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59話 一蓮拓生

 雨が降っていた。


 名古屋港の倉庫群は鉛色の空から降る強い雨に油で光り、波音と雨音が混ざり合って遠い心臓の鼓動のように響いていた。


 倉庫の濡れた鉄扉に叩きつける雨粒が、見下ろす者の心情さえ冷たく洗い流す。

 灯りは割れ、ネオンの残照が水たまりに滲む。


 そこに、二人だけの夜があった。



 銀の仮面の中、汗が混じる目で彼を見ていた。

 その人物は、幼馴染らしい面影を残しつつも、自分より十歳も年上となった男。

 似つかわしくないギラギラとしたスーツ姿は鋭く、粗野で、無邪気だったかつての姿とはかけ離れている。


 宗我部組の若頭補佐・鷲崎と玉井が、銀の仮面の後ろでライフルを肩に提げているというのに、それには一切動じていない。それどころか薄笑いを浮かべて立っている。

 彼のこれまでの生活が()()ではなかったことを物語るかのようだった。



「……拓弥」


 仮面の中で、彼の名を呼んだ。

 雨音と二人の呼吸だけが、倉庫内に充満する。


「お前、何やってんだよこんな所で」


 雨粒が銀の仮面の肩をつつく。拓弥の声は低く、荒んでいる。


「何って。言わなくても分かるだろう」


 拓弥は息を吐く。


 胸に込み上げるものを押し殺しながら、冷静に問い直す。


「言えよ。何やってたか言えよ」

「言う必要があるか?」


 拓弥の目が細まる。無味な言葉と沈黙の間に、時間がしなる。


「ある」

「俺がここにいて、お前がここに来た。それでもう分かってるだろ」


 拓弥の声には、どこか諦めが混じっていた。鷲崎はその言葉に眉根を寄せる。ほんの僅かに玉井は息を詰めた。


「…いや、拓弥の口から言ってくれ」


 なおも言わせようとするその問いに拓弥は肩をすくめ、唇の端が歪む。


「蓮。お前まさか、偶然居合わせたみてえなそんな薄い可能性信じてねえよな?そんなわけねえぞ。俺がここにいる理由は、お前がここに来た理由と同じだ」


 夜の空気が一瞬、鋭く凍るようだった。蓮の胸の奥に何かが落ち、音を立てて砕ける。鷲崎は視線を外し、玉井がスリングベルトでライフルを確かめる手を止める。


「…何でだよ。拓弥。何でこんなことしてんだよ」


 拓弥は答えず、雨が仮面を湿らせる。蓮はそれでも問い続ける。


「俺の知ってる拓弥はそんなんじゃなかった。何がお前をそんな風にしちまったんだよ。何があってそんなんなっちゃったんだよ、拓弥」


 雨音は二人の言葉を洗い流すようでいて、同時に言葉を凍りつかせる。


「なあ答えろよ拓弥。説明しろよ。俺が納得の行くような説明をしろよ」


 拓弥の眼差しは遠くの雨を見ているようで、しかし確実に蓮をとらえていた。倉庫の入口すぐの場所で立つ鷲崎の肩が、小さく震えた。玉井の息遣いが、雨音の中でかすかに聞こえる。


 蓮の声が震えた。


「俺は、お前が幸せにやってるもんだと思ってたよ。人並みの幸せを掴んで、あんな良いマンションに住んで元気にやってると思って嬉しかったよ。昔からずっと憧れてた家族を手に入れたんだなって俺は感動したんだ。…あれは全部嘘かよ。俺に嘘ついてたのかよ」


