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51話 アダムの畑

 どさり、と背中から地面に叩きつけられる衝撃が走った。

 頭上に太陽が輝き、雲一つない快晴。穏やかな小春日和の下、一面を淡く照らしている。


 《……あ?ここ……どこ?》

 《兄貴、俺たち確かリンゴ園で……ウッ、頭が痛ぇ…!》


 目の前には、無限に広がる果樹園。

 整然と並んだ木々は高さも幹の太さも均一で、まるで設計図を写したように並んでいる。

 だが枝には果実どころか花すらなく、乾いた葉と蕾ばかりが風もないのに揺れていた。


 二人は互いの腕を掴み合いながら、辺りを見渡した。

 先ほどまでいたのは日本の農園――悠々とリンゴ園に忍び込んでリンゴを盗み出していた所、謎の農夫に邪魔された所だった。

 それが次の瞬間には、この異様な世界。理解が追い付かない。


 《ち……ちくしょう。夢か?これ》

 《いや……痛え。夢じゃねえ……》


 弟・フンは己の頬を叩いて痛みに顔をしかめる。

 その時、不意に背後から声が響いた。


『――ここから出たければ、今まで盗んだ果実をすべて返せ』


 ビクリと二人の背筋が凍りつく。


 《…誰だ!?》


 兄・トアンが振り返った先に立っていたのは、銀色の仮面。黒衣に身を包み、淡い光を背負うその姿は、日本でこの頃、次々に有力者や不逞外国人を殺して回る悪魔のような存在だった。


 《お、お前……!まさか……!》

 《銀の仮面……!》


 まるで夢に侵入してきた亡霊に出会ったかのように、兄弟は尻餅をついて後退り、顔を引きつらせる。


 銀の仮面は一歩も動かず、ただ冷ややかに言葉を重ねた。


『お前たちは金の為に、己の享楽の為に、他者の努力を踏みにじった。待ちに待ちかねた収穫の時を前に全てを奪われた人々の悲しみがお前たちに分かるか。収入を奪われた人々がどれほどの悲嘆に暮れたかお前たちは想像したか。お前たちが奪ったのは単なる高級フルーツではない。人々の生活と希望と未来を奪ったのだ』


 肌が焼け付くほどの存在感を放ちながら、兄弟を見下ろす銀の仮面は続ける。


『お前たちは警察の捜査を振り切ったと思っているようだが、お前たちに全てを奪われた人々の恨みは欠片程も消えていない。むしろお前たちが正当な裁きを受けずにお天道様の下をのうのうと歩いている事を、心底恨んでいる。この私がいる以上、この日本の地で悪逆を重ねることは到底看過できない。己の不運を呪うんだな』


 低く響く銀の仮面の語りに、兄弟は何も言えずに固唾を飲むことしかできない。


『これまでに不当に奪った物を、全て返せ』

 《えっ…?》

 《全部って…》


 兄弟はお互い目を配せ合いながら息詰まる。


『返せ』

 《いや…》

『返せ』

 《も、もうないよ…全部売っちまっ――》

『全て返せ。返せなければお前たちは、二度と現実には帰れない。永遠にこの夢の世界の囚人となる』


 びゅう、と強い風が吹き、兄弟は目を瞑る。


『手元にないなら、ここで用意して全部返せ。無理だと口にするなら、ずっとこの世界で暮らしてもらう。盗んだものを全て返さない限り、ここから出られない。これは決定事項だ。拒否権はない』


