56話 名古屋へ
宗我部組の広間で和解が成立したのち、銀の仮面はただちに名古屋港での取引情報を求めた。
滝山会と中国マフィアが名古屋港で取引を行うのは明後日の夜。
本来であれば、彼の力をもってすれば瞬間移動で現地に向かうのが最も効率的である。しかし、その手法を知らない宗我部組は先手先手で車を手配した。
――せめてもの詫びを形に。
彼らはそう考え、平身低頭の必死の懇願をし続け、銀の仮面は仕方なくその提案を受け入れることにしたのだった。
組長・宗我部重盛の指示により、三台の車と選りすぐりの若衆を用意。更に、銃を向けてしまった鉄砲玉と運転手を手足として名古屋まで走らせることで、口先だけではない筋の通し方を示すことにしたのだ。
出立に際して、宗我部組の幹部らは銀の仮面に深々と頭を下げ、言葉を添える。
「仮面殿、若衆たちを十名、託します。名古屋で戦闘となればそのまま使っていただいて構いません。皆、命を賭ける覚悟は既に決めております。どうか――お受け取りくだされ」
帯同を指示された若頭補佐と若衆九名たちは整列して一斉に頭を下げた。
銀の仮面はしばし黙し、やがて短く頷いた。
「……分かりました。ならば、しばらくお借りしましょう」
こうして一行は東京を発し、白日の高速道路を西へと駆けた。
車列は三台。
中央の車の後部座席には銀の仮面一人が乗り、ハンドルを握るのは、あの運転手。その助手席にはバディを組んでいた鉄砲玉。
彼らの背筋は硬直し、手には冷や汗が滲んでいる。
銀の仮面に銃を向けてしまった罪の意識は当然のことながら、自分達の失態がそのまま組の存続に直結することをまざまざとその目に見せつけられた彼らは、細心の注意と最大限の覚悟を抱え、ハンドルを回していた。
前後の二台には、それぞれ四名ずつの若衆。先頭はリーダーとして若頭補佐が先導する。
彼らはただの護衛ではない。宗我部組の名を汚さぬため、もし戦いが始まれば即座に楯となり、血路を拓く役目を自らに課していた。
だが車内の空気は、三台とも不思議な静けさに包まれていた。
銀の仮面はただ窓外の景色を見つめ、無言でいる。それだけで圧が満ち、運転手と鉄砲玉は自然と背筋を伸ばし、呼吸すら浅くなる。
やがて鉄砲玉が、震える声で口を開いた。
「……仮面どの。すんませんでした。俺は……あの時、本気で狙ったわけじゃないんです。ただ……滝山の連中を止めたかっただけで……」
その言葉を最後まで言い切る前に、腕を組んでいた銀の仮面の指先がわずかに動いた。
それだけで鉄砲玉は口を噤み、再び前方に目を戻した。
エンジン音と、対向車線を猛スピードですれ違う走行音のみが窓越しに聞こえてくる沈黙の中、銀の仮面は呟く。
「あんな銃で私は死なない。だから、あなたも人殺しではない」
冷たいようにも聞こえるその言葉は、中途半端な慰めや、口先だけの愛想などを省いた端的な内容。
組事務所に乗り込んだ時の迫力や圧は今は収まっており、鉄砲玉に向けられる口調はやや落ち着きのあるものだった。
銃撃した出来事は到底、許す・許さないで済む話ではないが。
――行動で挽回せよ。
仮面どのはそう語っているのだと、彼には思えた。
東京から名古屋まで約二時間半。休憩を挟みつつ新東名高速道路を西進する。
伊勢湾岸自動車道を経由、西知多産業道路へ進み、一般道へ降りると、目的の倉庫群はすぐだった。
海の匂いが漂い、夕暮れの水面に茜色が揺れる。倉庫群の一角はしんと静まり、人の気配はない。
宗我部組が掴んだ情報によると、この倉庫で行われる滝山会と中国マフィアの取引は二日後。
これまで通りの行動パターンを照らし合わせれば、取引日前日――つまり明日夕刻には周辺一帯に警戒網が敷かれ、出入りする車は全てチェックが入ることとなっている。
怪しい車が接近すればすぐに連絡が入り、取引現場に踏み込んだ時には既にもぬけの殻となる。
