雨を聴く
雨は嫌いだ。
落ちて、体にあたり地面に流れていく水滴と一緒に、自分の感情までもが流れてしまうような気がするから。
けれど、雨は便利だ。
傘を閉じれば、頬を伝う涙ごと身も心も洗い流してくれるから。俺を、きれいにしてくれるから。
楽しくなんかない。湿っているし、持ち物は増えるし、髪に変な癖もつくし。なにより、その曇天の空を見ていると考えたくないことまで勝手に湧き上がってきてしまうから。
だから、雨は嫌いだ。
便利だけど――でも、嫌いだ。
そう思っていた。
彼女と、出会うまでは。
「……なにしてんだ」
思わず、普段は誰もいない河川敷に向かって呟く。
今日も雨。梅雨のど真ん中らしくて、朝からずっと空はこんな調子だ。
当然、河川敷に近づく人も誰もいないはず。いつもはいる親子連れだって、学校帰りの小学生でさえ、今はいないのだ。
だというのに。
「おい、なにしてんだ!」
なんなんだ、あの人は。
俺は、雨にも関わらず浅い水に足を浸からせ、なにも言わないで、動かなく、じっと水面を見ている人物に声を掛ける。
朝から降っているということは、当然時間経過につれて雨脚も強くなっているということだ。つまりは、河川の氾濫の可能性もあるわけで。
ちらりとポケットに入れてあるスマートフォンを見ると、「洪水警戒レベル2」と記されているニュースの通知が来ていた。
それを見てより一層、俺は流れの真ん中に立っている人に近づく。
「すみません! あの、大丈夫ですか? 大丈夫なら、返事してください!」
その人は張り上げた声でようやく気づいたのか、ゆっくりと首を回しこちら側に顔を向ける。
見ると、その人は白髪で青いラピスラズリのような瞳をした、違う高校の人だと分かる。このあたりでは見かけない制服で、一つボタンの開けられた白い半袖のワイシャツに紺色のチェック柄スカートを履いているという、なかなか小説の中でしかみたことのないような格好だった。
顔も整っていて、見たことのないほどきれいな目鼻立ち、すっきりとした輪郭で、見たものの眼を一回で奪い去るほどの、ある種魔力のようなものを感じられた。
その少女は、こてん、と首を傾げる。
「なに? どうかしましたか?」
ゆったりとした平坦なしゃべり方に俺は苛立ちを覚えながらも、なんとか少女の言葉を聞き終えて、即座にその応答を返す。
「この雨で、この河川が警戒レベル2になってるらしいんで! そろそろ上がったほうがいいですよ!」
そもそもなぜ浸かっているのかも、傘を指していないのかも検討はつかないが、俺の中に微かにあったさすがに放っておけないという良心がそう言わせた。
すると、少女は驚いた様子で。
「……ほんとだ。水位が上がってる」
「でしょう? なら、早く出た方がいいですよ!」
「……そっか」
だが白髪の少女は一向にそこを動こうとせず、下流へと流れていく水をただ眺めている。
俺は再び、少女に声を掛ける。
「そっかじゃないですよ! 水流も強くなってきてますし、早く上がってください!」
「…………」
返事をしない。ただ、水面を見つめている。
さすがの俺もこれには苛つき、だがここで見捨てて死なれても後味が悪いと思い自ら河川へと足を進めていく。
靴濡れなんて気にしている場合ではない。死にかけている人が目の前にいて、どうやったら放って置けるのか。
「仕方ねえなあ……。ほら、早く!」
愚痴を吐きつつも、俺は水の中へと足を入れその人に手を伸ばす。
水中に足を入れた瞬間、ボコボコと靴が大きな気泡を出す。まるで溺れているかのように、喘ぎながら、それは他でもない自分の力によって沈んでいく。
水が靴下を一気に侵食していく感触も、また気持ち悪い。冷たいが、それは今の湿っけさにはちょうどよく、顔をしかめながらも濡れた制服で前へ前へと進んでいく。
少女は、未だ俺の声に反応しない。
「どうしたんですか! 溺れちゃいますよ!?」
「…………」
「なんで返事しないんですか! 本当に死んじゃ」
叫ぼうとした瞬間だった。
少女が、目を閉じた。
「なっ……ちょっと、なにしてるんですか! そんなことしたら、足が縺れて倒れるかもしれないのに……!」
傘を河川敷側に投げ捨て、背負っていたリュックすらも放り投げて、俺はその人の元へと一刻も早く行く。
あくまでもきれな顔で、その少女は眼を閉じて、まるで水面を見つめているかのように下を向いている。
