47話 Halloween knight
都心の定食屋。昼下がりの時間帯、サラリーマンの波が一段落した店内に、湯気の立つ味噌汁の香りが漂っていた。
カウンター隅の席で、蓮は焼き鯖の塩気を白飯とともにゆっくりと噛み締めていた。サラリーマンが慌ただしく出ていく姿も気に留めず、ただ一人、静かな昼食を過ごす。
活動を休止して数日。ここしばらく大魔術を行使し続けた影響で蓮自身と魔石電池の魔力残量が底をついたため、白田によるドクターストップがかかった。魔力回復と魔石への再充填をする必要に迫られ、ここしばらくは積極的な情報収集と夜の街に出ることは控えている。
異世界で五年を過ごしていた間、地球上では十五年もの年月が経過していたため戸籍と自宅は失われていた。巣を持たない蓮は、期限切れの免許証を魔法で偽造してネットカフェやレンタルルームを止まり木のように転々とし、昼はあちこちへ出向いて昼食を摂っている。
ついでに求人誌も目を通してみるが、面接不要・即バイト可という条件ではなかなか仕事が見つからない。
日中の外出は世間の動向調査も兼ねているが、「くれぐれも出動はしないでくださいね!」と釘を刺されているので、今の蓮は何もせず、甘んじて飯を食うだけのニート生活を送らされていた。実に不本意である。
箸を置いたタイミングで、ポケットのスマートフォンが震えた。画面には、暗号アプリの通知。差出人は白田だった。
『蓮くん、今夜ハロウィンに行きませんか?』
短い一文を見つめ、蓮は小さく息を吐いた。
コップに残った水を一気に飲み干し、会計を済ませると、店を出て人通りの少ない路地裏へ足を運ぶ。
左手が淡く光り、魔力を流し込む。
「――瞬間移動」
視界が一瞬揺らぎ、次の瞬間、落ち着きのある来慣れた玄関に立っていた。
「いらっしゃい」
振り返った白田は、ラフな部屋着姿から、すでに外出の準備を始めていた。
机の上にはスマートフォンと小さな化粧ポーチ。鏡の前で軽く髪を整えていた彼女が、にこりと笑う。
「ハロウィンって、どこへ?」
「渋谷ですよ。……蓮くん、"渋ハロ"行ったことあります?」
「いや、ないですね」
淡々と返す蓮に、白田はぱっと笑顔を浮かべた。
「じゃあ行きましょう!私も行ったことなくて。ニュースとかネットで見るだけで、あの人混みの中に自分がいるなんて想像もつかなかったんですけど……せっかくなら一度は体験したいと思ってたんですよね」
語るうちに白田の声は少し弾み、指先で髪の毛先をくるりと遊ばせていた。
「なるほど。……で、仮装でもするんですか?」
蓮が眉を上げて問うと、白田は待ってましたとばかりに胸を張る。
「もちろん!せっかくなので、ちょっとコスプレしていきましょうよ」
「おお。衣装は用意してあるんですか?」
自信ありげに言ったものの、すぐに視線を泳がせた。
蓮の問いに、白田は唇を噛んでから小さく肩をすくめる。
「……実はさっき思いついただけで、それっぽいのは何も持ってないんですよね~。てへへ」
照れ隠しのように舌を出して笑う。その仕草に蓮はため息をつき、肩を落とす。
「……ノープランか」
「そう言わないでくださいよ」
白田は頬を膨らませ、すぐに笑い直した。
「蓮くん、何か使えそうなの持ってたりしません?」
「使えそうなの、か…」
その問いに、蓮は少し考えた後、アイテムボックスへ手を伸ばす。
「……じゃあ、何か使えそうな服があるか探してみますか」
空間が淡く揺らぎ、机の上に次々と衣装が置かれていく。
漆黒のローブ、金糸の軍装、豪奢なマント、細身の礼服――異世界を旅していた頃の戦利品の数々だ。