 へたり込んだままの兄弟の足元に農具一式と分厚い本が落ちる。

 表紙には多言語で《農業マニュアル》と記され、分厚い紙束は土煙を上げて鈍い音を立てた。


『ここから出たければ、自ら育て、返せ。一年以内に出来なければ……死ぬ』


 決定事項、出られない、無理なら死ぬ。有無を言わせない不遜な態度にカッとなった弟は、怒りに駆られ、近くに転がっていた鎌を掴み取った。


 《勝手ばかり言いやがって、ふざけんなっ!》


 渾身の力で振り下ろした刃は――銀の仮面の肩口を確かに捕らえた、はずだった。

 だが手応えはなく、刃はすり抜け、虚空を切るだけ。


 《なっ……!?当たらねえ!》


 兄も堪らず鍬を手に突進する。斜めに薙ぎ払うが、同じく空を切った。

 さらに桶を投げつけ、石を投げつけ、木の棒を振るっても、すべては銀の仮面の体を透過する。


 《なんで……なんで当たらねえんだ!》

 《くそっ、くそっ……!》


 銀の仮面は一切反応せず、淡々と彼らを見下ろしている。

 その姿は映像のホログラムのようで夢と現実の境界にありながら、威圧感だけは圧倒的に現実的だった。

 二人の額に冷たい汗が流れる。


 《……分からないのか。お前たちと私の間には、埋めようのない差がある》


 銀の仮面の声は低く、乾いた大地に反響した。


 《育てろ。盗んだ果実をすべて返すまで、自分たちの手で育てる以外、この世界を脱出する術はない》


 そう言い残し、銀の仮面の輪郭が淡く揺らぎ始める。

 靄に溶けるように姿が薄れ、最後には残響すら残さず消えていった。


 静寂が戻る。

 兄弟は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くした。


 《……兄貴、これ……》

 《……ちくしょう、出口探すぞ!》


 二人は狂ったように果樹園を駆け出す。

 だが進んでも進んでも景色は変わらず、木々の列が無限に続くだけだった。


 喉が焼けるほど走り続けても、地平線には何も現れない。

 とうとう力尽きて膝をついた弟が、震える声を漏らした。


 《……ダメだ。どこにも出られねえ》

 《……やるしかねえのか。あいつの言う通り……自分で育てて、返すしか》


 荒い呼吸の合間に視線を上げると、淡い光の下に並ぶ無数の果樹。

 枝には一つも実らず、ただ冷酷に沈黙していた。





 どこまで行っても同じ景色の果樹園を彷徨い続けた二人は、やがて同じ場所をぐるぐると回っていることに気付いた。


 呆然とした二人は引き返して、ようやく景色が少しだけ変わり、見慣れぬ小屋に辿り着いた。


 粗末な木造建築。壁板は隙間だらけで、外気を完全に遮ることもできない。

 扉を押し開けると、中は十二畳ほどの空間。干からびた藁の束が隅に積まれているだけだった。


 《……兄貴、ここ……寝るとこ?》

 《は?これだけかよ……》


 フンが肩を落とす。

 ベトナムの田舎で生まれ育った二人には、掘っ立て小屋自体は珍しくない。だが、見知らぬ世界に投げ込まれてこの有様では、笑う余裕すら湧かない。


 小屋を出ると、少し離れた場所に奇妙な装置が立っていた。

 灰色の金属柱。その先端には穴が開き、トアンが正面に立った丁度その時、硬質な音を立てて何かを吐き出している。


 ころん、と足元に転がったのは、直径一センチほどの灰色の豆粒。

 よく見れば地面に点々と散らばっている。


 《兄貴……これ、食い物か?》

 《……まさか、これだけ?》


 フンが機械の正面に立つと、もう一度豆粒を吐き出した。それぞれ十粒ずつ現れたそれに二人は顔を見合わせ、恐る恐る口に含んだ。

 噛むとボロリと崩れ、無味無臭。水分を一滴も含まず、口の中がすぐに砂漠のように乾いた。


 《……豆だ。なんとか食えるけど……》

 《これだけで生きろってのかよ。他になんかねえのかよ》


 喉が詰まり、二人は慌てて近くにあった泉に駆け寄った。

 岩の割れ目から透明な水が湧き出し、細い流れとなって地面を潤している。

 両手ですくい上げると冷たさが心地よく、乾いた舌に沁みた。


 《あぁ……水の心配はなさそうだ……》

 《でも兄貴、こんなんで生きていけるのか?どうすりゃいいんだよこれから》


 泉は人が飲むには十分だが、食料事情は逼迫している。出口はない。


 ぼやいた兄弟の目の前に、農業マニュアルが再度出現し、どさりと音を立てて足元に落下する。


 《っ!?》


 分厚い冊子は先程銀の仮面が置いて行ったもの。それに気づき、トアンが拾い上げる。

 表紙には見たことのない文字が並び、めくるたびに違う言語が現れた。

 英語、フランス語、ロシア語――数十種類以上の言語で農作業に関する説明が印刷されている。


 《……これ、農業のやり方が書いてあるっぽい》

 《読めるの?》

 《……ちょっとは分かるけど……むずかしすぎる》


 トアンは眉間にしわを寄せながらページをめくる。

 耕作方法、害虫駆除、収穫の時期――細かく図解されているが、専門用語が多く理解は難しい。


 フンは地面を蹴りつけ、吐き捨てる。


 《くそっ……なんで俺らがこんな……!その辺のやつをちょっと取ってっただけだろうが。だからってこんなとこに閉じ込められて、畑やれってか!?》


 トアンはマニュアルから目線を上げ、小さく左右に顔を振りながら弟を見つめた。


 《フン……そのまんま、畑をやって返せって事だと思う。銀の仮面は本当にやらせるつもりだよ、きっと……》

 《……ハァ……!》


 二人の脳裏に、先程の目を疑うあの仮面の姿が鮮明に蘇る。

 農具で斬りかかっても、殴りつけても、すべて空を切った。

 自分たちが絶対に届かない存在――圧倒的な差を、あの一瞬で思い知らされたのだ。


 呆然と立ち尽くす兄弟は手だけを動かし豆を口に運ぶ。

 豆の乾いた味に動かされて、泉に水を飲みに行く。冷たい水の感触だけが、八方ふさがりのこの状態を無情に突きつけていた。


 《兄貴……どんぐらいすればここから出られると思う?》

 《……さあな。でも……育てるしかねえんだろ?そうしなきゃ出れねえって》


 二人の視線の先には、果実を実らせぬ無限の果樹園。

 その沈黙が、牢獄の鉄格子よりも重苦しく彼らを縛りつけていた。





 翌朝。

 小屋で目覚めると、置き去りにした農具が小屋の中に戻っていた。すぐそばに刃がきらめく事態に兄弟は飛び起きた。

 ベッドには程遠い寝心地の藁の上で寝て固まっていた体で飛び起きたため、心臓が急に早鐘を打つ。

 最悪な朝を迎えた兄弟はしかめっ面で泉に向かう。顔を洗い、水を飲むと、傍らの豆給餌器が動き出す。

 ウーンと唸り始めた機械から豆はそのまま地面に転がり、一人十粒ずつ支給される。

 豆の無機質な味を噛み潰して泉の水で流し込んだ後、二人は重い体を引きずって畑に向かった。


 辺り一面に広がる果樹――だが、その枝には一つの果実も実っていない。

 どれも青黒い葉を繁らせてはいるが、目に見える成果は皆無だ。

 トアンとフンは呆然と立ち尽くし、やがて足元の地面を踏みしめた。


 ――ゴリ、ガリ。


 土は異様なほど固く、まるで石を砕くような抵抗を返してくる。


 《……まず、耕せって書いてある》


 トアンが手に持つ分厚い農業マニュアルを読み上げる。

 五十カ国語に対応しているというが、日本語とベトナム語の両方が載っており、かろうじて理解はできる。だが手順は冗長で、専門用語も多い。


 《クソが……“畝を作り、土壌を柔らかくせよ”ってな……鍬一本でどうしろってんだ》


