50話 禁断の果実
青森県西部・津軽地方。
夜明けの空が朱に染まり、霜を帯びた畑の地表が白く輝いていた。
標高の高い土地は冷え込みが厳しい分、果実の糖度が増す。リンゴ農家にとっては、待ちに待った収穫の合図だった。
「……よし、あと三日だ」
木に手をかけ、果実を一つ確かめる。真紅に色づき、指先に吸い付くような艶。
農家歴三十年の中村は、思わず顔を綻ばせた。
花の頃から一つひとつ手をかけ、袋を掛け、虫を防ぎ、台風の風を祈りながらやり過ごした。
雨が少なかった夏は夜明け前に山へ入り、乾いた土へポンプで水を撒いた。
ようやく――ようやく実った。
この収穫が終われば、一年分の借金も払える。次の苗木を買い、農機の修理代も回せる。息子を大学へ出す費用も、何とかなるだろう。
冬に雪が積もる前に、全てを収穫し、箱詰めして市場へ出す。
その一瞬のために、生きてきた。
中村は両腕を広げるように木立を見渡した。赤く染まった丘一面が、宝石のように輝いている。
「今年は最高の出来だぞ……」
胸に込み上げる達成感に、思わず独り言が零れた。豊作の予感が心臓を高鳴らせる。
――だが、その高鳴りは翌朝、地獄へと転じた。
十一月九日。
畑の入口に立った瞬間、中村の足は止まった。
そこに広がっていたのは、まるで嵐の後のような光景だった。
枝には、リンゴが一本たりとも残っていない。
赤い実が並んでいたはずの枝先は、力尽くで折られたようなささくれた跡をさらし、ぎざついた断面が白く乾いていた。
無残に踏み荒らされた草むら、散らばった葉と折れた小枝。足跡の跡だけが濡れた土に無数に残っていた。
「……う、うそだろ」
喉の奥が勝手に震えた。
否定の言葉が口をついて出るが、目の前の現実は覆らない。
我が子のように手塩をかけて、たっぷりの愛情をかけて朝な夕な面倒を見たリンゴが――丹精込めて育てた三千本の木が。
そのすべてから、リンゴが消えていた。
「そ、そんなはずない……」
声にならない声を上げながら、中村は畑の中へ駆け込んだ。
一本目、二本目、三本目――どこを走っても枝に実はない。
昨日まであれほど赤々と揺れていた果実は、跡形もなく消えていた。
心臓が乱打し、呼吸が浅くなる。
喉に刺さるような冷たい空気を必死に吸い込みながら、それでも声にならない嗚咽が溢れた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ…!!どうしてだよ……なんで、なんでなんだ……!」
足がもつれ、ぬかるみに膝をついた。
次の瞬間、抑えきれない涙が溢れ、視界が滲む。
「昨日まで…昨日まではあったのに…確かに、あんなにあったのに……っっ!!」
強風で振り落とされたなら、地面に転がっているはず。
しかし、たった一つさえも残っていない。
根こそぎ、枝ごと、盗まれたと分かった。
地面に両手をつき、頭を振りながら叫んだ。
「返せ……返せぇぇぇ!うわああああああ!!!!」
叫び声は山に反響し、虚しく木霊しただけだった。
胸が苦しく、息が続かない。肩で荒く呼吸を繰り返すうち、酸素が足りず視界が揺れた。
過呼吸で指先が痺れ、手が震え、体を支えきれずその場にうずくまった。
「俺の…俺のリンゴっ……返してくれぇぇ……!!」
泣きながら、土に顔を押し付ける。
指先に触れるのは泥と折れた小枝だけ。大切に育てた実りは、すべて、誰かの手で踏みにじられていた。
――今日までの一年分の努力が、一夜で奪われた。
――家族の生活が、未来への希望が、無残に切り取られた。
絶望の淵で、中村は声を殺して泣き続けた。
二日後の午後。東京・城南エリアの某駅前ロータリー。
行き交うサラリーマンや学生たちの視線を集める一台の軽トラックがあった。
後方の荷台に骨組みと幌を張った路上販売は、むき出しの電球に煌々と照らされたリンゴが山積みされている。
