クオ(ワイバーン)はショータを守った
見難い火傷の子239
クオ(ワイバーン)はショータを守った
深淵ダンジョン第十六エリア、第四紀完新世層
この地では、生きるものすべてが八倍の大きさで存在する。
その日も、空は近かった。
ローマ山岳寄りの村では、見上げるより早く影が走る。
谷を抜ける風の向きで、何がどこから来るか、だいたい分かる。
ショータは、いつもの崖道を走っていた。
少し先を、クオが低く飛ぶ。
灰青色の翼が岩肌の影と重なって、地面の上を大きな影が滑っていく。
「クオ、そっちじゃない!」
呼ぶと、クオは尾を振った。
分かっていて、わざと遠回りしている。
ショータは笑って、石を蹴った。
崖の縁から縁へ、慣れた足取りで飛び移る。
クオが降りる場所も、翼をたたむ瞬間も、だいたい分かる。
怖くなる前に、もう触れている。
それがショータのやり方だった。
クオが一度、高く上がる。
次はどこへ降りるつもりなのか、ショータは目を細めた。
そのときだった。
風向きが、変わった。
朝とも夕とも違う、重たい風。
谷の下からではなく、山の向こうから押しつけるように吹いてくる。
クオが鳴いた。
遊ぶときの声ではない。
低く、短い、喉の奥を震わせる音。
ショータは立ち止まる。
空の色は変わっていない。
雲も薄い。
なのに、影だけが先に来た。
クオの影ではない。
もっと大きい。
崖道も、石積みの家も、畑も、まとめて覆ってしまうような影だった。
ショータは見上げた。
谷の向こう、山ひとつ分の空を塞ぐように、深い緑の巨体が滑っていた。
長い首。
厚い翼。
木々の色をそのまま剥がして貼りつけたみたいな鱗。
フォレストドラゴン。
名前だけは聞いたことがあった。
森の奥に棲む古い竜。
ワイバーンとは違う。
比べること自体が間違いだと、大人たちは言っていた。
クオがショータの前へ降りる。
どん、と地面が鳴った。
灰青色の翼が半ば開き、ショータを隠すように前へ出る。
「クオ?」
返事はない。
ただ、低い唸りだけが続く。
フォレストドラゴンは旋回しなかった。
まっすぐ来た。
速い、と思ったときには、もう近い。
風が遅れて落ちてくる。
木々がざわめき、崖の砂が跳ねた。
ショータは動けなかった。
大きすぎた。
どこへ触ればいいのか分からない。
首元も、翼の付け根も、重心も、何も読めない。
いつものように、怖くなる前に触れることができない。
クオが吠えた。
次の瞬間、フォレストドラゴンの爪が振り下ろされる。
空気が裂けた。
クオがぶつかる。
灰青色の翼が大きく広がり、ショータの視界を埋める。
骨の軋む音がした。
地面が揺れる。
ショータは尻もちをついた。
手のひらに石が食い込み、痛みでようやく息を吸う。
「クオ!」
叫ぶ。
クオは立っていた。
立っていたけれど、片翼が変な角度に垂れていた。
前脚が震えている。
それでも一歩、ショータの前へ出る。
守っているのだと、そのとき分かった。
自分を。
クオが。
ショータを。
フォレストドラゴンが首をもたげる。
深い緑の目が、こちらを見た気がした。
ショータの背中が冷たくなる。
逃げなきゃいけない。
そう思うのに、足が動かない。
「クオ、いいから!」
声が裏返る。
「逃げて、クオ!」
クオは振り返らない。
ただ一度だけ、低く喉を鳴らした。
いつも遊びの終わりに聞かせる音に、少しだけ似ていた。
フォレストドラゴンが降りる。
二度目は、よく見えなかった。
風。
土。
砕けた石。
灰青色の鱗。
自分の叫び声だけが、ひどく遠く聞こえた。
気づいたときには、フォレストドラゴンはもう谷の向こうへ去っていた。
巨大な影が山の端へ消えていく。
追うことも、呼ぶこともできず、ショータはその場に座り込んでいた。
目の前に、クオがいる。
灰青色の翼は、もう動かない。
首筋に触れても、喉は鳴らない。
「……クオ」
返事はない。
もう一度、首元へ腕を回す。
いつものように、ぐるりとひねれば、力が抜けるはずだった。
座り込むように、静かになるはずだった。
けれどクオは、もう何もしなかった。
ショータは長いこと、その場を動けなかった。
風だけが吹いていた。
谷を抜ける、いつもの風だった。
空は近いままだった。
影も、いつもみたいに先に走っていた。
なのにその日から、ショータには分からなくなった。
何が飛んでくるのか。
どこへ触れば止められるのか。
どうすれば、守れるのか。
クオは、ショータを守った。
ショータは、そのことをずっと忘れなかった。