 拓弥の表情は変わらない。雨が音を立てて落ちるだけだった。

 拓弥はどこか冷めたような目を向けた。


「…なあ。お前は今、誰として喋ってる?お前はここに何をしに来た?お前は銀の仮面として俺を殺しに来たのか?蓮として俺と世間話しに来たのか?」


 その問いに、しばし黙り込んだ。


 長い沈黙の末、意を決したように、仮面だけをゆっくりと脱いだ。

 素顔を晒した蓮は、濡れた前髪を少しだけ払い、拓弥を見つめた。

 仮面が手の中で濡れ、金属の冷たさが悲しい銀色を示す。


「随分余裕だな。これが目に入ってないわけじゃねえんだろ?」


 木箱の上に置いたままの短刀をちらつかせる。


 鷲崎の眉がピクリと動く。玉井が喉を鳴らす。

 彼らはジリッと足を擦るのに留め、銀の仮面より前には決して出なかった。

 銀の仮面の素顔も見えない角度で、いや、素顔を見ないように意図的にしているのかもしれない。


 鷲崎と玉井は、銀の仮面の素性を知っていると思しき目の前の男の次の言葉を待った。


「その気になれば俺なんていつでも殺せるってカンジだな。…じゃあ何で仮面を脱いだ。説得なんかするつもりじゃねえだろうな」


 蓮は仮面を握り締め、爪が仄白む。だが拓弥は続けるように、吐き出すように言葉を重ねた。


「――背中押してやるよ。俺がここにいる理由。それはフェンタニルと銃器取引のためだよ。中国ルートで取り寄せた大量の薬物と、アジア諸国で製造された武器弾薬を港に持ち込んで、日本とアメリカに売り飛ばしてるんだ。アメリカは良いお客さんだ。"F"は出せば出すだけ売れるし、在日中国人は大量の銃と弾を爆買いしてくれるぜ。俺が立ち上げた金融からたっぷりと出資したおかげで滝山会の規模と取引額は拡大の一途。東京タワーを眺めながら悠々自適なタワマン三拠点生活が送れてるって訳だ。いいだろう」


 言葉の冷たさと、誇らしげな調子。鷲崎の瞳が細まり、玉井が無意識に舌打ちをする。


「…奥さんと子供は?あの家は?」


 拓弥は鼻で笑った。


「いるわけねえだろそんなもん。東京のあの部屋は手頃だから買っただけ。嫁と子供なんかハナから存在してねえよ」

「一人暮らしであんな家買ったって言うのかよ」

「………ああそうだよ。文句あるか」


 拓弥は喉の奥で何かを押し殺した。

 蓮は幼い日の思い出がひしゃげたような痛みを覚え、手の中の仮面が重くなる。


「真っ当に稼いだ金で買ったなら文句はねえよ。タワマンなんてわざわざ一人で住むようなもんじゃねえだろ。汚い金でタワマンなんか、買うほどの物じゃねえだろ…。どうしちゃったんだよ、拓弥。あの頃のお前はどこに行っちゃったんだよ。普通に就職して普通に結婚出来ればそれでいい、って言ってたじゃねえかよ。普通の幸せを手に入れるのが俺たちの夢だって言ってただろ」


 蓮が連呼した()()と言う言葉に、眉が引き攣る。

 事情も知らずに好き勝手言い放つ蓮の言葉に、拓弥の目が一瞬血走った。その熱を宿したまま、声が高くなる。


「俺たちに、普通の幸せが手に入るはずないだろうが―――!」


 拓弥の叫び。

 年相応に見えない、子供の頃の面影を残した、無念さが空気を震わせた。


「人並みの幸せなんて、絶対届かない。その辺の奴らが簡単に幸せになってるってのに、俺たちはその半分も手に入れられねえんだよ。俺たちは絶対に幸せになんかなれない、そういう星の下に生まれてきたんだよ!知った事言うんじゃねえ!」


 鷲崎の肩がわずかに震えた。玉井は無言で視線を落とす。

 彼らが握り込んだライフルから、微かに軋む音が漏れる。


 拓弥は憤りを込めて言葉を重ねた。


「―――良いよな、蓮は。ヒーローだ救世主だって崇められてよ。気分良いだろう。悠々自適に異世界を楽しんで、気が済んだらふらっと戻って人助け。なんだよ。何なんだよお前。お前こそ変わっちまったじゃねえか。あの頃のお前と全然違う。そんな奴じゃなかった。お前はもっと――」


