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60話 家族

 十一月二十三日・午前七時。


 全国地上波テレビの画面には「速報」の文字。

 アナウンサーの抑えた声が、スタジオの照明の下で静かに流れている。


『新宿警察署は今朝未明、指名手配中となっている指定暴力団・滝山会組長XXXXと、中国系組織・広州赤竜會の幹部XXXXの二名を覚醒剤取締法違反および銃刀法違反の容疑で逮捕しました。両容疑者は、「名古屋港で薬物取引をしていた所、何者かによって捕らえられ、気が付いたら新宿にいた」と意味不明な供述をしており、愛知県警と合同で調査を行っています――』


 映し出された現場写真は、名古屋港の倉庫群だった。

 雨は止んだが、空気の湿り気はまだ港町を包んでいた。


 真上から潰された多数の車の残骸。地面に大量に散らばる銃器弾薬と薬莢。巨大な爪で掻かれたような爪痕が残る倉庫。

 所々に、片方だけ脱げた靴などもある。死体や血痕は一つも残っていないのに大勢が争った形跡がそこかしこに残る異様な気配の中、散乱した薬物袋やアンプルなどを、警察官が白い手袋で証拠品として回収している。


『なお、関係者によりますと、現場一帯は“銀の仮面”と名乗る人物によって壊滅状態にされたとの予測もあり――』


 その一言に、スタジオの空気が一瞬揺れる。

 カメラの裏で、ADが眉を寄せて小声で呟いた。


「……また、銀の仮面か」


 しばらくしてモニターが切り替わる。

 SNSの一般の声を模したテロップが映像に流れ込む。


『こんなことが起こるなんて怖い』

『平和的解決は出来なかったのか』

『警察は何をやっているんだ』

『それもこれも裏金議員が悪い』

『平和な日本にするには、暴対法の強化一択しかない』


 中国から日本を経由してアメリカに流入する世界的な薬物取引であり、日本もその片棒を担いでいると見られかねない大事態だが、それとは的が完全にずれているSNSコメントを取り上げているのに突っ込むことなく、コメンテーターたちはそのコメントに同調するように頷く。


『うーん、外国人だからと言って、すぐ悪者と決めつけるのは良くないですよねえ』

『日本人は海外と比べていろんな分野で遅れていますから、新たな時代の風を受け入れる努力が必要だと思うんですよ』

『変化を受け入れるってことですよね』

『そう。排外主義・民族主義に固執するとどんどん置いてかれちゃいますから。有用な価値観はどんどん取り入れてアップデートしていかないと』

『何たって日本は先進国ですからね』

『そうそう。発展途上国の支援は、いわば使命みたいなものですから。ちょっとやそっとで目くじら立ててたらこちらの度量を疑われてしまいます』


 論点をずらすことで、自然発生して当たり前の市民の助けを呼ぶ声は、差別・ヘイトスピーチとして悪し様に扱われる。

 オールドメディアは、今日も平常運転だった。






【スレタイ】

【考察】銀の仮面の正体と天誅対象予想スレ★8【8934989】


【1:無名の日本人】

 やべえな

 反社も狩るのかよ


【3:無名の日本人】

 一人でカチコミとかやば杉内


【4:無名の日本人】

 中継映像でぐしゃぐしゃの車とか散乱してたけどあれ何?


【6:無名の日本人】

 デッケぇ爪跡が倉庫にあったけど、あれもしかして何か召喚したりした?


【8:無名の日本人】

 >>6

 あり得る

 ドラゴンとかワイバーンとか召喚したとか言ったりして


【10:無名の日本人】

 銀の仮面だったら異世界から魔物とか召喚できるでしょ

 そんなことまでしたら逆にもう驚かないかも


【11:無名の日本人】

 あー、デスヨネーって感じ


【13:無名の日本人】

 むしろ銀の仮面が人間じゃなくて魔人って説ない?

 人間じゃなくてそもそも魔人とか魔族とかっていう


【15:無名の日本人】

 >>13

 なくないな


【18:無名の日本人】

 顔隠してるのにはワケありそうだよね


【19:無名の日本人】

 角があるとか?


【22:無名の日本人】

 目が四つあるとか?


【23:無名の日本人】

 >>22

 ウエッ


【25:無名の日本人】

 >>22

 やめろ


【27:無名の日本人】

 人間じゃなくてもいいんだけどさ、銀の仮面は気持ち悪くない見た目でいてほしい


【29:無名の日本人】

 ルッキズム佳代


【31:無名の日本人】

 >>29

 誰が港区女子やねん


【32:無名の日本人】

 >>29 >>31

 wwww


【34:無名の日本人】

 でもわかる

 銀の仮面が人外だったらちょっと…ってなるのは俺もそう


【36:無名の日本人】

 イケメンじゃなくていいからせめてフツメンであってくれ


【39:無名の日本人】

 俺、新宿で歩いてたらこいつら連れて銀の仮面が出てくるところ見たんだけど興味ある?


【41:無名の日本人】

 はあ!?!?!?!


【44:無名の日本人】

 kwsk


【46:無名の日本人】

 いや、普通に歩いてたらいきなり新宿警察の前が光ってさ

 なんだ?と思ったら地面が光ってよ

 そしたらそこから銀の仮面とテレビのヤクザ二人が出てきたんだよ


 そんで、その二人を入り口で見張ってた警察官に押し付けたら銀の仮面が一人で消えちゃったってわけ


【49:無名の日本人】

 >>46

 写真とか動画とかねーのか!


【52:無名の日本人】

 うp!


【54:無名の日本人】

 ほらよ

 xxxxx://x.com/xxxxxxxxxx/status/xxxxxxxxxxx


【58:無名の日本人】

 >>54

 マジもんじゃねーか!


【60:無名の日本人】

 >>54

 マジのガチのほんまもんやん!


