白い服の女
「鈴木くん、残業か」
背後から声を掛けられた鈴木は、睨みつけるように見ていたパソコンの画面から目を離し、声がしたほうを見た。
そこには、ぽっこり出た特徴的な腹をした沢田課長が、黒い手提げカバンを手に抱えてて立っていた。
「はい。」
少し間があってから、鈴木は力なくそう返事をした。
「そうか。仕事を頑張るのはいいが、あまり残業が多いと今は上がうるさいからな。それに先月下の階であんなこともあったし。ほんと気を付けてくれよ。」
淡々とした口調でそう言った沢田課長は、言い終わるとうんうんと頷いていた。
その様子に、実際はあまり興味はないが立場上とりあえず言いましたという感じがありありと伺える。
鈴木は「わかりました。」と、とりあえず返事はしたが、内心では、誰が好きで残業なんかするものかと毒づいた。
「じゃあ、俺は帰るから。鈴木くんが最後だから入口の施錠と警備ボタンを押すのを忘れずによろしくな。」
そう言って、沢田課長は腹を揺らしながらのそのそ歩いてオフィスから出て行った。
沢田課長に言われたことで、鈴木は自分以外に残っている人がもう誰もいないことに気づいた。時計を見ると22時近い。
「もう、こんな時間だったのか。」
そう言って軽く舌打ちをする。
鈴木は週末の会議で使う資料の作成を、同じ課の先輩社員である内山から依頼されていたが、作成してはダメ出しをされて作り直しをする、ということを何度も繰り返していた。
そのためこうして残業する羽目になっていたのだった。
当の内山は人に仕事を押し付けておいて、定時に堂々と帰って行った。
なぜ先に会社に入社したというだけの理由で、あんな偉そうにすることしか能がない奴が先輩面をしているのか。こんな理不尽はとても納得できないと、怒りが沸々と湧いてくる。
鈴木は晩御飯を食べていないために強い空腹もあり、それが余計に怒りに拍車をかけていた。
もう仕事をやろうという気が完全に失せてしまった。
まだ資料は完成していないが、鈴木はもうそんなことはどうでもいい、知ったことかと思った。
よし帰ろう、と思い立ち上がったときに、夕方に雨が降っていたということを思い出した。今もまだ降っているのかを確認するために、鈴木は自分の席の近くの窓に寄って外の様子を見てみる。
外は暗くてあまりよくは見えないが、どうやら今は雨は降っていないようだ。
鈴木の勤める会社が入るビルは、片側3車線ある幹線道路沿いにある。周囲はオフィス街のため日中は歩道を多くの人が忙しなく歩いているが、今はほとんど人の姿は見当たらない。
そんな中、鈴木のいるビルから道路を挟んで反対側にあるビルの前の歩道、そこに植えられた街路樹の横にじっと佇むように立つ人がいるのが見えた。
近くの街頭に照らされたその人は、上は白い服で下は黒っぽいズボンを付けていており、遠目にも細身で小柄の体型に見える。そして髪は肩より下まで長く伸びていることから女性のように思えた。
鈴木のオフィスはビルの5階にあり、歩道は上から見下ろすような形になるため、鈴木の位置からではその女性の顔までは確認できない。
「何をしているのだろう。」
鈴木は気になって、しばらくその女性を観察するように見ていたが、何をするでもなく同じ場所にじっと立ったままで身動きをする気配はまったく感じられなかった。
そうしてしばらく経ったが、鈴木はいつまでもこうしてその女性を見ていてもしょうがないと思い、片付けをするとオフィスを出た。
会社の入るビルから外に出て、先ほど白い服の女性が立っていたあたりを見てみたが、どこにもそれらしき人は見当たらなかった。
鈴木がビルから出るまでの間に、どこかに行ってしまったのだろうか。
鈴木は気になりつつも家路についたが、家に着く頃にはそのようなことがあったこともすっかり忘れてしまっていた。
翌日、会社で資料が出来ていないことを内山に告げると、内山は腹を立てて鈴木を使えない奴だと罵倒した。そして今日中には必ず完成させるようにと強く言われた。
鈴木は怒りを通り越して心底ウンザリしていたが、やらなければ内山は全部鈴木のせいにすることは目に見えていた。
鈴木はしょうがなくその日も残業をして資料を作成してた。そして気づいたときには、またオフィスには鈴木一人だけとなっていた。
時計を見ると22時を過ぎている。また今日もこんな時間になってしまったと思うと溜め息しか出なかったが、とりあえず資料は大体出来上がったのが唯一の救いではあった。
早く帰ろうと片付けをしていると、昨日窓から見た変わった女性のことを思い出した。
まさか今日はいないだろうと、窓から外を覗いて見たところ、昨日とまったく同じ場所に人が立っているのが見える。
見たところ服装も昨日とまったく同じようだった。
いったい何をしているのだろうと思いながら、鈴木はその女性を見ていた。
誰かと待ち合わせしているのか、それともあの場所に何かあるのか。
すると、突然その女性はビクッと体を大きく震わせた。
そして女性の頭部が何かを探すように左右に動いているように見える。
鈴木は目を離さずにその女性の動きを見続けていた。
すると女性の頭は徐々に上向きに動き、上を見上げるような形になっていった。すると鈴木の位置からでもその女性の顔が見えた。
長い髪で目は隠れているが、髪の分け目から顔の真ん中に真っ赤な口がハッキリと見えた。
そして、顔の向きからその女性は間違いなくこちらを見ていると鈴木には思えた。