 蓮の手が小さく震えた。


「甘えたこと言ってんじゃねえよ!」


 息を切らしながら、蓮は肩を怒らせる。

 瞼を閉じ、深呼吸を繰り返した後、喉が一度鳴り、強い眼差しで拓弥を見つめた。


「―――分かったよ。教えてやるよ。高卒ってだけで六十社も落とされて、やっと受かった会社でブッ叩かれながらなんとかしがみついて仕事覚えようとしてたら、いきなり異世界に勝手に召喚されて、魔王倒さないと日本に帰れないって言われたら、お前はどうするんだよ。勝手な都合で急に連れてこられて毎日毎日魔族と殺し合いさせられてんのに、泣き言を吐くことも許されず、人前じゃ勇者らしい振舞いをしろって言われたらどうするんだ。血反吐吐いてぶっ倒れてでも魔法覚えないと明日生きてられるかも分からない、毎日毎日死の恐怖に怯える五年間を過ごした俺を見てねえくせに、知ったようなこと言うな!」


 雨に混じる吐息。


 マントを揺らしながら叫ぶその震えた背中に、鷲崎の瞳がわずかに潤む。

 玉井は防弾チョッキの内側、胸元に空いた服の弾痕の辺りに手を添える。


 今、銀の仮面がどんな顔をしているか、見ることさえしてはならないかのような沈黙が、鷲崎たちを包む。

 彼らは黙ったまま後ろで立ち尽くし、その二人のやり取りに立ち会い続けた。


「……帰りたくて帰りたくてたまんなかったよ。あの頃に戻りたかったよ。平和な日本に帰ってやりたい事いっぱいあったよ。だから俺はやっとの思いで魔王倒して戻ってきたんだ。あっちでいろんな物を犠牲にして、いろんな人を踏み台にしてまで戻ってきた。そこまでしてでも、俺が毎晩夢見た暮らしに…日本に戻ろうってさぁ…。…それがなんだよ。なんでこんな国になってんだよ。なんで、そっち側に行ってんだよ、拓弥……」


 拓弥は拳を握り締め、爪が掌に食い込む。

 蓮の後ろで、小さく鼻を鳴らす音がした。


「蓮、お前だけが辛いと思うなよ。流されたくて流れたんじゃねえ。どうにもならなかったんだよ。景気も政治も治安もどんどん悪くなる。高卒ってだけで、施設上がりってだけで、世間はとことん冷たくなる。捨て子はまともに生きる事さえ許しちゃくんねえ。外聞が悪いって理由で、好き合った女と結婚することも叶わねえ。タワマン買ったって、本当に欲しいものは手に入らなかったんだよ。どうだ、笑えるだろ」


 拓弥は声を震わせながら笑った。


 蓮はそんな拓弥に一言も口にすることが出来ず、拓弥は静寂の中、その張りぼての笑みを着け続けた。


「どんだけ真面目に頑張っても俺は、俺たちは、この国じゃゴミ以下の扱いなんだよ。必死に貯めても、奪われる。立ち上がっても、踏みつけられる。出所した囚人の方が職にありつけるのに、俺はそれ以下の扱いだよ。もう無理なんだよ。この国に希望なんてねえ。清く正しく生きるなんて夢物語だったんだよ。俺、最初は何も悪いことしてなかったんだぜ…?それなのに、悪者の方が優遇されてよ…。これじゃ真面目に生きてんの、馬鹿みてーじゃん」


 鷲崎の目が真っ直ぐに拓弥を捉える。玉井は唇を震わせ、自分に重ね合わせる。


「――奪われるのは弱いからだ。守る力がないのが悪い。馬鹿真面目に差し出してなんかいないで、奪われる前に奪う。取られたら倍にして取り返す。今日の飯にありつくために、俺は強くなった。奪われるしかなかった過去の弱い俺のために、強くなった今の俺が取り返してるってだけのことだ。俺が変わったんじゃねえ、世の中が変わったんだよ。こんな夢も希望もねえ世の中になっちまったのが悪いんだよ!」