【63:無名の日本人】

 CGだろjk

 生成AIもここまで来たんだなあ


【65:無名の日本人】

 ところがどっこい、現実(かもしれない)です…!


【67:無名の日本人】

 前にさ、詐欺グループの奴らが新宿署の前にしょっ引かれてたけどさ

 もしかして銀の仮面、新宿署に恨みでもあんの?


【70:無名の日本人】

 >>67

 新宿署はすぐ自転車撤去するからな

 駅前のコンビニにほんの十数分止めてただけなのに撤去しやがってあいつらよぉ

 三千円ぽっちのためにご苦労なこった


【72:無名の日本人】

 自転車撤去されてブチギレの銀の仮面想像したらワロタ


【74:無名の日本人】

 お前は日本国民から希望(自転車)を奪った


【75:無名の日本人】

 俺から希望(自転車)を盗んだ罪は重い


【76:無名の日本人】

 >>74-75

 wwww


【77:無名の日本人】

 草


【78:無名の日本人】

 >>75

 自転車に希望なんて名前つけんじゃねーよwww


【80:無名の日本人】

 自転車に希望とか役不足スギィ!


【82:無名の日本人】

 自転車撤去は窃盗とは違うから法では裁けない

 ということはつまり…?


【83:無名の日本人】

 やっべ!自転車撤去が日本から消える!やっべ!


【86:無名の日本人】

 自転車の撤去はそもそも罪じゃねーから!

 行政の仕事の一環だから!




 ---




 夜の名古屋港の騒乱から一晩が経った。

 雨に打たれた血と薬の匂いがまだ鼻に残る中、銀の仮面は、若衆十人と拓弥を伴って名古屋を後にした。

 ホテルでわずか数時間の仮眠を取ると、瞬間移動テレポートによって三台の車ごと東京へ転移。

 昼下がり、彼ら十二人は東京都目黒区・宗我部組事務所の重厚な木製扉をくぐった。


 組長の座す奥の間は、張りつめた空気の中にも威厳があった。

 黒檀のテーブルは鏡のように磨かれ、壁際には組長の代々の肖像写真。

 外では名古屋の豪雨など知らなかったかのように、穏やかな陽光が降り注ぐ。


 五人の男が、その卓を囲んで座っていた。

 上座に宗我部組組長・宗我部重盛。

 その左手には若頭補佐の鷲崎と、全ての発端となった鉄砲玉、玉井。

 そして――右手には宗我部組のスーツに身を包んだ坂本と、右目に眼帯を巻いた日野拓弥が並んでいた。


 席に着くやいなや、湯気の立つ緑茶が盆にのせられ、静かに置かれた。

 同時に、分厚い黒のアタッシェケースが三つ、卓上に並べられる。

 留め金がかちりと鳴り、反射する照明がその金属光沢に流れた。


 宗我部が指先でケースの蓋を叩く。


「……これが、名古屋港で押収したブツじゃな」


 歓迎もそこそこに本題へ。

 低く響くその声が、部屋の空気をわずかに震わせた。


 鷲崎が無言で留め金を外し、札束の山を露わにする。

 緑の帯封が幾重にも積まれ、インクと紙の混じる匂いが生々しく広がった。


 鷲崎は札束を一つ抜き取り、親指で軽く弾いた。


「……全部、正札です。ざっと八十億はあります」


 窓の外では、名古屋帰りの車がトランクを開けたまま停まっていた。

 若衆たちが整然と列をなし、黒いアタッシェケースを倉庫へと運び込んでいく。

 重厚な足音が、建物全体にリズムのように響いた。


 宗我部は、みるみる積み上がっていく金の山を眺めながら、灰皿に葉巻の灰を落とした。

 紫煙がたゆたう中、呟くように笑った。


「政治家だけじゃなく、滝山会のシノギまで潰すとは……。末恐ろしいですな、仮面殿は」


 坂本は背筋を伸ばし、ゆっくりと一礼する。


「……これから拓弥が世話になりますから。それに、もともとこの国を蝕んでいた金です。警察に流しても、どこかで誰かの懐に戻るだけ。あなた方に預けたほうが、きっと良い使い方をしてくれるでしょう?」


 宗我部はしばし坂本の眼を見据え、やがて静かに笑った。


「"良い使い方"ねえ。なるほど。これはどうあっても綺麗な使い方をしなければなりませんな」


 玉井は、場の緊張に喉を鳴らした。

 ほんの数日前、自らの過ちを詫びて広間で頭を下げたときの記憶が蘇る。

 あの時は、組の存続をかけて全員が自分の首を差し出しながら土下座していたのに――今は、仮面の男と同じ卓を囲んでいる。

 あまりの落差に現実味が追いつかず、彼はただ黙って拳を握った。


 鷲崎が小声で言う。


「……坂本殿。本気で我々と組むおつもりで?」


 坂本は、湯呑の湯気の向こうから穏やかに応じた。


「――以前から考えていました。私一人の力では、この国を立て直すことはできない。理想も正義も、独りでは空論に過ぎません。障害や悪意を自力で跳ね返せる力を持つ仲間がいればと思っていました。そんな時、()()()()は唐突でしたが、宗我部組の方々とのご縁が出来た」


 玉井の方をちらりと見ながら、坂本は口角を微かに上げる。

 早合点して撃ってしまった失態に恥じ入るように、居心地悪そうに目を伏せ、首筋に汗を伝わせる。


「あなた方の一本気と胆力はこの時代では貴重です。日本を愛する心に偽りがないことも充分伝わりました。この国を立て直すためには、あなた方のお力が必要です。日本の長い夜を終わらせるために、あなた方と共に闇を生きたい」


