8話 普通じゃない人々
八月十一日。
晴れ晴れとした昼下がり、帰還初日に蓮が訪れた中野の貴金属買取店【宝誠堂】は、初見の通行人が好んで近づきたいとは思えなくさせるような古ぼけた外観の雑居ビルの五階にあり、相変わらず人目を避けるようにひっそりとした佇まいの入り口だった。
蓮が前回来店してもうすぐ一ヶ月にもなるのに、未だにエレベーターが直っていない。
またこの階段を上るのかとげんなりしながら登ってきた蓮は、熱のこもったパーカーのフードを頭から払って汗を袖口で拭いつつ、扉を静かに開けた。
「ーーおっ」
カウンターの向こうに座っていた初老の店主が顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべてまばたきのような小さな会釈をする。
棚やショーケースを眺める若い女性客が一人いるくらいで、やはり人気のない店内だ。
それが良い。
「いらっしゃい。本日は?」
「買取をお願いします」
「買取ですね、どれどれ…………おやこれは」
前回売った金貨と同じ物だと分かった店主は、蓮にだけ分かるほんの微かな不敵な笑みを浮かべた。
「毎度どうも。少々お待ちください」
テスターで純度を測り、ルーペでデザインを確かめるが、二回目の今回は初回より手早く査定が終わる。
「こちらは……この査定額になりますがいかがでしょう」
近くに女性客がいるため電卓で買取額を見せてきたが、そこには三百十五万円と表示されている。
「前回のお品物はすぐに買い手がつきましたよ。なかなかの美品でしたし、見たことないデザインでしたから。コレクターの方が、すぐにお金を下ろしてくるから待っててくれと、ATMに駆け込んで急いで買っていきましたよ」
「五階まで階段で往復ですか?」
「ええ、息を切らして走ってこられたのでしょう。申し訳ないことをしましたが」
眉尻を下げるが全く申し訳なさそうに感じない店主のつむじが見える。
「それもありますし、先月からまた少し相場が値上がりしましたので、今回は三枚で、こちらの価格ということに」
蓮は静かにうなずいた。
「ありがとうございます。……もしまたご縁がありましたら、どうぞ。他になにか面白そうなものがあればお気軽にお持ちください」
ほどなくして三百十五万円入りの封筒を受け取り、蓮は短く礼を述べて店を出た。
階段を下り四階へ差し掛かる頃。
「……あの、すみません」
静かな声が、蓮の背後からかけられた。
振り返ると、先程店内で品物を見ていた女性の姿。
すらりとした黒髪の女性がそこに立っていた。
年の頃は二十代半ばほどだろうか。
少しウェーブがかった胸ほどの長さの黒髪に、深緑色の薄手半袖膝丈のワンピース。黒とベージュのバッグと真珠色のミュールが年頃の女性らしさを醸し出していながら、目元には鋭さと、理知的な光が宿っていた。
「さっきのお店で……あなた、金貨を売ってましたよね?」
蓮はすぐには答えなかった。
受け取った現金封筒をひとまずパーカーのポケットにしまいながら、観察するように、彼女の顔と声の調子を見極めようとする。
「すみません、急に。怪しい者じゃないです。……白田です。白い田んぼで“しろた”」
名乗ると、白田はそっと笑った。
「さっきの金貨……私も気になってて、何日か迷ってる間に買われちゃったやつなんです。どんな文献にもネットにも載ってない金貨だったからちょっと気になって。あれ、どこから手に入れたものですか?」
「……知り合いの収集家のおじいさんの遺品です」
蓮は端的に答える。嘘ではない――エルディアの魔王が溜め込んでた大量の財宝の一部だ。
王国に返そうとしたら「代わりに爵位をやろう」「ワシの娘をやろう」と、どんどん外堀を埋められかけ、地球に帰りづらくなってしまうのが分かったから、流れのままアイテムボックスに入れっぱなしになってしまっていた、それらの戦利品。
エルディアで消化できなかったそれらを日本で買い取ってもらうにしても、金貨以上にいろいろヤバいものもたくさんある。
ある程度まとまった資金が欲しかったから金貨にしたが、次は別のもっと値打ちが高くない物にした方が無難そうだ。
「なるほど。でも……おじいさんはメダルって言ってましたけど、純金でメダルを作るなんて道楽、そうそう出来ますかね。デザインは造幣局レベルの精密さ。三枚とも傾きもズレもヘゲもない。個人で出来る芸当ではないですが、かと言ってどこの国の通貨なのかも分からず、記念硬貨・記念メダルでもない。何から何まで謎に包まれた金貨。興味を持つなって言う方がおかしいと思いません?」