 過去の恵まれない自分を癒すために、大人になった蓮が理想の正義を目指したように。


 拓弥は過去の奪われ続けた自分のために、今の自分が奪い返す選択を取った。


 スタートを同じくしていたのに、選んだ道が分かれてしまった、残酷なまでに儚い二人の今。


 泣きたくなるほど壊れそうな所に立っている拓弥の足元は、とても寂しそうに、綺麗に光る革靴だった。


 ようやく再会した幼馴染が裏稼業に身を窶している現実。

 蓮は拓弥に問いかけた。


「…他のみんなはどうした」

「知らねえよ」

「知らねえ訳ねえだろ」

「知らねえっつってんだろ!……俺だって、必死だったんだよ。俺一人のことで手一杯だってのに、他の奴らの事なんか気にかけてられるか!気付いた時には更地だったんだよ」


 拓弥も、若葉がけばけばしいビルに建て変わったのを後で知った。

 真面目に、正直に、ボロボロになりながら働いていたあの頃。

 今の自分の事で精一杯で、他人にも、過去にも、目を向ける余裕さえなかった。


「遅かったんだ。俺も同じなんだよ、蓮――」


 玉井が耐えきれず、くぐもったしゃくり声を微かに上げた。

 鷲崎はしきりに瞬きを繰り返し、口を噤む。

 どこかで見捨ててきた誰かの痛みを思い出しながら。



 黙って俯くことしか出来ない蓮。


 拓弥が静かに促すように言った。


「いつまでウダウダ喋ってんだよ、なあ。お前がここに居る理由なんて一つだろ」


 拓弥は両手を開く。

 蓮の目を真っ直ぐに見ながら。


「――やれよ。そのために来たんだろ」


 拓弥は、両腕を大きく広げたまま静かに仰ぐ。雨を含んだ湿った風が、その表情を流す。


「…いつかはこの時が来ると思ってた。でもそれがまさかお前だったとはな。つくづく縁があるな。俺たち」


 そう笑った拓弥の言葉の端に、かつての親しみと皮肉が混じる。

 鷲崎は深く瞼を閉じ、唇が強く結ばれ、玉井は思わず背を向けた。


「――出頭しろよ、拓弥。罪を認めて、法の裁きを受けてくれよ。そうしたらまたやり直せるだろ」

「…嫌だね。こんな狂った国の警察になんて、死んでも出頭してたまるか。苦しい時に俺たちを守らず、犯罪者の味方ばかりするクソ警察なんか信用できないね。この国に命を委ねるくらいなら、野垂れ死んだほうがマシだ」


 拳が小刻みに震える。

 目を逸らして憎らしげに吐いた拓弥は無念が色濃く滲んでいるよう。蓮の胸は硬く引き締まった。


「そんなこと言うな。戻ってこい。まだ引き返せる。この国はきっと変わる。ようやく風向きが変わり始めようとしてるんだ。正直に生きようとしてる人が報われる世の中、見たくないか?見たいだろ、拓弥」

「…へッ、正義の代行者が聞いて呆れるぜ。お前はもっと情け容赦なく、罪人の言い訳なんて聞かずにスパッと裁くと思ったんだけどな」


 蓮の笑顔ながらの呼び掛けは、閉め切るような拓弥の返答に置き去りにされる。


 蓮は両手を広げたまま立つ拓弥のからりとした笑顔が痛くて、苦しくて、悲しくて、寂しくて、そのあまり、声に涙が滲んだ。


「……俺を独りにしないでくれ、拓弥」


 震わせながら呟いた蓮の言に、拓弥は小さく笑った。笑顔は切なく、痛みを孕んでいる。


 鼻を啜る音が倉庫のあちこちで上がる。

 拓弥は小さく喉を鳴らしつつも、手を腰に添えて平静を装う。


「独り…か。お前は独りじゃねえだろう。そいつらだけじゃない、この国にお前を応援してる奴らがどんだけいると思ってんだ。第一…つかさちゃんに失礼だぞ?」


 蓮は言葉に詰まった。

 手出しも口出しもせず、行く末をそっと見守る二人の気配を背に感じながら、自宅で帰りを待っている白田の顔が浮かんだ。


 鷲崎はそんな蓮の背を見たまま、静寂に溶ける。


 拓弥の声が高まり、ため息にも似た叫びが滲み始めた。


「俺は心底、銀の仮面が怖かったよ。いつか俺の所にも来るんじゃねえかって。でもお前だと分かって、ある意味ほっとしたぜ。…すげえもんだな。ちゃんと抑止力になってるよ。お前の頑張りはちゃんと効果が出始めてる。――皮肉だけどな」


 両手をポケットの中に戻し、小さく息を整える。

 目を赤くする蓮に、年上となった拓弥は落ち着いた声で、言い聞かせるような口調で呼び掛けた。


「感情に振り回されるな。相手がどんな奴でも正義を曲げるな。お前が掲げた正義をお前が曲げたら、誰もついてこなくなる。お前が応援されてるのは、国民の声を代弁して実行しているからだ。俺を見逃すことを、国民は望んでいるのか?」