これまで取引現場そのものを妨害しようとした宗我部組が空振りに終わってしまったのは、一回や二回どころの話ではない。
今度こそ現場を押さえ一網打尽にすると燃える若頭補佐・鷲崎含む十名は、強力な助っ人と共に、取引日二日前の夜に名古屋入りを果たす。
倉庫群入り口前をゆっくりと通り過ぎ、しばらく離れたところで三台は停車した。
銀の仮面が乗る車にはトランシーバーが二つ。前後の車との通信用だ。
『――こちら一号。二号三号変わりないか、どうぞ』
「こちら二号異常なし。どうぞ」
『こちら三号異常なし。どうぞ』
先頭の車との通信。
無事後続が生きていることを確かめた一号車の鷲崎が、両手にマイクを持ち、説明する。
『――仮面殿。先程通り過ぎた倉庫群が、滝山会の取引場所です。明後日の取引に向けて、明日の十四時にはここに戻って潜伏を開始しますが、明日の昼までは時間が余っちょります。いかがされますか。どうぞ』
その呼びかけに際し、鉄砲玉から差し向けられたトランシーバーに銀の仮面は声を乗せる。
「近隣のホテルで一泊しましょう。潜伏は体力勝負になるでしょうから、今日は英気を養うべきです。近くに手頃な宿泊場所はありますか。どうぞ」
『――ここから少し行ったところに、世話になっちゅうホテルがあります。そこでもよろしいですか。どうぞ』
「はい。構いません。どうぞ」
『――では、先導します。二号三号続け。オーバー』
「二号了解、オーバー」
『三号了解、オーバー』
三台の車は港から離れ、街の灯がちらほらと並ぶ国道沿いへと進む。
やがて現れたホテルの看板を見上げ、若衆たちはほっと胸を撫で下ろした。
丁度夕食時に近い時間帯。フロントにぞろぞろと現れた十一名の男たちは、一見すればただの団体客だが、威圧感は隠しきれない。
鷲崎が先頭でチェックインを進める。
マントを揺らしていた銀の仮面の姿は消え、その代わりに同じ装いの男が一名、増えている。
周囲九名に取り囲まれるように中心に立つ男・坂本は、周囲の若衆と全く同じ黒のスーツに身を包んでいるが、襟元のバッジの向きが一三〇度回転している。蹄鉄や高知県の形に似た宗我部組の逆U字バッジのようであるが、坂本のバッジはまるで三日月を表しているよう。
この団体は鷲崎を先頭にしているのか、坂本を中心にしているのか。あるいはその両方なのか。
全てが不思議な統率を帯びて見えた。
チェックインを終え、各々鍵を受け取る。
宗我部組若衆十名は二人一部屋、そして坂本は一人部屋。
正面左右から坂本の部屋を包むような部屋割りを告げられた瞬間、鉄砲玉と運転手は顔を引き締め、改めて深く頭を下げた。
「仮――、坂本どの。三〇六号室の鍵です。俺らは左隣にいますんで、何かありましたら壁ノックして教えてください」
「――ああ」
「これから近くのコンビニでメシ買ってきますけど、何が良いですか?」
ホテル内レストランではなく近隣のコンビニまで一走りするという鉄砲玉。
他の八人分もまとめて買う話になっているのだろう、バディの運転手もそれに同行するらしい。
「皆と同じものを」
「分かりました。じゃあ弁当とお茶を買ってきます。酒は飲みますか?」
坂本は、つい先日幼馴染と酒を飲んだ日のことをふと思い出す。
勧められるまま次々に飲み干してしまったせいで途中の記憶をなくしてしまったが、これから出動が控えているというのにそれはどうなのだろう、と言う一念が脳裏を掠めた。
そんな事をほんの数秒考え込んだ坂本の沈黙を、何故か悪く取った鉄砲玉が顔を青くする。
「…す…すみません」
「?」
「そんなこと言ってる場合じゃないっすよね…遠出したら酒ってのが染みついてるせいで、つい浮かれちまいました…反省してきます…」
ぺこりと頭を下げた鉄砲玉に続いて、運転手も頭を下げる。
二人はゆっくりと坂本の部屋のドアを閉めて廊下の方へ去って行った。