 宗我部の口元がにやりと歪む。


「共に闇を、か。面白い。仮面殿とて偉う据わっておいでですな。お上が腐ったなら、裏が正せばいい。実に理屈は単純」


 宗我部は椅子を引き、重々しく立ち上がった。

 厚く節くれだった手が、蓮の前に差し出される。


「相分かった。これより宗我部も月夜に合流するとしよう」

「…合流?」


 宗我部はわずかに笑う。


「わしらのような者が仮面殿を表立って支援するとなれば些か風聞が悪かろう。…"月夜を共に歩く"という形ならば、誰の面子も潰れまい」


 坂本は一瞬言葉を失ったが、すぐに表情を引き締め、きりりと眉を立てて頷いた。


「分かりました。では共に――夜明けまで」



 差し出された手が重なり、音もなく握り合わされた。

 その一瞬、部屋の空気がわずかに動き、厳かな風が通り抜けた。


 組長の横で、鷲崎が薄く笑う。


「これで、表の政治を斬るのが仮面殿。裏の掃除は我々宗我部組、と」


 玉井が小さく頷く。

 事態が目まぐるしく動いていく速度感に完全に振り落とされた彼は、薄笑いを浮かべながら曖昧な相槌を打っていた。


 あらかじめ昨夜のうちに電話で話を通しておいた鷲崎と坂本は、ほんの小さなアイコンタクトを交わしつつ、昨日のうちに内々に決まった台本をなぞるように話を進める。


 右目を眼帯で覆った拓弥が、その様子を静かに見つめていた。

 その唇がかすかに動く。


「……これからお世話になります」


 宗我部が顎を上げて応じる。


「ああ。で、あんたはどうするんだ?」

「どうする、とは?」


 鷲崎が笑いを含んだ声で言葉を添える。


「顔と名前だ。変えるんじゃないのか」


 拓弥はハッとした。


 唐突な問いに、拓弥は目を瞬いた。

 名古屋で一泊していた間、彼はぼんやりと今後の身の振り方を考えていた。

 だが、顔や名を変えるという発想までは至っていなかった。

 “死んだことにして姿を消す”――それだけで充分だと思っていたからだ。


「出来るんですか?」

「身分証や戸籍なら、数日もあれば大丈夫だろう。整形ならもう少し時間がかかるがな。表の医者を通す分、痕が残らねえようにはしてやる」


 現実的な段取りを語る鷲崎の声に、裏社会特有の即応性と冷静さが混ざっていた。


「本格的に顔をいじるなら数カ月の入院が必要だな。お前さんが“死んだ”ことにするまで、猶予はそう長くねえ」

「数カ月…」


 拓弥は眉をひそめ、沈思する。

 顔を変える――それは、今の自分を捨てることと同義だった。だが、その必要性を、彼は痛いほど理解していた。


 このままの顔で出歩けば、生き残りに見つかった場合裏切り者として追われるのは確実。

 薬物取引に一枚噛んでいた事実も、警察に見つかるのは時間の問題だろう。


「……顔、変えた方が良いでしょうね。数カ月入院は痛いが、仕方ないか」


 鷲崎が頷く。


 その時、坂本が静かに口を挟んだ。


「顔の見た目を変えるってことなら、魔法で簡単に出来ますよ」

「え?」


 振り向いた拓弥の目に平然とした坂本の顔が映る。


「希望があればそれに沿うようにしますが…どんな顔に?」

「どんな顔…。じゃあ……もうちょっと塩顔って言うか、薄い印象にしてくれ」

「分かった」

「えっ」

「――相貌変化フェイクフェイス


 空気が一瞬ざらついた。

 拓弥の頬に温かな風が走り、顔全体が光の膜に包まれる。

 十数秒も経たぬうちに、変化は終わった。


「どう。こんな感じで?」


 アイテムボックスから出した手鏡を借り受けた拓弥は自分の顔を食い入るように見つめる。


「うおお………こいつは…」

「記憶に残りにくそうな薄顔にしてみたつもり。良いでしょう?」


 三十代後半の風貌は二十代半ばといっても差し支えない程の若い顔立ちに変わっている。

 そこにいたのは、確かに“自分”でありながら、誰でもない男。輪郭はやや細く、顎はすっきりと整い、頬骨は低く見える。

 もとの印象と眼帯を残しつつ、記憶に残りづらい顔へと絶妙に調整されていた。


「な、……うーん…なんか、すげえなコレ。……なんか慣れない感じだなあ…これが俺か…」

「魔法でいじったけど、これは整形したわけじゃなくて、周りの人の脳には“この顔だ”と認識させてるだけだから。解除すれば元の顔に戻れる」


 そう言うと、坂本は指を軽く鳴らした。

 瞬間、拓弥の顔はもとの姿に戻った。


 鏡の中で、見慣れた自分がこちらを見返している。

 拓弥はゆっくりと鏡を下ろし、坂本に目を向けた。


「よくこんな魔法持ってて、悪用しようとか思わなかったな」


 坂本はわずかに笑った。


「騙し討ちは異世界あっちで散々やったよ。俺は普通に平和に暮らしたいんだ。こんなことしなくても済むようにさ」


 柔らかい声だった。

 宗我部がその言葉に目を細め、低く笑う。


「仮面殿は、普段はそのような語り口なんじゃな」


 ついいつもの砕けた話し方が出てしまった坂本は、一瞬きまり悪そうに頬を掻く。


「…すみません。拓弥とは子供の頃からの幼馴染なんです。同じ釜の飯を食って育った、最後の家族です」

「――そうか」


 宗我部の表情に、一瞬の哀感が浮かぶ。


「最後の家族……か。なるほど、それなら納得じゃ」


 その場に流れた空気は、さきほどまでの緊張をわずかに解いた。

 外では、雨上がりの陽光が窓ガラスを照らしている。

 廊下を通る若衆たちの足音も、どこか和らいで聞こえた。


「大事にせねばならんのう」


 宗我部は葉巻を灰皿に置き直し、茶をすすった。


「仮面殿。わしもいつか、そのように話しかけられる日が来ると嬉しいもんじゃ」

「……いやいや。それは流石に」


 宗我部は豪快に笑い声を上げた。


「冗談冗談。じゃが、仮面殿ならわしは五分盃を交わしても良いがのう。はっはっは」


 笑い声が静まると、部屋に再び緩やかな沈黙が戻った。