梱包材も緩衝材もなく、裸のままのリンゴが雑然とプラケースに押し込まれていた。
マジックで太々しくダンボールに書かれた文字が並ぶ。
【リンゴ七個 三百円】
雑な筆跡。産地直送と書かれてはいるが、商標も生産地も記載がない。
書かれている文字は恐らく書き順を知らない人物が見様見真似で書いたような歪さがあった。
近くを通りかかった人々は、思わず足を止めた。
だが、その目には驚きよりも疑いが浮かんでいる。
「……え、七個で三百円?」
値札の安さに一瞬惹かれながらも、そのリンゴを売っている車の持ち主の人相を見て、引き返す。
明らかに毎日農作業に汗水たらしていたとは思えない、痩せた体躯。浅黒い肌。天然パーマの髪。着古したTシャツとズボン。取り繕ったような練度の低い営業スマイル。
大半の人はダンボール書きの値札に一度足を止めるも、安すぎる価格と浅黒いアジア系の男との関係性に後ろ暗い物を察知した。
美味しい物を食べるためなら何代にも渡る品種改良も辞さない、食への執念が凄まじい日本人にとって、リンゴが七個で三百円の値付けはありえない。一個で三百円からならようやく納得できる。
それでも、学校帰りの学生や、財布の中身が心細い若いカップルが、恐る恐る近づいていく。
二人の外国人の男たちが路上販売を仕切っていた。
肌の色も訛りもばらばらで、流暢とは言えない片言の日本語を連発している。
「ヤスイヨ!オイシイヨ!」
「イマダケ、トクベツ!」
若者が【リンゴ七個 三百円】と書かれたダンボールを指差しながら問うと、男はプラケースを覗き込み、口の端を吊り上げた。
「アー、三百円ノリンゴネ。ソレ、チイサイ、キズツイタヤツ。三百円オイシクナイ」
「オオキイ、キレイナヤツ、五百円。コッチステキヨ?」
相手が年若い男女と見るや、表示と違う値段を即座に吹っかける。
【三百円】と大きく書かれた看板は客寄せ。実際には大きさや見栄えを理由に次々と値を吊り上げていく。
「え、五百円?看板は三百って……」
学生が戸惑いの声を上げると、男は肩をすくめてにやにや笑った。
「コレ、ジャパンルール。キレイ、オオキイ、タカイ。アタリマエ!」
「七コ、五百円デモ、チョーオトク!イイカイモノシタネ!」
男たちは乱暴にリンゴをビニール袋へ放り込み、代金をポケットへ突っ込む。
レシートも領収書も出ない。すべてが即席の闇市のようだった。
その異様な光景を、通りがかりのニュース番組取材班が見逃さなかった。
カメラが構えられ、リポーターがマイクを向ける。
「すみません、このリンゴ、どこから仕入れたんですか?」
一瞬だけ、男の顔がこわばる。だが、すぐに笑みを作り、意味のはっきりしない日本語を返す。
「ワタシ、ワカラナイ。オワリ、オワリ!」
そう言い捨てると、仲間に合図。
道に広げたプラケースを荷台に積み上げ、電球の明かりを消灯。シートをかぶせてロープで縛り始めた。
「このリンゴの産地はどちらなんですか?最近フルーツが日本各地の農園から盗まれる事件が多発していますが――」
記者がさらに追及しようとすると、別の男が前に立ちふさがり、手を振って制止する。
「シャシン、ダメ!インタビュー、ダメ!NONO!」
一分も経たないうちに路上販売を完全に引き払い、トラックのエンジンが唸りを上げ、黒煙を吐きながら急発進。
ロータリーの人波を縫って逃げ去っていった。
残されたのは、呆然とした取材班と、手にした"安すぎるリンゴ"を不安げに見つめる若者たち。
無地のペラペラのビニル袋の中のリンゴはシールなどは貼っておらず、よく見ると表面に細かな傷が複数ついていた。
その果実が、どこから来たのか。
――もしかして、このリンゴはどこかで盗まれたリンゴなのではないか。
駅前に漂う甘い香りは、妙に苦く、胸をざわつかせた。
十一月の夜風が冷たく吹き抜ける東京の倉庫街。
