てくれないかもしれないと、自分でも思っていた。
それでも後悔はなかった。
ここに立っているのは、恵理の為ではない。
自分の為だ。
自分の夢の為なのだから。
競技は進み、照明が灯されていた。
四回のジャンプを終え、翔太は二位に付けていた。
一位との差は六センチ。
しかし、翔太の右足は限界が近付いていた。
ピットの脇にある選手の待機場所に座り、タオルを頭から被って集中力を高めようとしている最中も、右の太もも裏に広がる痛みに耐えていた。
(頼むから持ち堪えてくれ!)
翔太は神に祈る思いだった。
しかし、痛みは徐々に広がり、翔太の心を不安が蝕んでいった。
そんな時、翔太は走り幅跳びを始めた頃の事を思い出した。
走り幅跳びを始めたきっかけを作ってくれた従兄弟の言葉。
「翔太。ジャンプ好きか?」
うん。
「どうして翔太もジャンプ始めたんだ?」
お兄ちゃんみたいに空を飛びたいんだ。
「俺はある人のお陰で続けてこれたんだ。俺に教えてくれたんだよ」
何を?
「空を飛ぶ為の秘密」
僕にも教えて。
「翔太は跳ぶ時に何を考えてる?」
遠くに跳びたいって。
「何で遠くに跳びたいんだ?」
遠くに跳べれば、嬉しくなるから。
「何で嬉しくなるんだ?」
みんなが褒めてくれるから。
「翔太は褒めてもらう為に跳んでるのか?」
わかんない。
「俺はワクワクするんだ」
どうして?
「昨日の自分が知らなかった場所に行ける気がするんだ」
わかんない。
「翔太にもいつかわかるさ。ワクワクしたら、もっと高く、遠くに跳べる」
お兄ちゃんみたいに?
「ああ。跳べるさ」
彼はそう言って、翔太の頭を優しく撫でた。
その半年後、誰も知らない天国へと飛び立って行った。
あの時はわからなかった秘密。
でも、今ならわかる。
昨日の自分が知らなかった場所へ。
あの時の約束を思い出した今なら。
翔太は右足にそっと触れて祈った。
(お兄ちゃん。力を貸して)
出番が近付くに連れ、翔太のボルテージも上がっていった。
軽い準備運動でも右太ももの痛みを感じていたが、集中力を研ぎ澄まし、跳ぶ事だけ意識するようにしていた。
自然と観客の声も聞こえなくなっていた。
十番目のジャンパーが競技を終え、係員に促された。
翔太は大きく息を吐き、ピットへと足を進めた。
その時、一切の雑音を排除していた耳が、聞き覚えのある声を捉えた。
「翔太!」
翔太はとっさにスタンドを見た。
スタンドの入り口に、恵理の姿があった。
恵理は息を切らしながら、真っ直ぐに翔太を見ていた。
そして、ただひたすら翔太の名前を叫んでいた。
「翔太!翔太!翔太ぁぁぁ」
翔太の右足が限界に来ている事は、歩く姿から容易にわかった。
頑張ってとも、もう止めてとも言えない恵理は、泣きながら翔太の名前を叫び続けた。
翔太はピットに入り、大きく深呼吸した。
そして、左手の人差し指を立てると、腕を大きく伸ばして、太陽の沈みかけた西の空を指差した。
それはあの日の約束。
恵理が陸上を諦め、夢の舞台を諦めた事を話した時、翔太が恵理に言った言葉。
「俺がオリンピックに連れてってやる」
忘れていた約束を思い出した今、翔太には跳ぶ事の意味がはっきりとわかる。
何故遠くに跳びたいのか、その先に何が待っているのかも。
全ては二人の夢の為。
一緒に追いかけた夢を果たす為。
恵理は号泣しながら崩れ落ちた。
周囲の人たちが驚き、恵理に駆け寄ったが、両手で顔を押さえたまま立ち上がれなかった。
(オリンピックなんてどうでも良い。翔太が無事ならそれで)
恵理の心の叫びは、走り出した翔太には届かなかった。
まるで何かに吸い込まれていくかのように、翔太の体はどんどん加速していった。
