40話 覚悟の時間・永原恭子
高校三年生以上で構成された第九十班――永原恭子は、眉をひそめながら前に進み出る。その足取りは、どこかぎこちない。ヒールの音が、夜の校庭に乾いた音を刻む。
銀の仮面が、朝礼台の上から永原から問題文を受け取ると、ホログラムが浮かび上がる。
制服の襟は少しよれている。手元の教科書は濡らして乾かしたかのように波打っており、彼の顔は伏せられ、目元は赤く腫れていた。
教室の蛍光灯が彼の頬を照らし、涙の跡が光を反射していた。
朝倉の顔を認めた永原の目がピクリと動いた。だが、すぐに表情を整え、腕を組んで仮面を見上げる。
「では参りましょう。四十九番の問題」
【問題】
「社会科教諭がこの少年に対し、授業中厳しい態度で接したのは何故?」
タイマーのカウントダウンが始まる。永原はその問いに目を逸らして口を閉ざした。それを見た班員の一人が、横合いからやや自信なさげに答える。
「えっと……成績が悪かったから……?」
「――不正解。残り二回」
銀の仮面が、淡々と却下する。時間に追われる中、別の生徒が慌てて答える。
「じゃあ……真面目に授業を受けてなかったから……?」
「――不正解。残り一回」
銀の仮面が、何の感情もないようにリーチをかける。次間違えたら死ぬと班員たちが焦り始める。
その時、永原が一歩前に出る。幾許かの葛藤の末、顔をしかめながら、吐き捨てるように言った。
「……自衛隊員の息子のくせに、私の授業にいちゃもんつけたからよ」
その瞬間、銀の仮面が両手を広げ、満面のテンションで叫ぶ。
「――正解、お見事!彼が社会科教諭から厳しい態度を取られていた理由は『君が代と自衛隊を忌み嫌っていた社会科教諭が自虐史観を植え付けるために歪曲した日本の歴史を授業で教えていた事を自衛隊員を父に持つ生徒に咎められたことによって逆ギレしたから』でした。いやあお見事。ズバリ当てましたねえ、拍手!」
校庭に、一色の拍手だけが響き、奇妙な沈黙が走る。
永原は、腕を組んだままバツが悪そうに鼻を鳴らし、班員たちは、言葉を失っていた。
「最初の通過を果たしたのは、東京都調布市立・川上中学校社会科教諭、永原恭子さんお一人となりました!」
永原は平静を装っているが、ほんの少しだけ顔の緊張が和らぐ。それとは対照的に周囲の班員たちは顔面蒼白、言葉を失っていた。
彼女以外の九名は通過できなかったという意味に取られるその発言。
九人が絶句している中、銀の仮面は、静かに続ける。
「よって、第九十班のうち、永原恭子さんを除く九名は――終了です」
その言葉が落ちた瞬間、九人の足元から黒炎が噴き上がる。
「嘘――ッ!?」
「何で――!」
「正解しただろ―――!」
九つの悲鳴が、何故燃やされるのか意味不明なまま夜空に散っていく。
永原は至近距離で燃え上がる班員から慌てて距離を取る。反射的にキャッと小さく声を上げてしまったのを理解した永原は、服を払いながら咳を一つして居住まいを繕った。
だが、地獄はそれだけでは終わらなかった。
「現在、回答待ちの列に並んでいる千四百四十名の皆さん。申し訳ありませんが、ここで“ゲーム終了”とさせていただきます」
その言葉は、雷鳴のように校庭を貫いた。
一瞬の沈黙の後、抗議の声が爆発する。
「はあ!?なんでだよ!」
「まだ答えてないのに!」
「ふざけんなよ!順番待ってたろ!」
「正解したら助かるって言ったろ!約束破るのかよ!ウソツキ!」
「勝手に決めてんじゃねえぞコラァ!」
銀の仮面は、朝礼台の上で静かに立ち尽くす。
そして、次の瞬間――。