しんと静まり返った部屋に残された坂本は長時間の車移動に凝った肩を解すように首を傾げつつ、鍵を閉め、テーブルの上に来客を知らせるセンサーを置いた。
そして足元に魔力を流し込む。
「――瞬間移動」
彼が小声で呟くと、次の瞬間、部屋の空気がゆらぎ、坂本は別の場所へと姿を消した。
東京・中野、白田の自宅。
白田はパソコンの調査を一旦切り上げ、夕食を摂っていた。
廊下の扉が開くと、そこには一風変わったスーツ姿。素顔の蓮が立っている。
「……蓮くん、おかえりなさい。――どうでした?」
驚きの声を上げ、パスタ皿にフォークを置きつつも、すぐに真剣な表情に戻る。
蓮は少しだけ口角を上げて頷いた。
「無事、何とかなりました。あれは俺たちを狙っての襲撃じゃなくて、たまたま持ってた木像に用があったようで」
「そうでしたか…もしかしたらとうとう尻尾掴まれたかとか思ってましたけど、そうじゃなかったんですね。よかった…」
白田は大きく息を吐き、胸を撫で下ろす。
お店の人はどうでした?と蓮は聞くと、白田は「問題ありませんでしたよ」と答える。
しばらく店内で呆然としていた時、突然、祭祀木像が店内から消えたがあれは何なのか?と続けて白田が聞くと、蓮は小さく手を打った。
「どうもあの像の中にはフェンタニルの原料が隠されていたみたいなんですよ。それを滝山会って言うヤクザが薬物取引のために必要だったってことなんで、押さえました」
「そう言う事でしたか…おじさん、割れた壺が直った上、像が消えてびっくりしてましたよ」
「あはは、すみませんでした。――それで、滝山会と中国マフィアが薬物取引をするらしい現場に乗り込む準備で、今名古屋に行ってきました」
「名古屋ですか。もう解決したんですか?」
「いや。明後日の取引に間に合うように、今晩のうちから現地入りって感じです。今はちょっと時間が空いたので報告に」
「そうでしたか。……良かったら夕飯、どうです?」
白田がそう聞くと、蓮は申し訳なさそうに断る。
「すみません、夕飯の買い出しを待ってるところなんで」
「え?蓮くん一人で名古屋に行ってるんじゃないんですか?」
蓮は、白田にこれまでの流れを語る。
宝誠堂に乗り込んできた男の銃撃の抗議で、宗我部組事務所に乗り込んだこと。
そこで銃撃の理由と宗我部組の目的を聞き、銀の仮面を害しようとした意図ではなかったこと。
蓮はこの件を不問にし、その礼代わりに宗我部組から具体的な取引情報を受け取り、若衆十人と共に滝山会の取引を止めに動いていること。
「――そんな流れになりまして、今は夕食の届き待ちです」
「そんなことになってたんですか…」
白田は下唇に指を当てながら、思考が追い付かない頭で蓮を見つめる。
「すると、もしかしてその宗我部組を支配下に置いたってことですか?」
「支配下?ははは、まさか」
「でもヤクザとの共闘なんて普通は――」
「"あり得ない"、ですよね?」
先回りして言葉を奪い取った蓮はからからと笑う。
白田は少し頬を膨らませながら食らいつく。
「たった一人で乗り込んで、ヤクザ全員を土下座させたって…何したんですか。組長まで土下座させるなんて…」
「いやあ、何もしてないですよ。多分、普段の行いのせいじゃないですかね」
そう口にする蓮のスーツはいかにも筋者が好んで着るようなぎらついたスーツ。
襟元にはバッジがついているが、それは白田も初めて見る物だった。
白田の脳内で、蓮が銀の仮面姿で乗り込み、魔力頼みの威圧で組員たちを卒倒させ、青白い魔力光をちらつかせて組長に降伏を迫ったイメージが浮かぶ。
蓮の言う通り、"本当に何もしてない"とは全く思っていない白田は、追及もそこそこに話を戻す。
「…滝山会って、山田組傘下の薬物組織ですよね」
「はい。白田さん、知ってたんですか」
「さっき、ちょうどその調査をしてたところでした。今回は蓮くんに少し先を越されちゃいましたけど」