彼女は、そこまで言って、少し笑った。
「謎と言えば。今、巷で"銀の仮面"が話題になってますよね。裏で中国と繋がってた大臣を次々にバッタバッタと倒していく正義のヒーロー。あなた知ってますか?」
「あ、ええ。テレビでやってますよね」
「私、あの人をテレビで見た時こう思ったんです。"今、歴史が大きく動く瞬間に立ち会ってる"って。だってあんなの信じられます?魔法で動けなくして一気にバババーッてトドメ刺しちゃうの。もう映画を見てるみたいでしたよ」
白田はバッグから紙束を取り出し、テンション高くページをめくる。
「これは私の分析…推測なんですけど、"銀の仮面未来の日本人説"、"パラレルワールドからの渡来人説"、"転生異世界からの帰還者説"のどれかだと思っていて、『私はこの日本に生まれた日本人だ』との発言と、愛国心・義侠心が強い性格からルーツが日本にあるのは間違いないように感じました。なので"宇宙人説"と"異世界人説"、"地底人・海底人説"は除外しました。侵入経路・殺害方法・魔法の説明はまだつきませんが、崩壊に向かっていく日本を立て直すために巨悪に立ち向かうあの勇敢さは、普通に生まれて普通に過ごしてきた人達とは全然違うって思ったんです」
蓮はわずかに眉を動かした。
蓮の瞬きが微かに早まるのに気付かないまま、白田は左手で汗ばむ顔を扇ぎながら語りかける。
「こんなところで立ち話もなんですし、良ければ涼しい所で少しだけお茶でもどうですか?せっかくの考察を誰かに話したくてうずうずしてたんです。金貨のことは一旦置いておきますから、少しだけ。近くにおいしい紅茶を出してくれる良い店があるんです。ご馳走しますよ」
蓮は封筒をしまったパーカーのポケットを蓋するかのように両手をポケットに突っ込みながら、小さく頷いた。
白田が案内したのは、古民家風の落ち着いたカフェだった。格子戸の入口をくぐると、木の香りと焙煎された紅茶葉の芳香がふんわりと包み込んでくる。
二人は店の奥、窓際の二人掛け席に腰を下ろした。レースのカーテン越しに午後の光がやわらかく射し込み、室内の静けさを際立たせている。
「ここ、穴場なんです。通りから離れてて静かだし、落ち着いて話ができるから」
そう言って微笑む白田の瞳は、さきほどより幾分穏やかだった。
蓮はメニューを手に取りながら、静かに頷いた。
「そうですね。いい雰囲気のお店です」
二人はそれぞれ紅茶と軽い菓子を注文し、やがて二つのカップがテーブルに置かれる。
芳醇な紅茶の香りが空気に溶け、控えめなクラシックが店内に流れる。
「今日はアールグレイにしました」
「今日は?普段は」
「ミルクティーとかカフェラテとかですかね。頭使うとどうしても甘いの欲しくなっちゃって」
白田がそう言って湯気の立つカップを持ち上げる。蓮も一口、手元の紅茶を啜る。
「……いいですね。普段こういう所来ないので新鮮です。過ごしやすそうですよね」
「でしょ。ここ、意外と知られてないんですよ。お気に入りなんで、つい立ち寄っちゃうんです」
「人混みの喧騒から離れた感じ、ほっとしますね」
「ね。ほんと、――――平和って感じ」
蓮がそう言うと、白田は少し笑って頷いた。しばらく、カップの音とBGMだけが静かに流れる。
やがて白田が、ふと視線を伏せた。
「……さっき、いきなり話しかけて変な人だと思われたかなって、ちょっと不安だったんです」
「それは……まあ、少し驚きましたけど」
「ですよね。そうは思ってました…すみません」
白田が小さく吹き出す。その表情には、わずかな照れと安堵が滲んでいた。
「私ね、昔は正義感が強いって言われてたんです。クラスの男子がふざけてたら『男子、静かにしてよ!』とか、『ちゃんと歌ってよ!』とか。泣いちゃった子の盾になって『謝ってよ!』ってその子より怒っちゃったり。悪いことが許せなくて、何でもその場で注意しちゃうみたいな。おかげで委員長ってあだ名が付いたり、ガリ勉メガネって陰で言われてたりしてて…。まっすぐ過ぎて、逆に浮いちゃってましたね」
「へえ」
「でも私の正義は間違ってない、周りが不真面目なだけだって、そうずっと信じて生きて来たんです。真面目に生きていればきっといいことがある、それをきちんと見てくれる人は必ずいるはずだって。大人になっても、それが当たり前の日本であると疑わなかった。…………思えば、そんなの小娘の青すぎる理想だったんですよね。社会の現実は……そんな簡単じゃなかった」