魔王を討伐したのち、凱旋の宴で押しつけられるように受け取った礼装や装飾防具まで、手当たり次第に取り出していく。
すっきり整えられていた白田の自室は、たちまち舞踏会直前で着る服に慌てる令嬢の部屋に様変わりした。
「うわあ……これ、どれもすごい服。ハロウィンと言ってもこれはかなり段違いにクオリティが高いですよ」
「まあ、コスプレじゃなくて全部本物ですからね」
「これで出歩いたらもう注目の的でしょ…」
「白田さん。日本でこれを着てる人は一人もいませんよ」
「――いやいや、だからって着たいとはなりませんよ!絶対何かの撮影かと思われるじゃないですか…ヤですよ」
白田が笑いながら肩をすくめる中、蓮は次のひとつを取り出した瞬間、手を止めた。
「あっ……」
純白の光沢を放つ天使族のドレス。羽根の可動域を妨げないように背中は大きく穴が開いている。精緻なレースが背中にあしらわれ、舞台衣装のように荘厳な気配をまとっている。
隣に置かれた深緑色の軽装ドレスは、自然を思わせるデザインで、森に生きる者の気配を纏っていた。
「これって?」
「異世界で過ごした仲間の服ですね……ミカリエルと、フィーネって言うんですけど。旅の途中で新調した時に“こっちのアイテムボックスいっぱいだから、替えの服そっちに一瞬入れさして!”って言われて、そのまま……完全に忘れてました」
白田は目を瞬き、新品の服の裾を指先で持ち上げる。
見た目以上に持った感触は柔らかく、綿毛を手の平に載せているかと錯覚するほど重量を感じない。
蓮はその替えの服を見つめ、遠い目でもう二度と会えない戦友たちに想いを馳せる。
五年の死闘を繰り広げた末の最終決戦。蓮たち勇者パーティー五人の相手は魔王軍五万。
天使族のミカリエルは、敵将の終末魔法に対して自爆魔法をぶつけることで大陸東部を壊滅的な崩壊から守るだけでなく、敵勢二万数千を道連れにして、魔王城までの血路を開いた。
鬼人族の大盾使い・ガルザンと、竜人族の槍騎士・ドラヴィスは、蓮を玉座の間に送り込むため、中庭で約八百の将官級幹部と上空からのドラゴンブレスの弾幕をたった二人で引き受けた。
ガルザンは主塔門前で仁王立ちしながら、右目と左腕と勇士の証であるツノを失いながらも敵の追撃を完全に食い止めた。
ドラヴィスは敵親衛隊と飛龍軍団の陸空の猛攻により愛槍のみならず、敵の武器庫から鹵獲した武器も全て折れ尽きた。
敵の攻撃がガルザンに殺到し、彼の劣勢と人間側の敗北を予感したドラヴィスは己の精神・生命の安全を省みず、自らに攻撃強化・肉体強化・爆裂魔装・竜血覚醒・狂神不退・暴食降臨・散華烈昇などを付与し、まさに背水の陣の構えで命を燃やし、これらの敵を全て打ち破った。
蓮は、右手の聖剣と左手から放つ魔法の二刀流で魔王との死闘を繰り広げたが、魔王の魔核を聖剣で突き砕くのと、蓮の胸を魔王の右手が貫通するのは全くの同時だった。
二人揃って玉座の間の石床に倒れ込み、魔王は程無くして息を引き取ったが、蓮は玉座の間まで同行したエルフ族の回復術士・フィーネの魂を尽くした回復魔法で一命を取り留めた。
連戦に次ぐ連戦によって彼女は激しい頭痛と目眩に襲われる魔力切れの中、魂を削って蓮に回復魔法を行使したため、魂の七割を失った。
そのお陰で蓮は胸を貫通する重傷から生還し、他の三人の戦友のお陰で後顧の憂いなく魔王との戦いに全力を注ぐことが出来た。
アイテムボックスにはフィーネ・ミカリエルの新品の替えの服だけでなく、ドラヴィスが使い込み、練習用として貰った槍と、代わりに修理に出して預かったままとなっていたガルザンのモーニングスターも納められている。