「そうですか…一応一通り聞いては来たんですけど、白田さんの方で掴んだ情報があれば教えてもらえると助かります」
その言葉に、白田の瞳が一瞬揺れた。
ほんの数秒の静止。壁掛け時計が秒針を刻む音だけが響く。
やがて白田は、なんでもないように蓮に微笑みかけた。
「私からは、何もないです。頑張ってきてください」
「分かりました。今回は手助けもあるので割と簡単に済みそうです」
頼もしそうな人たちを十人も付けてもらえましたし、と蓮は腰に手を当てる。
「…蓮くんの場合、周りに十人もいると逆に足手まといになっちゃいそうに思えますけど、どうですか?」
「まあそこは何とでもなるでしょ。即死しなければ治癒で治せばいいし」
「乱暴ですねえ」
白田が笑うのに合わせて蓮も笑う和やかな空気が流れる。
そんな蓮だが、ふと、鋭く首を巡らせた。
名古屋のホテルの部屋――そこに誰かが接近しているのを察知した。
「……そろそろ帰ってくるみたいです。あっちに戻りますね」
「はい。行ってらっしゃい」
「行ってきます。ご飯中失礼しました~」
笑顔で短く告げ、蓮の姿は再び掻き消える。
手を振って見送った白田は手を下ろすと、沈黙した。
一時中断したパソコンのモニターは青白く光り、壁掛け時計がカチ、コチ、カチ、コチ、と鳴る白田の部屋。
皿の上には食べかけのパスタが四割ほど残っている。
白田は静寂の部屋の中、フォークを一度手にするも、残りのパスタを食べる気にはなれなかった。
翌朝。
名古屋のホテルバイキングには、アイテムボックスから支給された私服に各々身を包みながら、異様な空気を漂わせる十一人が着席するテーブルがあった。
服を貸与された十人の若衆は当初、組長から文字通り"死んででも仮面殿の楯になって来い"と遣わされたため、正装たるスーツで来ていた。
"死に装束になるかもしれないからには宗我部のスーツで"、と言う気持ちは分かるが、あまりにも周囲から浮きすぎるし、相貌変化で服と顔面をまるっきり別人に変装している坂本としても、同行者のせいで行動に制約が生まれるのは良しとしなかった。
日本に帰還してからすぐに大量に買い込んでおいた一般的な私服を、十人に貸与して着せてみたが、筋骨隆々の男たちの本来の体躯は完全に隠し切れず、どう見てもただの一般客には見えない。
近くの家族連れは「自衛隊の人かな……」「レスキュー隊……?」と囁き合い、子どもまでが落ち着かない視線を送っていた。
各々が自分のトレイに朝食を取り分けて戻ってきて以降は、一言も会話することなく十一人は黙々と食事する。
ここでも坂本を中心に囲むような席の配置。真向かいには鷲崎。両隣を鉄砲玉と運転手。背後はすぐ壁。
食器がカチャカチャと鳴る音のみで会話はなく、異様な静寂とオーラを放つそのテーブル。
他の宿泊客が近くを通り過ぎる際、必ず一度だけチラリと彼らを見る。
だが次の瞬間、誰もが息を詰めるように視線を逸らし、足早にその場を離れていった。
奇妙なことに、十人は坂本の食べるスピードに完全に合わせている。
坂本が水を口にすれば、彼らも同時に小休止。
坂本が食事を再開すれば、十人が一斉に食べ始める。
思えば選んだ料理の系統もかなり近い気がする。まるっきり違う料理を選んでいる者はいない。
坂本が選んだものと同じような料理を、十人も同時に食べる。
動きをトレースされているようなプレッシャーを三方から感じながら、朝食を進めていく。
特に、隣の運転手から手元をチラチラ見られているような気もするが、なるべく自分にも周囲にも負担にならないような速度で口にしていく。
周辺のテーブルまでもピリつかせるような緊迫の朝食は、坂本が全て食べ終えてトレイに手をかけたと同時に終わった。
十一人が同時に椅子を鳴らし、立ち上がった音に食堂の客たちの肩が一斉に震えた。
