9話 若葉を摘んだ男・桐山貢一
昨日の日間ランキングで3位をいただきました。
評価★★★★★をして下さった方、誠にありがとうございます。
乾いた紙の擦れる音が、静まり返った個室に響いていた。
東京・立川駅近くの路地にあるネットカフェ。
いくつかのネットカフェやレンタルルームを毎日転々としながら過ごす蓮が何度か訪れたそこは、看板の蛍光灯も半分ほどが切れているような古びた建物。
階段を軋ませながら昇った二階、喫煙フロアの最奥にある個室。四畳ほどの狭い空間に、蓮はひとり身を沈めていた。
座面が破れ始めた人工皮革のソファチェアに背を預け、机の上には厚さ五センチを超える紙束。
ネットカフェに来る途中で買ったリュックの中からではなく、アイテムボックスから取り出したそれは、今日の日中に出会った白田つかさから手渡された、政府要人の悪事をまとめた極秘資料ファイル。
――いや、これはもはや告発の聖典とも言うべきか。幾年にも渡って個人で集め続けたとは信じ難いほど、資料は網羅的で精密だった。
通し番号のついたリストに始まり、閣僚別、官僚別、省庁別に区分されたファイルには、外務・法務・厚労・国交・財務といった主要官庁の幹部の名と、彼らが行った数々の非道な決定が記されていた。
個室のドアのロック、監視カメラの死角であることは何度も確認した。薄暗い天井の照明が彼の額に落ちるたび、深い影が目元に落ちていた。
「……想像以上だな」
そう呟いて一枚めくる。次のページでは、今は亡き三枝外相が他国の高官らと結託し、日本の入国管理を実質骨抜きにした密約の草案が示されていた。官僚による外国人優遇政策の進言と、それに応じた政令改正案の推移。国会を通過する前に、すでに結論が出ていることを暗示する内容に、蓮は口を引き結んだ。
また一枚。今度は厚労省の課長級官僚が特定団体と癒着し、外国人生活保護申請の認定率を恣意的に操作していた内部メール。しかもそれは「実績」として上層部から評価されていた。
一番初めに天誅を下した雨宮総理大臣においても、度重なる増税で徴収した国家財源を、周辺国――特に中国・韓国の主要企業や団体への賄賂、あるいは国内有数の大企業への輸出還付金として、さらには政府関係者へ政治献金として流用していたことを裏付ける機密文書が含まれていた。
党内の若手議員に対する政治活動奨励名目での高額な商品券の提供を記した内部決裁書類や、異常な頻度と不透明な用途で計上された雑費項目による支出記録が並ぶ会計帳簿も存在していた。
蓮自身が収集した情報と同じどころかそれを更に補強し、関連する更なる悪事の数々に蓮は嫌悪感を露にした。
「……ふざけてる」
目の奥がじんと熱くなる。眉のぐぐっとひそめられる。
怒りはある、だがまだどこか他人事のように受け止めていた。世の中のどす黒い仕組みを目の当たりにしているという冷静な観察者の視点で、彼はページをめくり続けた。
そして――
蓮の指が、不意に止まった。
それは一枚の行政資料だった。
財務省・予算査定局の内部資料。年度ごとの補助金見直しに関する要旨と、削減候補に挙げられた社会福祉関連施設の一覧が綴られていた。
その中に、一つの名称があった。
『若葉愛育園(三鷹地区)──再開発優先区域内指定/補助金削減第Ⅰ群対象/三年度以内廃止誘導』
「……」
脳裏に、けばけばしいカラフルなビルが取って代わったあの光景が蘇る。
エルディアから戻った直後、蓮が真っ先に向かったかつての「家」。
幼い頃を過ごし、笑い、泣き、時に夢を語った場所。だが、そこにはもはや何もなかった。
異世界では五年を過ごしたつもりが、地球上では十五年の年月が経っていた。
蓮が留守にしている間に、日本は大きく様変わりし、それに伴い、そこに"若葉"があった痕跡は完全に消し去られた。
外国語だらけの看板・標識・掲示板と、ここが日本でなくなったと錯覚するほどの雑然とした街並み。
その区域では真面らしい日本人とはすれ違わず、"若葉"と共に過ごしたあの町は、丸ごと外国に乗っ取られた。
"再開発"――。
そういう事もあるだろうと自分に言い聞かせた。エルディアから戻ってきたばかりで、変わり果てた東京の姿に戸惑い、すべてを受け入れるしかなかった。だが――今、ようやくその真相が明らかになる。
