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キンセンカの魔法

作者: 穂積 歩夜
掲載日:2026/03/25

 まだ桜の季節には早い、三月の初め。

 私は、都会の喧騒を離れた植物園を訪れていた。

 目的は、いち早く春の訪れを告げてくれる、オレンジ色のキンセンカ。今年も期待通り、元気な花びらで花壇を埋め尽くしている。


 ――私の脳裏に、一年前の忘れられない記憶が蘇ってくる。


 その頃の私は、鈍臭い女だった。

 職場でも街中でも、男たちに舐められて、よくナンパされた。

 綺麗な方ではなかった。ただ、小柄で、実年齢より幼く見えて、隙だらけで、男を知らないうぶな女だと思われていた。自覚もあった。

 実際、男性と付き合った経験も、中学生の時に一度きりだったのだ。

 三十を過ぎて、周りは結婚ラッシュだったけれど、私は仕事や趣味が楽しくて、恋愛の優先度を下げていた。結婚願望もなく、出会いがないと嘆くことも、焦ることもなかった。

 私はそんな自分の生き方が好きだった。それで良かった。だから、みんな放っておいてくれたら良かったのだ。

 でも、世の中には、こんな私を気の毒に思う人種がいた。

 結婚した友達や、彼氏持ちの友達は、会えばいつだって、「誰か紹介するよ?」と余計な一言。

 実家に帰れば、「いい人いないの?」と余計な一言。

 そして、街を歩けば、見知らぬ男に誘われる。断れば、「綺麗なのにもったいない!」とか、「絶対に楽しませるのに!」とか、やっぱり余計な一言。

 そんなことを繰り返すうちに、私は一人で街を歩くのが怖くなってしまった。大好きだった一人旅も、だんだんとしなくなっていった。

 だから、今日の私が気分転換の外出に選んだのは、植物園。物言わぬ植物の中だったら、一人でも安心して過ごせると思った。

 園内は、緑と土の匂いでいっぱいで、心地良い。気の向くままに散策していると、花壇に咲くオレンジ色の花が目に留まった。

 土に刺さったプレートには、「キンセンカ」とある。名前は聞いたことがある気がする。

 私はこの花が気に入って、しばらく花壇の前に立ち止まった。明るいオレンジ色の花弁から元気をもらえたし、中心の黒い部分が、くりくりとした瞳みたいで愛らしかったのだ。

 ふと、隣にカメラを持った男が並んだ。五十代くらいだろうか。嫌な予感がする。

 立ち去ろうと、踵を返しかけた時だった。

「綺麗ですよね」

 男が人の好さそうな声で話しかけてくる。それだけなら良かった。でも、品定めするような視線に、私は気がついてしまった。

「そうですね」

 当たり障りのない返事をして、なるべく目を合わせずに、私はその場を離れた。男は追ってはこなかった。

 それからはもう、楽しめなかった。一日ぶらぶらするつもりでいたけれど、帰りたくてたまらなくなってしまった。

 お昼ご飯を持ってきたから、それだけ食べて帰ろう、と決める。

 まだお昼にはだいぶ早かったけれど、ベンチに座って、サンドウィッチに手をつけた。何の工夫もない、ただのツナサンドと卵サンド。でも、それが外だと、不思議と美味しい。

 一度沈んだ気持ちが、もう一度上がってくる。

 すると、隣に座ってくる人がいた。

 ――さっきの、あの男だった。

 ベンチは他にも空きがあるのに、わざわざここを選んできた。この先の展開が想像できる。上がった気持ちが、高速でまた、ぐいっと沈められる。

「外でお昼、いいですね」

 やっぱり人の好さそうな声で、男は言った。

「そうですね」

「良かったら、写真、ご覧になりませんか?」

 カメラを差し出しながら、男の膝がこちらを向く。逃げ出したかったけれど、サンドウィッチはまだ、食べ始めたばかり。ここで席を立つのは、あまりに不自然だった。

「はい、ぜひ」

 仕方なく、私は愛想笑いをしてそう言った。男の手が、撮り溜めた写真を一つ一つ見せて、解説してくれる。

 この植物園にはよく来るらしい。季節の花々の写真は綺麗だった。それに、結構うまい。

「カフェをやっている友人が、僕の写真を気に入って、お店に飾ってくれるんですよ」

 ベンチの上で、男がだんだんと距離を詰めてくる。私は何気なさを装いながら、少し離れる。

 カメラの話から、男の仕事の話へと話題は広がる。そのうち、話題の対象が男から私に移ってくる。

「あなたの趣味は何ですか?」

「お仕事は何をされているんですか?」

 矢継ぎ早に投げかけられる質問に、私は生返事をして乗り切ろうとする。――ああ、もう、これは絶対に駄目なやつ。

 そして、とうとう、その瞬間がやってきた。

「どうですか? これから一緒にお茶でも」

 崖から突き落とされた思いがした。またこれだ。隙を見せてしまった。私って、どれだけ鈍臭いんだろう。こうなる未来は、この男を見た瞬間から読めていたのに。

 植物園みたいな、人の少ない平和な場所でも、私みたいな女は舐められるんだ。

「これから、友達と約束がありますので……」

 使い慣れた断り文句を言うと、男はあっさりと身を引いて、どこかへと去っていった。

