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小説

おばあちゃんのw

作者: ちりあくた
掲載日:2026/04/03

 人間に火を与えた神様は、きっとこんな気持ちだったのだろう。私は今、祖母にインスタグラムを教えたことを後悔している。


 きっかけは些細なことだった。夏休みに祖父母のいる埼玉へ遊びに行ったとき、居間でスイカを頬張っていると、彼女が「ねえ」とスマートフォンを差し出してきたのだ。曰く、「インスタってどこから買うの?」。


 祖母には不似合いな四文字を聞いて、私は思わず種を飲み込んでしまった。昔だったら大泣きしていただろう。お腹の中でスイカが育っちゃう、なんて戯言を吐きながら。でも今は、彼女の方へ心配が向けられていた。中年でさえSNSは毒になり得るのに、おばあちゃんが? そもそも彼女はインスタをどこで知ったんだ? やりたがる理由はあるのか?


 聞きたいことは山積していたが、ひとまず、これを言わなければならなかった。


「おばあちゃん、インスタは無料なんだよ」


 それから私は事情を聴いた。その最中、自然と、カメの足取りを見つめるような温かいまなざしになっていた。家族愛がなければ困難だったろう。塾の先生が私を見る目も同じなのかと思うと、少し情けなくなった。


 どうやら、彼女の旧友がインスタを始めたらしい。かの人物はサトイモ農家で、昨今のSNS社会に生きるお孫さんから、宣伝のために挑戦してみることを勧められたそうだ。さすがに運用はお孫さんがしているようで、投稿内容はおおよそ、遠目にお婆さんが映されているものだった。他のも精々、採れたサトイモを活用したレシピ動画だったり、お婆さんが手を振って挨拶するだけだったり、どこか企業臭すらしてしまうほどクリーンであった。


 しかし祖母にとって重要なのは、「友達がインスタを始めた」という一事らしい。私はたちまちに理論の壁を築き始めた。お友達は宣伝目的でSNSをやっていること、使い方が難しいこと、飽きてしまう可能性などなど……。彼女は重戦車のように頑として乗り越えてきた。「優ちゃんは始め方さえ教えてくれればいいのよ」の一点張りで、あえなく私は落城した。


「……はい、これで終わり。本当にやるの?」

「うん。優ちゃんもふぉろー?してくれたんだね」

「一応ね」


 私はスマホを彼女に返すと、すぐさま言葉を挟んだ。


「変なことしないようにね」


 彼女はにこりと笑ってうなずく。しかし、その線の細さに不安が増すばかりだった。エコーチェンバーしかり、閲覧数目的の扇動しかり、ひとたびリールに潜れば無数の罠が広がっている。どうか引っ掛かりませんように、と私は祈っていた。彼女の小さくなった背中を見つめながら。


 翌日以降の一週間は不安でいっぱいだった。「はじめてのおつかい」の親御さんはこんな気持ちなのだろうか。行動の責任は彼女にあるが、どうしても責任感は感じてしまうものだ。どうか何もありませんように、誰かの悪意に触れませんように、そう祈るしかなかった。


 そんな私のザマを見て、母は「大げさだよ」と笑った。……どの口で。あんただって週刊誌の見出しにまんまと操られていたじゃないか。夕食の時間や土曜の昼下がり、さんざん皇族の悪口を聞かされて、私の耳には文字通りのたこができた。思春期のせいとは言わせないぞ。


 それから長い長い一週間が過ぎ、私の心配も落ち着きつつあった。彼女が投稿するものといえば、散歩中に見つけた路傍の花の写真か、飼っているコーギーの動画だけだった。特に後者は、受験勉強中の貴重な癒しとなっていた。どうやら私の嫌な予感は杞憂だったらしい。


 ──しかし、変化は訪れてしまった。

 翌週の投稿に、見慣れぬ一文字が紛れ込んでいたのだ。


『今日は風が強いですねw』


 ……は?


 最初は打ち間違いかと思った。しかし次の投稿でも、さらにその次でも、彼女は律儀に「w」を添えていた。何が面白いのか分からないところでも、煽りにしか捉えられないところでも。その一文字のせいで、祖母の素朴な文章は、急に知らない誰かのものになってしまったようだった。


 私はさすがに我慢がならず、彼女にLINEで連絡をとった。「優ちゃんどうしたの」という返事に対し、頭より先に指が動いた。「そのwってやつやめたほうがいいよ」と打ってから、少しだけ逡巡する。消して、書き直して、また消す。結局、送ったのはもっと長い文だった。「w」はどういうときに使うのか、どういう風に受け取られるのか、場合によっては相手を馬鹿にしているように見える──自分でも驚くほど丁寧に、そして、どこかで自分の正しさを証明するように。