ページの余白には手書きの注記があった。
〈再開発優先区域指定により補助金打切決定。施設側からの異議申し立て記録なし。〉
〈実施責任者:桐山貢一 財務省主計局長〉
蓮の喉が音を立てた。ページの右下には、案件の承認印。桐山貢一の筆跡。
再開発の名の下に、無理矢理引き剥がされ、路頭に放り出されたのだ。
親も身寄りもない子供たちを、まるでゴミのように。
「桐山……」
口にした瞬間、空気が変わった。
頭の芯が焼けるような熱を帯びていく。感情が、心臓の奥からゆっくりと湧き上がる。最初は怯えにも似た不快感、次に怒り、そして静かな確信。
あの男が、俺たちの家を殺した。
書類上の処理で、人間の営みを「排除対象」として処理した。
抵抗する術を持たなかった子どもたちの居場所を、「再開発」の文字一つで地図から消したのだ。
掌が震えた。膝の上で指が強く握りしめられ、爪が皮膚に食い込んでも、痛みは感じなかった。もはやそれどころではなかった。すべてが腑に落ちた。なぜ、異世界から戻されたのか。なぜ、今この国に、自分が立っているのか。
天が与えた「裁きの力」。
身寄りも、抗う勇気も、戦う力もなかったあの頃の小さな自分とは違い、今ならこの世の理不尽全てを跳ね返し、返り討ちにし得るだけの力がある。
弟たち。妹たちの家を。
俺たちの生まれ育った故郷を。
身勝手な大人の都合で、書類上の処理で簡単に消し去るなんて横暴。
―――許されて良い筈がない。
蓮は立ち上がった。
目に宿る光が、ただの義憤から、明確な殺意へと変わっていた。
もう迷いはない。次なる標的は定まった。
第三の天誅は
――桐山貢一。
八月の東京は、灼熱の陽光に包まれていた。
まだ日没には至らない夕刻、都心の雑居ビル群のひとつ。その屋上に、誰の目にも止まることなく、ひとつの影が佇んでいた。
蓮だった。
纏うのは、帰還を間近に控えた蓮が異世界で仕立てたビジネススーツ風の魔力衣。
魔力を織り込んだ上質な布地は、炎天下の熱にもびくともしない。体温を一定に保ち、灼けつく空気の中でも快適な状態を維持している。
汗ひとつかかず、蓮は涼しい顔で東京を見下ろす。
スーツの内ポケットから覗くのは、漆黒の宝玉をあしらった銀のペンダント――隠形の輝石。
魔力を帯びたその輝石は、蓮の存在感を周囲から完全に遮断していた。蓮が自ら音を立てたり声を発さない限り、動物ですらその気配に気づくことはできない。仮にこの場に警察の監視ドローンが飛来しても、彼の姿は捉えられないだろう。
蓮はしゃがみ込み、ビルの縁から視線を落とす。
眼下、歩道を歩く一人の男を視界に捉えた。
桐山貢一。
中肉中背。無駄のない動き。白髪交じりの短髪と銀縁の眼鏡。濃紺の仕立ての良いスーツ。官僚特有の無表情で歩く姿は、通りすがりの誰の記憶にも残らない。だが、蓮にとっては、何百回見ても足りないほど、血の底から湧き上がる憎悪の象徴だった。
蓮は、この一週間、桐山の行動を逐一観察してきた。街中に溶け込むラフな服装と隠形の輝石で気配を完全に隠しながら、庁舎の屋上、視察先、ビルの陰、木々の間、ありとあらゆる死角に潜み、彼の生活パターンを観察し続けた。
地道に積み上げた桐山の行動パターンはやがてデータとなり、統計となって積み重なっていく。
その中から法則が見つかり、決まった時間に決まった動きをすることも見えてくる。
朝も昼も夜も、静かに遠くから、近くから、桐山を見つめ続けた。
――この男が、若葉愛育園を奪った。
「……桐山貢一」
桐山の署名と決裁がなければ、きっとあの再開発計画は動かなかった。
子どもたちは、血の繋がった親から捨てられ、社会の片隅で最後の希望を求めて生きていた。
蓮も、かつてそこに救われた。
だが、その場所を、書類一枚で抹消したのがこの男だった。
今目の前を歩くこの男が――
「……許さねぇ」
蓮の感情が、怒りから殺意へと変貌する。
義憤ではない。正義ではない。
ただ、自分の生きた証を否定されたという事実が、蓮の中に黒い渦を巻き起こした。
"若葉"の映ったアルバムは焼かれ、もう蓮の思い出の中にしか残らない。
もう二度と帰れないのだ。