 こうやって声をかけることに、慣れているんだろうな。何とも思っていないのだろう。こっちは一日を台無しにされたのに。それどころか、ここからしばらく引き摺るのに。

 ――とても悔しい。

 お日様の下で食べるサンドウィッチが、もう、美味しくなかった。

 今日は、さっさと帰ろう。これ以上のリスクを背負う前に。

 私は、サンドウィッチの残りを水筒のお茶で流し込んだ。

 その直後である。


「はあ!? ふざけんじゃないわよ! ここ、植物園よ!? 女をナンパしに来るところじゃないでしょ!」


 周りの人がびくっとするくらいの、甲高い女の声が響いた。

 目をやると、さっきのナンパ男が、気の強そうな女に睨まれている。男はたじろいだ様子で、そそくさとその場を後にした。

 女は、私より少し年上だろうか。背筋がピンとしていて、アウトドアスタイルがよく似合う、ショートヘアーの格好良い人だった。

 私の視線に気付いたのだろうか。こちらに向かって歩いてくる。

 何だか怖くて逃げたくなったが、体が動かなかった。

「ねえ。あなたも、あの男に声をかけられていたでしょう。見てたのよ」

 女はベンチの隣に座ってきた。

「ええ、まあ……」

「ああいうのには、はっきり言った方がいいわ」

「はあ……」

「それとも、声かけられて、ちょっと嬉しかった?」

「まさか!」

 意図せず大きな声が出る。女は笑った。

「だったら、はっきり断って、堂々としていたらいいわ」

「でも……。私、あなたみたいに強くないですし……」

「強く見える? あたし」

「ええ。とても」

 私は、改めて女をしげしげと眺めた。

 やっぱり格好良い人だった。同じ女とは思えないくらい、びしっと決まった雰囲気。自分の軸がしっかりしているのが、見た目から分かる。髪も、赤というか、オレンジっぽい色に染めていて、それがまた、強い女を演出するのに一役買っている。そして、目力がある。

 一方、自分は何だろう。

 猫背で、見た目からもう、頼りない奴だと思う。最低限、人前に出ても恥ずかしくないようにはしているつもりだけれど、服にも髪型にもこだわりがない。言いたいことは言えないし、簡単に相手のペースに巻き込まれるし、自分でもイライラするほど弱気だし――気がつくと、私の目には涙が溜まり出していた。

「やだ、泣いてんの? これじゃ、あたしが泣かせたみたいじゃない!」

 女が素っ頓狂な声を上げる。周りの人が、驚いて足を止めた。ますます人目を引いてしまう。

「ちょっと、こっち来なさい!」

 すっかりめそめそしてしまった私は、女に手を引かれるまま、植物園の中を歩いた。一緒に、人目につかない林の中へと入っていく。

 歩いているうちに、少し気持ちが落ち着いてきた。薄暗い林の中のあずまやに、二人で腰を下ろした。

「あたしが何か気に障ることを言ってしまったなら、謝るわ」

「いえ、そうじゃないんです。ただ、自分がみっともなくて」

「みっともない?」

「さっきの男の人にも、ナンパされるんだろうな、嫌だなって、ずっと分かってたのに……。私、何も言えなくて。隙だらけで」

 話し始めたら、言葉が止まらなくなってしまう。

「もっと若い頃は、まだ良かったんです。新人だ、女の子だ、ってちやほやされて。奢ってもらえたり、良い思いもしたから、甘えてしまっていたところもあります。でも、三十を過ぎて、思ったんです。これって、舐められてるだけだ、って。弱いと思われてるだけだ、って。若さをなくしたら、私にはもう、何にも残らないって……。本当に情けないことです」

 私は女を見やる。こんなに面倒臭い奴に絡まれてしまったのに、女は嫌な顔ひとつしない。それどころか、笑みさえ湛えていて、余裕が感じられる。やっぱり出来が違うと思う。

「ねえ。面白いものを見せてあげよっか」

 女はそう言うと、周りに目をやった。誰も人がいないのを確認しているようだった。

 二人きりだとわかると、女は不意に、着ていた服を脱いで、胸元を露わにした。あまりに予想外の出来事に、衝撃で声が出ない。

「ちょっと触ってみなさいよ」

 ますます、想定していなかった展開になってしまう。これは何だろう。男だけでなく、女に対しても隙だらけだったという証明だろうか。

 思えば、知らない人なのに、こんなに人気がない所までついてきちゃったし。私、何してるんだろう。

 このまま襲われちゃうんだろうか――まごつく私に、女は笑いかけた。

「別に、変なことしようってわけじゃないのよ。触れば分かるから」

 恐る恐る、女の胸に触れる。その瞬間、はっとした。思ったのと全然違う、冷たい感触。違和感を覚えて、ぎゅっと力を込めてみる。人間の肌にはありえない弾力を感じる。

「シリコンですか……?」

「そう。これ、取れるのよ」

 女はそう言って、文字通り、胸を外してみせた。その下に現れたのは、平べったい、女の本物の胸――の跡。

 私は呆気に取られて、あんぐりと口を開けてしまった。

「乳がんになっちゃって、胸を全摘出したの。手術で再建するっていう選択肢もあったけど、また手術は嫌でさぁ……。それ以来、外に出る時は、こうやって人工乳房を付けて過ごしてる」