列を成し、坂本を中心に静かに返却口へと歩いていく一団。
その背が消えた瞬間、会場から大きな溜息が一斉に漏れ、途切れていたざわめきがようやく戻ってきた。
再びガヤガヤとした喧騒を取り戻した食堂を後にした十一人は、それぞれの部屋に戻り、荷物を回収した後はスーツに着替えてチェックアウト。
昨日と同じように三台に分乗して倉庫群へと向かう。
ホテルを発ち、昼前には倉庫群に到着。
運転手を除く七人の若衆たちはこの場に降車し、手に汗をにじませながらも低く呟いた。
服装は宗我部の逆U字バッジが光るスーツに統一され、全員が黒のボストンバッグを手にしている。中身は三食分の食料・水、そして、装備。
「ここからは、俺らが道案内しますき……」
「坂本殿、取引予定場所はすぐでさあ」
坂本は、一時去っていく三台の車を見送り、短く答える。
「本番は明日。まずは落ち着ける場所を探しましょう」
鷲崎が深く頷き、若衆たちを先導した。
車を駐車して戻ってきた三人と合流し、十一人は周辺を警戒しながら倉庫群を進む。
コンクリート製の灰色の古めかしい造りを見ながら慎重に進み、先頭を進む若衆が右手を挙げた。
「ここです」
坂本が頷くと、人目がない事を確認した先頭の若衆の右手が前に振られた。
その合図に合わせて別の若衆が二人駆け出し、倉庫の鉄扉を左右から開けにかかる。
その鉄扉は遠めに見てもとても重そうで、建付けが悪そうに見える。
坂本は咄嗟に呟いた。
「――無音結界」
扉を中心に、音を遮断する透明の結界が広がる。
結界に飛び込んだ二人は完全なる静寂に気付き、こちらをわずかに振り返るも、坂本が頷いて見守っているのを見た彼らは納得し、引き続き扉を開きにかかる。
大きく重そうな鉄の扉は悲鳴のような開閉音を上げそうだが、静寂の中でじわじわと押し開かれていった。
半身でなら滑り込めるほどの隙間を作った二人は、ハンドサインでこちらに合図を送った。
「GO!」
鷲崎の合図に合わせて、九人は倉庫に飛び込んだ。
倉庫の中は薄暗く、人の気配はない。工業機械や資材などが雑然と置かれているが、この倉庫含め周辺には人の気配がなく、おそらく今日は休業中であることが窺える。
がらんとした倉庫の中には入口すぐ左手に階段がある。
その階段は二階通路――キャットウォークを介して天井近くの点検用階段へと続いており、張り込むにはうってつけな隠れ場所がありそうだ。
ドアの開閉を請け負った二人はドアを閉めてから隊列の最後尾に付き、繰り上がりで次なる最前列となった二人が先遣隊として階段を駆け上がる。
左手には黒いボストンバッグ、右手には拳銃を構え、前方に銃口を構えながら突き進む。
二階から三階へ、三階から天井付近の点検用通路へ進むが、怪しい人物や敵との接触はなかった。
倉庫内の最頂点と思われる点検用通路に着くと、先遣隊二名は振り返り、小さく頷いた。
「よし。ここで明日まで待機」
「「はい」」
鷲崎の号令で九名はその場にボストンバッグを下ろした。
各々が準備を進める中、鉄砲玉が坂本におずおずと尋ねた。
「あ、あの…さっきのは…?」
「――指定座標の音を外部に漏らさない魔法です。こんな所で物音を立てて逃げられては元も子もないでしょう」
「魔法……なるほど……」
ドアを開けに走った二人がその会話を耳に挟み、目を僅かに見開いた。そして互いに一度だけ互いに目を見合わせるが、私語を慎むようにボストンバッグから道具を取り出して準備に取り掛かる。
宗我部組事務所から持ち込んだ双眼鏡や狙撃銃、ライフル、スリングベルト、光学距離計、サイレンサー、二脚、防弾チョッキ、ゴーグルなどの装備一式を取り出し、各々チェックを行う。
天井付近の点検用通路は狭く、人一人が通れる最低限の広さ。そこに縦一列に十一人が腰を下ろすのは、坂本にとってはやや不便であり、一抹の不安が拭えない物であった。