 蓮は目を細め、唇を噛んだ。


 一瞬の沈黙。天井に打ち付ける雨音だけが二人の間を往復する。


「…俺はこの国が心底嫌いだ」


 突然吐き出された、情念の籠った拓弥の口振り。

 ポケットの中で拳が握り込まれる。


「日本人の事なんてこれっぽっちも考えないこんな国なんて消えた方が良い。いっそ滅んじまえば良いんだ」


 先程まで腰を下ろしていた木箱を忌々しげに足蹴にする。


「何が一人一人の声を国会へだ。何が誰も置き去りにしない政治をだ。公約なんて守らないクソ政治家共が、嘘吐き、嘘吐き野郎がよお!テメエらが先に奪っといて今更聖人ぶってんじゃねえ!!」


 拓弥の言葉は、倉庫の壁に反響し、小さな破片となって散った。

 鷲崎の目から一筋の光が零れる。後ろを向いたままの玉井は入口から吹き込むのが雨なのか涙なのかさえも分からなくなっていた。


 拓弥の声には、嗚咽が混じり始める。


「なあ、こんな嘘だらけの国、ぶっ潰してくれよ…。もう、こんな国に絶望する奴を生み出さないでくれ」


 蓮は深く息を吸い、言葉を選ぶ。

 しかし、投げ掛けられる言葉が何も浮かばない。


 拓弥は静かに呟いた。


「――希望を奪う罪、だったか。俺はどんだけの希望を奪っちまったんだろうなあ…」


 倉庫の中で、ふたりの声が消え入るように重なった。その表情は硬く、それでもどこか救いを求める光を湛えている。


「…出頭しろよ。拓弥」

「…嫌だね」

「頼むから。罪を償うんだ拓弥。お願いだ」


 拓弥は目を閉じ、拳を強く握り締める。


「…断る。何でそこまで警察に行かせるんだ」


 雨が大きくなり、倉庫の屋根を叩く。濡れた地面が滴を跳ね返すように、二人の間の緊張が張り詰めていく。


「法で裁けない罪は、お前が裁くからか、蓮。いや――、銀の仮面」


 言葉は刃のように冷たかった。鷲崎の額に細い汗が走り、玉井が目を閉じて息を整える。


「…やれよ。…ほら。ここに警察から逃げ回ってる犯人がいるぞ。ヤミ金がいるぞ。野放しにするともっと日本に有害なことを仕出かすぞ。逃がしたら次はどうなるか分からないぞ。ほら。……ほら!」