 女は胸を元の位置に戻し、服を着てから、また笑った。

「あたし、摘出する前は、胸が大きかったんだよね。まるで、そこがあたしの顔だっていうみたいに、男たちがあたしの胸を見てた。そのおかげで良い思いもしたわ。ある意味、あなたと同じ。ちやほやされるの、嫌じゃなかったの」

 私は目を瞬いた。さっきの強い姿を見てしまったら、彼女が男の前でしおらしくしている姿なんて、とても思い浮かばなかったから。

「だから、胸を摘出するって決まった時は、本当にショックだったわ。抗がん剤で髪も抜けちゃったから、それもつらかった。あたしだったものが、全部なくなっちゃったみたいに感じた。治療が終わってからも、しばらく外に出られなかったんだ」

 女が溜め息を吐く。思い出したくない感覚が蘇ってきたのか、さっきよりも、声に覇気がなかった。

「だけど、あたし、まだ生きてたんだよね。いろいろ失ったけど、まだ生きてたよ。悩み抜いた末に、見た目なんて、あたしの構成要素の一部に過ぎなかったんだ、って気づいた。これからはそうじゃないところで勝負していこう、って思ったんだ」

 女はそう言って、人口の胸に触れる。

「だからこれは、元々のより小さくしてみた。長かった髪も短くしてみた。今となっては、こっちの方がいい。こっちの方が、断然、本来のあたしって感じ。気づかずにいたけど、ずっと、あたし、男に気に入られる女を作ってたんだよね。だから、そうじゃないあたしに作り直したの」

 私は首を傾げて、思わず訊ねた。

「今のあなたは、何ですか?」

「あたしが大好きな、あたし。あたしに満足してる、あたし」

 女は、はにかむように笑った。

「ナルシストだって思ってくれていいわよ。そうだから」

「そんなふうには思わないです。すごく、素敵だし……」

「そうよ。あたしが大好きなあたしだから、きっとあなたにも、素敵に見えるの」

 女はそう言って、真ん丸の黒い目で、私の顔をまじまじと見る。

「情けない、みっともないって言ってたわね。悪いけど、あたしもそう思う。あなたがそう思ってるなら、きっとみんなそう思う。だから、隙だらけなの」

 結構ひどいことを言われていたが、不思議と傷つきはしなかった。多分、その言葉に納得していたからだと思う。

「胸だって作り直せるんだもの。あなたなら、もっと簡単に作り直せる。変われるわよ」

 頬の涙は乾いていた。私の顔には、自然な笑みが浮かんでいた。



 それから二人で少し、一緒に歩いた。

「綺麗よね。キンセンカ」

 先程、私が一人で佇んでいた花壇の前で、女が立ち止まる。

「花言葉、いくつかあるみたいだけど……『変身』とか『再生』っていうのが、あたしは好き。手術を受けた後、ここでこの花を見て、花言葉を知って、勇気づけられたんだよね」

「分かる気がします」

 元気いっぱいのキンセンカと、明るくて強い女。

 何だか似ているなぁ、と思った。


 帰り道が違うということで、植物園を出たところで、女とは別れた。

 少し歩いたところで、ふと、名前すら聞いていなかったことに気がついた。

 慌てて振り返ってみたけれど、女の姿は、もうなかった。

 白昼夢を見ていたような、不思議な心地がした。



 その日を境に、私は鈍臭い私をやめることにした。まず、髪をバッサリ切って、染めてみた。あの人みたいに、赤みがかったオレンジ色に。

 それから、嫌だと思ったことは、言うようになった。希望していることも、言うようになった。

 つい、弱気な自分が出てきそうになった時は、キンセンカとあの女の人を思い出した。過ごした時間は一瞬だったけれど、あの日以来、ずっと頭の中で励ましてくれているような気がするのだ。

 そんな私を、今までと違うと言って、距離を置く人もいた。でも、反対に、好感を持ってくれるようになった人も多かった。

 きっと、そういう人たちが、私にとって、本当に必要なご縁だったのだろう。私が大好きな私を見てくれる人たちを、自分も大事にしようと思う。



 あれから一年。キンセンカの季節に、私はまた、植物園にやってきた。

 少し期待したけれど、あの人の姿はどこにもなかった。でも、今年もキンセンカはとても綺麗だ。

 もしかしたらあれは、私のために、魔法で人間に変身してくれたキンセンカだったのかもしれない――そんな現実離れした考えが浮かんできて、顔がほころんだ。

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