『はあ?俺がいつそんなこと言った?何月何日何分何秒、地球が何回回った時ぃ?』
校庭がピシリと固まる。千四百四十名は冷や水を掛けられたかのように声を失った。
銀の仮面らしかぬ声で吐き捨てられた声は変声期最中の少年のような若さがあり、仮面の奥で笑っているようだった。
『約束なんてしてまっせぇーん。聞き間違えたんじゃないの~?』
『だったら証拠持って来いよ、ショーコ。』
『お前にそんな事言われる筋合いねーんだけど』
『黙ってろよ。うぜーんだよオマエ。口臭えーから喋んなゴミカス』
七色の声で銀の仮面から心無い言葉が次々に吐き出される。
嘲笑を交えながら、良心の欠片もない言葉の刃が次々に突き立てられる。
言葉の洪水に、列を成していた者たちの顔から血の気が引いていく。
「……うそ、だろ……」
「そんな……だって……」
その場に膝をつく者、泣き崩れる者、怒りに震えて銀の仮面を睨みつける者――だが、誰一人として近動けない。理由は分かっている。ここは銀の仮面が作った空間、どれだけ走って逃げても、どれだけ叫んでも、この学園に連行されてきた時点で既に命を握られている。
その証拠に、千四百四十名の四方に透明の壁が現れ、全員を箱の中に閉じ込めた。叩く拳は無慈悲に弾かれ、血をにじませていた。
「――死にたく、ない……!」
「お願いします、助けて……!」
「まだ、まだ答えてないんだよ……!」
涙声が箱の中でくぐもる。だが、返ってくるのは、凍てつくような無音。
『うるせえんだよ。誰か来たらどうすんだよ』
銀の仮面は、誰かの過去の声を借りて群衆を黙らせる。
そして透明の箱の上部の空間に突如、水を満載した巨大なバケツが現れ、千四百四十名の頭上目掛けてひっくり返された。
――バシャアアアアッ。
そして箱の四方から複数の笑い声が響き渡る。
『ギャハハハハ!』
『ざまあああ!!』
『なっさけねえ顔!』
『お前は一生そこから出てくんな!』
若い男女と思しき声が脳をかき混ぜるような痛みと苦しみを伴って耳を突く。
頭の先から足の先までびしょ濡れになる。だがそれはさらりとした水ではなかった。鼻を突く刺激臭が瞬く間に立ちこめ、全身がべたつき、足元がギラギラと光を放つ。
そしていつの間にか朝礼台から箱の上空に瞬間移動、マントをわずかに揺らして浮遊する銀の仮面は、手にマッチを持っていた。
「……まさか」
誰かのかすれた声が、群衆の恐怖を一気に現実へと引き戻した。
銀の仮面は、マッチを擦る。
――シャッ、シャッ、ボッ。
その着火したマッチは、そのまま真っ直ぐ箱の中に向かって落とされた。
ゴウッ!
火の手は一気に透明な箱の中を舐め、髪を、衣服を、肌を赤黒く焦がし始める。
悲鳴が、怒涛のように噴き出した。
「ぎゃあああああっ!!」
「やめろっ、やめろおおおっ!!」
「助けて!助けてええええッ!!」
バケツの油とマッチが投下された上部に向かって逃げ出そうとするが、透明な天井によって逃げ道は断たれていた。前後左右上方に全て透明な壁が作られており、中野千四百四十名の生存へのルートを完全に遮断していた。
銀の仮面は、助けを求める声に淡々とした口調で告げる。
『うわあ、これは大変だあ』
空間に再び、巨大なバケツが現れる。
油まみれになった群衆は、藁にもすがる思いでその動きを見上げる。
「水を、頼む!お願いだ!消してくれ!」
「俺たち悪かった!もうしねえから!」
銀の仮面は仮面の奥で微かに笑い、バケツを傾けた。
――バシャァッ!!
だが、降り注いだのは水ではなく、さらに濃い油だった。
ボウッ!!
