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62話 願いを込めて撃て

 二〇二五年十一月二十九日。


 エンジンの微かな振動が、車内に心地よく響いていた。

 朝の首都高。灰色のガードレールが、一定のリズムで流れていく。


 車体の側面には【桜川セキュリティ(株)】と控えめに印字されたロゴ。白いバンの内部では、四人の警備員が錦糸町から首都高に乗り、東名川崎へ向かっていた。

 運転席と助手席には宗我部組組員の表の顔――ベテラン警備員たちの姿があった。リーダーが助手席に座り、サブリーダーがハンドルを握る。後部座席には、赤星拓弥と玉井が肩を並べて座っている。


 窓の外には、淡い明かりに光るビル街。

 住宅地から都心へ続く高架の下を抜けるたびに、車内へ低い反響音がこだまする。


 その中で、拓弥は胸ポケットに差した“黒い何か”を指先でいじっていた。

 小ぶりなモデルガン。見た目は安っぽいプラスチック製なのに、妙に手に馴染む。

 ただの玩具とは思えない、どこか生き物のような感触があった。


 ――昨夜の光景が、ふと脳裏をよぎる。


 引っ越しカレーを食べ終え、錦糸町駅の南側。

 秋風が吹く歩道で、蓮が靴紐を結び直すような動作のまま、片手でそれを差し出した。


「――護身用に、ひとつ持っとけ」


 アイテムボックスから現れたその小さな銃。

 銃口もスライドも樹脂製で、どう見てもおもちゃ。


「いや、これ……どう見てもモデルガンだろ。なんでこんなおもちゃ持たせんだよ」


 呆れ顔の拓弥に、蓮は薄く笑って言った。


「おもちゃだよ。けど、“お前の想像を映す”おもちゃだ」

「は?」

「お前が“撃つ”って思えば銃。“遊び”と思えばおもちゃ。想像した通りの弾が出る。お前の心次第だな」

「……なんでそんな危なっかしいもん渡すんだよ」

「危なっかしい世の中だからだ。お前はもう、“こっち側”に来ちまったからな」


 その言葉に、拓弥は思わず黙った。

 蓮は口元に薄く笑みを浮かべると、拓弥の肩を軽く組みながら耳元に寄せる。


「――これは本物より“自由”だ。この銃で想像できることはほぼ叶う。日本国内なら弾切れにもならないし、銃刀法にも引っかからない。世界で一番安全で、世界で一番危ない銃だ」

「はあ…。弾切れにならない、ってどういう仕組み?」

「…魔力を地脈から自動で吸い上げてるって考えてくれ」

「へぇ…そんなもんか……」

「自由に使っていい。壊しても失くしても構わない。ただし――」


 蓮の声が、低く鋭くなった。


「――ふざけた使い方は、絶対にするなよ」


 笑いも冗談も一切ない、突き刺すような一言。

 それだけが妙に耳の奥に残った。






 車窓に映るビル群のガラスが、午前の日差しを跳ね返す。

 拓弥は現実に引き戻され、肩をすくめた。


「……世界最高の銃、ねぇ。どこがだよ」


 ぼやきながら胸ポケットから例のモデルガンを取り出す。

 黒く艶のない樹脂製のボディは、どう見ても安物の玩具。プラスチックの赤い石がグリップに埋め込まれているが、それがかえって子どもっぽいとさえ感じる。

 しかし、手のひらに乗せると不思議と指先に熱を感じた。金属ではないのに、まるで血が通っているかのような、微かな鼓動が伝わってくる。


 隣に座る玉井が、ちらりと視線を寄越した。


「なんすかそれ。おもちゃの銃?なんでそんなもん持ち歩いてるんすか」

「いや……昨日、蓮からもらって」

「――坂本どのから?」

「ああ。なんか、護身用にって」

「……それを?」


 玉井は片眉を跳ね上げ、呆れたように口を半開きにした。

 だが銀の仮面が冗談でモノを渡すような男でないことを、玉井は宗我部組の誰よりもよく知っていると自負している。

 笑うに笑えず、視線を落とした。


「護身用に……?」

「つっても、弾なんてねえし、BB弾も入れる所ねえし…」

「なんか、ぱっと見は水鉄砲みたいっすね」

「うーん、水鉄砲……」


 拓弥は苦笑し、軽く肩を揺らした。

 “そう見えるなら、そうかもな”――ただそれだけのつもりで、その単語を頭に浮かべる。


 そして、何の気なしに引き金を引いた。



 ――びしゃっ!!