 トアンはマニュアルをフンに押し付けるように渡す。鍬を拾い上げ、渾身の力で土を叩いた。

 ゴン、と金属音が響き、鍬の刃は数センチも食い込まない。

 何度も振り下ろすが、土は岩のように固く、まともに耕すことすらままならなかった。


 《兄貴、書いてある。“水をかけて柔らかくしてから耕せ”って》

 《水だと?泉まで往復するのにどんだけ時間かかると思ってんだ》


 フンは桶を抱えて泉まで走り、両手で必死に水を汲んで戻ってきた。

 だがその間にこぼれ落ちる量が多く、畑に撒けるのはわずか数杯分。

 土はじゅっと音を立てて湿ったかと思うと、太陽の熱で瞬く間に乾き、ひび割れた。


 《兄貴……全然ダメだ……》

 《チッ……!クソッ、全然手が足りねえ》


 トアンは鍬を再び振るい、フンも隣で必死に真似する。

 二人の額からは汗が滲み、息はすぐに荒くなる。

 鍬の柄は手のひらを容赦なく擦りむき、皮膚が裂けて血がにじんだ。


 フンからマニュアルを取ったトアンは震える指で押さえながら、必死に読み進めた。


 《“雑草を抜け。根を残すな。病害虫の温床になる”……だってよ》

 《はあ?この広さの畑全部……?冗談じゃねえ》


 見渡す限り広がる果樹の根元には、どれも雑草がしっかり根を張っていた。

 しゃがみ込み、手で引き抜こうとするが、根は硬く食い込み、ちぎれるばかりで抜けない。


 《兄貴、抜けないよ……》

 《コイツで掘れ!ほら!》


 土を砕くたびに小石が弾け、鍬の刃が鈍い音を立てた。

 作業は一向に進まず、太陽は容赦なく頭上から照りつける。


 やがて二人は、腰を伸ばし、荒い呼吸を繰り返しながら地面に座り込んだ。

 散布用のつもりで持ってきた桶の中の水はほとんど飲んで底を突き、口の中はカラカラに乾いている。


 《兄貴……ベトナムにいたほうがマシだったかもな》

 《は?あんな刑務所みたいな国より、こっちのほうが……》


 言いかけたトアンの言葉は、自分自身の心に突き刺さった。

 ここには日本で得た自由も、酒も、女もない。あるのは固い土と、水不足と、無味の豆だけ。

 他に何か食べられそうなものはないか、と目線をあちこちに配らせながら作業したが、あるのは苦い雑草と硬い葉だけ。木の皮を剥いで食うなどの考えも寄らない。


 フンが力なく視線を落とす。


 《俺ら……もう一生ここかもな》

 《黙れ!そんなはずねえ!あの仮面が言ったんだろ、“盗んだ分を返せ”って!果物育てりゃ出られるんだ!》

 《そんなの、できっこないよ》

 《うるせえ!やるったらやるんだ!それしかねえんだよ!》


 トアンは怒鳴り散らし、再び鍬を握った。

 だが、どれだけ力を込めても土は容易に割れない。汗が目に入り、鍬の柄が手のひらに食い込んで痛む。


 夕暮れが迫る頃、畑はほとんど変わっていなかった。

 わずかに掘り返した地面の黒土が見えただけ。そこに水を注ぐと、またたく間に乾き、ひび割れるだけだった。


 夜。

 機械から吐き出された豆を十粒だけ胃に流し込み、小屋の藁の上で横たわる。


 フンはぽつりと呟く。


 《兄貴……このまんまじゃ何年たっても終わんないよ。本当に俺たち…》

 《……うるせえ。寝ろ》


 答えは短く冷たい。だがトアンも眠れず、瞼の裏には仮面の男の姿が浮かんで離れなかった。

 刃も拳も届かず、ただ見下ろされ、突き放されたあの瞬間。


 ――無理なら、永遠に出られないだけだ。


 耳の奥に残る声が、夜の闇と共に二人を締め付けた。





 二日目の朝。

 ウーンと無機質な駆動音と共に、豆給餌器から無味の粒が吐き出された。


 初日の朝と夜は何も知らず、目の前でぼとぼとと地面に落ちた豆を慌てて拾っていた。

 だが二日目以降、二人は給餌器の前に立ち、掌を差し出して受け止めるようになった。

 両手に十粒。たったそれだけが、この世界での食事だった。


 ボリボリと口の中で崩れる豆は、やはり砂のように乾いて無味だった。

 泉の水で渇きを潤しながら飲み込むが、腹に落ちても満腹感は得られず、良くて腹四分目。ただ必要最低限のカロリーを摂取しているというだけだった。


 その後、二人は再び農具を担いで畑に向かう。

 硬い土を鍬で割り、少しずつ雑草を削り取る。だが水がなければ土はすぐに元の石のような硬さに戻る。


 《兄貴、やっぱり水だ……》

 《分かってる。泉まで何往復もしなきゃならねえ》


 桶を抱えて往復する労力は膨大で、そのたびに時間と体力が削られていった。

 そこでフンがマニュアルをめくりながら言った。


 《ここに書いてある。“畑の近くまで水を引け。溝を掘り、水路を作れ”……》

 《水路?ふざけるな。どんだけ掘ると思ってんだ……》


 だが結局、それしか方法はない。

 二人は鍬と手で地面を掻き分け、泉から畑に向けて細い溝を延ばしていった。


 ゴリ、ガリ――。

 石混じりの土は頑強で、鍬の刃が跳ね返されるたびに手首が痺れる。

 しゃがんで土を掻き出すフンの爪はすぐに割れ、指の腹から血がにじんだ。


 《兄貴……これ、どんだけ続けりゃいいんだ……》

 《やめたら終わりだ。俺たちは一生ここに閉じ込められる》


 声は苛立ちと絶望の入り混じったものだった。


 夕刻。

 ようやく泉から十数メートル先まで溝を掘り進めた。

 桶で水を流し入れると、細い筋がじわじわと畑の方へと延びていく。


 だが途中で砂利に吸われ、溝の水はほとんど消えてしまった。

 畑まで届いたのは、ほんの数滴だけ。


 《兄貴……これじゃ全然足りねえ……》

 《クソッ……なんで俺たちがこんな真似を……!》


 鍬を振り下ろすトアンの腕は震え、体は限界を訴えていた。

 それでも夕方になると再び豆給餌器の前に立ち、掌を差し出す。

 規則正しく吐き出される十粒の豆。

 それを飲み込みながら、二人は無言で顔を見合わせた。


 ――出口は、どこにもない。

 その事実だけが、日ごとに体と心を蝕んでいった。






 何日もかけて掘り進めた水路が、ようやく畑の縁まで到達した。

 泉から流れる水が、細い筋となって土の上を走り、若木の根元に染みこんでいく。

 その瞬間、トアンとフンは同時に息をついた。


 《兄貴……やっと、やっと水が……》

 《ああ……これで、重たい思いをしなくて済む……》


 泥と汗にまみれ、腕も背中も痛みで軋んでいる。

 だが、果樹に芽生えた若葉が夕日に光って揺れるのを見たとき、二人はほんのわずかだが達成感を覚えた。


 ――しかし、それは地獄の入口に過ぎなかった。


 分厚い農業マニュアルの次の項目には「受粉」の二文字。

 果実を実らせるためには、ただ水と陽光を与えるだけでは足りない。

 花が咲いた時に花粉を移さなければ、実は成らない。


 《これ……“人工授粉”ってやつだ》

 《花粉を、ひとつひとつ……?こんな広い畑をか?冗談じゃねえ……》


 記されていた方法はあまりにも単調で、そして過酷だった。

 水路が完成するのを待っていたかのように、無限の果樹園は一夜にして一斉に開花した。

 脚立に上って小さな筆のような道具を用い、花から花へと花粉を運ぶ作業。

 延々と、一輪一輪、膨大な数の花を相手に。


 果樹園に咲き誇る白い花々は、最初こそ美しく見えた。

 だが果樹は数千本にも渡り、その花は数万にも及ぶ。蜂などの小動物による手助けが一切ない受粉作業は人の手に余る物だった。一日、二日では終わるはずもなく、延々と上を見上げて受粉する作業は首にも肩にも辛い。