そして――精巧に作られたガラス玉のようなその瞳が、長い時間をかけて開かれる。
「私ね、雨を聴いているの」
子どもよりも小さい、その口を動かして。
「雨を聴いている?」
「そう。片道を通り過ぎていくバイクや車の音、何人かの高校生たちが楽しく談話しながら帰っていく不揃いな靴の音、鳥が不器用に鳴きながら空を滑空していく音、猫が草を踏みつける音。すべて、全部、雨の中にある」
「はあ……」
少女が言いたいことの見当がつかず、俺は首を傾げる。
「ただ、一つだけ、雨の中にないものがある。なんだか、分かる?」
こちらを向き、青い瞳で俺の眼を見据えながら少女は質問をする。
「……雨の中に、ないもの」
「難しい?」
「…………」
熟考するも、雨に当たりすぎて風邪でも引いてしまったのか、なにも言葉が思い浮かんでこず。
「……分からないです」
「そう。難しいよね」
優しく、微笑む。
「それはね――雨と雨が、当たる音なんだよ」
「当たる?」
「うん。降った雨と、降ってきた雨が当たる音。もしくは地面に当たる音と言ってもいい。たった一粒の雨が雨に当たると、その瞬間、雨の中にはない、私たちの耳になんの偽りもなく届く音が聴こえる」
「……なるほど」
正直国語は苦手なので、少女が言っている話は半分ほどしか理解ができなかった。
だが、唯一共感できたところは。
「なんの偽りもなく届くっていうのは、分かる気がします」
「……ふふっ、そう」
口角を上げて、少女は笑う。
「でもね」
顔を上げ、雲の多くかかった暗い空を見上げながら、呟く。
「一番は、雨が水に当たって、水面が波紋を打つ刹那の感覚なんだ」
微笑を絶やさず、水中から足を上げる。
その足は、靴も靴下も履いていない、暗くても白く光るほどきれいな足だった。
「自分の足に当たるときも、おんなじ感覚がする」
「……そうですか」
俺も少女に倣おうとしたが、靴を履いているのでやめておいた。
「でも、俺は嫌いです。雨」
なんとなく、そう言っておいたほうがいい気がした。
相手の言葉を自分の言葉にしてはいけないと、どこかで思ったから。
「どうして?」
雫の滴る長い白髪を揺らしながら、少女は問う。
「雨につられて、自分の感情までもを吐き出してしまいそう……だから」
うん、と相打ちを打つ。
「自分を、曝け出したくないんです」
雨に打たれると、その着ぐるみまでもを剥がされているような、勝手に見られたくいない中までもを覗かれているような気持ちの悪い気分になる。
だから、嫌だ。
「自分を知られることは、そんなに怖い?」
「……怖いですよ。なんて言われるか分からないし、どんな言いがかりをつけられて噂されるか分からない」
「噂は怖いからね」
珍しく、少女が共感をする。
「でも同時に、知ってもらいたい」
はっきりと言葉にする。
「もし、そこで受け入れてもらえたら、どんなに楽だろうって。自分を知ってもらうのは、うれしいから」
雨が、自分を覆っていた殻を溶かしていく。
「それで?」
「……だから、本当は、好きなのかもしれません」
さっきとはまったく違う答えに、自分でも驚く。
「なんでも話していいと思わせてくれる空間が。俺のことを、ただただ受け入れてくれる空間が」
それは、このことなのか。
「濡れるけど、その分素肌を晒せる雨が」
それとも、これなのか。
「私は、好きでも嫌いでもないかな」
「え、好きじゃないんですか?」
「うん。あなたの言う通り、自分を剥がす契機になるっていうのもそうだけど」
一度言葉を区切り、強調するように少女はしゃがみ込む。
紺色のスカートの裾が、浸かる。
「私にとっては、音のほうが大事だから」
手で水面を弄るように、すくっては広げて、すくっては広げてを繰り返す。
「さっき言ってた音ですか?」
「そう。空間に水の波紋のように広がるこの音が、私は好き」
少し高くまで水をすくった手を持っていき、そこから一気に手を広げる。
「濡れても濡れなくてもいい。曝け出しても出さなくてもいい。私はただ、音を聴きたい」
ばしゃばしゃ、と音を立てながら水はもとの姿へと戻っていく。
白髪が水面に浮き、すでに濡れている部分を沈めていく。
「雨は霧のように、行く手を阻む。そして霧よりも私たちのことを、雨は拒む」
黙って聴く。
「でもね。そのときは一滴でいいから、聴いてみて」