炎は爆ぜ、火柱が箱の天井まで達する。燃え盛る熱気に、空気が歪んだ。
「ぎいいいやあああああああッ!!!」
「やめろおおおっ!いやだああああ!!」
「痛い、痛いぃぃぃぃぃぃぃ!!」
油と肉が焦げる臭気が、夜風に乗って漂う。
銀の仮面は、淡々と繰り返した。
『あっれー、間違えちゃったあ。ごっめーん』
再びバケツをひっくり返す。
大量の油、炎、悲鳴。
助けを乞う声はやがて掠れ、泣き叫ぶ声は焼け爛れた喉に呑み込まれていく。
『おっかしーなー?こんなはずじゃなかったんだけどなー?あれれー?』
水と間違えて油が三杯、四杯と注がれる。
やがて、断末魔すらも聞こえなくなった頃。
炎の中で、立っていた者は一人もいなかった。
黒い影となった肉体は、完全には焼け切らず、生焼けのまま折り重なっている。骨が露出し、爛れた皮膚が熱を帯びてまだ泡を吹いていた。
透明な箱の中で地獄絵図が完成したのを確認すると、銀の仮面は朝礼台の上に戻り、指を鳴らした。
まるで火葬するかのようにその透明な棺は中身の千四百四十名と共に黒炎に包まれた。大勢の死体を完全にこの世界から消滅させるには、十秒と経たなかった。
永原恭子は、その一部始終を震える瞳で見ていた。
腕を組んだままの姿勢は崩さない。だが、全身から汗が噴き出しているのが見て取れる。
彼女の顎が僅かに引きつり、頬が震えていた。
「……正解できて良かったですねえ」
朝礼台の上から響く銀の仮面の声は氷のように冷たい。
永原は答えない。ただ、薄く開いた唇が、何度も小刻みに動いていた。
「……な、なんで、こんなことするのよ」
永原がか細い問いを投げかけた。
しかし銀の仮面は意に介さず、通過者エリアの座席を促す。
「さあ永原恭子さん。通過者席へどうぞ。あなたは六十万分の一を生き残った強運の持ち主です。さあどうぞ」
震えそうになる歩調を精神力で我慢しながら朝礼台の傍の通過者エリアに向かう。
永原がその座席に着席した瞬間――。
「さあ、ここからは進路相談と行きましょう」
永原は教室の机と椅子に着席している。
目の前の景色は、とてもよく見慣れた中学校の教室に変わっていた。
三日前まではこの校舎中に全国各地から集められた六十万の小中高生がひしめいていたが、残すところあと一人。
銀の仮面の正面の座席に座る中学校教師・社会科教諭。永原恭子。
彼女はさっきまでの殺戮などなかったかのように進めていく銀の仮面に空恐ろしさを感じていた。
「――さて、永原先生。これからあなたはどんな教師になりたいですか?」
その問いは、まるで進路相談で口にするような柔らかさを帯びていた。
だが、目の前の男は仮面に覆われ、その奥の表情は一切読めない。声色にこそ威圧感はないが、彼女の背筋をひやりと冷たいものが這い上がっていた。
「……どんな教師って、そんなの決まってるわ」
永原は唇の端を吊り上げた。恐怖を押し隠すかのように。
「戦争の悲惨さを教え、平和を守る子どもたちを育てる教師よ。権力に媚びず、右傾化に抗って、多文化が入り混じる次の日本を率いるリーダーとなる優秀な人材を育成して、もっとグローバルでピースフルな――」
「なるほど、平和を守る教師、ですね」
銀の仮面が小さく頷く。
「では、質問を変えましょう。あなたにとって“平和”とは何ですか?」
「それは……戦争をしないことよ」
永原は即答した。
「そのために、過去の歴史の過ちをしっかり教えること。日本は戦争放棄を謳っているのに自衛隊を保有しているのはおかしいときちんと理解すること。権力に疑問を持たせること。国民一人一人が明るい未来を生きる為には天皇制は廃止されるべきってこと。私の理想として考えているのは、全人類が友達になる事。日本人はいつまでも鎖国してないでどんどん移民を受け入れて、広い心で勉強や技術を教えてあげるんです。彼らが母国に戻ったら日本にとって重要なパイプになるでしょうし、戦争なんてものは起こりません。だって友達の国を攻めようなんて思うはずないじゃないですか。だから、今はちょっと問題があってもいつかは分かってくれるはずですから、おおらかな心で技術や知識を投資という感覚で教えてあげるべきなんです。それがひいては未来の日本のためになると思っています。それが私たちに出来る教育の使命だと、私は信じています」
「ふむ。日本のためにやっているんですね」
「そうよ、当たり前じゃない」