 きつい体勢を続けるうちに、二人の目には終わりのない苦行の象徴としてしか映らなくなっていった。


 《兄貴、肩が痛えよ…もう動かねえ……》

 《休むんじゃねえ。チンタラしてたら、全部ダメになるだろうが!》


 握った筆はすぐに汗で滑り、指の皮は擦り切れて血がにじむ。

 それでも花を渡り歩き続ける。

 気の遠くなるような時間が流れ、背を丸めて動かす腕はやがて鉛のように重くなった。


 そして、自然の猛威は無情に訪れる。


 ある日は、黒雲が渦を巻き、暴風雨が果樹園を叩いた。

 必死にロープで枝と幹を結んで回ったが、兄弟二人の手だけでは到底回り切らず、せっかくつけた花や枝葉は容赦なく強風に折られていく。


 《兄貴っ、飛ばされる!》

 《くそっ、止めろ……!止めるんだ!》


 二人の叫びを嘲笑うかのように、暴風は大地を削った。


 別の日には、雲ひとつない空に真夏のような熱が照りつけた。

 泉から水路に流れる水は瞬く間に蒸発し、若木は萎れて葉を丸めていく。

 兄弟は頭から水をかぶり、鍬で土を掘り返しては根元を冷やそうと必死になった。


 だがどれほど抗っても、自然は彼らの手に余る存在だった。


 さらに、天候だけではない。

 ある日、葉の裏に黒い点がびっしりと付着しているのをフンが見つけた。


 《兄貴、なんか虫だ!葉っぱ食われてる!》

 《チッ……薬もねえのに、どうしろってんだよ!》


 農業マニュアルには「害虫は見つけ次第、全て手で取り除け」と冷たく書かれていた。

 兄弟は葉を一枚ずつめくり、虫を潰し続ける。

 指先に伝わる嫌な感触に吐き気を催しながら、何百回、何千回と繰り返すしかなかった。


 雑草も容赦なく生い茂った。

 水と日差しは作物だけでなく雑草にも平等に降り注ぐ。

 膝をついて抜き続けても翌日には同じ景色が広がり、二人の心を絶望で塗りつぶしていく。


 息を切らし、炎天下で膝をついたフンが、かすれた声で呟いた。


 《兄貴……もうダメだ…。俺ら、これからも、ずっと……》

 《……諦めんな。ここで育てなきゃ、一生……出られねえ》


 暴風にへし折られても、猛暑に干からびても、虫に集られても、それでも育てきる以外にこの世界を出る方法はない。

 絶望と疲労に沈んだ瞳の奥で、徒労感が胸に重くのしかかっていた。






 長い日々が過ぎた。

 泥にまみれ、虫に噛まれ、背を焼かれる太陽の下で、兄弟はただひたすら農作業を続けてきた。


 ある朝、フンが若木の枝に目を凝らして声を上げた。


 《兄貴!見ろよ!花が……花が落ちて、ちっちゃい実が……!》


 枝の先に、緑色の小さな丸い膨らみがついていた。

 まだ小指の先ほどの大きさ。けれども、それは紛れもなく果実だった。


 《……本当だ。やっとだ……》


 トアンは泥まみれの手でそれを包み込むように見つめた。

 乾いた喉から笑いとも嗚咽ともつかない声が漏れる。


 《やった…やった…っ!!》


 ――盗んだリンゴを返すための果実。

 その第一歩が、ようやく芽吹いたのだ。


 二人はようやく希望が結実した感激に活力がみなぎるのを感じた。疲労で動かなくなっていた体を再び動かし始める。

 見失いかけていた目標が明確になり、手の届きそうなところまでゴールが近づいてからの二人のエネルギーは別人のようであった。根元の土を丁寧に掘り返し、水路を拡張して少しでも多くの水を運んだ。