手の中のカップを見つめたまま、白田は言葉を継いだ。
「大学で情報電子システム工学を専攻して、そのまま就職して、このまま誰かと結婚して、何でもない幸せな生活を送るんだろうなと思ってたら、そうは行かなかった。就活は全敗。新卒のカードを失ったら余計に私を欲してくれるところはなくて。バイトしながらプログラミングを勉強して、就職に有利というだけで欲しくもない資格を取ってはIT企業に応募して落ちる毎日を送ってました。次に繋がると思ってフリーの案件を格安で拾ったり、派遣の事務職に応募したり……それでも『女だから』とか『どうせそのうち辞めちゃうんでしょ?』って、契約延長はされず、ずっと職を転々とする毎日になってました」
蓮は黙って、ただ耳を傾けていた。
「何度も、『もういいや』って投げ出しそうになりました。清く正しく真っすぐに生きていることが一番だって信じてたのに、ズルして人の成果を横取りしたり、根も葉もない噂や嫌がらせでライバルを蹴落としても、コネとかバックの存在とか、特別な力があれば見逃されるし、仕事中にソリティアやってるのに他人の手柄で簡単に出世していく。世渡りがうまい人がポンポン駆け上がって、真面目にコツコツやってた人だけバカを見る世の中に嫌気がさしちゃったんです。どうせ頑張っても誰も見てくれない。もう何もかも無駄なんだって」
「………」
「私、なんて非力なんだろう、って…。昔みたいに『違う事は違う』、『それはおかしい』って声を上げられれば良かったのに…。でも、そうすればそうするほど、どんどん立場も状況も悪くなってきてしまって……」
テーブルの上で強く握られた白田の手が、仄赤む。
「心のどこかでは、まだ信じたかったんです。頑張りがそのまま成果につながって、正当な評価が下されるようにこの社会が立ち直ってくれると。日本はまだまだ大丈夫なんだと。そう期待したかったけど、どんどん日本は嫌な国になってきちゃいましたよね…。ゆっくりでも丁寧にやる私より、とにかく早く安くやってくれる外国人技能実習生ばかりが優先的に採用されて、私たち日本人がどんどん端に追いやられて軽視されるような…。外国に侵食されて日本が切り取られているのに政治家は何もしない。自分たちの保身の事しか考えてなくて、私たち国民の事なんて見てない。市民の声を国会に届けるとか言いながら、全然こっちの願いは叶わない。政治家がこっちを見るのは、議員選の選挙カーで通り過ぎる数秒だけ」
長い沈黙。
いつの間にか流れていた、ピアノの悲しげで儚い韻律。
無限の絶望感を漂わせる、遅い調べ。
虚無感、無力感、後悔、悔恨、ありとあらゆる陰鬱とした感情を混ぜたような、そんな響き。
「私はずっと自浄作用に期待してきました。こんなに国がおかしいことになってるのに、なんで誰も止めないの?って。選挙に行って変えようよ、って。ずーっとネットやSNSで訴えてきたんです。ずっと誰も動かない状況を、せめて自分の身の回りの人にだけでも呼びかけてちょっとでも何か変わればと思って情報を発信してきたんです。それでも私たちは無力で、世襲と利権と癒着まみれの政府は欠片も崩すことが出来ず、結局、また国民がこれからも苦しめられるのを指をくわえて見てるしかないんだって思ってました」
終末感を帯びたピアノの響きが、長く伸びた余韻の果てに静かに終止を迎える。
やがて曲は転調し、徐々にテンポが増し、響きも明るさを帯びていく。
「―――そんな時だったんです。"銀の仮面"が現れたのは」
悲しみに伏せられていた白田の目に、一筋の光が差した。
「夢も希望も期待も自信も信頼も、全部裏切られ続けて十年間。何も変わらないこの状況を、ほんの一ヶ月で覆したんです。変えたいと願い続けて何も変わらなかったこの日本を揺るがした。しかもたった一人で――」
白田の目に光るものが滲む。
細く白い指で目元を拭う。
「私は…銀の仮面が何故そんなことが出来るのか、どこからやってきて、どこに向かおうとしているのかが知りたい。半端な覚悟や度胸じゃ出来ないことをあっさりとやってのけたあの人は、……普通の人間じゃない。きっと誰よりも大きくて重い何かを背負ってるに違いないんです」
「………」
「私は、ただ、他の人と同じように幸せになりたかったんです。平凡でもいい。毎日を平和に暮らせるなら、贅沢は望まないつもりで。……あの人はこの国に舞い降りた救世主だから普通の枠には収まらない。あの人は特別な意味で普通じゃない。それに引き換え私はその逆。悪い意味で普通にすらなれなかった落ちこぼれ…。リアルを敗退してネットでだけ良い格好しいの、有象無象のうちの一人ですよ」
