6話 夜明けの足音
銀の仮面による電波ジャックが全国の地上波を貫いた翌朝七日。
まだ日も昇りきらぬ朝の通勤通学時間帯から、世間は明らかに「変わっていた」。
蓮は仮面も星鎧の礼装も脱ぎ、帰還初日に買ってストックしておいた地味な私服姿に戻っていた。
シャツとスラックスというシンプルな夏の装い。日本人然とした服装で街を歩くのは五年ぶり。密かに感激している。
あの生中継電波ジャック映像が六日午後五時に流れてから、まだ十五時間少々しか経っていない。しかし、空気は…違う。確実に。
交差点に集まる通勤の人々の中、誰も口には出さないが、その目は静かに何かを探していた。
顔を上げ、電子掲示板を見つめる学生。スマホ画面を無言でスクロールするサラリーマン。
皆、その「何か」に反応し、呼応し、無言の合意を交わしていた。
──銀の仮面。
昨夜、三枝外務大臣の邸宅内部に侵入し、密室で「天誅」を執行した仮面の処刑者。
自らの手で記録した映像を全国放送に流し、「雨宮誠一と三枝信介に天誅を下したのは自分だ」と明言。
そして宣言した。「私は正義の代行者。これより、国を蝕むすべての害悪に裁きを下す」と。
それはもはや一個人に出来得る並大抵の行動ではなかった。
視聴者の心に突き刺さったのは、映像の内容でも、魔法じみた力でもない。
あの言葉だった。
あの声だった。
「誰も裁かないのなら、私が裁く」
ドラマや映画でたまに耳にするセリフだが、今の日本でそれを本当の意味で口にし、そしてその通りに有言実行出来てしまえる人が果たしているだろうか。いや、いない。
いや、正しくは、いなかった。
国も政府も警察も機能不全に陥り、外国人や敵性人に食い物にされた日本人が、自らの命と安全を天秤にかけてまで大臣を殺して宣戦布告するなど、考えたとしてもできるはずがなかった。
心の中では全員、こんな日本は嫌だ、誰か助けてくれ、と声にならない助けを叫んでいた。
この国の誰もが、それを密かに望んでいた。
──ようやく、来た。
もう間もなく溺れ死ぬ、その寸前に差し伸べてくれた、ずっと待ち望んでいた頼もしい救いの手を、一億の日本国民はそこに見たのだった。
蓮は、あえて人混みの中を歩いた。
繁華街。駅前。カフェ。歩道橋の上。
人々の視線が、明確に“何か”を共有していることがわかる。
口には出さない。
だが沈黙の裏で、確実に「共鳴」が起きている。
それは恐怖でも混乱でもない──希望だ。
蓮の耳に、すれ違った女子高生の言葉が届いた。
「…昨日の人、マジで正義の味方じゃん…」
その声には、少しの憧れと、ほんの少しの祈りが混ざっていた。
親に虐待されて、施設で子供時代を過ごした蓮は、"普通"に飢えていた。
普通の家族と普通に暮らし、普通に進学就職して、普通に素敵な人と結ばれる。
何者かになろうと大それたことは考えていなかった。
ただ、平和な暮らしさえ出来れば蓮にとっては満足だった。
異世界で人々の為に命を懸けて魔王と戦ったのも、この世紀末日本でも魔法を行使したのも、偏に平和に憧れたからだった。
蓮は齢四つにして、自分の人生が普通の人生ではないものと勘付いていた。
子供ながらに自分には他の人が持っているものを持っていないという引け目がある。
特別でなくてもいいから、せめて普通に。
蓮はとにかく、普通で、平和で、穏やかに笑って過ごせる日本の暮らしが欲しかった。
すれ違う人々は、つい先日までは道の端を俯きつつ誰かに怯えながらそそくさと逃げるように歩いていた。
だが、そんな人々はぐっと減ったように見える。
日本人と思しき人々の顔色に、やや生気が戻っているかのように思えた。
未来も目標も希望も見失った亡霊のような、そんな歩き方とは打って変わって、少しだけ目線が上向いた。
そこに明日への希望を感じている日本人の思いを垣間見たのだった。
蓮が行ったのは非合法の私刑だが、そんな行動を歓迎してくれている人々がいる。