 既読はすぐについた。

 しばらくして、返信が来る。


『あら、そうなのw』


 私は思わず頭を抱えた。


 そうしてさらに長く打った。「だからそのwがね」と続けて、今度は例文まで添えた。祖母の投稿をいくつか引用しながら、どこがどうおかしいのかを説明する。まるで赤ペン先生の添削のように。


 そもそも、彼女はなぜ「w」を使い出したのか。話の流れで聞き出してみると、どうやらある日の投稿についたリプライの影響らしい。その内容がこうだ。


『房江さん、「笑」はもう、古いそうですよ。孫に言われました。若い人たちは、代わりに、「w」を使うらしいです。』


 ……知らないじじいめ。余計なこと吹き込みやがって。


 心の中で毒づきながら、私はその犯人のアイコンをタップした。薄ぼんやりとした真正面からの自撮り。背景は青々とした畑。プロフィール欄には「毎日元気に畑仕事!」(びっくりマークはもちろん赤い)とある。元気なのは結構だが、インターネットにおける言語文化にまで手を出すのは荷が重いだろう。


 しかも腹立たしいことに、そのコメントには他にも返信がついていた。


『こんな感じですかw』

『時代は変わるものですねw』

『孫に聞きましたけど、笑はおじさん感あるって、言われましたw』


 地獄か?


 私はスマホを伏せた。畳の上に置いたそれが、やけに重く感じたのだ。一つの「w」が、ここまで感染力を持つとは思わなかった。


 ……いや、違うな。これは「w」そのものの力ではない。「誰かが言っていたから」という理由で、意味も分からず言葉を取り入れてしまう。その滑稽さが気になるんだろう。老人たちも、うちの祖母も、母も。そして、きっと私も。


 私は深く息を吐いた。居心地の悪さの矛先を外に向けるのは簡単だ。でも、それでは何も変わらない。変わらないどころか、祖母との距離が開くだけだ。彼女とは棺桶に入るまで仲良くしていたいのだ。数分して、私はもう一度スマホを手に取った。そして、打ちかけていた長文をすべて消した。


『おばあちゃん、そのwね』

『別に間違いじゃないんだけど、ちょっと軽い感じになるんだよ』


 送信すると、既読はやはりすぐについた。


『軽いって?』


 今度は短い。忌々しきwもない。いい傾向だ、と勝手に評価する自分が少し嫌になる。


『うん』

『例えば「今日は風が強いですね」って普通に書くとただの感想だけど、「w」をつけるとちょっとふざけてる感じになるの』


 送ってから「しまった」と思った。例文が抽象的・主観的すぎたかもしれない。これでは伝わらないリスクがある。案の定、返ってきたのは、あまりに真っ直ぐな一文だった。


『ふざけてるのは、だめなの?』


 私はしばらく画面を見つめた。


 だめ、ではない。

 だめではないのだ。


 誰かを傷つけるわけでもなければ、当然、法律に触れるわけでもない。友達同士ならふざけ合う方がむしろ健全だろう。ただ、私が気になるというだけだ。違和感があるという、それだけのこと。


 ……ここまで必死に矯正しようとしている自分は、一体何なのだろう。


 気づけば、祖母の投稿を思い返していた。道端で風に揺れるタンポポ。コーギーが膝の上で甘える動画。少し手ブレした、それでいて、やけに優しい色合いの写真たち。そこに「w」がついていたからといって、何が変わるのだろう。


 少なくとも、祖母自身は楽しそうだった。


 私はゆっくりと文字を打ち直す。自然と大きな息を吐きながら。


『やっぱりいいや』

『おばあちゃんが楽しいなら、それでいいと思う』


 送信。

 数秒後、返信が来た。


『そうなのw』


 思わず笑ってしまった。声に出してちゃんと笑ったのは、ここ数日で初めてだったかもしれない。


 そのとき、ふと通知がもう一つ届いた。祖母の新しい投稿だ。開いてみると、そこにはコーギーがこちらに駆け寄ってくる動画があった。画面の向こうで祖母の甘い声がする。


「ほらほら〜、優ちゃんも見てるよ〜」


 キャプションには『今日はよく走りますw』とあった。忌々しき「w」は、私の方を勝ち誇ったように見つめている。


 ……まあいいか、別に。


 私はその投稿に「いいね」を押して、それから少しだけ考えて、コメント欄を開いた。何を書こうか迷って、結局こう打った。


『元気だね笑』


 送信してから数秒後、ほんの少しだけ背筋がむずがゆくなる。だが、それでもいいと思った。火を渡された人間は、きっと最初、扱い方なんて分からなかったはずだ。それでも誰かと囲んで、少しずつ覚えていったのだろう。彼らを阻害する権利なんてどこにもなかった。


 多分、今も同じだ。

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