踏切板ぎりぎりで踏み込んだ右足は、体を大きく空に弾き飛ばした。
風の階段を駆け上がり、空をかき分ける両手を未知の崖にしがみつくように前へ伸ばした。
無理やり前方へ伸ばした上体のバランスが崩れ、翔太は着地の瞬間に左に傾いて転がった。
最後の跳躍。
とても美しいとは言えない跳躍。
でも、これが二人の思いを乗せた、翔太にとって最高の跳躍。
翔太は一点を見つめて走り出した。
前へ、ひたすら前へ。
恵理の呼ぶ声も、スタンドの応援も聞こえない。
行ける。
あの光の向こうへ。
翔太の瞳の先には、白く輝く光の渦が見えていた。
踏切板も見ずに、光り輝く場所だけを見詰めて走った。
そして跳んだ。
限界のはずの右足は、温かい何かに包まれていた。
知っている感触。
長年を共に歩き、いつも寄り添っていてくれたあの温もり。
(恵理…)
翔太はその温もりに押されるように舞い上がった。
幾度となく繰り返した練習から、自然と足が宙を蹴った。
上体を前に持っていく為に右手を伸ばした。
その瞬間だった。
翔太の右手に白い光の羽が集まり、空へと引っ張られた。
「翔太。ジャンプ好きか?」
光の羽から懐かしい声が聞こえた。
「大好きだよ」
「どうして翔太もジャンプを始めたんだ?」
「大切な人と夢を叶える為だよ」
「お前なら飛べるさ」
「うん。飛べる」
光の羽が弾け飛ぶ時、翔太の頭を優しく撫でた。
描かれた放物線は砂場に降り立った。
翔太は体を起こし、係員が測定している着地点を見た。
そのまま膝を落とし、俯きながら両手で小さく拳を握った。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
翔太の雄叫びが薄暗くなった天を貫いた。
その声を聞き、恵理は顔を覆っていた両手を下ろした。
翔太は両手を広げ、空に向かって吠えていた。
ピット脇に設置されていた掲示板に翔太の記録が出ると、スタンドから大歓声が上がった。
「翔太…」
翔太の目からは止めどなく涙が溢れていた。
両脇にいた人に抱えられるように立ち上がると、スタンドの一番前まで走り寄った。
恵理は何も声を掛けられなかった。
ただ翔太と同じように、止めどもない涙が頬を濡らした。
二人に送られる歓声と拍手は、いつまでも競技場に響き渡っていた。
「ほら、もうすぐパパが帰ってくるんだから!」
母親の手を逃れようと、リビングを無邪気に走り回っていた。
「もう、本当にすばしっこいんだから」
やれやれといった感じで、恵理は両手を腰に置いた。
「パパが帰ってきたら、うんとお仕置きしてもらうんだからね!」
その言葉に驚き、男の子は慌てて母親の元へ戻ってくる。
甘えるように恵理の足元にしがみつくと、恵理は優しく抱きかかえた。
「あっ、もうこんな時間!」
恵理は男の子を抱きかかえたまま、ソファーの上のバッグを肩に掛けた。
「あれ?」
バッグの中に車のキーが見当たらなかった。
「翔偉斗。また鍵隠したでしょ」
男の子は笑いながらサイドボードを指差した。
「こんな所、どうして手が届く訳?」
呆れながらサイドボードの上に置かれたキーを掴んだ。
斜めになった写真立てを正面に戻すと、慌てて玄関へと向かった。
穏やかな午後の日差しがリビングを照らしていた。
淡い春の光に、写真立ての銀色のフレームがきらめいていた。
胸に日の丸を付けて笑っている翔太の腕には、優しく微笑んでいる恵理の手が、そっと添えられていた。
読んで頂き、ありがとうございます。私自身は体力測定などでしか経験がありませんが、ロングジャンプの「より遠くへ跳びたい」という思いを、私なりに表現してみたつもりです。宜しかったら感想をお聞かせ頂きたく、宜しくお願い致します。(酷評でも構いませんので)