 害虫を見つければ即座に指で潰し、葉に影を作る雑草は根から引き抜いた。


 《兄貴、これで……出られるかもしれねえな》

 《ああ……ここからやり直せるかもしれん》


 果実は日ごとに膨らんでいった。

 小指の先が卵大に、やがては拳ほどに。

 固く青かった皮は、徐々に赤みを帯び、艶を増していった。


 陽の光に照らされて輝くその姿は、兄弟にとってまさしく希望の灯だった。


 収穫の日を夢見て、豆だけの空腹にも耐えた。

 枯れ木のように細くなった腕でも、農具を放り出すことなく畑を守った。


 ――そして。


 ある夜明け、空気は澄み渡り、果実はついに収穫できるほどに色づいた。

 木々の枝はたわみ、重みで地に届かんばかりに赤い実をつけている。


 《兄貴!できた!これで帰れるぞ!》


 フンが歓喜に叫び、トアンは両膝を地に落とした。

 涙が頬を伝い、泥にしみ込んでいく。


 《……終わったんだ。地獄は、これで終わるんだ……》


 フンがリンゴを一つ、枝からもぎ取り、袖で拭ってかぶりつく。


 《うめえ…うめえよ…兄貴!こんなうめえリンゴ食った事ねえ…!》

 《おい、何食ってんだよ!》

 《一個だけ。一個だけだから。兄貴も食ってみろって!》


 感涙にむせぶフンは、半分かじったリンゴをトアンに渡す。

 トアンは逡巡するも、これまで愛情を込めて必死に育てて来たリンゴはとても美味そうに見えた。

 長い日々、ずっと豆しか口にしていなかったトアンはその誘惑に抗えなかった。


 《………っっっ!!!》

 《な?な?美味いよな、兄貴!!》

 《う………美味い…!美味いなあ……!!》


 二人は互いの背を叩き合い、泣き笑った。

 どれほどの時間が流れたのか分からない。

 だが確かに、出口の光が差し込んだように感じた。


 ――その瞬間だった。


 低いエンジン音。

 あり得ないはずの轟音が、静かな果樹園を震わせた。


 振り返ると、畑の奥からヘッドライトが光を放ち、砂利を蹴立てて二台の軽トラックが突っ込んでくる。

 ナンバープレートは見たことのある日本の形式のもの。現実から乱入してきた車だった。


 《なっ……なんだよ、あれ……!?》

 《車……?助けが来たのか……?》


 出荷を手助けしてくれるのか、はたまた脱出を手伝ってくれるのか。

 淡い期待を胸に軽トラックを見つめていた兄弟の眼差しは、にわかに顰められることとなった。


 運転席から飛び降りた四人の男たちが、乱暴にドアを閉め、笑い声を上げた。

 顔立ちは東南アジア系の外国人。

 背中に麻袋を背負い、手には棒やナタや高枝切りバサミを握っている。


 《おいおい、まじかよ。こんなに実ってやがる!》

 《道に迷ったと思ったが、俺たちゃ運がいいな。市場に出せば、また一儲けできるぞ》


 彼らはためらいなく果樹に駆け寄り、枝を乱暴に折り始めた。

 熟した果実が地面に落ち、あるいは麻袋へと放り込まれていく。


 《やめろ!それは俺たちのだ!返せ!》

 《俺たちが何カ月も……!》


 トアンとフンが必死に叫びながら駆け寄り、四人に立ちはだかる。

 だが男たちは薄笑いを浮かべ、彼らを突き飛ばした。


 《知るかよ。これは俺たちが先に見つけたんだ。お前らはすっこんでろ》

 《ここは天国みてえだな。あっちを見てもこっちを見ても果物だらけ。サイコーだぜ》


 四人が下卑た顔で次々にリンゴを枝から落とし、袋に詰め込んでいく。

 フンは四人に向かって殴りかかり、ナタを奪い取ろうとしたが。


 《――おっと危ねえ!》

 《……っ!?》


 ひらりと避けられ、フンは地面にズシャアと音を立ててすっ転ぶ。

 その背中を四人は代わる代わる踏みつけ、忽ち縄に括る。


 《やめろ、放せぇ!》

 《オイオイ、勝てると思ってんのか?》

 《こっちは四人だぞ》

 《素手とは良い度胸じゃねえか!》

 《弟に何しやがる――!!》


 フンを助けようとしたトアンも、ナタやハサミを手にする四人になす術なく、兄弟揃って縄で縛られ地面に転がされた。



 窃盗団四人は一人の見張りを残し、三人がかりで果実を強奪していく。

 軽トラックの荷台には、みるみるうちに果実が積み上がっていった。

 赤く輝くリンゴの山。

 兄弟が全身を削り、雨の日も風の日も世話をし続けてきた果実の全てが、あっという間に奪われていく。


 《俺たちのリンゴが……!全部……!》

 《……くそっ、やめろ……やめろォォッ!!》


 無力だった。

 男たちは彼らを一顧だにせず、袋を満載にしたトラックへ飛び乗る。


 エンジンが唸りを上げ、車体が跳ねる。

 果樹園に土煙を残しながら、トラックは果樹園の外へと消えていった。


 残されたのは、へし折られた枝と、赤い破片を散らす泥だけ。

 兄弟は縛られ寝転がされたまま、顔を土に伏せた。


 《……なんでだよ……なんで……!》

 《ふざけんなよ……俺たち、あんなに頑張ったのにあいつら…!どうしてだよ神様ァ!なんでこんなことすんだよォ!!》


 泥に顔を押しつけ、声にならない慟哭が果樹園に響く。

 希望はまたも奪われた。

 彼らの努力は、何もかも水泡に帰した。


 絶望の夜が、再び兄弟を覆った。






 翌日。

 トアンとフンは、泉のほとりで泥にまみれたまま座り込んでいた。


 朝の光が差し込むが、二人の目はどこも見ていない。

 昨日までにたわわに実っていたリンゴの幻影が、まぶたの裏にちらつく。


 口に入るのは、無機質な豆十粒。

 噛めば確かに腹は満たされるが、味気なさが骨にまで染み込む。


 リンゴの甘み。噛んだ瞬間に溢れた果汁。鼻の奥にふわりと薫る芳醇な香り。

 二人で一つを分け合ったあのリンゴは、これまでの人生で一番旨い食べ物だった。あれほど魂に訴える味と感動には一度も出会ってこなかった。あの感動がまるで遠い日の記憶のよう。