と、その瞬間、鈴木は金縛りにあったかのように体がまったく動かせなくなっていた。
鈴木は必死で体を動かそうと踠いたが、結局体は動かず女性を見続けることしかできなかった。
そうして女性を見ていると、やがてその真っ赤な口がもごもごと動き始め、何かを喋っているようだった。
当然距離が離れているため何を言っているのかはわからなかったが、その女性は右手をゆっくり上にあげて鈴木の方に向けて手首を前後に動かして、まるでおいでおいでをしているような動きを始めた。
鈴木はそれを見た途端に、白い服の女性のところに今すぐに行かなければならないという考えでいっぱいになっていた。
すると今までいくら動かそうとしても動かなかった体が動くようになった。ただ、女性のところに行く以外他には何も考えられなくなり、目の前の窓を開けようとした。
ただ窓にはストッパーが付けられており、頭が辛うじて通るくらいのスペースしか開かなかった。
さらに窓を開けようと窓を押したり引いたりしていると、指を窓に挟んでしまった。ただその痛みで鈴木は突然ハッとなって我に返った。
「俺は何をしようとしていた、、、。」
鈴木は目の前にある少しだけ開いた窓を見て、自分がしようとしていたことに気づき愕然とした。
そして、腰が砕けたかのように後ろに尻もちをついて倒れこんでしまった。
先月、鈴木のオフィスのあるフロアの下の階、4階に入っている会社の社員が、夜に1人で残業しているときに窓から飛び降りて死亡した事件があった。
結局仕事上のストレスから自殺したものと判断されたが、その事件を受けてビルの管理会社は窓が完全に開かないように全フロアの窓に改修を行っていた。そして、その工事が行われたのが先週だった。
もし、その改修が行われていなければ鈴木は今頃ビルから落下していただろう。
鈴木は、さきほど倒れ込んだとき床に打ちつけた腰が痛んでいたが、とりあえず助かったことにほっとしていた。
「あれはいったい何だったんだ、、、。」
そう呟くと同時に、急にオフィスのすべての電気が消えた。
鈴木は「ひっ」とつい声が出てしまう。
尻餅を着いた体勢のまましばらく様子を伺っているが、電気が付く気配がない。
停電だろうか。だが外からは向かいのビルの窓の明かりが見える。
鈴木は腰の痛みをこらえながら、よろよろと立ち上がる。
その時、窓ガラスに暗くなった室内の様子が反射して見えるが、そこにはなにやら白い影が動いているのが見える。
最初は自分の姿が反射して映っているのかと思ったが、どうも自分とは感じが違う。
そして、その白い影は鈴木のいるあたりへと近づいてきているように思えた。
それに気づいた鈴木はとっさに背後を振り返った。
すると、そこには白い服と黒いズボン、肩より長い髪をした女が俯き加減に立っていた。
「あの女だ、、、。」
鈴木はあまりの恐怖に、声も出せず動くこともできない。
そして、女は俯いていた顔をゆっくりと上げていく。
徐々にあの真っ赤な口が見えてくる。
近くで見るとその赤がより鮮明に際立つように感じられる。それはまるで血の色のようだった。
さらに遠目では見えなかった女の目が髪の隙間から見えるが、その目も同様に真っ赤だった。
鈴木は恐怖に震えながらも、どうすればいいか必死になって考えていた。
そのとき、女の真っ赤な口がもごもごと動いたように見えた。
すると女の口から出たとは思えない潰れたような野太い声が聞こえてきた。
「あなたも私たちのところに来ればいいのに。そうすれば楽になれるのよ。」
「私たち?どういう意味だ。」
鈴木はとっさに震えた声で聞き返していた。
目の前には女しかいない。私たちとはどういうことだろうか。
すると女は無言で鈴木の後ろにある窓のほうを指差した。
鈴木は恐る恐る窓の外に視線を向ける。
窓の外を見て徐々に視線を下げていく。すると、ビルの前の歩道に先ほどの女と同じように俯いて立つ多くの人が見えた。男もいれば女もいる。そしてその人たちは皆鈴木に向かって手をあげて手首を前後に動かしておいでおいでをしているようだった。
そのとき、鈴木は恐怖の限界を迎えた。
翌日になり、会社へと出社してきた鈴木は部長に呼び出されて激しく叱責を受けていた。
昨夜、鈴木は恐怖のあまり逃げるように会社から出たため、会社の入口の施錠も警備ボタンを押すこともしないで帰ってしまったのだ。
そのため、警備会社から異常の連絡を受けた部長が深夜に会社に来てみると、入り口の鍵は開いたまま、そしてオフィス内は電気は点いているのに誰もいないという状態だった。
朝になり、最後に会社を出たのが鈴木だとわかったため、鈴木は部長に呼び出されてどういうことかと厳しく問い詰められていた。
だが、自身が体験したことそのまま言っても到底信じてもらえないと思った鈴木は、終始に曖昧な返答しかできなかった。
鈴木は始末書を書くことで今回は許されたが、この件以来、どんなことがあっても残業をすることはなかった。
同僚たちは部長から厳しく怒られたことで残業をしなくなったと思っているようだったが、本当のところはあの白い服の女ともう2度と会いたくなかったためだ。
その後、鈴木が調べたところ、この辺りは高度成長期のころからオフィス街として栄えてきたが、時代の移り変わりの中で、多くの人がビルから飛び降り自殺をして命を落としていた。
もしかしたらその中には鈴木と同じようにあの女たちに呼ばれて飛び降りさせられた人もいたのかもしれない。