もし、滝山会が今日の夕方からこの倉庫内をネズミ一匹逃さない程の捜索をするのであれば、ここは見つかる可能性が否定しきれない。
「――あの」
「はい?」
坂本は鷲崎を呼ぶ。
「倉庫内が見渡せる高所で身を隠し、取引開始まで一切見つからない必要があるとのことですが」
「はい」
「ここだと見つかる可能性があるかもしれないので、拡張しても良いですか」
「………はい?」
鷲崎が戸惑う間に、坂本は右手をアイテムボックスに差し入れながら、左手に魔力を集中させる。
「――錬成」
その瞬間、空気がざわめいた。
取り出された木材と厚布が、見えない職人の手に導かれるように浮かび上がり、勝手に組み合わさっていく。
ガチャン、ガチャンと乾いた音を響かせながら、木材は吸い寄せられるように接合し、縦横五メートルの広大な床板を一枚形成した。
そこへ同様に織り直された厚布が覆いかぶさり、板を柔らかく包み込みながら外周をテント状に変形させていく。
さらに取り出されたロープが四隅に伸び、梁へと絡みついた。
鉄骨の梁から梁へと蜘蛛の糸のように張り巡らされ、宙に浮かぶ板張りの天幕が形作られていく。
わずか数十秒で、空中に縦横五メートル・高さ二メートル・直方体の板張りテントが出来上がった。
更に、その空中テントに防護処理・偽装処理を施す。
「――無音結界、――無界静殻、――術式付与、――霧隠結界」
透明な波紋のような光が走り、空中に浮かぶテントは周囲と同化して消えた。
下から見ても横から見ても、ただの空間。
テントの内部の音は、外部に漏れないように防音加工。
そして万が一テントを見破られたとしても、内部に突入されないように透明の防護結界を展開。
音は漏れず、姿は見えず、侵入も許さない。
鉄壁の隠れ家を、坂本は息一つ乱さず造り上げていた。
「――どうぞ」
迷彩処理が施されているため、テント本体は既に視認できない。
ただ、空中にひとつだけ開いた入り口がぽっかりと浮かび、異様な光景を晒していた。
その中にするすると坂本が入っていくと、軽やかに姿を消す。
鷲崎以下十名は互いに顔を見合わせ、恐る恐る点検用通路の手すりを乗り越えてテントに乗り移った。
中に入ると空気ががらりと変わるのを肌で感じる。
しんと静まり返ったテント内は足音や声が反響せず、外とは全く隔絶された別の空間。
床板はカーペット材と思しき厚い布で覆われている為、ほんの数ミリ足が沈むような感触。それは高級ホテルのロビーの絨毯張りを思わせる。
テントと床板には数カ所に手の平大の穴が開けられており、そこから外の様子を把握できる。
無論、十一人が充分に横になって休める空間は確保している。
潜伏には申し分ない環境だった。
「す……すげぇ……」
「これが、銀の仮面の……」
「魔法の力……」
若衆たちは坂本が行使した奇妙の数々に絶句していた。
ごつい若衆たちがボストンバッグを取り落としたまま、呆然と立ち尽くす。
その姿は滑稽ですらあったが、漂う空気はもはや笑いすら起こらない。
誰もが圧倒され、畏怖の静寂が広がっていた。
振り返った坂本が静かに告げる。
「これくらいの大きさでどうでしょう。このテントの中であれば会話は一切漏れません。潜伏には充分かと思いますが」
坂本の問いに対し、思考停止してしまっていた鷲崎は我に返り、慌てて頭を下げた。
「め、滅相もございません。過分なご配慮、誠に痛み入ります」
その時、坂本が不意に少し大きな声を上げた。
若衆たちがびくりと震え、思わず銃に手をかける。
だが坂本は片眉を上げ、肩をすくめただけだった。
「……そうだ。肝心なものを忘れていた」
坂本は再びアイテムボックスに手を差し入れる。木材、布、ロープ、陶器片を床に適当な量を並べた。
若衆たちは怪訝そうに首をかしげる。
「……これは?」
「何をするおつもりで……」
鷲崎が思わず呟いた時、坂本は短く詠唱する。