錆びついたシャッターの中に、軽トラックとバンが停まっていた。両方の荷台には無造作に積み込まれた段ボール箱がいくつも並ぶ。
倉庫の内部にはいくつものフルーツが詰められた箱が雑然と置かれており、車の荷台と倉庫中に甘酸っぱい果実の香りが漂っていた。
逆さのビールケースに腰を下ろした二人の男――ベトナム出身の兄・トアンと弟・フン。
兄は二十七歳、弟は二十四歳。農村の貧しい家に生まれ、子供の頃から十分な教育を受けることなく育った。
母国で手に職を着けることかなわず、ブローカーに二人分の渡航費等として約八十五万円ほどの金を渡し技能実習生として来日した。
希望を胸に働き始めた兄弟だが、想像していたほど日本で収入が得られず、またブローカーへの借金の返済で手元に残る金はほぼない。ベトナムへ帰国しようにも二十万円もの金を溜めることも困難。
「働いても儲からない」「真面目に働くなんてバカだ」「盗めば手っ取り早く金が手に入る」「持ってる奴から盗るのは当然」――そんな歪んだ論理に染まり、職場から脱走して以来ずっと小さな犯罪を繰り返してきた。
《日本の果物、高すぎるな。バカみたいだ》
兄トアンは笑いながら、段ボールから真っ赤に色づいたリンゴを取り出す。
《これひとつで三百円、五百円?ベトナムじゃ考えられないよ。俺たちはラッキーだな。神様ありがとう》
リンゴをナイフでざっくり切り分け、果汁を滴らせながら口に放り込む。
弟フンも真似てかじりつき、果汁まみれの指先を舐めながら声を上げて笑った。
《兄貴、やっぱり日本は最高だ。カネもメシもたんとある。日本人がバカなおかげで俺たちは楽できる。"ギノージッシューセー"なんてくだんねえことするよりこっちのが良いぜ》
《そうだな。俺らは幸運だ。神に選ばれたんだ。なんで日本人はこんなにフルーツに大金を払うんだろうな。でもそのおかげで俺たちは大金持ちだ。贅沢できるぞ!》
荷台にはリンゴだけでなく、ラ・フランス、富有柿、温州みかんも積まれていた。どれも十一月上旬に旬を迎える高級フルーツ。彼らはSNSで場所を調べ、真夜中に農園へ侵入しては根こそぎ奪ってきたのだった。
《日本人、本当にマヌケだな。夜は誰も見張らない。鍵も犬もない。これじゃどうぞ持って行ってくださいって言ってるようなもんだよな》
《カモだな。俺らがやらなくてもどうせ誰かがやる。やらなきゃ損だ》
二人は缶ビールを煽り、得意げに笑った。
《日本の警察は甘いから簡単に逃げ切れる。ニホンゴワカリマセーンって言ってれば、捕まってもすぐ出られる》
《そうだ。日本語わからないふりすれば、日本は手出しできねえからな!ハハハ》
兄弟の頭の中では、窃盗は真っ当に働くよりも実入りの良い、簡単すぎる生活手段だった。
ベトナムでは考えられない値が付く高級フルーツを盗んで安売りする。それでもベトナムの価格より高いが、日本人の感覚ではそれは充分なお手ごろ価格となるのだ。
しかし、ベトナムで食べるリンゴよりも格段に旨い。甘くて蜜もジューシーなのに爽やかで今まで食べたリンゴは何だったのかとさえ思える。
実際に味わってみると確かに高級品であるのは納得できた。
フンはかじりついたリンゴの芯がまだ太めに残っているのに食べきらずにポリバケツに投げ捨て、さっさと次のリンゴにかじりつく。
《いやあ、こんな楽な商売はないよな》
《そうだな。神の恵みに感謝だ》
そう言って彼らはまたひとつ、盗んだリンゴをかじった。
農家が汗水流して育てた果実を、彼らは低コストで仕入れられる実入りの良い商材としか見ていない。
これにどれだけの人々の愛情と心が込められているかなど考えることもなく、これがいくらで売れるかと電卓を弾くだけ。
《最高の国だ!日本は天国だ!》
二人の笑い声が、深夜の倉庫に響き渡った。
夜、白田の部屋。
机のパソコンの光が彼女の横顔を照らしていた。
蓮はその背後に立ち、肩越しに画面を覗き込む。
「……蓮くん、これ、見てください」