 アタッシェケースの山が整然と積まれ、その金属の冷たさが、今度は安心の重みとして部屋に漂っていた。


 宗我部は視線を坂本に戻す。


「大層な土産、有難くいただこう。若い衆も無事に帰していただいた事、痛み入る。()()は責任を持って預かろう」


 坂本は静かに頷いた。


 拓弥はその背中を見つめ、もう一度手鏡で自分の顔を見つめる。

 三十余年付き合ってきた顔。眼帯に隠れながら、酸いも甘いも嚙み分けて生きてきた歴史がしわとなって刻まれている。


 窓の外では、雲間から光が差し、雨に濡れたアスファルトがゆっくりと乾いていく。

 廊下の方から名古屋帰りの若衆たちの会話が漏れ聞こえてくる。

 その会話は留守の若衆に伝えられる、銀の仮面の英雄譚。


 熱量たっぷりに語られるその語り口は、かつてアナログテレビの前で手に汗握り、地球の平和を一緒に見守っていた幼き自分たちのようだった。










 東京都・港区。

 拓弥が暮らしていたタワーマンションの一室。


 床から天井まで続く大きなガラス窓に、夕暮れの関東平野がぼんやりと映り込んでいた。

 沈む陽が濡れた雲を橙に染め、二人の影を淡く揺らす。


「――よし。こんなもんかな」


 リビングの中央で長袖の私服姿の蓮が、軽く両手を払った。

 かつて整然と並んでいた高級ソファも、壁一面を覆っていたスクリーン・プロジェクター・オーディオセットも、今は跡形もない。

 床には魔力の残滓がわずかにきらめき、空気が熱を孕んで揺らいでいる。


 拓弥は両手をポケットに突っ込み、呆れたように笑った。


「すげえな。こりゃ引っ越し業者も食い上げだ。本業にしたらどうだ?」


 蓮は鼻で笑い、肩をすくめた。


「俺が休んだら立ち行かなくなる仕事なんかしたくねえよ。取り違えとかしたら大問題だし」

「そりゃそうか」


 拓弥が返し、二人は小さく笑い合った。

 空っぽの部屋に、ふたりの笑い声が乾いた音を立てて跳ね返る。


 ほんの数日前まで、この部屋には整然とした家具と調度品が並び、金の匂いと虚栄が満ちていた。

 リビングの奥では、拓弥が誇らしげに見せたワインセラーと、スマート家電の数々。

 それが今では、まるで最初から何もなかったかのように、静寂だけが支配している。


 防犯カメラの死角を縫って瞬間移動テレポートでマンションの部屋に侵入した二人は、電気をつけずに室内の物をすべてアイテムボックスへ収納し終えた。

 名古屋、博多の部屋も同じく片付け済み。

 ここが“日野拓弥”という名前が存在した最後の居場所だった。


 窓辺に立った拓弥は、沈みゆく街を見下ろしながらぽつりと呟いた。


「……最後に、大家に挨拶しときたかったけどな」


 蓮は窓際に歩み寄り、同じ景色を見つめた。


「そんなことしたら“まだ生きてる”ってなるぞ」


 その声は静かだが、不思議と温かかった。

 拓弥は苦笑を浮かべて肩をすくめる。


「だよな。……結構気に入ってたんだけどな、ここ」


 短い沈黙が、二人のあいだをゆるやかに流れた。

 遠くで車のクラクションが響き、無数のヘッドライトが川のように流れていく。

 ビルの明かりがひとつ、またひとつ灯り、東京の夜が息を吹き返していく。


 拓弥は懐かしむように視線を巡らせた。

 この部屋の空気も、匂いも、音も、すべてが自分の孤独を埋めるための“偽りの安息”だった。

 何を手に入れても、心の穴は埋まらなかった――それをようやく認められる気がした。


「次の部屋は決まってんのか?」

「鷲崎さんが用意してくれるってさ。()()のおかげで良い部屋が取れたってよ」

「へえ」


 蓮の返事は淡々としていたが、口元はわずかに緩んでいた。


「……あの金って、拓弥の金じゃなかったのか?」


 拓弥は窓の外を見たまま、喉の奥で笑った。


「ほとんど滝山会のだ。俺の出資分は七億くらい。……結果的には大損どころか、大儲けだな」

「大儲けって……一円も入ってきてねーけどな」


 蓮が眉を上げた。

 拓弥はわずかに首を振る。


「もともと汚い金だった。……潮時ってやつだ。止めてくれて、ありがとな」


 その言葉に、蓮は静かに頷いた。

 風が、ガラス越しに二人の間を抜けていく。


 三拠点に置いた拓弥の高級車も、全てナンバープレートに偽装を施してからアイテムボックスに収めている。

 何もない部屋の白い壁が、かすかに反射した夕光を揺らした。


 まるでここにあった時間と記憶すら、風に削られて消えていくようだった。


 拓弥はふと、右目の眼帯に手を触れた。


「……なあ、蓮」

「ん?」

眼帯これ、いつになったら取っていい訳?もう大丈夫だろ」


 蓮は振り返り、わずかに目を細めた。


「……もう少し、落ち着いてからにしよう」

「もう少しって、いつまでだよ。もう痛くねえしそろそろ良いだろ。片目って結構不便だぞ」


 拓弥は苦笑を浮かべる。

 蓮は少しだけ沈黙してから、穏やかに口を開いた。


「魔石と魔法で右目を()()()んだ。血は止まっても昨日の今日じゃ定着しきってない。感覚がちゃんとリンクするまでは外部刺激は避けた方が良い」


 拓弥は眉をひそめた。


「造った?」

「……どっかの誰かが、死のうとしたせいだよ」



 蓮の聖剣の光の反射が拓弥の目に当たり、銃口が逸れなければ、拓弥の目論見は果たされていた。

 急所を外したおかげで即死は免れ、蓮の治癒魔法をねじ込む猶予が生まれた。



 この数年の拓弥はヤケを起こしていたといっても過言ではない。


 自分の幸せを願って行った努力がほぼ全て水の泡にさせられ、真面に生きることも許されないと感じた彼が、非行に走るのはある意味仕方のないことだった。

 拓弥自身に非がなくとも、親がいない・児童養護育ち・高卒、と言うだけで世間の見る目は厳しくなる。愛娘をこんな男に嫁に出したくないという親心も当然といえば当然だった。