自分が刃を振るう事で、助けられる人がいる。
誰かの命を奪い取る行動でもそれによって多くの人々の生命が守られること、安全な生活が守られる事、血脈が途絶えることなく、これから先も続くこと。
それは世界の狭間を越えても同じなのだと、蓮は自らの行いを認められたような気が、自分勝手ながらしていた。
もしエルディアにいた頃のようにまた、この日本で魘される夜を過ごすことになっても、ここは自分が生まれ育った祖国。
日本を日本人の手に取り戻し、感謝されるのなら、本望だ。
その一方で、国の中枢は完全に混乱に沈んでいた。
「昨日の映像は誰が許可した!?」
「総務省の回線がジャックされたんだ!アクセス元も不明!」
「三枝大臣の殺害動画が全国放送されたという事実そのものが国家的事件だ!」
「責任者誰だ!責任者連れて来い!」
「誰が責任者だって言うんだ!この責任の所在はどこで、何をどうしろって言うつもりだ!」
総理官邸タワー内の作戦室は、怒号と焦燥に満ちていた。
雨宮総理の失踪から三週間。政府はようやく“仮定の失脚”に向けた調整を開始しようとしていた矢先──三枝外務大臣の刺殺、そして銀の仮面の電波ジャック。
世論は「誰が次に裁かれるのか」に釘付けになっており、一部では雨宮総理も既に「処刑された」のではないかという憶測が広がり始めていた。
何より恐るべきは、銀の仮面が見せた「力」だった。
結界、攻撃魔法、瞬間移動、認識阻害、大規模通信占拠。すべてが現代科学の範疇を逸脱している。
「一人の魔法使い」が、国家の中枢を壊し始めたという現実に誰もが怯える。
テレビ各局も、政府公式も、まだ確かな発表が出来ない。
不用意に半端な情報や憶測を出してしまうと後でそれが誤報であるとされてしまったり、それが統制範囲内の情報であったら取り返しのつかないことになる。
今「責任者」になってしまうことはなんとしても避けなければならない。
迂闊な事は出来ないが、じっともしていられない。
この一ヶ月で大臣二名が殺される前代未聞の国家的大失態。
焦れるのは当たり前のことだった。
―――蓮は、日中ぶらぶらと当てもなく都内を散策しながら街中の反応や変化を眺め、日没後にはふらりと立ち寄った赤提灯が灯る町中華のカウンター席でラーメンを啜っていた。
テレビは報道番組を流している。
テロップには「銀の仮面・正体不明の犯人」とあるが、キャスターの顔はどこか緊張している。
三枝外相の執務室での映像に、前日の電波ジャックの映像を加えたものを繰り返し繰り返し報道しているが、どこの局も同じような内容を報道しているので、やや食傷気味ではある。
何故なら蓮自身こそが全ての情報を知る者で、テレビでは自分の知らない情報が出てくるわけがないからだ。
多少味の違うものと言えば、各局各番組に出演するコメンテーターたちの考察や、論客の見当違いな推論・持論・暴論。
そのどれもが蓮の核心に辿り着くものではなく、蓮はニュースをやや乾いた心持ちで見ていた。
防犯カメラと望遠カメラに捉えられたが、素顔は出していない。
電波ジャックも、干渉魔法で行っているからそもそも発信源が存在しないし、何をどうやっても足がつくわけがない。
どこかで足がついたとしても逃げ切れる自信があるし、物理的に捕縛されるわけもない。
もし万が一死にかけたとしても、即死さえしなければ全回復できる。
サラリーマン・如月蓮は今ではもう死亡扱いになっている為戸籍も健康保険証もないが、魔法で全ての怪我や不調を自力で直せるので医者にかかることはない。
死ぬのは、天寿を全うする時だけだ。
何度も魔王軍幹部と死闘を繰り広げ、何度も死にかけたからこそ余裕を残していられる。
決して油断しているわけではない。
単純に、剣と魔法の世界・エルディアで世界の崩壊を企む魔王の野望を打ち砕き、完全に倒すほどの実力者となった蓮を生命の危機に追い詰められるほどの舞台を、"この地球上では作れない"。