 後部座席の窓ガラス一面に、水が勢いよくぶちまけられた。

 運転手が反射的にハンドルを切り、思わず車が揺れる。


「うわーーーっっ!?」


 周囲に走行車がなかったのが奇跡だった。

 車がゆるやかに減速し、路肩に寄せられる。

 エンジン音が低く唸り、四人の呼吸音だけが車内に残った。


 サブリーダーがバックミラー越しに怒鳴り散らす。


「――おい!!何しゆうがやお前!?」

「ちょっ、まっ、えっ…まさか本当に出るとは思わなくて…!?」

「車の中で水遊びしよったらいかんろうが!殺す気かえ!?」

「す、すいません…!?」


 玉井は深く息を吐き、額を押さえた。


「……マジで水鉄砲になった。やっぱ“想像通り”って、マジだったのかよ……」


 ぽたりと滴がシートに落ちる音が、妙にリアルに響く。

 サブリーダーは舌打ちしながら発進。本線に復帰する。

 ハンカチでびしょ濡れの窓を拭く拓弥に、玉井はため息をついた。


「護身用って…そう言う事すか」

「…まさか。水鉄砲が護身用なわけ」

「でも、坂本どのは水出すだけの銃なんか、渡さないですよね?何か言ってませんでしたか?」

「"想像通りの弾が出る"って…」

「――じゃあ今、水鉄砲を想像したから水が出たってことっすかね」


 そうなるな、と納得した拓弥は。


「ほう…ってことは、水鉄砲じゃなくて本物の――」

「ああやめてください!車ん中っすよ!」

「あ、ああごめん!」


 それ以降目的地に着くまで、モデルガンは拓弥の服の内ポケットの中に大事に大事に隠された。





 車は谷町ジャンクションへ差し掛かる。右側への分岐を進むと、車線がぎゅっと細く絞られていく。

 渋谷方面へ合流して進むこの約三百メートルほどの区間は、左右が低いコンクリートの壁で挟まれた一車線の細道。左右には細いゼブラゾーンがあるのみ。


 左側の湾岸線ルートから急に分岐に割り込むように前に躍り出たグレーのワンボックスに、車内の空気が一瞬硬くなる。ブレーキを踏み、車体ががくんと揺れた。


「危ないのう…ウィンカーは早よ出さんか」


 サブリーダーが舌打ち混じりにそんな他愛ない不満を呟く。

 その瞬間、拓弥の胸の奥がひゅっと冷える。


 ――六感強化シックスセンスが警鐘を鳴らした。


 すぐ後方、色違いの黒いワンボックスが、いつの間にかこの車にピタリとつけている。

 そこに漂う普通じゃない気配。空気が淀み、どこか金属的にぎらつく感覚。警報のように、体の芯に響いた。


 視線を動かすより先に、前と後ろから二台のワンボックスに挟まれる。一車線の分岐ルートのちょうど中間あたりで、前の車はわざとらしく減速してこちらを押し込み、四人が乗るバンは狭い空間で身動きが取れなくなった。


「おいおい、何じゃこれ……」


 サブリーダーが咄嗟にシフトレバーを操作するが、後ろからも至近距離まで詰められ、車が動かせない。前の車は動く気配など全くなく、明らかにこの車の進路を阻む目的で停止したと理解した。