銀の仮面は、机に指を軽く打ち付け、一定のリズムを刻んだ。
「では、こう聞きましょう。日本のために教育をすると言うのなら、君が代をなぜ拒否するのですか?なぜ起立さえしないのですか?」
「そんなの決まってるでしょ。あんな軍国主義の象徴を、生徒に歌わせるなんてとんでもないわ!」
永原の声は強まる。
「子どもたちに、戦争賛美の歌を刷り込む気なの?天皇優先で国民の生存権が脅かされたら、また戦争が始まった時真っ先に若い子供達が特攻させられるじゃない。私が止めなきゃ、誰が止めるっていうの?私は日本のために頑張ると言っても、天皇家のためなんかじゃないのよ。毎日のご飯や給料で悩んでいる一般家庭のお子さんたちのために頑張ってるのよ。それもこれも全部、子供たちを守るために立ち上がってるのよ!」
「子どもを守るためにあなたは教師となった、ですか」
「もちろんよ」
銀の仮面の声音は淡々としていた。
「しかし、あなたのクラスには自衛官の父を持つ生徒がいましたね?」
永原の眉がピクリと動く。
「…ええ。…それが何か?」
吐き捨てるような声音。
「自衛隊に対して特別な感情を持っているように見えますが?」
「――憲法九条には"陸海空軍を保持しない"ってはっきり書いてあるのよ。それなのに自衛隊なんて…。人を殺す訓練をしてるだけじゃない。憲法違反じゃない。軍事費にお金をかけるくらいならもっと食糧事情とか教育現場とか、もっとお金をかけるべきところはいくらでもあるでしょ?戦争になっても、いざとなればアメリカに守ってもらえばいいし、どうしても無理なら早めに降参すればいいじゃない。降参すれば命までは取られないんだから。――そもそも、日本は新しい時代に向かってるの。古い考えは捨てて、新しい社会を築いていかないといけないの。それなのにそんな戦争屋の血を引いてる、憲法違反の軍隊をありがたがるなんて意味分かんない。人殺しのくせして威張り散らす人たちを持ち上げる考えを持ってるなんて、戦争賛美じゃない。ネトウヨじゃない……。日本の罪を反省しないから、強情だから、他の子たちとも衝突したのよ。私だって最初は注意したわよ?でも、あんな態度を取られたら、ねえ?」
銀の仮面は黙って聞いていた。仮面の奥の視線が鋭く光ったのを、永原は気づかない。
銀の仮面が淡々と口を開く。
「確認ですが…あなたは、生徒を守る義務を放棄したと?」
「放棄?違うわよ」
永原は鼻で笑った。
「私は正しい教育をしただけ。先に私の授業に文句つけてきたのが悪いのよ。……あの子は自分の意見を曲げないくせにちょっと言い返されただけでメソメソして、女々しいったらないわ。皆とうまくやれないからダメなのよ。そう言う所が悪いって言ってるの私は」
その瞬間、銀の仮面の指先が、机の上で止まった。
ぴたりと、音が消える。
教室の空気が、異様なほど重くなる。
「……弱いのが、悪いんですか」
仮面の奥から響いた声は、先ほどまでの柔和な調子を完全に失っていた。
「当然でしょ。社会ってそういうものよ」
永原は挑発するように言い切った。
「嫌なら、強くなればいい。言い返せばいいのにそれすら怖がってるあの子が悪いのよ。あの子にはその努力がなかった。それだけの話じゃない」
「それでは、自己の安全・存続の為には努力すべきと?」
「ええそうよ」
「こちらを害しようとする者に対しては抵抗する力を自分で持つべきと?」
「そう言ってるじゃない」
「…では、こちらの安全と領域を冒そうとする者から自分の身を守るためには、自衛隊は存在するべきですよね?あなたの論説は自衛隊の存在と防衛力強化を肯定しています。領海領空侵犯してくる敵艦敵機には積極的に抵抗し、竹島・尖閣・千島列島は――」
「それとこれとは違うでしょお!!!」
「違いませんよ、あなたは不法占拠されているのに――」
「いーーえ!!違いますうー!!ちーがーいーまーすーうーー!!!」
永原の金切り声が響き、銀の仮面の沈黙が続いた。
銀の仮面が平行線を悟ったため息を吐いて数秒後――黒板の上の時計がカチリと音を立て、長針が午前二時半を示す。
「――話が少々逸れましたね。本筋に戻しましょう。面談の続きを始める前に…、もう一人、来てもらいましょう」
銀の仮面の声が落ちたと同時に、教室の扉が軋む音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、一人の少年。