 拓弥の視線がぶれ、蓮の後ろの銃がわずかに振れた。それは挑発か、誘いか。


 鷲崎と玉井の肩に提げられたライフルへ目線が何度も向けられるが、その手はライフルへ触れられることはなく、拓弥の空元気の挑発は雨に流されて薄れていった。


 その挑発に応じないと悟った拓弥が手を下ろして呟く。


「…分かったよ」


 その小さな合図が落ちた瞬間、雨は一層冷たく、世界は静かに息を止めた。拓弥は短刀を拾い上げ、柄と鞘をしっかりと握り直した。


「…おい」


 蓮のか細い声に、鷲崎の肩が震え、外を見ていた玉井が振り返る。

 二人の距離が、ほんの僅かに詰まる。空気は刃のように鋭く、倉庫の闇はさらに濃くなった。


「お前がやらないなら俺がやる」


 拓弥の言葉は低く、確かな決意を伴っている。蓮の胸に何かが落ち、だが彼は口を開いた。


「やめろ」

「抜いたら、始まっちまうな。遣り取りがよ」

「分かってるだろ。そんな武器もので俺が死なないことは」

「ハッタリかも知れねえだろ?本当は死ぬのに嘘を言ってる場合もある」

「拓弥、やめろ。…無理だ」


 拓弥の声には、もう揺らぎがない。


「ここから生きて出るのはどっちか一人だけってもう決まったんだよ。お前がここに来た以上、お前か俺のどちらかが死ぬ」

「二人で出よう。死に急ぐな。警察に行って、自分の罪を打ち明ければ――」

「何回同じこと言わせんだ!俺は警察には行かねえ!お前も男なら分かるだろ。いい加減覚悟決めろよ。俺に恥かかすんじゃねえぞ、クソガキ」


 ドスの効いた低い啖呵は、見知った昔の拓弥のものではなかった。



 濡れた風が二人の頬を叩き、世界はその瞬間を待った。

 拓弥は小さく鼻で笑い、短刀を放り投げる。


「まあ、こんなんじゃ勝てる訳ねえよな。最低でもコレでなくちゃよ」


 傍らのバッグから銃を取り出す。

 抜く動作は堂に入っており、拓弥がこの世界に長くいた風格を分かりやすい程に漂わせていた。


「抜けよ。異世界の土産を。……俺の弾を斬ったらお前の勝ち、警察でも何でも行ってやるよ。斬れなかったら俺の勝ち。航空券でも用意してもらおう。俺たちらしくここは、決闘と行こうじゃねえか」

「…分かった」


 仮面を握る手に力がこもる。鷲崎は顔を覆いそうになり、玉井が思わず唇を噛んだ。


「それと確認だが、即死以外は回復出来るって言葉に間違いはねえな?」

「ああ」

「じゃあ、胸に向かって撃つぞ。勝負はこの一発限り、恨みっこなしだ」

「………ああ」


 蓮は外していた銀の仮面を着けると、アイテムボックスから聖剣を取り出した。





 透き通るほど冷たい金属音が鞘を走り、聖剣・アスカロンがその刃を煌めかせた。

 異世界・エルディアに降り注いだ数十万年前の鉄隕石が、地中深くで魔素を長い年月をかけて取り入れることでその隕鉄は魔鉄へと変化した。


 唯一無二の魔鉄と森羅万象の神の加護を掛け合わせて生まれた聖剣・アスカロンは、蓮の右手の中で流れる彩雲のように色を変えながら光っていた。まるで、持ち主の心情を映すかのように。