「――錬成」
瞬間、素材は眩い光に包まれ、まるで粘土細工のように形を変えていった。
テントの壁の一部を切り取り、そこに新たにもう一部屋、空間を外側に増築していく。
木材は新たな空間の床材となるほか、居室との仕切り板に。陶器片は純白の便器へ成形される。
新設空間もロープでしっかりと外部の鉄骨と緊結。
十数秒後には、狭い空中テントの隣に、簡易トイレが出来上がっていた。
若衆たちが一斉に息を呑む。
「な……」
「トイレまで……!?」
「……な、なんちゅう離れ業じゃ……」
筋骨隆々の男たちが、まるで子供のように呆けている。
その迫力ある顔立ちに浮かぶ驚愕と畏怖の入り混じった表情は、かえって滑稽に見えるが、誰一人笑う余裕はなかった。
坂本は、作り上げたトイレのドアを開き、淡々と告げる。
「明日までの一日間ですので、水洗ではなくボットン便所の様式を取らせてもらいました。防音性能は問題ありませんし、空間にはゆとりを持たせてあります。こちらで処理すれば汲み取りや清掃の必要はないので、自由に使ってください」
ひけらかすこともない。あまりに実用的であっさりとした説明に、若衆たちは誰も言葉を返せなかった。
ただただ、立て続けに魔法を行使して、涼しい顔でその場に立ち続ける坂本の姿が、全員の胸に強く刻まれる。
テント内に再び静寂が広がる。
その沈黙の中で、誰もが確信した。
銀の仮面と呼ばれるこの男と敵対しなくて本当に良かった――と。
運転手はその念を特に強く抱いており、鉄砲玉は「その気になれば俺一人なんて、最初のあの時、とっくのとうに死んでいた」と、今再び背筋を凍らせた。
坂本が作ったテントの中、若衆たちは他人の家に邪魔したかのようなよそよそしさで、荷物を一角に集めて二列横隊で床に座り込んだ。
若衆たち十人は、大股の正座で背筋を正す。
数時間ずっとこの姿勢ではいられないような張り詰めた居方に、坂本が声をかける。
「皆さん、楽にしてください」
「はい。分かりました」
と言ってからようやく足を崩すが、胡坐に変えても緊張の空気は続く。
"命賭けで楯になれ"の命令が彼らをそうさせているのだろう。
だが坂本は、自分のためにそこまで極限に張り詰められると、自分まで緊張して居心地が悪いと感じた。
「……滝山会が来るまで、全員警戒を解いて各々が休まる体勢で休憩しなさい。これは命令だ」
強い言葉を使う事で、ようやく十人の若衆は肩の力を抜いたのだった。
滝山会の連中が来るまでに多少の時間があるため、テントの性能を若衆たちが実証実験する。
本当に外から中が見えないのか。外の声は聞こえるか。中の声は漏れないか。
それらの疑問は当然だったが、全て杞憂に終わった。
テントの中で大声を出しても外には一切聞こえることはなく、外からの声は普通に聞こえる。
テントの入口も、中から開けなければどこから入るのかも分からない。吊っているロープでさえ、透明に消えている。
入口から出た若衆が振り返り、ファスナーを閉じてしまえば、すぐにテントは空気のように消える。
薄暗い天井と梁だけの風景に戻り、若衆たちは交代でその目を疑うような光景を体験する。
身を以てテントの超高度な隠密度合いと非科学的極まるトンデモ性能に、全員が言葉を失った。
そうこうするうちに時は過ぎ、倉庫外の空が橙へと染まっていく。
滝山会の影が姿を現す時が近づいていた――。
夕刻。
倉庫群の周囲に不気味な影が差していた。
坂本と宗我部組の若衆十名は、空中に隠されたテントの内部で息を殺していた。
外は静まり返っていたが、やがて遠くから車のタイヤがアスファルトを擦る低い音が近づいてくる。
「……来たな」
鷲崎が囁き、すぐに口を噤む。
黒塗りのワゴンが四台。
倉庫前に停車すると、ぞろぞろと男たちが降り立つ。
異国の言葉が混じる声、タトゥーを隠しもせぬ筋肉質の体。中国マフィアと手を組む滝山会の連中が約二十名ほど名古屋港の倉庫群に現れた。