白田が開いたSNSには、農家のアカウントが投稿した痛切な叫びが映っていた。
青森の広大な果樹園。
写真には、木からもぎ取られた跡だけが生々しく残り、赤い実は一本たりとも見当たらなかった。
地面には折れた枝と、踏み荒らされた草だけが散らばっている。
《二日後に出荷予定だったリンゴが、一夜にしてすべて盗まれました。防犯カメラの電線もいつの間にか切られていて何時に盗まれたのか分かりません。怪しい車や人物を見かけた方、大量のリンゴを見かけた方、どんな情報でも構わないのでご連絡ください。0X0-XXXX-XXXX #拡散希望 #フルーツ窃盗》
添付された写真はわずかに手振れで震えており、読み手に投稿者の動揺が直接伝わってくる。
蓮は無言で画面を凝視した。
夕方のテレビで、駅前で捉えられた謎のフルーツ移動販売車。カメラが突撃するとすぐに店じまいして走り去った、どう見ても怪しい外国人二人組。そのOAのスクリーンショットが拡張モニターで同時に表示される。
その光景と、今目の前にある“空っぽの果樹園”の写真が頭の中で重なり、胸の奥に冷たい怒りが芽生える。
「……ひどい」
さらにスクロールすると、別の農家の声も続いていた。
ラ・フランス農園の老夫婦。
倉庫で出荷を待っていた大量の木箱が、未明に何者かに鍵を壊されてすべて盗まれた。倉庫が全くの空になり、半開きとなった倉庫の扉が風に揺れて軋んでいる。
柿園の青年。
親から受け継いだ柿園を切り盛りしていた彼が見つけたのは残酷な光景。熟した実が枝ごと切り落とされ、無惨に転がる果枝の写真が添えられていた。
《丹精込めた果実が全部なくなりました。家族で必死に育てたのに。警察も動いてくれません。どうすればいいんでしょうか》
《防犯カメラ・ドラレコ映像など、鮮明でなくても構いません、勘違いでも結構です。犯人逮捕のために協力してください》
白田は声を押し殺しながら言った。
「こんな短期間に、各地で同じ手口……流石に多すぎます。最近こんなニュースばかりじゃないですか。これはもう、完全に外国人移民受け入れの弊害ですよ。このままじゃ日本が駄目になってしまいます」
蓮は腕を組み、目を細める。
「これは外国人のコミュニティで手口が共有されているかもしれないですね。収穫直前を狙いすました犯行…。これが日本中で頻発したら日本の農業は根幹から崩されてしまう」
白田はさらにタブを切り替え、匿名掲示板やまとめサイトを表示させる。
「駅前で怪しい軽トラを見た」「段ボールにリンゴが山盛りだった」「明らかに市場を通してない」といった証言が、次々に拡散されていた。
中には動画まで上がっており、片言の日本語で「オワリ!オワリ!」と叫びながら荷台の幌を降ろし、急発進で逃げ去る外国人たちの姿が映っていた。
「これもう、確定的じゃないですか……」
「だが、メディアは――」
二人の視線が自然とテレビへ向かう。
ちょうど夜のニュース番組が流れていたが、そこでは「外国人技能実習生の受け入れ拡大」「多文化共生フェスティバル」など、外国人に好意的な報道ばかり。
件の格安トラックについては、わずか数秒のテロップが流れただけで、キャスターは外国人犯罪の可能性には一切触れずにニュースは終了した。
白田はリモコンを握りしめ、冷ややかな声で呟いた。
「やっぱり。これがメディアの実情ですよ。外国人に都合が悪くなりそうなニュースは各局どこも取り上げない。…今に始まった事じゃないですけどね」
蓮はしばし黙り込んだ。
拳を膝に置いたまま、唇の端だけをわずかに動かす。
「政府もメディアも移民推進を止めようとしない。……外国人による被害を、大きく扱うことはできないんだろう」