ただそれだけの話なのだ。
(――みんな、どうしてるかな)
蓮は"若葉"で過ごした友の今を想う。
彼らは今どこで何をしているのか。東京にいるのか、地方にいるのか。海外にいるのか。
十五年の月日が地球上で経っているが、変わらず無事に過ごしていてほしいと願う。
こんな時の為にあらかじめ連絡先を聞いておけばよかったのにと後悔し、小さくため息を吐いた。
アイテムボックスに収納している銀の仮面と星鎧の礼装に、視線を落とすことなく語りかける。
(…ここからだ。俺の戦いは)
かつての日本人は、いつからか「諦めて受け入れる」ことに慣れすぎていた。
腐敗、搾取、虚偽、暴力。
それを「仕方ない」で済ませてしまうように、心を殺すことで生き延びてきた。
だが今、それが破られた。
一人の仮面の処刑者が、均衡を崩した。
蓮の脳裏に、異世界での戦友たちの姿が浮かぶ。
仲間を守るため、世界を救うため、自らの命を張って戦った男たちと女たち。
早く片付けて帰りたいと通り過ぎようとしたあの世界で得た出会い・別れ・経験・信念・夢・平和への渇望が、今ようやくこの世界に根を下ろそうとする蓮の心の中に思い出され、芽吹き始めていた。
エルディアから地球に帰るための戦いは終わった。
次は、この国に平和を取り戻すための戦いに、この身を投じる。
(もう止まらない。止める理由も、止める意味もない)
蓮は、静かに席を立つ。
店を出ると、歩道橋の下に、何人かの若者がスマホを掲げていた。
誰かが、銀の仮面の電波ジャック映像の一部をまとめた短編集を流していた。
字幕付き、BGM付き、ナレーション付き。まるで劇場版のような出来栄え。
それを観て、若者たちは呟く。
「…かっけえな」
「何者なんだよ、マジで…」
「来たぜ…日本の夜明け…」
蓮は目を伏せたまま、歩道を過ぎていく。
空は、淡く朱を帯びていた。
確かに、何かが始まっている。
蓮が不在にした十五年の間で様変わりし、突入した暗雲の時代に、終わりの鐘が鳴りつつある。
(でも分かってる。二人殺したくらいじゃ、国はそう簡単に変わらないってことくらい――)
次も「天誅」が必要であることは予感している。
日本を大きく揺るがしたこの波で、次に一番最初に慌てて飛び出してくる太ったドブネズミは果たして誰か。
その目は、すでに次のターゲットの出現を待ち受けていた。
──夜明けは、静かに、確実に、訪れつつある。
東京都・霞が関、警視庁地下三階
特捜一課の捜査室。
銀の仮面による“電波ジャック”の衝撃から一日経ち、夜の二十時を回っても帰れない室内の空気は重く沈んでいた。
捜査会議に集められた十数名の刑事たちの視線は、一枚のスクリーンに集中している。そこに映し出されていたのは、テレビ報道に映った「銀の仮面の男」の姿──三枝邸近くのビルからテレビ局が窓越しに映した執務室の光景と、執務室前の廊下の防犯カメラに捉えられた、あの仮面の男だった。
「……改めて確認するが、映像にノイズやCG合成の痕跡はなし。これは“実在”の人物だ」
厳しい表情で断言したのは、特捜一課管理官・早乙女敬司。
捜査一筋二十五年、警視庁でも屈指の剛腕とされる男。
短く刈られた白髪交じりの髪、鋭い眼光、トレンチコートが似合う古風な風貌。
冷静沈着で理知的だが、内には正義感と責任感を強く持っている。
今の世紀末日本には珍しく、日本人としての気概と魂を残した希少な人物だ。
「今朝方、三枝信介外相の執務室の天井の角から血痕が発見された。DNA鑑定で本人のものと確定。死体は上がらないが、あの映像が本物であれば死体はそもそも存在していない事になるだろう。殺害の一部始終映像と二方向からのカメラ映像、電波ジャックの内容などを総合的に判断すると……これは、イタズラではないと言える」