無音結界を張っていない扉は、ギギギギギィ、と重たく耳障りな金切り音を上げて押し開けられる。
連中は懐中電灯と拳銃を構え、倉庫の内部を一斉に捜索し始める。
犬の鼻のように鋭い勘で、隅々まで目を光らせていた。
十数メートルほど真下、一階を捜索する男たちの気配と、二階キャットウォークへ進む足音が届き始め、宗我部の若衆たちは固唾を呑む。
若衆たちは先程実証実験を重ねたが不測の事態に備え、それぞれがテントの窓から外を見つめ、拳銃を握る。
その手は皆等しく汗に濡れ、取引予定日前日から早くも戦闘に入るのではないかと緊張が漂った。
やがて、懐中電灯の光が三階まで到達し、当初潜伏を予定していた点検用通路まで迫る。
梁の間近、ほんの数メートル先。
拳銃と懐中電灯を並行にして、怪しい者が潜んでいないかを確かめる滝山会の連中は、ぴたりと足を止める。
テントの内側に潜んで窓から様子を伺っている宗我部組若衆の一人に懐中電灯を当てたと共に、その銃口がこちらを向いた。
「……っ」
一人の若衆が、無意識に声を漏らしかける。
両手に構えていた拳銃を咄嗟に懐中電灯の方に向けようとするが、坂本が制止するように手に触れただけで、その口はぴたりと閉じられた。
坂本は小さく首を左右に振る。その目から放たれる圧は、すぐ外にいる滝山会の緊張も加わり、心臓を直接握り潰されるかのような重みだった。
――数十倍にも感じるほどの切迫の数秒。
窓の若衆を照らしていた懐中電灯の光はゆっくりと横へ逸れ、テントの下を舐めた。
絶対に見逃す訳がない至近距離なのに、そもそも視界に入っていないかのような動きで、連中は点検用通路を通り過ぎて行った。
空中のテントも、中に潜む宗我部組にも、一切気付くことなく。
光は何事もなく素通りし、引き返して戻って来た連中の二回目の捜索にも、引っかかる事はなかった。
目の前で見逃されると言う、あり得ない現象を目の当たりにした若衆たちは、全身に鳥肌を立てた。息すらもまともに出来なかった。
やがて、三階と二階を捜索していた滝山会の連中は一階に集まり、何やら話し合いをしている。
指を差しながら班分けを進め、倉庫の扉の内側・外側・近隣・周囲に構成員たちは分散。
恐らく薬物の原料を積載していると思われるワゴンを二台、視線を避けるように倉庫内に停め終えると、滝山会の連中は全員扉の外に出、倉庫の外側から鍵を掛ける。
二十余名の声は遠ざかり、倉庫内に再び静寂が戻った。
坂本は覗き穴から外を確認すると、低く一言。
「……やり過ごせましたね」
若衆たちは堰を切ったように、抑えきれなかった吐息を漏らした。
肩を震わせる者、額の汗を拭う者、天を仰いで口を押さえる者。
「危ねえ……見つかったかと思ったぜ……」
「あん距離で見つからんとは……!」
「流石仮面殿じゃ…」
「土台信じられん……」
全員が震える声で口々に呟き、床面の窓から、真下に停められた二台のワゴンを見下ろす。
もし当初の予定通り、点検用通路に留まっていれば、奴らに見つかっていた。
奴らに見つかることなく無事に第一段階をクリアできたのは、十にも百にもこのテントのお陰に他ならない。
改めて坂本――銀の仮面の力に一同は戦慄した。
鉄砲玉もワゴンを見つめ、目を細める。
あのワゴンを奪い取る千載一遇のチャンスだが、そんなことをしても結局はまた次の原料を調達されるだけ。
あのワゴンには今日は一切手を付けず、明日取引に来たところを一網打尽。
そこで滝山会を完全に叩きのめす。
アドレナリンが満ち満ちる頭で、鉄砲玉は明日の決戦の時を今か今かと待ち侘びた。
毎週月曜・水曜・金曜20時投稿予定です(祝日は15時投稿予定)。
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