もちろん、蓮が魔王の胸を突いた聖剣も。
「すごい……けど、これもクオリティ高すぎですよ。いや、これ着て渋谷を歩いたら通報されますね」
「あっ…やっぱりそうですよね……」
意識をよそにやっていた蓮は、楽しそうに装備を眺める白田の呼びかけに正気を取り戻す。
蓮は気を取り直し、さらに奥から何着か取り出す。
派手な黄金鎧、王族向けの羽飾り、魔族の幹部たちから鹵獲したスカルアーマー、武威と勇猛を強調した礼装、そして――
「……え、ちょっと待って。これ……布の面積少なすぎません?」
白田が引きつった声を漏らす。
机の上には、鋲と金具で飾られたビキニアーマーが鎮座していた。
「もしかして、蓮くん……」
「い、いや、違うよ!なっ、なんでこんなものが…。あ、あれだ!たぶん戦利品の中に紛れてただけですよ。俺が買ったとか選んだとかじゃなくて、偶然!なんかの拍子で紛れ込んじゃったんだと思うんですよ!」
慌てて手を振る蓮の顔が、珍しく赤くなる。
白田は吹き出しそうになりながらも、必死で堪えて言った。
「……とりあえず、これは置いておきましょう」
二人の視線が横にどけられたビキニアーマーに数秒止まるも、一旦全てを仕切り直すように咳払いをして、何事もなかったかの調子で再び部屋中に広げられた服に集まる。
これまでの候補にいずれも白田にはしっくり来ていない様子。蓮が続いてアイテムボックスから取り出したのは、深い紫色のローブと尖った三角帽子、そして持ち手の先端が渦を巻く百二十センチほどの杖だった。
「……これは?」
「魔女の衣装ですね。潜伏用に作ったやつです」
「潜伏用?」
「魔女信仰が篤いとある総本山に乗り込んだことがありまして――」
「はあ」
白田は三角帽子を手に取り、軽く被ってみせた。長いダークブラウンの髪に影が落ち、上品な輪郭が際立つ。ローブを羽織り、杖を手に取ると、まるで本当に物語から抜け出した魔女のようだった。
「……どうですか?ちょっと本格的ですけど、これならハロウィンっぽいですよね」
蓮はしばし黙って白田の全身を眺める。やがて短く答えた。
「似合ってますよ。これくらいがちょうどいいかと」
「…じゃあこれにします」
白田が魔女装束に着替えに行こうとした矢先、思い出したように蓮が止める。
「あ、ちょっと待ってください」
「え?」
白田の手からひょいと杖を借り受け、渦巻きの部分に左手で魔力を集める。
「これ、撃てちゃうので、セーフティー掛けておきますね」
「……分かりました」
ごくりと喉を鳴らした白田は、おずおずと脱衣所へと向かった。
結局、蓮が選んだのは日本に帰って来る際あらかじめ異世界で仕立てたビジネススーツ風の魔力衣にサングラスを合わせた姿。バラエティ番組で見たハンターのように、妙な説得力があった。
「どうですか?」
「似合ってますよ。絶対逃げ切れなさそう」
二人は互いに姿を見合い、小さく笑みを交わす。
「よし。じゃあ渋谷へ行きましょうか」
二人は準備を整え、夜の喧騒へと歩み出す支度を終えた。
十月三十一日。
夜の帳が下りた渋谷は、金曜日ということもあっていつも以上のざわめきに包まれていた。
ハロウィン当日のスクランブル交差点。大型ビジョンが放つ光が、群衆の仮装を照らす。
ナース、ヴァンパイア、アイドル風の衣装、アニメキャラのコスプレ――視界のすべてが色とりどりの仮装で埋め尽くされ、街全体が創作の世界に迷い込んだように異様な熱気を帯びていた。
道の脇では、観光客がスマートフォンを掲げ、押し合いへし合いで記念撮影をしている。