 前の車のドアが開き、男たちがバールや金属バットのようなものを手に出てくる。短く外国語で怒鳴り、鋭い笑いが響いた。


「やべえ……」


 玉井の声が震える。拳が白くなる。

 だが拓弥は、もっと先の気配を感じ取っていた。背後のワンボックスの運転席側の男が、今まさに拳銃を引き上げようとしている。

 拓弥の右目が、赤く染まる。


「デテコイ!」

「カネダセ、カネ!」


 前の車から出てきた男たちが叫ぶ。複数の影がこちらを取り囲むように車を降りる。足音がコンクリートに鋭く刺さる。


 拓弥の手は、ポケットの中のモデルガンに触れていた。内ポケットの中で、黒いボディが微かに熱を帯びているのが指先に伝わる。



 ――“撃つ”って思えば銃。“遊び”と思えばおもちゃ。想像した通りの弾が出る。



 蓮の言葉が反芻され、拓弥は想像する。何とかこの状況を打破する方法を。


 とにかくこの窮地を脱することが出来ればそれでいい。一瞬の隙を生み出すためにはそこまでの威力は求めない。

 殺傷能力のある実弾じゃなくたっていい、たとえゴム弾でも、急所に当たればそれで充分切り抜けられる。



 拓弥は息を整え、片手で窓を開ける。玉井が顔を上げ、目が合う。


「…やるんすか?」

「やるだけやってみる」


 拓弥は短く答えた。声に震えはない。

 窓を少しだけ開け、狭い視界の中で彼は想像した。


 ゴムの弾丸。硬くて身の詰まった黒いゴムの弾。

 引き金を引いたらゴムの弾が出る。

 殺傷能力はないけど、当たったらメチャメチャ痛い。当たったらしばらく痛くて動けなくなるくらいの威力がある。


 ゴムの弾が出る。

 ゴムの弾が出る。

 ゴムの弾が出る――。


 深く念じながら指が引き金に触れた。トリガーが軽く沈む。


 瞬間、ほとんど音も立てずに銃口から小さな黒い塊が飛び出した。

 小さな黒い虫が高速で飛び立ったかのような残像を残して、ほんのわずかな反動が手に残った。


 その黒い影が、車の前を塞ごうと詰め寄ってくる男の肩に当たり、肩がぐらりと崩れた。


「ギァッ……!?」


 驚愕の声が、狭い空間の中で割れる。

 拓弥は二発、三発と連射していく。


「イ゛ッ!?」

「ウッ――!」


 ゴム弾は次々と当たり、前の男たちはその場に崩れ落ちる。

 彼らは苦悶の表情を浮かべながら地面に蹲りながら、命中箇所を抑えながら呻くことしかできない。


「出せ!!!」

「お、おう!」


 その隙を突いてサブリーダーがアクセルを踏み込み、前のワンボックスの左の隙間目掛けて突っ込む。

 ワンボックスのサイドミラーを弾き飛ばしながら、僅かなゼブラゾーンの隙間を割って車は前に飛び出したが――後方からは白煙の急発進と共に黒いワンボックスが追いすがる。


 迫る車が制限速度も道路交通法も無視して、周辺の車のことなどお構いなしにこちらに突っ込んでくる。


 タイヤが擦る金属音、近づくエンジンの唸り。樹脂製パイロンをなぎ倒しながら肉薄。


 両者の車は首都高を舞台に熾烈なカーチェイスへと突入した。






 後続のワンボックスは猛スピードで追いかけ、接触を試み、バンパーをぶつけてこようとしてくる。


 ニアミスで四人が乗るバンが振られ、サイドミラーが折られ、アスファルトにゴムの焦げる匂いが立つ。


 拓弥は赤い右目でワンボックスの挙動を視る。

 右へ振って、助手席から銃口を覗かせようとする動きを、先んじて封じる。


「左に入れ!」

「――おう!」