今回は、理性では止められない。
雨宮・三枝のようにスマートに、誰にも悟らせず、罪を刈り取る――そんな形式的な天誅では終わらせない。
これは、自分の存在を取り戻すための“戦”だ。
憂さ晴らし上等。
奪われた物は、きっちり奪い返す。
蓮は、屋上から視線を逸らさずに立ち上がる。
桐山はいつものように公務が終わると、黒塗りの高級車に乗って庁舎を離れた後、裏通りにある無名の料亭へと足を運ぶ。警備は外され、SPも遠ざけられる。桐山がかねてから贔屓にしているこの料亭に、今宵は蓮が呼び出した。
「ここしかない……この夜、この場所、この時。すべてを俺の手で終わらせる」
桐山はやがて、後部座席の扉を閉め、動き出す。
蓮もまた、屋上の端から身を翻した。
隠形の輝石が淡く輝き、蓮の姿は闇に溶けた。
夕焼けの残光に照らされる東京の街。
その片隅に、ひとつの決意が、静かに――だが確かに、刃となって研ぎ澄まされていた。
二〇二五年八月十八日。
盛夏の宵。
湿気を孕んだ空気が街路を重たく包む中、黒塗りの公用車がしずしずと石畳の前に停まった。
運転手が後部座席のドアを開けると、ゆっくりと姿を現した。
「……やれやれ、この暑さもいつまで続くのやら」
眉をひそめながら扇子を取り出し、顔元を仰ぐ。額に汗は滲んでいるが、その佇まいには相変わらずの威圧感がある。
高級料亭「志のぶ」。
永田町界隈でも限られた人間しか通えぬ“政官の別荘”とも称される場所だ。
政界、財界の裏の交渉は、ここで交わされてきた。
桐山にとっても、この場所は馴染みの庭のようなものだった。
しかし、今夜のそれは――どこか違っていた。
「いらっしゃいませ、桐山様。お待ち申し上げておりました」
いつもの女将が出迎える。歳は五十前後、凛とした着物姿。
秘書から"重要な裏交渉の場がある"と伝えられてやって来たが、先方は既にご到着だろうか。
「……部屋は、いつもの“雪白の間”かな?」
「はい。ごゆるりと」
案内された廊下には、見慣れたはずの掛け軸や調度品が揃っている。けれど、それらがどこかに違和感を覚えた。
ふと、風鈴の音が遠くから聞こえる。……はずなのに、外の虫の声は一切しない。
(気のせいか? この所、気を張り過ぎた疲れが回って来たか)
「こちらへ」
襖が音もなく開き、畳敷きの静謐な一室が姿を現す。
先方はまだ来られていないようだ。
促された座椅子に桐山はそのまま腰を下ろした。
が、すぐにまた奇妙な感覚に包まれる。
床の間の設えはいつも通りだ。だが、部屋の空気がどこか重い。
襖を閉じると風鈴の音は消え、室内はしんと静まる。
テーブルのこちらと向かいに、一組ずつ膳と湯呑みが置かれていた。
慣れた手付きで桐山の湯呑みに茶を注ぐ。
「本日は大切なお客様とのことで、特別な懐石をご用意しております。お連れの方は遅くのお着きと承っております。桐山様はお先にどうぞ、お料理をご賞味くださいませ」
女将は一礼し、襖の奥に消えた。
程なくして女将は黒漆の盆を両手に、音もなく現れる。
そして、膝をついて一礼し、桐山の前へと一品目を差し出した。
「先付、『夜白』でございます」
静かな声とともに、女将は器の蓋を取る。
白磁の小鉢には、透けるような薄切りの大根が三枚、重ねられていた。
脇にわずかな大根葉の刻み。色彩は乏しく、香りもほとんどない。
桐山は眉をひそめた。
「……これが先付?」
だが女将は黙って一礼し、正座したまま動かない。
押しつけがましい仕草ではない。ただ、そこにいるだけ。
だが妙に“逃げ場”のない気配を感じて、桐山は仕方なく箸を取った。
冷たく湿った大根が口に入る。
しゃくり、と歯が通る感覚はあるが、旨味はほぼない。
舌に残るのは酸味と、古漬けのような角ばった塩気。
食べ終えても、満たされる感覚はまったくなかった。
喉を通った直後――女将が口を開く。
「ある年の冬、食べ物が尽きた家で、母が台所に残っていた一本の大根を薄く切り、酢と塩だけで和え、子に差し出した夜があったそうでございます」
「……」
「子は『ごちそうだね』と笑い、母は何も言わず、手も付けず、子が食べるのを愛おしそうに見つめていた、と。火も油も使えぬ夜、最後の一物でつくられた、寒い晩の記憶でございます」