 泉の水で喉を潤しても、虚しさは癒えなかった。

 二人は何をする気も起こらず、ただ果樹園を呆然と眺め続けた。

 枝は折れ、葉は散り、土には車の轍と足跡が刻まれている。

 努力の全てが荒らされ尽くした光景は、二人の心をさらに削った。


 ――その日は、一言も声を交わさず、夕暮れを迎えた。

 夜になっても畑に出ることなく、泥の上に横たわり、虫の羽音を聞きながら眠りへ沈んだ。




 翌々日。

 まだ朝も早い時分、耳をつんざくような怒号で二人は目を覚ました。


 《ふざけるなッ!こんなとこに連れてきやがって、どういうつもりだッ!》

 《俺たちに農業なんざできるか!》


 聞き慣れない声。

 四人分の足音と、金属がぶつかるような音が混ざっている。


 トアンとフンは身を起こし、声のする方へ足を引きずった。

 果樹園の一角、そこには一昨日リンゴを奪っていった窃盗団の姿があった。


 銀の仮面が、静かに彼らを見下ろしていた。

 四人は怒り狂い、農具を振り回しながら仮面へと叫んでいる。


 《出せ!ここから出せッ!》

 《俺たちは悪くねぇ!盗まれるところに置いといた奴らが悪いんだ!》


 銀の仮面は一歩も動かない。

 その姿は、嵐の中の巨岩のように不動だった。


『――出たければ、盗んだ果実をすべて返せ』


 その言葉に、四人の顔が怒りで赤く染まる。


 《できるか!ふざけんな!》

 《俺たちがクソ農夫ファーマーだとでも思ってんのか!?》


 銀の仮面は答えず、手をかざした。

 次の瞬間、地面が淡く光り、彼らの足元に農具一式と分厚いマニュアルが落ちた。

 鍬、桶、鎌、そして五十か国語で書かれた農業指南書。


『ここで生きたければ、読め。そして働け。一年以内に返せなければ死ぬ』


 淡々とした声は、救いも温情も含まれていない。


 《ふざけんな……!俺たちは出てく!》


 四人は顔を見合わせ、怒りと恐怖を押し殺すように走り出した。

 農具もマニュアルもその場に投げ捨て、ただ出口を探して果樹園の奥へと消えていく。


 残されたのは、地面に転がる農具とマニュアル、そしてその光景を茫然と見送るトアンとフンだけ。



 兄弟の胸に広がるのは、昨日以上の虚無だった。

 果樹園は広大で、出口などどこにもない――それを身をもって知っているからこそ、四人の背中が痛々しく映った。


 八割の恨みと二割の憐みの混じったような目で兄弟は四人の背中を眺める。


 彼らの姿は、数カ月前の自分たちの姿と重なっていた。







 日没間際。果樹園の奥から、荒い足音が近づいてきた。

 トアンとフンは鍬を動かしていた手を止め、顔を上げる。


 土埃を蹴立てながら、例の窃盗団四人組がよろよろと姿を現した。

 衣服は泥だらけで、顔は疲労に覆われ、目の下には濃い隈が刻まれている。

 彼らは朝から約十時間出口を求めて走り続け、果てしない果樹園をさまよい、帰る術はどこにもないことをようやく悟ったのだ。


 《……おい、あいつらだ》

 《兄貴、戻ってきた……》


 フンが鍬を握ったまま呟くと、四人は足を止め、こちらを見た。

 沈黙がしばし続く。やがてそのうちの一人が、ためらいがちに口を開いた。


 《……悪かった。リンゴ、奪って》

 《お前らの作ったもの、全部持っていった。……本当に、悪かった》


 四人は顔を伏せ、土の上に膝をつく。

 その姿は、かつての傲慢な泥棒とは似ても似つかない。

 ここがどれほど逃げ場のない地獄か、身をもって思い知ったのだ。


 《……謝って済むかよ》


 トアンの声は低く、地を這うようだった。

 胸の奥では怒りがまだ燻っている。数カ月分の努力が一瞬で奪われた悔しさは、容易に消えるものではない。


 四人組は黙ったまま、地面を見つめる。

 フンもトアン同様、四人組を恨みがましく見下ろす。


 こいつらが盗みさえしなければ、俺たちはここから出られるはずだった。

 この三~四カ月、大変な思いをしながら育てたリンゴを、最後の最後で美味しい所だけ掻っ攫っていった。こいつらは絶対に許せない。


 その憎しみが胸の中で渦巻くと同時に。



『奪われたその絶望を、自分たちこそが、農家に味わわせていたのだ』と、同時に気付いた。



 奪う側は何の躊躇も呵責もなく、成果物だけを横から取るだけ。

 しかし、作る側はそこにどれだけの労力と希望を込めていたのか。知らなかった。


 トアンとフンは今なら分かる。

 自分たちが仕出かした罪の深さ。

 盗まれた側にしか分からない千尋の谷がごとき悲しみを、ようやく自覚した。


 そして、銀の仮面が口にする『育てて全部返せ』という言葉も、今の二人なら理解できる。


 金や自由も然ることながら、自分たちが心を込めて育てた希望のリンゴを、今すぐここに返してほしい。

 こいつらはボコボコにしてやりたいほど恨めしいが、それよりもただリンゴを返してほしい。

 あのリンゴには兄弟の夢。希望。将来。期待。念願。それらが詰まったかけがえのない唯一無二の切符だった。


 決して、金なんかでは代えられない、とてもとても大切なものだったのだ。



 農家の思いを代弁していた銀の仮面のあの言葉を、本当の意味で兄弟は思い知った。




 だが、もう一つ、一時の感情では覆せない事実があった。

 協力しなければ、ここから出ることは不可能だということ。


 トアンは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 そして鍬を土に突き立て、言葉を絞り出す。


 《……許すとは言ってねえ。だが、手伝うって言うなら拒まねぇよ》


 四人の顔がぱっと明るくなった。


 《本当か!?》

 《ありがとう、ブラザー!これで希望が――》


 ただし、とトアンは鋭い声で言葉を遮った。


 《次に裏切ったら、絶対に許さねえ》


 その眼光に、四人は小さく頷き、頭を下げた。






 こうして、リンゴ園の再建が始まった。

 だが、新たな面倒も生まれた。


 一昨日リンゴを盗んでいった四人組は、これまで日本で高級キウイを中心に盗んできたという。

 それに応じてかリンゴだけだった果樹園の地形は勝手に変わり、リンゴだけでなく、キウイの棚がずらりと並んでいる。

 総面積は二倍。彼らが現実世界で盗んだ分、ここで返さなければならない果実が増えたということだった。


 《……木が増えてるじゃねえか》

 《リンゴだけならともかく、キウイか…》


 兄弟は無意識下で、リンゴと並行してのキウイの栽培方法に思案を巡らすが。


 《キウイ?どうやって育てんだよ。手間かかるじゃん》

 《時間もかかるし。もっとすぐ出来ねえのかよ》

 《トラクターなしでどうやれってんだよマジで》

 《全部人力とか頭おかしいだろ!聞いたこともねぇし!》


 四人組からの不平不満が絶えない。