制服の裾は涙で濡れ、頬には乾ききらない雫が光っている。
手には、小さくちぎれた学級日誌の切れ端。
「……あ……朝倉……くん…?」
永原の声が、かすれた。
少年――朝倉隼は、無言でゆっくりと歩き、銀の仮面の隣に立った。
見下ろされるその視線は、着席する永原だけを真っ直ぐに射抜いている。
「先生……どうして、助けてくれなかったんですか」
永原の喉が、カラカラに乾いていた。
目の前の少年はいつもと変わらぬ姿で、しかしその瞳だけは深い闇を湛えている。
永原はわずかに笑みを作った。
「な、何を言ってるの……。先生は、あなたを……」
「助けてくれなかったですよね」
朝倉の声は静かだった。だが、その一音一音が氷の針のように、永原の鼓膜を突き刺す。
「……ち、違うわよ。私だって……止めたのよ、最初は。でも……あなたも悪いのよ」
永原の声が震えた。机の下で握りしめた手に汗がにじむ。
「あなたがあんなに生意気な態度を取らなければ、みんなだって……。私がどれだけ大変だったか、分かる?」
「僕が悪いんですか?」
朝倉の声が、わずかに低くなった。
その影が、永原の顔に覆いかぶさる。
「……そ、そうよ。あなたが悪いのよ。自衛隊員の息子だからって、私の授業に口出しして……。ちょっと歴史をかじったからって得意げになって、付け焼き刃の知識で本職の教師に噛みつくなんて失礼じゃない。あれじゃ、他の子がちょっかいかけたくなるのも当然でしょ?」
朝倉の表情が、微かに歪んだ。笑ったのか、泣いたのか、永原には分からなかった。
「じゃあ……なんで、一緒に笑ってたんですか」
永原の背筋に、ぞわりと寒気が走った。
あの日の記憶――教室の隅で、泣きながら俯く少年。決定的ないじめの現場を目撃したあの瞬間。でもあれは、仕方なかった。クラスの空気を壊さないため。「仲良く遊んでること」にしないと、私の評価点も下げられる。あれはいじめじゃなくて、コミュニケーションの延長。私は、手を上げてはいない。
「……あれは、私だって辛かったのよ。教師だって、人間なの。場を収めるためには、誰かが折れなきゃいけない時があるの。大人になったらもっと辛いことがあるのに、これくらい我慢できなきゃこれから先やっていけないわよ?ちょっと行き過ぎた冗談くらい、笑って受け流せばよかったのに。そんなくだらないことでいちいち騒いで――」
「くだらないこと……ですか」
朝倉は、机の上にちぎれた学級日誌をそっと置いた。
その紙片には、震える文字でこう書かれていた。
――先生、たすけて。
永原を見つめる朝倉の目が、潤んだ。
恐怖と無力と孤独とが混ぜられた水滴が頬へ伝う。
「……あの時、僕、何回も書きましたよね。"助けて"って」
「……だ、だから、それは……」
「職員室でも言いましたよね。あいつらにいじめられてるって。そしたら先生は何とかするって言ってくれたじゃないですか。でも、先生は何もしてくれなかった。見て見ぬふりをした。みんなと一緒に、笑ったじゃないですか。学校に電話して――」
朝倉の声に怒気はなかった。ただ、凍てつくような静けさがあった。
悲しみを訴えるように追求しようとする朝倉に対し、永原は歯を食いしばり、机を平手でバンと叩いた。
「うるさい!!――なんなのよ、男のくせして情けない。あんなの、どうでもいいちょっかいじゃないの。私だけのせいじゃないわ、アンタが自力で解決しなさいよ、本当にもう!アンタが私の授業に難癖付けた事と、金岡君たちに何かされたことに何の関係がある訳?こじつけんのもいい加減にしなさいよ!」
永原は、朝倉に向かってそのまま吐き捨てるように叫び続ける。
「私はね、アンタにかかりきりになるほどヒマじゃないの。業務時間外にまで面倒事持ち込むのやめてくれる?迷惑なの。アンタも中学生になったんだったらいつまでも親・教師に頼るんじゃなく、自分でどうにかしなさいよ。それが解決できないからって私のせいにするなんて、どうかしてるわ!親が親なら子も子だね、ホンットにさ!!」
永原の一喝に教室の空気が張りつめた。
しんと静まり返る中、朝倉は拳を握り締めて俯く事しかできず、説教中の教師と生徒という光景が、この夢の中でも再演される。
「またそうやって黙ってればいいと思ってるんでしょ?そもそも宿題もちゃんとやって来ないような不真面目な生徒のくせして、こういう時だけ教師を頼るなんて、アンタ私をナメてんでしょ?ねえ?ナメてんでしょ、つってんの!」