 世界の何もかもが拓弥にだけ冷酷になったかのような疎外感は、拓弥の意気を奪うのに充分すぎるほどだった。


 ――どうせ自分を大切にしてくれる人はいない。

 ――どうせ自分と共に歩んでくれる女性はもう現れない。


 将来に悲観した人間が刹那的な快楽へ堕ちていくように、拓弥もなりふり構わず金で空白を埋める生活に溺れていった。


「もう何をやっても無駄だ」「死んでないだけの惰性の人生だ」と諦め切っていた拓弥にとって、蓮との再会は紛れもない転機だった。



 …昨日、闇金融屋・日野拓弥は銀の仮面によって滝山会と一緒に死んだ。

 連中の死体と共にこの世界から完全に消滅し、一片の骨すら上がらない。

 スマートフォンも名古屋港に捨ててきた。


 宗我部組の手配で新たな名前を手に入れ、蓮の魔法で新たな顔に生まれ変わる。


 金と虚栄心で埋められたこのタワマンも、すべてを引き払ってしまえば何もないただの箱。

 これまで空っぽの心を埋めるように手当たり次第に敷き詰めていた、値段だけ高いガラクタたちを消し去ってからは、拓弥はなぜか充足感が胸に広がっていた。


 金こそが拓弥を現世に引き留めていた最後の生き甲斐。他の全ては拓弥を裏切った。

 マネーゲームの残高を増減させて遊ぶだけの人生と成り果てていた拓弥は、今、目が覚めたような心地がしていた。


 ワンマン経営だった金融は、拓弥が抜ければ自然崩壊する。

 電話番二人とアシスタントには無言の別れとなるが、滝山会壊滅のニュースと同時に消えれば、彼らは自ずから次の生きる道を模索するだろう。

 幸いにして、借金も給与未払いもないタイミング。

 面倒は掛けるが、拓弥一人の汚れた懐だけが痛む、良くも悪くもここが一番の引き際だった。




 拓弥は蓮の横顔を左目だけで見つめる。

 その表情には、昔と変わらぬ親友としての温かさと、数々の死線を潜り抜けた者が持つ深い影があった。


 沈黙。

 東京の空が、ゆっくりと深く夜に沈み込んでいく。


「なあ、これから飯でも食いに行かねえか?今日は俺が奢るよ」

「え?……良いのか?」

「この間の豪華メシには届かねえけど、それで良ければ」


 蓮が歯を覗かせて笑うと、拓弥も小さく笑った。

 街のざわめきが遠のき、部屋には二人の呼吸音だけが残った。








 JR荻窪駅南口・富士そばの店内に、二人の姿があった。

 夜の帳が下り始め、外では仕事帰りの人々が流れのように駅へ吸い込まれていく。

 その喧騒から一歩離れた店内は、湯気と出汁の香りが漂う小さな島のようだった。


 瞬間移動テレポートで人のいない路地を経由して、黒縁フレームの伊達メガネを付けた二人は、入店してすぐ互いに無言のうちに動いた。

 蓮は入口近くでカレーライスの食券を二枚購入し、店内奥の四人掛けテーブル席に腰を下ろす。

 拓弥はその間に水を二つ運び、静かにテーブルに置いた。

 店内のスピーカーからは、妙に古びた演歌のイントロが流れている。


「ちょっとこれ見といて」

「ああ」


 蓮はほぼ荷物の入っていない偽装用のリュックを拓弥に預け、呼ばれた番号札を手に、トレイを二つ受け取って戻ってきた。

 器の縁から立ちのぼる香りが、湯気とともに二人の間をゆっくりと満たしていく。


「そば屋でカレーか」


 拓弥が苦笑まじりに言う。

 蓮はスプーンを手にしながら、少し真面目な声で返した。


「……と思うだろ?でも一旦食ってみろ。そしたら俺が言いたいこと、分かるから」

「――じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 ふたりはスプーンでカレーをすくい、同時に口に運んだ。


 舌に触れた瞬間、懐かしい記憶が甦る。

 派手さのない、どこか粉っぽいルゥの舌触り。

 具は少なめで、じゃがいもとにんじんが柔らかく煮崩れている。

 それは、幼い頃――"若葉"で食べた給食のカレーとほぼ同じ味だった。


 拓弥は数秒、言葉を失ったように固まり、やがて喉の奥で笑いをこぼした。


「……おい、これって」


 蓮も同じように笑った。


「だろ。あのカレーと同じじゃねえか?先週、やっと見つけたんだよ」


 懐かしさを噛み締めるように、二人は次々にスプーンを口に運ぶ。

 その度、二人の頬がほころぶのを感じた。


「…うん、これ。これだよ。うちで作ってもなんか違ったんだけど、まさかこんな所にあったなんて」

「拓弥がか?自分でカレーを?」

「一時期、俺もカレーが恋しくなったことがあってさ。結局再現できなかったんだけど、富士そばで食えるって知ってたらスパイスなんか買い揃えなかったのに」


 トホホと肩を落とした拓弥だったが、それでもスプーンは止まらない。


「考えてみりゃ派手なスパイスも、こだわりの出汁も必要なかったわ。すげえ旨いカレーだって思い出を勝手に美化して勘違いしてたけど、……これだわ。これなんだよなあ。この絶妙に安っぽい味――」