 鍬を持つ手は遅く、作業もすぐにサボろうとする。

 ちょっと働いただけで腰が痛いだの、暑いだの、水が足りないだのと文句ばかりだ。


 《おい、もう休憩しようぜ》

 《豆しか食ってねえんだ。力出ねえって》


 出来る方法ではなく休む口実ばかりを垂れ流す四人組にトアンが一喝する。


 《黙れ!口じゃなく手を動かせ。収穫して返さねえと、ここから出られないんだからな》


 血走ったトアンの眼光は、"お前らが盗まなかったら俺たちは出られたんだ"と語っていそうな迫力と殺気が走っていた。

 彼らは口をつぐむが、数分後にはまたヒソヒソと不満を漏らし始める。


 《兄貴、あいつら……》

 《分かってる。でも、俺たちだけじゃ絶対無理だ。あんなのでも使うしかない》


 フンの言葉にトアンは苦々しく頷いた。

 腹の底では苛立ちが煮えたぎっているが、それでも受け入れるしかない。


 現実世界で盗んだ果実は、ここでは「育てて返さねばならない義務」として具現化する。

 耕作面積が倍増し、作業数は更に数倍に増えた今、二人だけでは到底終わらせることはできないのだ。


 愚痴を吐くほど実が生るならいくらでも吐く。

 だがそうでないから、面倒でもきつくても自分たちで育てるしかない。

 代わりにやってくれる人はいないから、自分で全部やるしかない。

 たとえ憎い相手でも、感情を押し殺して協力するしかない。


 太陽の下、六人は鍬を振るい、雑草を抜き、泥にまみれながら働き続ける。

 不平不満が混じっても、彼らはやめることができなかった。

 やめれば、脱出の可能性すら消えるからだ。


 こうして、リンゴとキウイ――二つの果樹園での、過酷な共同作業の日々が幕を開けた。





 兄弟がこの世界に閉じ込められて、およそ五カ月ほどが経った。

 日本であれば四季があるはずなのに、この果樹園には四季がない。

 良く言って温暖、悪く言って終わりの見えない地獄。


 日の出を迎える毎に鎌で小屋の壁に小さな傷をつけることで日付感覚を残しているが、現実の日本では迎えているだろう真冬の寒さも、春の陽気もこの場所では一切感じられない。


 あえてこの世界にもう一つあるとすれば、エッセンスのように突如もたらされる、自然の猛威だけだった。

 空が急速にかき曇り、地響きのような雷鳴と共に、猛烈な風が吹き荒れる。


 《またか……!》


 トアンが顔を覆いながら低く呟く。その声音には怒りでも恐怖でもなく、諦めに似た乾いた響きがあった。


 《兄貴!支柱だ!枝が折れる!》


 フンが叫び、すぐに果樹にしがみつく。

 だが二人の表情には、以前のような必死さはなかった。あまりにも繰り返される苦難に、心の奥が冷めていたのだ。


 一方、窃盗団の四人は違った。


 《おい!なんだよこの風は!》

 《木が折れるぞ!おい、どうすんだ!》


 叫びながら慌てて畑を駆け回り、泥に足を取られて転び、互いに怒鳴り合う。


 《水が溢れてる!溝を塞げ!》

 《俺に言うな!鍬はどこだ!》


 彼らにとっては初めての天災。

 その混乱ぶりは、嵐そのものに飲み込まれていくようだった。


 兄弟は、そんな彼らを無言で横目に見ながら黙々と木を支えていた。


 《……過ぎ去るまで耐えるしかないんだ。俺たちに出来るのは祈る事しかない――》


 そう呟くトアンの顔には、悟りに近い影があった。

 フンも歯を食いしばり、倒れた苗を起こしながら言う。


 《俺たちは……弱い。自然の前には人間なんて、虫けらみてえなもんだ……》





 嵐が過ぎ去った後、畑は泥の海と化した。折れた枝、倒れた果樹、水を含んで重くなった土。

 四人組は茫然と立ち尽くし、誰一人動こうとしなかった。


 《……努力が全部水の泡だよ。どうすんだよこれ》

 《ふざけんな……なんでこんな目に遭わなきゃならねえんだよ……》


 そのとき、トアンが鋭く言い放った。


 《動け。泣いても木は治んねえぞ》


 静かな言葉だったが、そこには経験から滲み出た冷酷な真実があった。

 フンも泥をかき分け、ひとりで折れかけた枝を継ぎ直し始める。

 それを見て四人組は顔を見合わせ、しぶしぶ作業に加わった。



 それからも暴風雨、猛暑、寒波などが気紛れに六人を襲い、その度に涙目で必死に木にしがみつき続けた。

 六人での畑仕事は困難を極めたが、三カ月かけてそうやくその努力が結果となって実を結んだ。


 日差しを浴びて色づくリンゴ。

 枝にずっしりとぶら下がるキウイ。

 ずらりと果樹園一帯が華やいだ。


 《すげぇ……ほんとに実るんだ……!》


 四人組のひとりが歓声を上げた。


 《これで……やっと帰れるんだな!》


 他の三人も顔をほころばせ、互いに肩を組んだ。


 赤々としたリンゴがずらりと数多く木に生っている念願の光景。

 三カ月前に見た幻の景色を再び見ることが出来たトアンだが、何故か喜びを自制しており、表に出してはいない。


 キウイを一つもぎ取ってかぶりつき、揃って狂喜乱舞している四人組の背中の方へ、トアンは沈黙したままちらりと一瞥した。




 翌日、たわわに実った果樹の陰に、大量のダンボールと緩衝ネットなどの梱包材一式が置かれていた。

 ずらりと並ぶ果樹に沿うように、ダンボールの山が遠くまで点々と置かれている。

 兄弟も初めて見るこのアクションに対して足を止めたが、それは即座に喜ばしい推測につながる。


 《…収穫だ》

 《熟したって事か、兄貴》

 《そうだ!行くぞフン!》


 銀の仮面によって収穫の許可を迎えたと確信したトアンは、弟と四人組に声高に収穫開始を呼びかけた。


 六人は一斉にリンゴ畑とキウイ畑に散らばり、嬉々として果実を収穫する。

 在りし日の荒々しい手つきとは打って変わり、赤子を扱うかのような優しい手つきで丁寧に収穫していく。

 時間と人影に怯えながら乱暴に枝を折って収穫するなど、今の彼らにとっては考えられない。


 時折鼻の下を擦るごとに、手に染み付いた甘い香りがふわりと漂う。その甘い香りを楽しみながら、疲れも時間も忘れて収穫に取り掛かる。


 豆ばかりの食に飽きた彼らは、昼に一つだけリンゴとキウイを口にした。

 三カ月ぶりに食べた甘味は彼らの魂を揺さぶり、自然と涙をこぼしていた。


 四人組が涙を流しているのを見たトアンはふと表情を和らげた。

 初めて会った時のつり上がった人相は、衝突や困難を繰り返しながらもこの三カ月で大分改善したように見える。


 四人組のうちの一人が、トアンと目が合う。

 そして、その表情はみるみるうちに沈痛なものに変わった。


 《トアンさん、すいませんでした》


 彼の謝罪は、生産者としての苦悩と農夫の愛を思い知ったものだった。窃盗犯のその場しのぎの言い逃れではなく、自分が犯した罪の重さを骨身に染みて理解したのだと、トアンは受け止めた。