リュックのような木箱を背負った、黒と緑の市松模様の羽織を着た青年。
黄色の羽織とお揃いの金髪のウィッグを着けた頼りなさそうな青年。
上半身裸で割れた腹筋をアピールしながら、猪のような被り物をした青年。
市松模様の羽織の青年に従いながら、徒手空拳で構える、口に竹筒を噛んだ着物姿の少女。
彼らは各々の竹光を抜き放って様々なポーズを構え、その周囲は盛り上がりを見せる。
周囲の店からは揚げ物や甘い菓子の匂いが漂い、コンビニ前では既に出来上がった若者たちが大声で笑い転げていた。
警察の姿も目立つ。青いベストを着た機動隊員が交通整理をし、車の流れが人波に押し返されるたび、笛の音が鋭く響いた。
そして、その中に混ざっていたのは、奇妙に統一感のある仮装集団だった。
黒いマントと銀色の仮面――銀の仮面を模したコスプレだ。彼らはまるで同じサイトで同じ装束を買ったように、色味も意匠も統一されていた。
青色LEDを埋め込んだアクリル光球を左手に持つ者。
二メートルほどの長さの竿に揺れる三日月の旗を肩に担ぐ者。
両手から噴き出す黒い炎の形を模した布をはためかせる者。
電撃が迸る爪を両手から生やす者。
彼らは基本フォーマットにそれぞれ創意工夫を加えつつ、皆一様に銀の仮面を称え、正義を掲げていた。
そして彼らはただの仮装に留まらず、ゴミ袋を手に道端の空き缶や紙屑を拾い集め、酔って道に座り込む者を抱き起こして歩道の端に寄せるなどの善行をし始めた。
腕には「正義」と書かれた揃いの腕章を着け、露出の多い衣装を着た女性を囲んで守ったり、酔った勢いで喧嘩に発展しそうな通行人を止めに入る姿も見える。
左手の黒革の手袋に、青色に光るLED魔法陣を埋め込んだ者は、「そこまでにしなさい」と光る手の平を見せつけつつ、治安維持に一役買っていた。
銀の仮面に影響を受けた有志達がSNSや匿名掲示板でオフ会を呼びかけた所、全国各地で銀の仮面コスチュームに身を包んだ人々が街に飛び出した。
人知れず日本の夜を守り続けて来た銀の仮面が草分けた道を彼らも進み、その"夜を守る理念"を辿っていたのだった。
そんな喧噪のただ中、駅から東側に少し離れた宮益坂方面のビルとビルの隙間に淡い光が瞬き、二つの影が現れる。音も風もなくふわりと現れた蓮と白田の靴音がコツリと地面に落ちる。
通りに出ると、駅まではまだそこそこ距離があるというのに、既に周囲は祭りの熱気が押し寄せていた。
「……すごい活気ですね」
思わず白田が息を呑む。魔女の帽子のつば越しに、雑踏の明かりが乱反射していた。
「これが“渋ハロ”か。……想像以上だな」
サングラスの奥で蓮は冷静に人波を見渡す。
二人が路地を抜けてメインストリートに出ると、熱気が肌を叩いた。
鼓膜を揺らす音楽、群衆の笑い声、カメラのシャッター音。
すれ違う通行人たちが白田の姿を目にして、「かわいい…」「本物みたい…」「ガチ魔女じゃん」と声を上げ、数人が同時に視線を奪われて白田の背を見送る。
肌の露出はほぼ無く、女性らしさをアピールするような服装ではないが、それは戦地で実際に使用された本物の魔女の装備。見る者が見ればその裁縫技術やデザインは卓越している物とすぐに分かるものだった。
鍔の広い三角帽子で相対的に白肌の小顔が強調されるだけでなく、全身ジャストサイズに自動補正された魔女の装備によって彼女の体にぴたりと馴染み、シルエットの美しさを際立たせる。控えめなのに何故か強い存在感を放つその姿に、人々の目が奪われていた。