 湯気が眼鏡の縁を曇らせる。

 その曇りの向こうで、ふたりの視線が重なった。

 誰も言わないけれど、同じ記憶を見ているのが分かる。


 ――日曜の昼。

 炊事係の年配職員が、大鍋を木べらでかき混ぜながら「今日はおかわり多いよ」と笑っていたこと。

 食堂の椅子に片足を乗せながら、蓮と拓弥が両手のスプーンを目に当ててウルトラマンの真似をしてふざけ合っていたこと。

 子どもたちの笑い声が、古い建物の廊下にこだましたこと。


 今はもう跡形もない若葉愛育園。

 だが、あのカレーの匂いが、その時間を鮮明に呼び戻した。


 拓弥はスプーンを持つ手を止め、ぽつりと呟いた。


「……あのカレーの匂いがするとさ、それだけで良い一日になった気がしたよな」


 蓮は頷き、カレーを一口飲み込んだ後で答える。


「うん。学校帰りに嗅ぐあの匂いは最高だったな。テストで悪い点取っても説教されても、あのカレーで全部チャラになったもんな。――魔法みたいだったな」


 しばらく、二人は黙々と食べ続けた。

 外のざわめきが遠くで波のように揺れている。

 客の誰も彼らを気に留めない。空席はまばら。さほど混んでもいない。

 それが妙に心地よかった。


 蓮はカレーを食べ終えたころ、ふとスプーンを置き、少し遠くを見た。


「……他の皆はどうしてるかな」


 同じ鍋のカレーを食べて育った兄弟たち。

 "若葉"が取り壊されてからはもう辿ることのできない糸の先を想う。


 拓弥も同じく、切れた糸の先を眺めるような遠い目をするが、小さく息を漏らす。


「あいつらも案外平気な顔して暮らしてるかもな。そうじゃなきゃ全員国外脱出」

「世知辛いねー。そりゃ会えない訳だわ。サミットでも開くか」


 そう言って拓弥が笑うと、蓮もつられて笑った。

 わずかな時間、重いものを背負った二人が、ほんの少しだけ少年のような顔に戻っていた。


 外では、電車の音が遠くをかすめていく。

 冷えた夜気が自動ドアの隙間から流れ込み、湯気を薄く揺らした。


 ――そして、店のドアのベルが鳴る。

 入店した人物に、蓮がちらりと目を向けた。


 あらかじめ暗号アプリで呼び出しておいた、白田の姿。

 彼女は蓮に向けて片手を上げたが、もう一人の存在を確かめると、目を見開いて動きを止めた。





 白田はテーブルの近くで拓弥の顔をはっきりと見ると、息を呑んだように立ち止まり、動揺した顔で瞬きを繰り返す。

 視線が泳ぎ、わずかに唇が開いたが、言葉にならない。

 蓮が軽く手を上げて促すと、白田はようやく我に返ったように小さく会釈し、ぎこちなく席に着いた。


「どうも、こんにちは……」

「つかさちゃん。元気?」

「え、ええ……まあ」


 白田は笑おうとしたが、その笑みは形にならず、唇の端が不自然に引きつった。

 無意識のうちに拓弥の顔を見つめ、それから蓮へ、また拓弥へと視線を往復させている。

 動揺を隠しきれないその仕草に、拓弥は黒縁眼鏡を指で押し上げた。


「…知ってたって顔だね」

「――えっ」


 背もたれに寄りかかりながら、拓弥は鼻を鳴らした。

 どこか拗ねたような、しかし探るような声音だった。


「“なんで生きてるの”って感じ?」

「……っ、それは……」


 白田の肩がわずかに震え、視線がテーブルの木目に落ちた。

 湯気の消えた空のカレー皿の向こうで、蓮は居心地悪そうに目線を左右に泳がせた。


「どういう事?」

「ああ――多分、つかさちゃんは知ってたんじゃないかな。名古屋に俺がいること」

「……ええ?」


 頬杖を突く拓弥の口元が、皮肉げに歪む。

 向かいに座る蓮が思わず振り向くと、白田はまるで叱られる子供のように瞬きを繰り返し、視線を落とした。


「蓮は知らなかったのか?」

「えっと……俺は滝山会と中国マフィアが目的だったけど、拓弥がいるとは知らなくて……」

「つかさちゃんは?伝えてなかったの?」


 沈黙。

 フォークを落とすような微かな音が、どこかの席から響いた。

 白田はその音にさえ怯えるように、ほんの少しだけ頷いた。


 蓮と拓弥が、同時に息をついた。


「そっか――」

「……なんで伝えてくれなかったんですか?」


 蓮の声は静かだったが、わずかに苦味が混じっていた。

 白田は両手を膝の上で握りしめ、深呼吸をひとつ。


「だって……伝えたら、絶対蓮くんを苦しめてしまうと思って……」


 その言葉は、懺悔にも似た響きを持っていた。

 白田が掴んだ情報の中には、スポンサーとして滝山会の薬物取引に帯同する拓弥の存在もしっかりと含まれていた。


 接点がなければ何の問題もなくいつも通りに蓮に伝えられたが、先日あのマンションで蓮と楽しく過ごしていた幼馴染がその人であると気づいた。


 白田はどうすることも出来ず、ついぞその口からは拓弥も名古屋にいることを言い出せずに蓮は行ってしまった。


 銀の仮面として名古屋に向かうのであれば、蓮はきっと拓弥も殺してしまうかもしれない。

 その想像に、彼女の喉は凍りついたのだ。


 そうなれば、幼馴染を殺した蓮は一夜明けた今、深い悲しみにいるはずだろう。

 白田は、滝山会壊滅のニュースを一人だけ悲壮な面持ちで見つめていた。


 “知ってしまった情報屋”としてではなく、“幼馴染二人を見守るただの人間”としての選択が、本当に正解だったのか迷いながら。


 だが、現実はもっと皮肉だった。

 荻窪に呼び出されて来てみれば、そこにいたのは死んでもおかしくなかったはずの男が、眼帯を巻いた顔で穏やかに座っている。