 左手はポケットに入れ、右手で銃を構える拓弥。

 聖剣を両手で握り、正眼に構える蓮。


 ――倉庫の時間が、止まった。


 蓮の背後にいた宗我部組鷲崎と玉井は射線上から避けるように。はたまた、二人の決闘の立ち会いをするかのように両者の間で固唾を飲んで見守っている。



 誰も動かない。誰も息をしない。

 雨が、倉庫の屋根を叩く音だけが規則的に続いていた。


 風もなく、波音すら遠くに退いている。

 世界がこの一瞬のために、全てを息潜めたようだった。


 蓮と拓弥は互いに正面を向いていた。

 距離はおよそ十メートル。

 間に立ちこめる雨の気配が、互いの視線をわずかに歪ませる。


 拓弥が銃を構える。

 腕の震えはない。

 その動作は、覚悟を固めた者のものだった。

 銃口の先が、ぴたりと蓮の胸を捉える。


「もし俺が勝ったら――」


 拓弥が静かに言う。声は、どこか遠い。


「……つかさちゃんは俺が貰う。最初一目見た時から可愛いなって思ったんだよ。今後の面倒は俺が見る。でも蓮が勝ったら、これから先、大切にしてやれよ」


 蓮は唇を結び、視線を落とした。

 心臓が痛む。拓弥のその言葉が、別れの言葉にしか聞こえなかった。


「バカ野郎……なんで今そんな事を言うんだ。遺言のつもりか」

「遺言じゃねえよ」


 拓弥はうっすらと笑う。その笑みは、少年の頃に戻ったようだった。


「俺はお前に勝つつもりだ。お前に、俺の銃弾は斬れねえ。たとえ異世界の勇者であってもな」


 雨音の隙間に、微かな呼吸が重なる。

 蓮の両手がギュッと聖剣の柄を引き絞る。その目だけが静かに光を宿していた。


 鷲崎は息を詰め、玉井たちは互いに目を合わせることすらできない。


 誰もが分かっていた。

 ここで交わされているのは、ただの決闘じゃない。


 ――過去と現在の清算。

 ――生と贖罪の交錯。


 ――希望に手を伸ばした者と。

 ――絶望に手を振り上げた者の、生死の瀬戸際。



「……本当に撃つ気か、拓弥」

「…ビビってんのか?」

「そんな訳」


 互いに銃口と切っ先を向けたまま動かない。


 思い出されるのは、先日の東京のマンションで過ごしたあのひと時。

 お互いあの頃に戻って無邪気にゲームに興じた、懐かしく輝かしい青春の空気。


「三六二勝、二九八敗か」


 拓弥は小さく笑った。


 これまでに積み重ねた二人の歴史。

 ゲーム。鬼ごっこ。かくれんぼ。徒競走。逆上がり。テスト。共通の女子に惚れ、取り合い、互いに青空を駆け抜けた、濃密な十年。


「もし、ここで俺に勝てたらサービスで二勝ってことにしてやるよ」


 拓弥は小さく顎をしゃくった。

 蓮は表情を崩すことなく、聖剣を真っすぐ構えたままその提案を断る。


「そんなサービスいるか」

「……そうか。せっかくキリ良い数字にしようと思ったのにな」

「気、遣うなら。警察に行けよ」

「断る」


 ひゅう、と冷たい風が吹く。

 雨を含んだ十一月の風は冷たく、幼馴染二人の間を湿らせていく。


 どうあっても説得は通じないと悟った蓮の目は一度だけ、深く閉じられた。



 雨粒が蓮の頬を伝う。

 それが涙かどうか、本人にも分からなかった。


 沈黙が訪れる。

 長く、深い、息が詰まるほどの沈黙。


 拓弥の指が、引き金へと触れる。

 蓮は聖剣を握り直した。


 深い呼吸を繰り返した蓮が瞼を開けると、拓弥がその覚悟を受け取るように、頷いた。


「――行くぞ」

「…ああ」


 両手で構えた拓弥の指先が引き金に添えられる。

 それに合わせるように、蓮も聖剣を深く構え直した。


 無音で風が吹く。


 若衆二人が息を呑む。


 胸を狙う拓弥の口角がわずかに上がり。


 蓮の聖剣に反射して、明かりが拓弥の目元にちらついた。




 次の瞬間、銃声が鳴った。


 轟音と共に、拓弥の手の中の銃は、その弾丸を



 ―――銃口とは()()()()撃ち出した。


 閃光と共に、銃のグリップ側から火花が散る。

 弾丸は拓弥の右目と右脳を貫き、後頭部へ突き抜けた。


 血飛沫が濡れた空気に混じって宙を舞い、赤黒い花弁のように空中で弾ける。


 拓弥の身体は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。膝、腰、背中から床へと倒れ込んだ。


「――っ!」



 玉井が息を呑む。鷲崎が反射的に踏み出しかけるが、すぐに足を止める。



 銃が乾いた金属音を立てて床に転がる。コンクリートの床に広がる血の海が、赤く濁った水たまりとなって拓弥の倒れた体を濡らしていく。



 撃つ直前、拓弥が笑っていたのは――。




「バカ野郎が……!」


 蓮は駆け寄り、膝をついて拓弥の身体を抱き上げる。彼の身体はまだ温かい。だが、右目から流れる血が止まらない。後頭部からも、赤黒い液体がとめどなく溢れている。


「ふざけたことしやがって――!」


 怒りと悲しみが入り混じった声が、倉庫の壁に反響する。蓮の喉は焼けつくように痛み、両手のグローブは拓弥の血に染まる。

 右脳に深くダメージを負った拓弥の顔は朧気。

 痛みだけではない、何か複雑な表情を浮かべていた。


 ポーションでは間に合わない。

 アイテムボックスから赤い魔石を取り出しながら駆け出す。


「――超治癒ハイヒール、――活性加速リジェネレイト!」


 蓮は拓弥の抉れた右目に魔石をねじ込む。

 右手を後頭部に当てて支えながら、右目の傷口を覆うように額に左手を当て、魔法を発動させた。


 魔法陣が静かに展開し、柔らかな光が拓弥の顔を包む。貫通した右目と後頭部が、魔石を媒体にして時間を巻き戻すように再生していく。


 その光景を、蓮は息を呑んで見つめた。瞬きもせず、呼吸もせず、ただ祈るように、拓弥の生還を願い見守った。


 血の匂いが鼻を突く。

 雨音が遠ざかり、世界が静寂に包まれる。


 やがて、拓弥の胸がわずかに上下し、呼吸が戻る。



「……クソッ」



 かすれた声が、拓弥の唇から漏れた。

 拓弥の左瞼がゆっくりと閉じる。


 蓮は左手をそろそろと離すと、そこには右半分を血に染めながら、原型を取り戻しつつある右目があった。血が目に入らないように右瞼は閉じられているものの、銃創は埋まった。