白田は通り過ぎるだけで自分に視線が集中していることに気付く。思わず足を止め、三角帽子を軽く押さえながら小さく笑った。
「……すごい。見られる側になるのって、ちょっと恥ずかしいですね」
「醍醐味ですね。似合ってるから、仕方ない」
蓮の淡々とした言葉に、白田の頬がわずかに赤く染まった。
宮益坂下交差点から高架下方面にかけて、人波がうねるように流れていくのが見える。
その一角で、銀の仮面のコスプレ集団が声をかけていた。
「気を付けて帰ってください!」
「左側通行でお願いします!譲り合いで行きましょう」
「信号、もうすぐ変わりますよー!」
仮面越しの声は不思議と通る。混沌の渋谷に三日月の旗が揺れ、小さな秩序を作り出していた。
白田はその様子に目を丸くし、蓮の袖を軽く引いた。
「……見てください、あれ。仮面が、あんなに」
「……壮観だな」
「どうです?混ざってきます?」
「あれなら案外バレないかもな。でも、お休みだし?」
目を細めながら小さな冗談を滲ませ、蓮が目を細める。
白田は唇を吊り上げ、ニヤリと笑った。
二人は、高架下を潜り抜け、ハチ公方面の喧騒の渦に足を踏み入れた。
夜の渋谷スクランブル交差点、最も熱を帯びた祭りのただ中へ。
スクランブル交差点の歩行者信号が青に変わる度、日本代表が優勝したような歓声と熱気が道路上に沸き起こる。
青になった瞬間駆け出す者。対岸からやって来た他人とハイタッチする者。
飛び跳ねながら「オイ、オイ、オイ!」と掛け声を上げ、それは波のように広がっていく。
赤信号に変わる度その祭りは一時中断され、青信号になるとまた道路上で祭りが繰り広げられる繰り返し。
蓮と白田は巻き込まれてはぐれないように、人波をするするとすり抜けて無事にセンター街方面に渡ることが出来た。
喧噪を抜け、センター街の入り口付近。
白田が脱げそうになった帽子を押さえて人混みを縫うように歩いていたその時、群衆の波を抜けた先で、黒いマントに銀色の仮面をつけた男が、すれ違う人々に飴玉を手渡していた。
カゴの中には、透明な袋に包まれた色とりどりの飴が山盛りになっている。
「正義を愛する君に」
低いが朗らかな声。銀の仮面を模したその人物は、まるで舞台役者のように大げさに胸へ手を当てて礼をした。
白田は驚きに目を丸くし、思わず笑って受け取る。
「ありがとうございます」
「ハッピーハロウィン!」
その隣に立つ蓮の掌にも、同じように飴が落ちた。
瞬間――。
「……えっ?」
蓮の感覚がわずかにざわめいた。
掌の小さな重みから、かすかな“流れ”が伝わってきたのだ。
――魔力だ。
地球にはそもそも魔法も魔力も存在しない。異世界と違って地球では外部からの魔力供給は不可能なはずだ。
だが今、確かに飴の奥で淡い力が脈打っている。
蓮はごく自然を装いながら、渡した仮面の人物を振り返る。
しかしそこに立っていたのは、どう見ても普通の若者だった。
仮面の下から覗く頬には汗、肩には安物のマント、靴も量販店で買える安い革靴。どう考えても一般人。
だが――。
カゴの中の飴には、どれも同じように微弱な魔力が宿っている。
蓮はサングラスの奥で目を細め、男の動きを無言で追った。
その時、すぐ脇の路地でざわめきが起きた。
酔いつぶれた青年が道端で嘔吐してしまったのだ。
周囲の通行人が一斉に逃げるように離れていく中、また別の一人の仮面男が近寄り、持参した未開封のペットボトルの水を差し出す。
「大丈夫ですか?水飲んで、落ち着いて」
親切な声とともに差し出された透明の液体。
その瞬間、蓮の感覚が再び揺れた。
――あの水にも、魔力が混じっている。
飴も、水も。