 しかも二人の前には、食べ終わったカレー皿。和気藹々とした風に並んでいた。


 ――覚悟していた展開とは、まるで違う。

 蓮になぜ黙っていたのかと詰問されることを覚悟してきてみれば、そこには二人が膝突き合わせる光景。


 今夜はとことん蓮の話に付き合うつもりで来た。

 意図的に情報を提供しなかった事への、せめてもの償いとして。


「……なるほどね」


 白田の立場になればどうするだろうかと想像してみた拓弥は、腕を組んで唸る。

 短い吐息が漏れる。


「…難しいよな」


 銀の仮面の正義実現のために、感情を殺して情報を伝えるか。

 それとも、たとえ非合理でも、奇跡的回避と共存の可能性に賭けるか。


 正解は開けてみなければわからない。

 分からない中で決断しなければならないのが、命の恩人をどちらを選んでも苦しめる問いだったら。

 軽重の差こそあれ、その決断は彼女にとって途轍もなく酷だった。


 白田はその決断を時間切れまでに下すことができなかったが、それは仕方ないことだった。誰も彼女を責めることはできない。



 ――静寂。

 三人を包む沈黙の中で、店内のBGMさえ遠ざかっていくように感じられた。

 外では電車がガタンと音を立てて発車し、わずかにカウンターのカップが震えた。


 その音が、沈黙を破る合図になった。


 拓弥が、わざと明るく笑いながら言う。


「色々あったけど、どうにかなったから。安心してよ」


 笑顔の裏に、ほんの少しの疲れが滲む。

 けれどその軽口は、誰よりも空気を和ませる力を持っていた。


「俺が初めての“生存者”になったからな」


 冗談めかして笑う拓弥に、蓮も苦笑しながらコップの水を傾けた。


「いや、違うね。お前は今日で終わりだ。お前は今日で死ぬんだよ」


 物騒な発言ではあったが、言葉の端々に柔らかい調子が混じっている。

 白田は一瞬、血の気が引いたような顔をしたが、拓弥がすぐに手を振って制した。


「ああ違う違う。ニュースで見たと思うけど、俺も“アレ”で死んだことにするって話」


 声を潜め、拓弥は顔を寄せて続ける。

 周囲の客が誰もこちらを見ていないのを確認してから、低く、確信に満ちた調子で。


「明日から俺は顔と名前を変えて暮らす。あのマンションも引き払ったから、これから別の所に行くよ」

「宛てはあるんですか?」


 白田の問いに、拓弥は小さく笑った。


「これからお世話になるところがあってね。蓮のお陰って言ったら変だけど、当分はそこに厄介になるかな」


 その横で、蓮が静かに補足した。


「名古屋港に乗り込む時に手伝ってくれた宗我部組に引き受けてもらおうと思って。今回の一件で、今後はG名義との提携も正式に取り付けましたよ」

「ええっ!?」


 思わず大声を上げた白田は、慌てて両手で口を覆い、店内を見回した。

 周囲の客は誰も気に留めていない。

 それを確認してから、白田は小声で詰め寄った。


「ヤの方と提携って。それってやっぱり支配下に置いてません?何したんですか」


 蓮は首を横に振り、静かに言葉を返す。


「そんなんじゃない。対等な協力関係だよ。表でG名義が動く時は、裏で宗我部組に助けてもらう。ただそれだけのことで、支配とかじゃないですよ」

「へぇぇ……」


 白田は口を半開きにして固まった。

 銀の仮面が政治家を断罪し、官僚を追い詰め、悪人を裁くだけでなく――

 今や、裏社会の一角までも味方にしている。


 冷静な彼女の頭の中で、瞬時に計算式が走った。

 宗我部組の影響範囲、情報網、資金力。

 それらが合わされば、銀の仮面はもはや一人ではない。

 国家にも匹敵する“地下の政府”が誕生したようなものだ。


 白田はぽつりと呟く。


「……蓮くん、あなたはどこに向かってるんですか……」

「んー、明日に向かって歩いてるかな!」


 軽い調子で水を飲み干した蓮は、あっけらかんと笑った。

 それがあまりに自然すぎて、白田は思わず口元を緩める。


 フッ、と拓弥は鼻を鳴らし、つられるように水を飲み干した。

 彼の眼帯の下で、右目の奥がわずかに疼く。

 それを悟らせないように、軽口を被せる。


「さーて、今日で"俺"とはおさらばだからな。蓮んち泊まって良いか?」

「俺んち…?」


 蓮が一瞬きょとんとした顔を見せる。

 次の瞬間、ばつの悪そうな沈黙が落ちた。


「俺、家ないんだよなぁ」

「はあ?何それ」

異世界あっちに長く居過ぎたせいで、こっちじゃ行方不明で死亡扱いになっててさ。いま俺、戸籍ないんだよ。免許証も期限切れだし、照合されたらまずいから、ネカフェ以外には泊まれなくて。賃貸借りようにも保証人なんて余計ムリだし……最近はネカフェとかレンタルルームとか、白田さんちを転々としてる」

「うわあ。ヒモかよ」

「うっ……」


 蓮は痛いところを突かれたと言ったような表情の中。

 白田が、思わず顔を真っ赤にした。

 両手をぶんぶんと振りながら、早口で否定する。


「そ、そんな言い方やめてください!私はむしろお世話になってるばかりですよ、家賃以上のお金も入ってますし!」


 白田から庇われるも、かねがね気にしていた部分を言い当てられた蓮は、うなだれた。


「でも、身分証もないと定職には就けないし…この四カ月、ずっとあっちをフラフラ、こっちをフラフラって感じで、皆がスーツで通勤する中、俺は昼からカレーを食べ歩く日々――」