 周辺の車やトラックを挟んでワンボックスからの射線を切りながら、絶対に前を譲らないように車列を縫って縫って縫いまくる。


 ワンボックスの運転手の執念は凄まじく、離しても離してもしつこく食い下がってくる。

 拓弥はシートベルトを外して後部座席に膝をついて振り返ると、歯をむき出しにして怒り狂う男の顔が見えた。


「こりゃ地の果てまで追ってくる気だな」


 モデルガンをぎゅっと握り込む。


 周囲には走行車両が多く、四人の車とワンボックスは制限速度を超えている。

 ウィンカーなど点けずにスラローム運転するサブリーダーの額には汗がにじみ始めていた。


 "桜川セキュリティ"の仕事のため武器を持たない三人は逃げることしか選べず、決定打に欠ける。拓弥はこの終わらない状況をどうにか覆す案を必死に練り始めた。



 周りには車が多すぎる。巻き込んじゃだめだ。

 相手は本物の銃を持っていて、こっちは武器はない。あるのはコレだけ。

 こっちで使えそうなものは看板とロープと誘導灯くらい。まきびしに使うにしても、効果は薄い。

 やっぱり、使えるのは俺のこのモデルガンだけだ。


 ゴム弾じゃ止まらない。

 止めるにはもっと高火力のものじゃねえと止めらんねえ。

 でもそれだと周りを巻き込んじまう。


 どこか、車が減った隙をついてどうにかしないと――!




 カーチェイスは十二キロほど続いた。

 渋谷・三軒茶屋・用賀で降りるふりをしたり、湾岸道・東北道に一瞬車線変更してみたりなどのフェイントも混ぜたが、ワンボックスは執拗に追ってくる。


「しつけえ……なんじゃあいつらはよ!!」


 ハンドルを握りしめ、唇を噛むサブリーダー。

 疲労と苛立ちが混じった声が車内にこだまする。


 目的地の東名川崎ICも通過。

 ここまで来れば流石に諦めるだろうと思っていたがその当ては外れ、いよいよ終わりのないカーチェイス地獄に踏み入れる。

 三車線に広がった本線をサブリーダーは必死にアクセルを踏むが、これも時間の問題。

 ここで事故を起こすか、向こうが無茶をして事故るか。

 ワンボックスからは銃も撃ってくる。反撃手段はほぼないに等しい。


 いずれにせよ、正攻法で勝てる見込みは薄い。



 そんな絶望に近い緊張の中で、拓弥の脳裏に、致命傷を避けながら相手の追跡を振り切る一つの策が浮かんだ。


「――弾じゃない。別に、弾じゃなくたっていいんだ」


 銃口から水が噴き出たように、銃弾の形に囚われなくても、きちんとイメージが描けていればきっとそれは形を結ぶはずだ。


 ゴム弾では車は止められない。

 タイヤを正確に撃ち抜くなんてことは、映画の主人公でもなければ不可能だ。

 運転手を正確に狙撃する方法もあるが、後ろに向かって狙いをつけている間にこちらが先に撃たれる可能性が高い。


 弾じゃなくても、タイヤや運転手を狙わなくても。


「ペイント弾なら止められるだろ――!」



 コンビニのレジの奥にある、オレンジ色のボールを思い描く。

 塗料の匂い、弾がぶつかった瞬間の弾ける感触、フロントガラスに広がる鮮やかな橙色の斑点。


 その具体的なイメージを、彼は銃身の中に深く刻み込む。


 この銃口に合うサイズの小さなペイントボールを、数発フロントガラスに向かって連射すれば、いくら何でも追っては来れないだろう。

 粉末でもジェルでもない、弾けて即座に視界を奪う濃度の高い塗料ならば。



 フロントガラスを一瞬で曇らせるペイント弾を詳しく脳裏に思い描く。塗料が飛散し、運転手の視界を奪う――具体的なイメージを深く深く刻み込むように、瞼を閉じてモデルガンを握り込む。