「現実問題として、移民受け入れを始めてから外国人犯罪件数は右肩上がりです。ただでさえ農家は収益を上げにくいのに収穫目前で全部盗まれたら…やってられないですよ。これはもう国防の域です。日本の食の安全の危機なんです。一年の苦労が、たった一晩で全部奪われたのに政府も警察もまともに取り合ってくれないんじゃ、日本で農業やろうなんて思えなくなっちゃいますよ」
白田の声はわずかに震え、指先も小刻みに揺れていた。
蓮は彼女の言葉を胸に刻むように目を閉じ、深く息を吐く。
「……政府の失策のせいで、国民が泣きを見る。そんなことはあっちゃいけない」
静かな声だったが、そこには確かな決意がにじんでいた。
白田は思わず顔を上げる。
パソコンの画面には、拡散し続ける農家の悲痛な写真と、軽トラックを目撃した市民の証言がずらりと並んでいる。
それらは、正義を求める声の集合体に他ならなかった。
彼女は小さく頷き、囁くように言った。
「……良いですよ、出動して。もう回復の算段はつきましたから」
蓮は白田の目を真っ直ぐ見つめて頷く。
無言のまま立ち上がり、窓の外を見やった。
都心の夜景が、冷たく輝いていた。
二〇二五年十一月十二日。
夜の帳が降りた山梨県の農園に、二つの影が忍び込んでいた。
月明かりに照らされたのは、軽トラックを脇に止めた二人の男。肩には大きな麻袋を背負い、赤く実ったリンゴを手際よく枝からもぎ取っては袋に放り込んでいく。
《兄貴、こっちの木いっぱいあるぞ》
《急げ。見回り来る前に全部取れ》
木々の間で、不気味な笑みを浮かべながらリンゴを奪い取る二人。その眼差しには罪悪感のかけらもない。
だが――。
「……そこまでだ」
低く響く声に二人は弾かれたように振り返った。
目の前には、麦わら帽子をかぶり、農夫の作業着に身を包んだ人影。顔は日除けの白い布で覆われており表情は窺えない。
《な、なんだお前……!》
《チッ……バレたらしょうがねえ……!》
弟が腰に忍ばせていた農業ハサミを抜き放ち、月光を反射させながら突き出す。
だが刃は農夫の腕に届くことなく、そのまま一本背負いの要領で逆手に取られた。次の瞬間、弟の体は地面に叩きつけられ、呻き声を上げる。
《がっ……!》
《くっ…よくも弟を!》
兄が怒声を上げ、鉄パイプを振りかぶった。
しかし農夫の拳が腹部にめり込み、呼吸が奪われる。兄の体は大きく折れ曲がり、膝から崩れ落ちた。
あっけなく二人は気絶し、赤い果実が麻袋から転がり落ちる。
その光景を冷ややかに見下ろしながら、農夫は左手から青白い光を放つと、直径三メートルほどの魔法陣を地面に描いた。魔法陣がフラッシュのように光り、二人をその場から人気のない山奥の小屋へと連れ去っていった。
某県某市某郡、とある廃集落の住宅のひとつ。
周囲に明かりは一切ない暗黒の世界。家の壁には蔦が這い、窓ガラスは割れ、瓦の隙間から芽が出る、完全に人の気配が消えた家の中。
埃が積もる木の床に兄弟の肉体は並べて寝かせられた。
静かに寝息を立てているように見えるが、その精神は――すでに現実から切り離されていた。
闇の中で、農夫の顔の布の奥が、割れた窓から淡く月明かりを帯びる。
さながら泣いているようで、恨めしさを隠そうともせず、憤怒するかのよう。
胸の奥で渦巻く感情そのままに、誰かの悲痛なしゃがれ声が吐き出される。
「――返せ。耳揃えて返せ。ひとつ残らず、全部だ」
低い呟きと共に、昏倒する二人の意識を吸い込む異界の扉が開く。
床に眠る兄弟の意識は、無限の畑へと投げ込まれた。
そこは《アダムの畑》。
禁断の果実を盗み、現から追放された罪人が落ちる、終わらない監獄。
夜風が通り抜ける廃屋には、ただ二人の眠る体だけが残されていた。
再び現実の彼らの肉体が目覚めの時を迎えるには、ある条件を満たさなければならないことを、兄弟はまだ知らない。
毎週月曜・水曜・金曜20時投稿予定です(祝日は15時投稿予定)。
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