 脳も治ったためか、拓弥の左目は再び焦点を結んだ。



 深く、長く息を吐いた。


 足元に転がっている拓弥の銃。

 その銃口と逆側から火薬の煙を上げる銃は、銃口に詰め物がされている。


 これは――最初から“自分を撃つ”ための銃だった。


「何年……幼馴染やってると思ってるんだ……!」


 胸倉を掴みながら叫ぶ。

 怒りと悲しみと、どうしようもない無力感が混ざり合い、声が震える。

 その涙が拓弥の頬へと滴り落ちる。蓮の目は赤く腫れ、顔を寄せて、震える声で囁いた。


「――二度と、俺を一人にするな。勝ち逃げしようったって、そうは行かねえぞ……拓弥」


 沈黙。

 ただ遠くの雨だけが、二人の間を打っていた。


 倒れ込んだままの拓弥は、胸倉を掴む蓮の手の甲に指を添えた。


「……お見通しって訳か」


 揺れる瞳で拓弥を見下ろす蓮は、小さく息を吐いた彼に涙目のまま笑った。


「何があとの面倒は俺が見るだ。カケラも思ってねえこと言ってよ…。こんなズルい真似しやがって――!」


 胸倉を掴む手が微かに震える。

 しかし、決して離さない。


「――決闘は不成立だ。勝負は次に持ち越し。…分かったな」


 目を逸らして無言を貫こうとする拓弥を揺り起こし。


「分かったと言え!!」


 念押しするように叫ぶ蓮にようやく根負けした拓弥は、小さく頷いたのだった。





 蓮は胸倉から手を離すとゆっくりと立ち上がり、振り返った。


「――そんなに警察が嫌なら、首輪つけてやる」


 一部始終を一言も発することなく二人の決闘を見守っていた鷲崎と玉井は、ただその結末を見つめていた。


「……この男を、預かってくれませんか」


 坂本でもなく、銀の仮面でもなく、若い青年の顔で問いかけた。


「こんなどうしようもないやつでも、――たった一人の家族なんです」


 蓮の素顔は、まだ二十代後半の若さを残していた。

 普通であれば、仕事や恋に打ち込んで、順調にいけば幼い子宝にも恵まれていそうな年頃。

 その辺りを探せばいくらでも見つかりそうな、平凡で、荒事とは一切無関係そうな風貌の男性だった。


 けれど、そんな彼が背負ってきたのは深い孤独と、幸せを渇望する人としての本能。そして理不尽に突き落とされても諦めずにもがいた信念。

 押しつぶされそうなほどに大きな使命をたった一人で抱えながら、これまで戦ってきた彼の素顔。


 それは想像していたような雄々しさや、頼もしさや、恐ろしさなどは見えず、どこにでもいる男だったと鷲崎と玉井は悟る。


 仮面に隠された、孤独と渇望とそこから這い上がる根性。そして燃えるほどに厚い情。

 二つの顔の間に立つ彼の姿に、鷲崎も玉井も、息を呑んだ。


 やがて鷲崎は無言で頷いた。

 その表情には、組の人間らしからぬ哀しみと敬意が滲んでいた。


 拓弥の右目に、アイテムボックスから取り出した眼帯を巻きながら蓮はぼやく。


「――言い出しっぺのお前がレッドをやらずに、俺にだけシルバーやらせんなよ」


 誰も拍手もしない。

 誰もその場を動かない。


 眼帯を巻く衣擦れの音だけが広がる。


「――責任取れよ。お前がレッドやらねえから、俺がずっと出ずっぱりじゃねえか。レッドより目立つシルバーがどこにいるってんだよ……バカ野郎」


 雨だけが、名古屋港の倉庫に降り続けていた。

 決着の音も、涙の音も、すべてを包み隠すように――。


毎週月曜・水曜・金曜20時投稿予定です(祝日は15時投稿予定)。

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