 ペイント弾。

 ペイント弾。

 弾切れなんかしない。

 連射してフロントガラスをオレンジ一色に塗り潰す、ペイント弾が出る――。


 名古屋に行くため、東名高速は何度も車で走った。この辺りに何があるかは充分に見知っている。

 拓弥はサブリーダーに指示した。


「……この先、左手に高速バス乗り場があるだろう、そこに入ってくれ!」

「バス乗り場?何で――」

「良いから!」


 車は猛スピードのまま東名を駆ける。標識が流れ、後続のワンボックスは相変わらずこちらに詰め寄る。

 祈るように念じながら瞼を開けた拓弥の右目は、ルビーのように透き通り、赤く激しく燃えていた。


 ワンボックスはつかず離れずの距離を維持しながら、今もなお怒りに任せた顔でハンドルを握っている。


 両者はやがて、高速バス乗り場への分岐へ差し掛かる。


「ここだな!」

「ああ!」


 車がぐいと左に振られる。

 ワンボックスも高速バス乗り場への分岐へ逃げた四人のバンを追いかけて、そのまま真後ろへくっ付いて来た。


 ここなら周りに一般車はいない。



 拓弥は窓から身を乗り出し、狙いを定めた。

 銃口を、追いすがるワンボックスのフロントガラスへと向ける。


「食らえっっ―――!!!」


 ―――パン、パン、パン!!


 オレンジ色の透明な弾丸がワンボックスのフロントガラスに命中。


 男たちの視界を真橙に染め上げた。


「ウワーッッ!?」


 ワンボックスから悲鳴が上がる。

 急ハンドルを切ったワンボックスはそのまま左の壁面に猛スピードで激突。

 土煙を上げて激しく横転した。


 路上には砕けたガラスと塗料の滴が飛び散り、空気には燃えたゴムと塗料の匂いが混じる。

 轟音と共に車体が止まり、静寂が襲った。



 四人の車は止まることなく、そのまま本線へと滑り込んだ。


 ワンボックスのタイヤが背後霊のように、アスファルトをすぐ後ろで掴む音は完全に消え、ミラーの向こうでは、煙を上げて動かなくなった黒いワンボックスが、朝日の逆光に沈んでいった。