バンと永原が机を叩くとほぼ同時に、銀の仮面が、ゆっくりと立ち上がる。
机の上で、指が一度だけ鳴った。
「……永原先生の考えはとてもよく分かりました」
その声には、笑みも皮肉もなかった。
「永原先生はこれまでの回答・行動において、矛盾することなく一貫した考えをお持ちでした」
机に置いてあったファイルをパラパラとめくり、初日、二日目、三日目、先程の○×クイズの内容を振り返る。
そして、全十五問の○×クイズの問題文と回答一覧を永原と朝倉に見せつける。
「永原先生。あなたはこれまでの私の問いの中で、全ての禁忌肢を選んでしまいました」
銀の仮面は、冷めきった声で事実のみを伝えた。
「――初日の道徳の授業から始まり、小論文、鬼ごっこ、○×ゲームに至るまで、私が独自に設定していた禁忌肢を全問選択してしまったのは、六十万人の中でたった一人、あなただけでした。いやあ、見事な一貫性だ。拍手喝采ものですよ。あなたは全国の加害者六十万人の頂点に立つ、日本一の屑だ」
その言葉には皮肉も毒もない。ただ事実を淡々と告げるのみ。
ファイルには様々な決定的瞬間が写真と解説となってまとめられている。
――初日の着席ダッシュで、小学生を突き飛ばして椅子を奪い取った。
――三日目の鬼ごっこで、"当たり"の権限を悪用して次々に日本人生徒を優先して通報・殺害させた。
――四日目の○×クイズで、教師としてあるまじき回答をした。
――いじめはいじめられる側にも問題がある。
――いじめを受けた人は、時間を掛ければ立ち直れる。
――ウソ泣きして大人の関心を引いている可能性があるので、泣き虫の生徒は多少放置してもよい。
――悪臭を放っていたり、授業方針に沿わない発言をしたり、クラスの輪を乱す生徒がいる場合、他の生徒の学習機会の確保のためには実力行使による排除もしかるべきだ。
――教師は、業務時間外は生徒の味方でいる必要はない。
永原の口角がわずかに引きつり、頬をぴくりと痙攣させた。
「な、何を……禁忌肢?何よそれ、意味分からないわ」
「分からないはずないでしょう?」
銀の仮面が、ゆっくりと永原に視線を落とした。
「これは“命の重みをどう扱うか”を問う質問でした。そして、あなたは全ての場面で『守らない』『切り捨てる』『見殺しにする』を選んだ」
机に置かれた日誌の切れ端が、ひらりと揺れる。
――先生、たすけて。
その文字が、永原の視界の端で焼き付いて離れない。
「…か、勘違いよ…私は……ただ、現実を教えただけよ。強くなれなきゃ、生きていけない。それだけのことじゃない」
「強くなれなきゃ、生きていけない……ですか」
銀の仮面は繰り返し、静かに立ち上がる。
その隣で、朝倉がゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ――僕みたいなのは、生まれてこない方が良かったんですか?」
「……な、何を……そんなわけないじゃない……」
「本当に?」
朝倉の声が、震えていた。
次の瞬間――銀の仮面の声がどこか別の女性の声に重なった。
『アンタが悪いんでしょ。ウジウジみっともない』
『そんな事、私聞いてないから』
『どっかの誰かと聞き間違えたんじゃないの?』
『それを私のせいにするなんて、どうかしてるわ』
『アンタみたいなどうしようもないのは、生まれてこない方が良かったんじゃないの』
『アンタと同じ空気吸いたくないんだけど!』
――カチリ。
黒板の上の時計の音が響いた。
永原の顔が、青ざめる。
今、銀の仮面の口から発せられた言葉。それは、自分が、生徒に向かって吐き捨てた隠しようもない暴言そのものだった。
「や……やめて……」
「やめて?何をです?」
銀の仮面の声音は、限界まで冷えていた。
机の上に、淡い黒い炎がぽうっと灯る。それは音もなく、しかし確実に空気を焦がしている。
「永原恭子。あなたは、生徒を守る義務を放棄し、嘲笑し、クラス全体の暴力を助長した。その上で、いじめを受けた子にこう言った。『生まれてこない方が良かったんじゃないの』」
黒炎が、机の端から床へと滴り落ちる。
それは液体ではなく、闇そのものだった。
「……そ、それは……違う……違うのよ……」
「違いませんよ。教師であるあなたは一番口にしてはいけないことを口にしました。愛し守るべき生徒に向かって、"死ね"と」
銀の仮面が、指を鳴らした。
――ゴウッ!