 トアンはそんな彼にかすかに微笑み、ゆっくりと一度、頷いた。






 朝食に豆を十粒。昼にリンゴとキウイを一つずつ。夜に豆を十粒。

 たったこれだけの食事で、六人はリンゴ園とキウイ園の全ての果実を収穫し切った。


 数カ月の努力を愛おしそうに抱き上げるように箱に収めた彼らは、またいつの間にか出現していた倉庫の中に、台車でせっせと搬入していく。

 果樹園と倉庫を往復する喜びの肉体労働。

 正確な時刻は不明ながら、普段は寝静まっている時分にまで彼らは働き続けた。


 倉庫に鍵をかけ、達成感と心地よい疲労感に包まれながら、六人はこれが最後の日になると噛み締めながら、藁の上で眠りに就いた。




 翌日。


 太陽は南中し、昼頃まで寝入ってしまったと察した彼らは小屋を出て泉に向かおうとした。

 昨日全ての収穫が完了し、あとは銀の仮面の結果を待つのみ。完全に休みとなった今日は水と豆だけを摂る休暇となるだろう。


 四人組のうちの一人が泉まで向かうその途中、視界に入った倉庫は、どうも様子がおかしかった。

 寝ぼけ眼をこすりながら近寄ると、倉庫の鍵が壊され、扉がわずかに開いている。


 《――――っっ!!》


 扉を開けると、倉庫の中は空っぽになっていた。

 昨日収穫した、大量のリンゴとキウイが、一箱も残さず消えている。


 男の叫びに、遅れて五人が倉庫の前に駆け付けると、五人もその惨状を目の当たりにして言葉を失った。

 地面には、筋が二本。車の轍が倉庫の中まで続いている。おそらくトラックが内部に直接乗り込んで、出荷待ちとなっていたフルーツ箱を丸ごと盗まれたことが容易に判断できた。


 四人組の男たちは丹精込めて育てた果実が、眠っている間に全て盗まれたことを悟り、膝から崩れ落ちた。


 《う、うそだろ?》

 《なんだよ、それ。何でこんなことになるんだよ!》


 四人組が叫び、その場で泣き崩れる。

 目の前の光景が現実と信じたくないのか、倉庫の中へ外へ走り出す者も二名。


 だがどこにもリンゴとキウイが残っていない事を自覚した彼らは絶望。号哭。初めての収穫を経て出荷直前で奪われた四人組は、地面を叩き、喉が裂けるほど叫び続けた。


 《ふざけんな!返せ!返せぇぇ!!》

 《俺たちが、どれだけ苦労したと思ってんだ!》

 《許さねえ!絶対許さねえ!》

 《うわあああぁぁぁぁ―――……!!!》


 だが、返るものは何もない。四人は絶叫と涙に溺れた。

 対照的に、兄弟は呆然と空を見上げ、何も言わなかった。


 リンゴを撫でる感触を思い出しながら、フンはただ膝を抱え込む。

 その横でトアンは、静かに吐き捨てるように言った。


 《まただ。もうどうしようもない……。これが……俺たちへの罰だ》


 二度目の絶望を知り、諦めの境地に至った兄弟と、初めて絶望に叩き落された四人組。

 昼の穏やかな陽光の下で風に揺れる果樹園は、一面灰色に包まれた。







 ―――次なる窃盗団も、このアダムの畑に堕とされた。

 彼ら"新入り"と"古参"は、果てしなく続く農作業に追われた。新たな罪人が加わるたび、耕作面積は広がり、果樹の品種は増え、畑はますます豊かに、そして重くなっていった。


 衝突と和解、そして協力を経て迎えた収穫期。だがその成果は、必ず何者かによって根こそぎ奪われる。 果実は消え、脱出の機会は潰え、そしてまた新たな“新入り”がこの畑に落とされる。



 己の因果から逃げ切ることかなわず、四度目の収穫が失敗に終わった頃、トアンとフンの一年の猶予がとうとう尽きた。


 彼らは眠っているうちに息を引き取っており、その姿はまるでミイラのようだった。

 水も食料も摂らず、その場で一年間眠っていたかのように全身がやせ衰え、骨が皮に浮き出す有り様で二人はこのアダムの畑を去った。


 残された後輩たちはトアンとフンの亡骸に戦慄した。

 初めに銀の仮面が告げた「一年以内に果実を返せなければ死ぬ」という言葉が、単なる脅しではなかったことを、身をもって理解したのだ。


 彼らはまた次の三カ月を掛けて必死に果樹の面倒を見、実を結び、ようやく収穫の時を迎えたが、またも侵入者によって脱出は妨げられた。


 そして二番目の窃盗団四人組も、骨と皮の姿となって発見され、後輩と新入りは再び震え上がる。彼らも最初の兄弟と同じ末路を辿り、そしてまた新たに加わった悪党たちも、脱出は更なる侵入者によって妨げられ続けたのだった。





 このアダムの畑は、終わらない無限の牢獄。

 果物を盗んだ男たちが落とされる失楽園の残骸。

 彼らが脱出を願って償いとして育てた果物は、"過去の自分たち"に盗まれ続け、やがて敢え無く一年の猶予を過ぎて命を失う。


 アダムの畑は世界と世界の狭間にぽつんと浮かぶ孤独な楽園。

 数百種、千三百ヘクタールにも及ぶ広大な農園は青々と茂り、手掘りの水路が網のように張り巡らされている。

 その小世界では三カ月に一度、高笑いと絶叫が交差する。その数珠繋ぎは絶えることはなかった。




 そして、日本のとある廃集落では人知れず、仰向けに横たわりミイラ化したような死体が次々に出現している。

 何者かが昏睡した人間を不定期に廃屋に連れて来て、板張りの床に順次寝かせていくが、その眠る人間たちは突然、命の刻限が尽きたように全身の水分が抜けて絶命していく。

 その人間全員が、失踪した窃盗犯であることは、誰も知らない。

 廃集落の廃屋でミイラとなって死んでいくことも、その事件やミイラの存在すらも、誰も知らない。


 アダムの畑は、地球上とは異なる早さで時が進み、地球上で過ごすより物凄い早さで命が尽きる。

 日本の高級フルーツに心を奪われた無法者が根絶されない限り、この数珠繋ぎは終わらない。


 誰にも見向きされることなく、廃集落と共に、彼らの亡骸は森に還るだけだった。

毎週月曜・水曜・金曜20時投稿予定です(祝日は15時投稿予定)。

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