桐山は反応できなかった。
まるで、今飲み込んだ大根の繊維が喉に戻ってくるような不快感。
料理の味ではない。記憶でもない。
だが、口にしてしまった「何か」が、ゆっくりと内側に染みていく。
女将は一礼し、襖を音もなく閉じた。
沈黙だけが残る。
桐山の胃に、冷えた大根がじっとりと重く沈んでいた。
女将が去って十数分。
次の料理を待ちながら、仕方なく先付をつまみ、それが空になったのと同時に器を下げに来た。
まるで完食するのを待っていたかのようなタイミングに驚きつつ、それからしばしの時間が流れた。
部屋は静まり返り、時計の針の音さえない。
桐山は額に浮かぶ汗をぬぐい、湯呑みに口をつけた。
が、茶の香りは薄く、温度もどこか曖昧で、まるで空気を飲んでいるようだった。どうにも喉を通らず、低くつぶやいた。
「……水をもらえるか」
襖の向こうに気配があったかと思うと、すぐさま女将が現れる。
黒塗りの盆に、透き通った硝子のコップと、冷えた水差し。
それを桐山の正面に置くと、女将は静かに正座し、淡々と口を開いた。
「お冷でございます」
コップに水を注ぐと、女将は膝を折ったまま深く頭を下げ、すぐに立ち去った。
桐山は一気に水をあおる。
冷たさが喉を潤すと、わずかに安堵の息が漏れた。
やがて、再び襖が音もなく開いた。
黒漆の盆を捧げ持った女将が、膝をついたまま部屋へ滑るように入り、桐山の右手に小ぶりな土器の鉢を据え置く。
「煮物、『石煮』でございます」
石のようにくすんだ鉢の蓋が、カチリ、と外された。
中から湧き立ったのは、焦げた石と湿った土のような匂い。
表面には湯が濁り、三つの煤けた丸石と、青黒い野草が浮かんでいる。
桐山は言葉を失い、ただ目を細めて鉢を見下ろした。
何かの冗談か――いや、この料亭にそういう趣向はないはずだ。
だが、先ほどの一皿に続いて、これもまた明らかに“まともな食事”ではない。
「……」
視線を上げれば、女将はすでに静かに正座し、背筋を伸ばして俯いている。
まるで「早くどうぞ」と無言で促しているかのような、動かぬ姿。
(……なんなんだ、この女は……)
何も言わない。だが帰れという気配も出さない。
ましてや、相手――予定されていた人物はまだ来ていない。
――召し上がらないと、先へ進みませんよ。
そう言われているかのような居住まいのまま、女将は微動だにしない。
桐山はわずかに舌打ちをし、鉢の縁に箸を伸ばす。
石の隙間から露出している草を、しぶしぶ摘み上げ、口へ運んだ。
瞬間、舌に広がるのは、焦げた小枝のような苦味と、泥臭さ。
ぬるく濁った汁が喉を伝い、胃の奥でじわりと重さに変わっていく。
咄嗟にコップへ手を伸ばそうとする。
だが、先ほど飲み干してしまったためグラスの中の水は空になっていたのに気づき、わずかに眉をひそめた。
「………あっ」
聞こえたかどうかもわからない声だったが、すぐに女将が近寄り、冷たい水差しを手にしてコップに水を注ぐ。
音を立てずに桐山の前へ差し出す。
「お冷でございます。ご自由にお召し上がりくださいませ」
桐山は無言ですぐにそれをあおり、喉を洗う。
ほっと吐き出した息は、しかしどこか重苦しく濁っている。
女将は一歩後退り、再び正座の姿勢に戻った。
俯いたまま、かすかに口を開く。
「ある家の幼い兄弟は、春に父が亡くなり、夏には母が病に倒れたためやがてお金と食料が尽き、それでも空腹を紛らわせようと、炭火で小石を焼き、湯をかけて、摘んだ葉を浮かべ、夜ごとの汁物を作ったそうです」
「……」
「兄は弟に、『これは大人のご馳走だ』と嘘をついて。石を箸で持ち上げて、咀嚼するふりをしながら、笑っていたといいます。しかしその弟は後日、兄が作ったそれを真似て自作し、実際に口にしたんだそうです」
料理を貶すでも、桐山を責めるでもない。
女将の声は、ただ、そういう食卓があったことを、まるで静かな物語を読み聞かせるように語るだけだった。
桐山は答えない。
ただ、冷たい水だけを飲み、鉢の中を見つめていた。
次話は明日20時投稿予定です。
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