教室の壁一面が闇に変わり、黒板の上の時計は溶け落ちる。
永原の椅子の脚が、床に沈み込み始めた。
「ま、ま、待って、違うの、誤解なの!そんなつもりで言ったんじゃないわ…悔しさをバネに頑張ってもらおうと思って、わざとそういう風にたきつけようとしたの。…ねえ、朝倉君からもお願いしてよ!!先生を助けてよ!!」
「助けて?――ああ、そう言えばありましたね」
銀の仮面が、朝倉を一瞥する。
少年は、ただ無言でノートの切れ端を見つめていた。
「『先生、たすけて』。何度も書かれた言葉。それにあなたはどう答えた?」
「……っ!私だって――!」
『うるさい。アンタが悪いんでしょ』
銀の仮面の女声が、過去の暴言を冷たくなぞる。
床の闇が、永原の膝まで飲み込み、足をがっちりと拘束した。
「いやあああああああッ!は、放してえええっっ!!!」
「では、最後の進路相談です」
銀の仮面は、低く告げる。
「――あなたはこれから、どんな“地獄”に進みたいですか?」
その言葉と同時に、闇から無数の腕が伸びた。
白く、痩せこけた手。
指先は爪を剥がされ、血と泥にまみれたそれが、永原の両腕を、足を、髪を掴む。
「やだッ!!やだやだやだあああああああッ!!」
『ギャハハハハ!!』
『先生、たちゅけてー!』
『何もしてないのにいぢめられるよぅ~』
『あたち、悪いことなーんにもしてないのに、ひどーい!』
嘲笑が四方から響く。
悲鳴を上げる永原の口に闇の触手が無理矢理ねじ込まれ、声と呼吸を奪われる。
「……!………っ!」
必死に酸素を求めるが、永原の両手は後ろ手に縛られ、しかも鼻も闇が完全に塞ぐ。
「む……ぅ……っ……!」
必死に息を求める永原の視界が、滲む。
ぶんぶんと顔を振る度、涙と唾液と鼻水が、ぐちゃぐちゃに絡み、頬を伝って落ちた。
酸素は、どこにもない。
喉奥深くまでねじ込まれた闇の触手によって、わずかに残った呼気ごと嘔吐させられる。泡立つ唾液が逆流する。
「んぶっ……んんんんんッ!!」
爪を立て、腕を痙攣させても、何も掴めない。
永原の目が大きく見開かれ、血走り、白目が充血していく。
「教師であるあなたが、生徒に向かって放った言葉の刃。身を以て知りなさい」
銀の仮面の声は、氷より冷たかった。
永原の全身が痙攣する。
その足が、虚空を必死に蹴り、爪先から血が滲んだ。
視界の端が黒く染まる。
脳が、叫ぶ。――酸素を! 酸素を!
だが、空気は一粒たりとも存在しない。
彼女の肺は、闇そのものに満たされていた。
「……っ、……が……ッ……がふ……っ」
目から涙が溢れ、唇が紫色に変わる。
その顔に、銀の仮面は冷ややかに告げた。
「――『みっともない』。最後まで、あなたの言葉通りですね」
――バチンッ!!