そう言って自嘲気味に笑った白田は、あまり飲み進めていなかった紅茶に口をつけ、大きめの一口をごくりと飲み込んだ。
「日本を変えるために、こんな私でも役に立つならと思って色々情報を集めはしましたけど、結局役に立つような出番は来なくて、あっさり先を越されちゃいました。まっ、どれだけ待ってくれてたとしても銀の仮面ほどの大活躍は出来なかったでしょうけどね」
「………」
「もし銀の仮面の力になれるなら、きっと私が生まれた意味が生まれたのかなーなんて思ってみたり。ホワイトハッカーとして銀の仮面の背中をバックアップするみたいな。銀の仮面が活動しやすいように機密情報を収集したり、ネット世論を誘導して人々を扇動したりとか………いや、何でもないです。やっぱ忘れてください。ネットしか取り柄のない女なんて、見向きするわけないですもんね」
言葉を切ると、白田は軽く息をつき、隣の椅子のバッグの中から厚みのあるファイルを取り出した。何色もの付箋が付いた紙束が、中でわずかに揺れる。
「これ、あなたにあげます」
「…これは?」
「出番がなくなっちゃった資料です。これまで六年間、ずっと私がネットにかじりついて集めてきた情報です。官僚とか閣僚とか、表に出ないけど怪しい動きをしてる連中のこと、まとめてあります」
青色のファイルをテーブルの上に、それをそっと差し出す。
「え、いや、そんな大事な物は」
「気にしないでください。家に帰ればまだ刷れますし、同志に会った時のチラシ感覚で持ってたような物ですから。今回は私の独り言を黙って聞いてくれたお礼って事で」
すすっと蓮の方へファイルを差し出す。
「なかなかリアルでこんな事は話せなかったので、スッキリしました。大分話は脱線しちゃいましたけど、今日は別にこれくらいで…。それはあなたの好きにしていいですし、お知り合いに有効活用できそうな方がいれば渡しちゃっても大丈夫です」
蓮は、視線をファイルに落としたまま言った。
「ありがとう。大事に預かります」
白田は微笑んで頷いた。
「せっかくの縁だから、連絡先交換しませんか?」
「――あ、えっと…実はLINEはやってなくて――」
「LINE?LINEじゃなくて暗号アプリ。いつどこから情報が洩れるか分かりませんからLINEなんて怖くて使えませんよ。通話も傍受されるかもしれませんし」
「え。ちょっと気にし過ぎじゃないですか?」
「私に出来るって事は、国は当然出来るって事ですよ。想像がつくことは大抵どこかで実現してる。これくらいの予防はしておくべきです」
「…そうですか」
「では改めて。私は白田つかさ。二十九歳です。あなたは?」
「えっと、き―――…蓮。蓮です。今は二十八歳です」
「あ、年下なんですね。なんか雰囲気的に年上かと…まぁでもほぼ同い年みたいなものですよね。呼び方は――」
「蓮でも、『くん』でも『さん』でも、好きに呼んでください」
「じゃあ…蓮くんで。私は白田でも、つかさでもどっちでもいいですよ」
白田は手を差し向ける。
「…警戒してる割に、初めて会った人に名前言っちゃうんですね」
「ん?だってあなた、ここまで着いてきたでしょ」
「?」
「あの金貨が盗品だったら大人しく来ないはずでしょ。なんだかんだ言い訳して」
「……ああ」
「理由は明かせなくても出所がはっきりしてるって事は、正当な理由で持ってるってことですから、どこかから盗んだのかとは言わないですよ」
――出所を聞かないとも言ってないですけど。
と、不敵な笑みを浮かべて、奪い取る様に蓮の手を掴み、握手を交わした。
「さ、スマホ出してください。アプリ入れるので」
「え?あ、ああ」
蓮は買ってまだ間もない塗装の一部剥げたスマホを渡す。
「………随分型落ちっぽいけど…、サブ?使い捨て用?」
「………」
「………」
「………あんなモノ持ち込むんだからワケアリか。別にいいですよ、ちょっと驚いただけ。じゃあインストールと友達登録までやっておきますね」
「あ、はい。お願いします」
その後しばらく、二人は静かに雑談を交わした。カフェの外では夕暮れがゆっくりと進み、街の雑踏が再び彼らを包み込む準備をしていた。
次話は明日20時投稿予定です。
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