「ちょっとお、蓮くん落ち込んじゃったじゃないですかあ!日野さんどうしてくれるんですかー!」

「あーもうごめんて。本気じゃねえよお」


 笑いがテーブルに広がる。

 拓弥が咳払いして話を本筋に戻す。


「そんじゃ、蓮も戸籍と家、組に頼んでみるか?せっかくの機会だし」

「…ああー……でも、良いのかなぁ」

「良いに決まってるだろ。あんな土産寄越しといて断る訳ねえよ。現金だけじゃなくて、あんなネックレス渡したら借りが多すぎるだろ」

「ネックレス?………あっ!」


 蓮が思い出したように手を打った。

 白田が首を傾げる。


「え、何ですか?ネックレスって」

「同行してた十人にネックレスを渡してたんですよ。身代わりのネックレスって言うんですけど」

「身代わりのネックレス?」

「はい。俺が治癒ヒールかけたら回復効率が倍化するだけじゃなくて、誰かを庇って受けた攻撃に限っては即死無効・ダメージ軽減がかかるんです」

「ええっ?何それ……」

「ヤバ。そんなチートアイテム渡してたのかよ」

「戦闘中だけ貸すつもりだったんですけど、拓弥の件ですっかり忘れてた。……今さら返してもらう訳にも行かないよなぁ……完全にタイミング逃した」


 苦笑する蓮に、拓弥が呆れたように言う。


「お前、気前良すぎだろ。そんなもんばら撒いてたら、アイテムオタクに毎日付け回されちまうぞ」


 その言葉に、蓮は肩をすくめて笑った。


「………まあ、大丈夫でしょ。あの人たちは信用できるし。命より高いものはないしさ。パイプも出来た事だし……うん、大丈夫でしょ」


 そう言って、蓮は空の皿をそそくさと重ねた。

 白田はその横顔を見つめながら、小さく呟く。


「……やっぱり、あなたたち、似てますね」

「似てる?」


 拓弥が首を傾げる。


「ええ。笑い方も、喋り方も、雰囲気も凄く似てます。私にはこんな一面見つけられませんでした。羨ましいです」


 その言葉に、二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。

 子どもの頃、夜更けの施設の廊下で悪戯をして笑い転げていた頃のように。


 白田もつられて笑い、空気がようやく柔らかく溶けていく。


 一頻り笑った後、拓弥は蓮の肩を叩いた。


「とりあえず、今日はどっか探して泊まろうや。俺の顔の件もあるし」

「――そうだな」


 蓮は頷き、立ち上がった。





 トレイを返却し、三人が外へ出ると、駅前の空気が夜の匂いを孕んでいた。

 電車の音と、人々の話し声と、ビルの隙間を通る秋風。

 そのすべてが、現実へと戻っていく合図のようだった。


 懐かしいカレーの余韻に後ろを振り返っているうちに、数歩先へ白田と蓮が行っていたことに気付く。

 小走りで追いついた拓弥がふと、蓮の背に声をかけた。


「――なあ、蓮」

「どした、拓弥」


 特に意味もなく話しかけた声に、すぐ返ってくる蓮の声。

 ただそれだけのやり取りなのに、不思議な温度があった。


 この歳にもなれば、もう自分を“拓弥”と呼ぶ人はいなくなっていた。

 同じ年頃の人からは“日野さん”、裏社会では“日野様”。

 唯一、名前で呼んでくれていたひとも、とうに遠い思い出の中だ。


 夜風に混じって“拓弥”が届いた瞬間、胸の奥がじんわりと温まるような感覚に包まれた。


 ――ああ、そうか。

 俺は、まだ“日野拓弥”だったんだな、と。


 改名はもう本決まりのつもりだった。

 新しい戸籍、新しい人生。過去を捨てるための区切り。

 けれどいざ名前を呼ばれてみると、心のどこかが確かに疼いた。



「……いや、なんでもない」

「あのカレー、ハマったか?」

「違えよ。いや、違くねえけど」

「ははは」


 笑いが夜に溶ける。

 拓弥は息を整え、蓮の右隣に並んで歩き出した。

 左端を歩く白田のペースに合わせ、三人は自然と歩幅を揃える。


 足元を照らす街灯の光が、三人の影を細く長く伸ばしていく。

 富士そばを出てすぐの場所からJR荻窪駅の駅舎が見えた。アスファルトの上に、さっき降ったばかりの雨の香りが立ちのぼる。街の灯りが濡れた路面に反射して、オレンジの川のように揺れていた。


 拓弥はくすりと笑いながら夜空を見上げる。


「拓弥って呼ばれると、なんか昔に帰った気がすんだよ」


 蓮は一瞬、目を細めて頷いた。


「俺も、呼び捨てなんてしばらくされてなかったわ。俺の名前知ってんのは、今はもう二人だけだよ」


 蓮は左の白田、右の拓弥と目配せして、小さく笑った。

 その笑みを見て、拓弥の胸にまたひとつ、何かが静かに戻ってきた。


 三人並んで歩く夜道は、十一月ながらどこか温かく、無言でも居心地の良い歩調だった。

 街のざわめきが遠ざかり、駅に入線する電車の警笛がかすかに響く。

 都会の夜が、穏やかに流れていた。


 拓弥はもう一度、蓮に声をかけた。


「なあ蓮、もう一回呼んでみてくれるか」

「なんだよ。―――拓弥」

「うんうん。……つかさちゃんも呼んでみてよ」

「ええ……?――日野さん」

「…………何か違うな」

「ひどい!?」


 三人の笑い声が、駅前のネオンの光に吸い込まれていく。

 その音が、夜の中で淡く弾け、穏やかな風にじんわりと溶けていった。

毎週月曜・水曜・金曜20時投稿予定です(祝日は15時投稿予定)。

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