「……やった……!」


 拓弥の喉から、安堵の息が漏れた。

 荒い呼吸が車内にこもる。汗で湿った空気の中、サブリーダーの青白い頬に安堵と驚嘆が交じり合う。

 玉井は、ジェットコースターを終えた乗客のように両手でシートベルトを掴み、肩を上下させながら呆然と前を見ていた。


 拓弥はモデルガンを握りしめ、まだ微かに震える手を見つめる。

 拳銃の形をしたそれは、先程までの静かなおもちゃの面影などなく、手の中でじんわりと熱を放っていた。


 助手席から振り返ったリーダーが、拓弥をまっすぐ見据える。

 瞳の奥に光が宿る。


「……よくやってくれた。助かったぞ」


 その言葉に、拓弥は無言で頷いた。

 ミラー越しにサブリーダーも視線を送る。

 汗で濡れた額を手で拭い、口元だけで笑みを作ると、拓弥もそれに応えるように軽く頷いた。







 次の横浜青葉ICでUターンし、東名川崎ICから一般道へと降りた。

 長い緊張のドライブを終え、かろうじて遅刻は免れた。

 胸の奥に残るのは、まだ抜けきらぬアドレナリンと、じんわりとした疲労感だけだった。


 今日の業務は、藤子不二雄ミュージアムで行われる特設イベントの搬入と警備助勢。

 子どもたちの歓声が遠くから聞こえ、青いキャラクターのぬいぐるみを抱えた親子が笑顔で列をなしていた。

 つい十分前まで高速道路で繰り広げられた命懸けのカーチェイスなど、まるで夢の中の出来事のようだ。


「……運転ご苦労。しばらく休め」


 リーダーが運転席のサブリーダーの肩を叩く。

 安堵の息が漏れ、張り詰めていた空気がようやく解ける。

 玉井も後部座席から小さく頭を下げた。


「お疲れさまっす…俺が運転手だったら事故ってましたよ。さすがっす、ありがとうございました」


 その言葉に、サブリーダーは苦笑を返しながら車を停めた。

 ロータリーに響く子どもの笑い声と、ミュージアムのテーマソング。

 さっきまでの轟音と銃撃音が嘘のように、世界は平和だった。


 車を駐車場へ入れた瞬間、入口付近に見覚えのある姿が目に入る。


「……坂本どの?」


 玉井が思わず声を上げる。

 人波に紛れるように立っていたのは、私服姿の坂本だった。

 グレーの長袖と落ち着いた服装の彼は、周囲の親子連れやスタッフに違和感なく馴染んでいる。


 ドアを閉める音に気づき、ゆっくりと振り返った。目が合った瞬間、拓弥の緊張がわずかに緩む。


「……蓮。どうした」


 拓弥が声をかけると、彼は穏やかな笑みを浮かべた。


「今日はここで特設イベントがあるって聞いてね。少し覗きに来たんだ。……おお、玉井くんも偶然だね。お疲れ様」


 その言葉に、玉井はぺこりと頭を下げる。

 リーダーとサブリーダーも、会釈を返す。


 リーダーたち二人は初対面だが、上層部からの通達で坂本と拓弥の話は伝え聞いている。

 運転で疲れ切っていることなど一切表に出さないように、ピシッとした立ち姿でサブリーダーは居住まう。


「ちょっと拓弥借りますね。――こっちこっち」




 坂本は人の流れを避けながら、軽く手招きをした。

 拓弥が彼の後を追うと、ミュージアムの裏手、搬入口近くの静かな通路に入る。

 秋風が紙くずを転がし、遠くで子どもの笑い声がこだまする。


「……どうだった?」

「どうだったって――」


 拓弥は言葉を詰まらせる。

 あのカーチェイス、あの銃撃、そしてペイント弾で相手を止めた瞬間。何をどう説明すればいいのかわからない。

 どれも現実感がなく、説明のしようがなかった。


 坂本はそんな彼の沈黙を見透かすように、わずかに頷いた。


「大丈夫。分かってる。あの車も、全部こっちで処理しておいた」

「……お、おう」


 あまりに淡々とした口調に、拓弥は呆気に取られる。


 轟音を上げて高速バス乗り場付近で大破したあの黒のワンボックスも、無理やり分岐で押し通ったグレーのワンボックスも、全て騒ぎになる前に処理が済んでいる。

 中にいた輩は()退()()いただき、車はアイテムボックスの中で屑鉄として保管した。


 坂本は周囲をちらりと確認し、拓弥の顔に目を戻した。

 赤みはすっかり収まり、左右揃って黒目に戻った拓弥に安心したように笑う。


「良い顔になったな。その調子で頑張れ。我らがレッド」


 ちょうどその時、館内スピーカーから懐かしいメロディが流れ出した。

 柔らかなアナウンスと共に、子どもたちの歓声が重なる。



 ♪こんなこといいな できたらいいな

 あんなゆめ こんなゆめ いっぱいあるけど

 みんなみんなみんな かなえてくれる

 ふしぎなポッケで かなえてくれる――。



「後ろの車が煽ってくるけど、どうにかしたいな♪はい、マジックピストル~♪」

「物騒だなオイ!?」


 拓弥が吹き出すと、坂本もつられて笑った。

 二人の笑い声は秋の風に乗って、ミュージアムの庭へと流れていく。


 淡い陽光が外壁を撫で、窓ガラスの向こうでは風船を手にした子供たちが弾むように駆け回っている。

 水色と黄色の風船が、ゆっくりと風に乗って空へ舞い上がり、やがて光の中に溶けて消えていく。

 その光景をしばらく黙って見つめていた坂本が、穏やかな声でぽつりと呟いた。


「――拓弥。そいつは“夢”だ」

「夢?」


 拓弥が首を傾げる。

 坂本は視線を空に残したまま、胸ポケットの中に隠されているモデルガンの方を顎で軽く差した。


「子どもの頃、道端に落ちてた枝を拾って、よくチャンバラしてたろ」

「……ああ。なかなか真っすぐな棒が落ちてなくて、綺麗な棒が落ちてたらめっちゃテンション上がったな」


 拓弥の口元に、懐かしい笑みが浮かぶ。


「そう。その辺に落ちてるただの棒でも、拾った瞬間勇者の剣になった。椅子は馬になって、新聞紙は兜にも旗にもなった。……実際には斬れなくても、それは俺たちの最強の武器だと信じて疑わなかった」