「一滴でいいからって……雨は、何滴もあるのに?」
「うん。それだけで、雨はあなたを拒まなくなるから」
一滴。たった、一滴。本当にその一つだけで、雨は俺を受け入れてくれるのだろうか。
「もう、梅雨だね」
やはり曇りの空を見つめながら、少女は立ち上がる。
「私も、もう終わりかな」
「……? なにを言って」
不思議なことを言い出したな、と思った瞬間。
「……え?」
白髪の少女は、いなくなった。
あたりを見回しても、雨が降っているのにもかかわらず傘もささないで水のど真ん中で突っ立っている人なんていなくて。
「……夢、か」
だがそれにしてはやけに現実で、声も聴こえて。
「帰るか」
いつの間にか膝にまで達していた水位を見て、すぐにその場を去った。
次の日、俺は昨日のせいで風邪を引いてしまい、近くの病院へと赴いていた。
熱は三十八度三分。夜から悪寒がし始め市販の風邪薬を飲んだが当然治るわけもなく、重症化する前に早く行かなければと思い今日は学校を休んでここに来た。
「……人少ないのに、やけに待ち時間長いな」
もしかしたら前の人の診察が長引いてしまっているのかもしれない。
なるべく早くしてほしいと思いながら待っていると、ついに自分の名前が呼ばれる。
「はい」
そう答えるので精一杯で、重い足を引きずりながら診察室へと向かう。
しかしどうも廊下が長く感じ。壁を少し支えにしながら歩いていると。
「!?」
急に体が傾き、体勢が崩れる。
「やばい、死――」
倒れる、と思った瞬間。
「大丈夫ですかっ!?」
咄嗟にそんな声がして、思わず瞑っていた目を開けるとそこは床に目と鼻がつく寸前のところだった。
どうやら誰かが助けてくれたらしく、後ろから抱きつくように支えてくれていたその人は俺をゆっくりと立たせると声を掛ける。
「怪我とかはありませんか? だいぶ危ないところでしたけど」
「はい、大丈夫です……」
「それならよかったです」
倒れる寸前の動悸がまだ続いていて、しばらくして心拍数が落ち着いてきて俺はその人にお礼を言おうと顔を上げる。
「あの、本当に」
偶然かと思った。
こんなの、どうせ誰かの悪戯かなにかだろうと。
でも、俺が見たのは確かに。
「……どうしましたか?」
腰まである白髪に、青いラピスラズリのような瞳をした、きれいな少女だった。
「え……どうして」
言葉が出なくて、口をぱくぱくと動かす。
「ど、どうしましたか? なにか……」
「……い、いえ。すみません」
なんとか正気を取り戻し、俺は息を吸って、吐く。
「ありがとうございました」
「え、ええ。どういたしまして……」
困惑した様子で、俺を見つめる。
だがその焦点は、俺をはっきりと見てはいなくて。
「……質問、いいですか?」
「え? ああ、はい……?」
「雨は、好きですか?」
刹那、少女の目が見開かれる。
「……好きでも、嫌いでもないですけど」
細い声で、小さな口に出す。
「でも、聴くのは好きです」
音が消える。
近くの窓ガラスが、微妙にも雨に打たれて小さく音を立てる。
「……あの」
少女がそう言いかけた瞬間、俺の名前が再度呼ばれる。
「すみません、行かなければいけないので。本当に、ありがとうございました」
「は、はい……」
もう一度頭を下げて診察室へ足を向けると、少女はなにか問いたい様子で。
だが。
「雨ー! どこ行ってたのよ、あんた」
「…………。ごめん、なんでもない」
「なにあんた、あの男の子見ちゃって。好きなの?」
「ちち違うよ! なに変なこと言ってるの!?」
「えー、残念。ほら、医師が待っているから、行きましょう」
「……そうね」
聴いてから。
俺もその少女も、その場を去っていった。
雨は嫌いだ。
体を伝いながら落ちていく雫と一緒に、自分の感情さえもを流してしまいそうになるから。
なにより、自分を守る殻を、溶かしていってしまうから
けれど――雨を聴くのは、好きだ。
雑音のようで、リズムが一定というわけでもなくて、でもうるさくなくて、どこか落ち着いて。
そんな不規則な水の流れを聴くたびに、なぜか騒ぎ立っていた感情は水平線のように静寂になる。
雨は、水だ。
けれど、そんな水は、雨が落ちるたびに波紋を広げる。
その波紋を広げる音が、どうしようもなく、思い出させる。
ああ。
ただ、雨を聴いているんだな、と。