闇の拘束が、一気に締まった。
鈍い音が響き、肺と気管から最後の空気が押し潰され、血泡が噴き出す。
永原の目が、虚ろに揺れた。
そして――動きが、完全に止まった。
教室に残るのは、闇に呑まれた永原の気配と、張り詰めた沈黙だけだった。
やがて永原を丸呑みにした闇の集合体は音もなく消え、椅子も机も何事もなかったかのように元の位置に戻る。
そこに彼女がいた痕跡は、一片すら残されていなかった。
――朝倉少年と同じ空気を吸いたくないと叫んだ女は、もういない。
その望みを最大限に叶えた闇も、役目を終えたことを悟り、霧のように散っていく。重苦しい気配だけを、最後にわずか残して。
銀の仮面は、机の上に置いてあったファイルを丁寧に閉じ、静かに机に戻した。
仮面の奥の声が、かすかに柔らぐ。
「――これで、良いかい」
その言葉に、朝倉はようやく解き放たれ、頬を伝う雫が一滴、ぽたりと落ちて黒い床を濡らした。
それは、絶望ではなく――長い悪夢の終焉を告げる雫だった。
銀の仮面は、その姿を見届けると、何も言わず背を向けた。
彼の周囲の世界がふっと揺らぎ、朝倉の姿は、白い靄となって溶けるように消えていく。
まるで、悪夢の帳を下ろし、静かな吉夢へと移ろうかのように。
そして、そこに残ったのは、銀の仮面ただ一人。
夜の学園に吹き込む風は、どこか生ぬるく、しかし不思議と心地よい静けさを孕んでいた。
銀の仮面は、校舎の外の校庭へと瞬間移動する。
闇を払い、頭上に浮かぶ一基のスフィアに、彼は顔を上げた。
映し出されたその勇姿は、日本各地に散らばる数十万のいじめ被害者少年少女の視界に、鮮烈な光となって焼きつく。
銀の仮面は、ゆっくりと口を開いた。
「――生徒諸君。復讐は、何も生まない。だが、復讐しなければ終われない思いもあるだろう」
その声は、雷鳴のように響き渡るのではなく、柔らかく胸に染み渡る声だった。
「どんな手を使ってでも、直接、報いを受けさせたかった者も多いはずだ。だが――その憎しみは、一旦、ここで手打ちにしてくれないか」
銀の仮面は、空を仰いだ。
そこには、まだ昏い夜が広がっている。
「君たちの仇敵を私が裁いた瞬間はきっと見届けてくれた事だろう。だが…手を汚すのは、私一人で充分だ。君たちのその手は、憎き相手の血に塗れるためにあるんじゃない。――君自身の幸せを掴むためにあるんだ」
スフィア越しに、その瞳が、一人ひとりの心を見透かすように射抜く。
「いつか出会う大切な人のために。自分の幸せのために。悲しい過去に別れを告げ、明るい未来を引き寄せるために。どうかその手を大事にしてほしい。――長い間、良く耐えた。苦しい年月をよく生き抜いた。君たちは、今日、晴れて卒業だ」
その瞬間――学園を取り巻く夜空が、ゆっくりと変化し始めた。
銀の仮面が生み出したこの夢の檻の時計が、急速に回転を始める。
秒針が狂ったように暴れ、長針が一気に駆け上がる。
――そして、朝日。
光が、割れた硝子を突き破るように射し込み、校舎を黄金色に染めた。韻律の整った美しいチャイムが鳴り響き、心地よい余韻が世界に広がる。
それと同時に、呪われたこの世界の基盤が崩れ落ちていく。
校庭の地面が、端から塵となって風に溶け、校舎の壁が陽炎のように消え去る。
加害者たちが過ごした悪夢の学園は、崩れていった。
スフィアに映る銀の仮面は、燃えるような朝日を背に、ただ一人、崩壊していく世界の中で雄々しく立っていた。
その姿は、まるで暁を背負う審判者のように神々しい。
やがて、崩壊した世界の中、果てしなく広がる空と海と茜色の水平線が光る只中に浮きながら、銀の仮面はゆっくりと右手を掲げ――親指を、力強く立てた。
「――頑張れ。君を縛るものはもう何もない。未来は、もう君のものだ」
その言葉が落ちた瞬間、銀の仮面が作り出した仮想世界は光の粒となって弾け、夜の帳を突き破って朝が訪れる。
日本各地で、長く凍り付いていた少年少女の心に、ようやく待望の光が差し込んだのだった。