 淡い風が彼の黒髪を揺らし、陽の光がその横顔を金色に縁取る。


「お前の想像が全部叶う。俺はそういう風に、そいつを作った」

「……“夢”を撃ち出す銃ってことか?」

「そうだ。お前が信じる限り、何だって撃てる。……眉唾でもなんでもいいから、一回騙されてみろ。そいつは拓弥の想像力で動く。理屈じゃない。"そういうもん"なんだ」


 拓弥はしばらく黙り、ポケットの中の銃をそっと取り出す。

 樹脂製の本体とグリップに埋め込まれた赤い石。その固い感触の奥に、微かな温もりを感じた。


「――子どもになれ。大人の常識に当てはめて、可能性を狭めるな」


 ――夢。可能性。

 大人になって久しく忘れていた言葉。


 成長に伴って出来ることと出来ないことが分かるようになると、大人のフリをして無駄を省くように生きてきた。

 賢くなったふりをして折り合いをつけ、いつしか効率を優先した方が良いと斜に構え、変に格好をつけるようになっていった。


「そんなの普通はあり得ない」と、挑戦を嗤われ。

「それくらいみんな普通に出来る」と、痛みに蓋をされた。


 普通という名の枠に自分を押し込み、他人の期待をなぞるように生きる生徒Fを演じていた。だがその先に待っていたのは、何者でもない。どこにでもいる、替えのきく部品のような自分だった。



 ――不可能を可能と信じ、無駄を恐れず、くだらないと笑われても進め。

 枝を剣だと信じたあの頃のように。


 拓弥は、モデルガンを見つめた。

 反射した陽光がその表面に小さくきらめく。


 その銃身に、ポタリと雫が二滴、落ちた。


 拓弥は慌てて袖で目元を拭った。


「……お、おかしいな。なんでまた泣いてんだよ俺…」


 拓弥は袖で目元をごしごしと拭きながら、必死に笑いに変えようとした。

 だが涙は止まらず、頬を伝ってぽたりと落ちる。


 坂本は腕を組み、いつもの調子で言った。


「ほうほう。そんなに俺の演説に感動したか。そんなに胸打ったなんて、嬉しいぞ兄さんは」

「なんだその言い方はよ。そんなんじゃねーし」


 睨みつける拓弥だが、目は潤みっぱなしで迫力など微塵もない。

 鼻をすすりながら強がるその姿に、坂本の口元がゆるむ。


「人間らしくなっていいと思うぞ?見た目も若くなって、体力も戻って、感動屋に…なって…ぷくく…」

「笑ってんじゃねーよ!おい蓮、この泣き虫だけ外すって出来ねーのかよ!」

「残念ながら、それが六感強化シックスセンスの副作用です。泣くだけ外すってのは無理で~、丸ごと外さないとダメなんですよね~お客さん」

「クッソ……!」


 店員のような大げさな断り文句で肩をすくめて笑う。

 そんな二人の間を、柔らかな秋風が通り抜けた。


「でも、感覚鋭くなったおかげで助かったようなもんだろ」


 坂本が穏やかに言う。


「あの時、危険を察知できたのは右目それがあったからだ。やっぱり、力を得るには代償が必要なんだね~。う~ん。タメになったね~ぇ~」

「ウゼェ…!ちょっとでも感動した俺がバカだった!…これから仕事だから。じゃあな!」


 拓弥は言い捨てるように踵を返し、涙を誤魔化すように片手を振った。

 その背中が雑踏に消えていくのを、坂本は静かに見送る。



 搬入口に一人残された坂本。

 園内には再び子どもたちの笑い声が満ち、風船を持った家族連れが芝生を行き交っている。


 あれほど騒がしかった胸の高鳴りが嘘のように、穏やかな陽気が降り注ぐ。


 陽射しが柔らかく傾き、白い外壁を金色に染めていく。


 ふと、少女のかすかな悲鳴が園内の方から聞こえた。

 その方向からは赤い風船が一つ、ふわふわと空に向かって飛んで行こうとしている。


 風船の下では、小さな少女が泣きそうな顔で手を伸ばしている。

 指先は空を掴もうとして、ただ虚しく揺れていた。


 坂本は、少女の手の中から逃げ出したばかりの楽しい思い出を取り返すべく、青い空に向けて走り出した。







 第二章・完

これにて第二章の締めくくりとなります。

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