この夜のどこかで、人知れず“何か”が魔力を吹き込んでいるのか。
祭りの笑い声と音楽に包まれながら、蓮はただ静かに目を凝らしていた。
蓮があちこちへ注意を向けながら進む中、不意に観光客のグループに行く手を阻まれ白田が立ち止まった。蓮と白田の間に人流が生まれる。たちまち二人の距離は開いてしまい、白田は半ば置き去りとなってしまった。
ひとまず邪魔にならないよう比較的スムーズに通れそうな壁際を縫うように進む。
魔女の帽子とローブに包まれた姿は、華美な仮装の群れの中でもひときわ目を引く。
壁際の足元に、ストロング系のチューハイを抱え込んで座り込んだ男がいた。焦点の合わない目で白田を見上げると、ふらつきながら腕を伸ばしてきた。
「おっ、……キミ一人ぃ?ちょっと酔っ払っちゃってさあ、近くで休みてえんだけど、付き添ってくんねえかな…」
男の手が白田の腰にいやらしく回されかけた、その時。
「やめなさい」
黒いマントの影がすっと割り込んだ。銀の仮面を模したまた別の青年が、酔った男の手首を掴み、低く制止する。
「チッ…んだよ…チン騎士がよぉ…!」
酔客は舌打ちをし、ふらふらと人波に消えていった。
「大丈夫ですか」
「…ありがとうございます」
「この辺りはああいうのが多いので、気を付けてくださいね」
青年は白田に小さなポケットティッシュを差し出した。街角で配られるような、ごくありふれたものに見える。表面には銀の仮面が握手を求めるようなイラスト。有志の会と書かれた小さな広告紙にはQRコードが描かれている。業者発注した物ではなく手作り感が見える仕上がりだった。
白田がそのポケットティッシュを受け取った瞬間、蓮の感覚が微かにざわついた。
飴や水と同じ――ごくわずかだが、確かに魔力の気配がある。
振り返ると白田は数歩先ではぐれそうになっていた。良からぬ男に引っ掛けられているのではないかと焦ったが、蓮が白田の姿を見つけた時には既に事態は収束しており、青年は深々と一礼し再び群衆の中へ消えていった。
「すみません、先に行ってしまって…」
「いえ、大丈夫ですよ。さっきの人が助けてくれたので」
「さっきの人?…ああ」
「どうも私は銀の仮面に助けられるみたいですね」
白田は蓮だけに見えるよう、目深に被った帽子の中で笑ったのだった。
スクランブル交差点を中心とする渋谷一帯の熱気は夜を増すごとに高まり、人々の笑い声が絶えない。
その片隅で、銀の仮面の姿を模した幾人もの影が、雑踏を整理し、転ぶ者を助け、か弱い女性を陰ながら護っていた。
突然往来でブレイクダンスを始めたり、キャリーケース型のスピーカーで爆音を流す外国人が現れるとすぐさま制止に向かう。
仮面を着けた彼らは、ネイティブにも通用する英語力と毅然とした態度で、アンチマナーインバウンドに対応していく。
彼らは銀の仮面に憧れた普通の人々に過ぎない。だが、渋谷には確かに銀の仮面の魂が舞い降りていた。
白田は蓮と並んで歩きながら、帽子のつばを押さえて微笑む。
蓮はその横顔を横目に、白田の手に残る微かな気配へ視線を落とした。
それは先程の仮面の人物から渡されたポケットティッシュ。
――なぜ、こんなものに。
飴とポケットティッシュから魔力を感じる理由は謎に包まれ、答えは見つからない。
だが、人々の善意に支えられたこの夜の渋谷には、銀の仮面の足跡が確かに息づいていた。
毎週月曜・水曜・金曜20時投稿予定です(祝日は15時投稿予定)。
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