「――我々は今、前例のない敵と向き合っている。だが、だからこそ我々が日本の警察としての意地を見せねばならん」
沈黙。誰もが息を飲む。
張りつめた空気が流れる中、一人の若手刑事が問う。
「管理官。これ、本当に個人の犯行なんでしょうか?国家規模のテロ、あるいは海外の工作機関が関与している可能性は──」
「違うな」
即座に否定した早乙女の声は低く、しかし確信に満ちていた。
「奴は別の分野でバックアップを受けているかもしれないが、犯行自体は単独犯でやっているに違いない。俺の勘がそう言っている。むしろ恐ろしいのは、その能力だ……あの防犯網を潜り抜け、魔法のように姿を現し、確実に仕留め、魔法のように姿を消す。まるで──神話の断罪者だ」
室内にざわめきが広がる。
この一連の事件を受けたテレビ番組のコメンテーターたちは「法を超えた殺人鬼」、ある者は「令和の義賊」と言っていた。
「──だが、我々は法と秩序を守る側だ。例え奴がどれほどの正義を掲げていようと、法の外で勝手に人を裁くなど許されない。許されてはならない!」
早乙女は鋭く言い放ち、部下たちを一喝した。
「名前が一部しか分からなくてもいい。顔がはっきり見えなくてもいい。どんな些細な情報であってもいい。何としても、この“銀の仮面”の素性、所在を割り出せ。奴の次の標的が、また国の中枢なら──それは、警察への挑戦状を叩きつけられたのと同義だ」
ただの殺人犯ではない。
だが、ただの義士とも言い切れない。
その時の気分と世間の風潮と本人の胸先三寸で攻撃対象を自在に選べてしまえる。
それほどの規格外の人物を対処せずに野放しにしたとあっては、警察の威信はいよいよ挽回出来ないものとなる。
「銀の仮面。奴が何者で、どのように殺人を行い、どこからあの映像を発信したか……必ず突き止める。捜査一課の誇りにかけてな」
その言葉に部屋の空気が引き締まった。
早乙女が向けた目の先の男に、全員の視線が集まる。
「橘。お前に任せる。奴が行った電波ジャック、普通の電波妨害ではない。テレビ局各社の基幹回線を一時的に乗っ取り、なおかつ復旧も妨害していた。総務省もお手上げだ」
そう名指しされたのは黒縁の眼鏡の奥に沈んだ双眸。涼しげな目元、整いすぎて無機質にさえ映る顔立ち。
橘千景。二十九歳。特捜一課・電子分析班所属。大学時代は暗号理論を専攻し、公安庁・防衛省双方からスカウトを受けながら警視庁を選んだ異才。
彼は、他の刑事たちとは異なる空気をまとっていた。
「……分析の必要がありますね。IP経路の痕跡、仮想ノードの分岐、本拠が国内か国外かすらまだ不明でしょう?」
分析官・橘千景は、淡々とした口調で端末を開いた。モニターには、ジャック直後に収集された通信ログの膨大なデータ群が浮かぶ。
「世間は“天誅”に熱狂していますが……私は単に、優秀な情報工作の一例と見ています。極めて論理的な構成。少なくとも素人では不可能です」
「犯人像は?」
「複数犯の可能性もありますが……司令塔は一人。“銀の仮面”本人が全体設計を担っていた可能性が高い。映像とネットワーク制御のタイミングが完全に同期していました。各社の送出センターを事前に観察・解析していたとみて良いでしょう」
「つまり――奴は事前に、我々の国の中枢情報インフラを熟知していた?」
「ええ。プロ中のプロです。……もっとも、古典的な方法で侵入していたとすれば、いくつかのノードで痕跡が残っている可能性があります。私は、奴が“消したつもりで消しきれていないノイズ”を追います」
橘は無感情に端末を操りながら、モニター上の日本地図を指差した。
「今夜中に、発信源候補を三つに絞ります」
早乙女は小さく頷いた。
「任せたぞ、橘。これは正義と無法の分水嶺だ。――銀の仮面がどれほど正義を語ろうとも、法を踏み越える者は我々が裁く。そうでなければいよいよ、この日本は終焉を迎えるだろう」