37話 自我考察の時間
二〇二五年十月二十四日。
裁きの夜は、四日目を迎えた。
「またか……」
諦めにも似たため息が、校庭のあちこちから漏れ聞こえた。
誰が言ったとも知れないその言葉は、まるで空気に染み込むように広がり、二万一千人の胸の奥に同時に響いた。
また、二万一千人の加害者たちはこの夜の学園に強制的に連れ込まれた。
眠ってしまうと連れ込まれると思い、徹夜することで逃れようとした者もいたが、抵抗空しく、学園で四日目を過ごすことを余儀なくされる。
昨日の破壊と鮮血の跡は、まるで何事もなかったかのように繕われていた。校庭も校舎も、巨大なまま、静かに佇んでいる。飛ぶ斬撃に斬られた木も、爆発して窓が吹き飛んだ教室も、おびただしい血で汚れた校庭も、何事も起こらなかったかのように。ただ、ひやりとした風の感触だけが、忌まわしい夜の記憶を揺り動かす。
三日間の授業を生き抜いた加害者たち――二万一千人。
彼らは整列するでもなく、ただ校庭に立ち尽くしていた。誰もが無言。もはや当初からの友人・顔見知りなどはほぼいなく目を合わせる者は少ない。互いの存在を確認するように、ちらちらと視線を交わすだけ。
己の二の腕を抱えて震える者。腰に手を当てて虚空を睨む者。地面に座り込み、靴の先を見つめる者。それぞれが、それぞれの恐怖と疲労を抱えていた。
上空に砂時計が現れれば、また着席ダッシュが始まる。それはもはや儀式のようなものだった。半数が手始めに犠牲になるか、当たりハズレの選別がされるか。何にせよ、何を差し置いても席に着かなければ話にならない。
生き残るための最初の条件。
二万一千の目が、無言のまま空へと注がれた。
――およそ三十秒。
誰もが固唾を飲んで見上げていた。
だが、砂時計は一向に現れない。
ざわ……と、群衆の中に微かな動揺が走る。
「……不具合か?」
「時間、ずれてる?」
「まさか、もう始まってる……?」
囁きが、波紋のように広がる。
誰かが空を指差し、誰かが時計を確認する。
だが、何も起きない。
その沈黙が、逆に不気味だった。
その時だった。
校庭の朝礼台に、マントを翻して現れる一人の人影。その動きは、風の流れに逆らうように滑らかで、異様な静けさを伴っていた。
「――おはようございます」
銀の仮面。
その声は、まるで耳元で囁かれたかのように明瞭に響いた。拡声器もないのに、二万一千人全員が、同時にその言葉を聞き取った。
「今日も一緒に勉強していきましょう」
昨日、あれだけの死者が出たことなどおくびにも出さず、淡々と進めていく。その口調は、普通の学校の朝礼のようだった。だが、生徒たちはもう驚かない。この異常な常識に、順応してしまっていた。
誰も叫ばない。誰も抗議しない。ただ、静かに受け入れるしかないのだった。
「――では、これより四日目の授業を始めます」
その言葉と同時に、耳障りなチャイムが鳴り響く。また長い地獄が、終わらない夜が始まる。
四日目の授業は、静かに幕を開けた。
月光は冷たく、校舎からは教室の蛍光灯が漏れる暗い校庭。スタンドの電灯はまばらで頼りない。
代わりに、校庭の両端にぽうっと浮かぶ二つの光輪――巨大な「○」と「×」。
白く塗られたラインが、夜の底で不気味に呼吸している。
銀の仮面は朝礼台から授業内容を説明し始める。
「今夜は“○×ゲーム”です。これから出題する問いに対し、○か×か選びなさい。これは全員参加を義務付けます。参加しなかった者は、不正解者と同様にその場で"終了"となります」
ここまでの三日間を生き抜いた加害者たちからは、文句の声は上がらない。
"終了"の意味と、これから始まる授業内容から予測される展開には不安からか騒めきが広がる。命が終わってしまうかもしれない可能性に動揺を隠せないようだった。
銀の仮面は間を置き、薄く付け加えた。
「出題ジャンルは"いじめ"です。皆さん、張り切って頑張ってください」
意味を飲み込めた者、飲み込めない者。騒めきは風にほどけ、やがて全員の視線が校庭の中央に落ち着いていく。
「今回の○×ゲームの出題数は十五問を予定しています。予定出題数を超えても正解者が多数の場合――」
銀の仮面が説明する中、異質とも言えるその姿が生徒たちに混じっていた。
永原恭子。
彼女は、生徒たちがひしめく校庭の最前列に近い位置で、腕を組んで立っていた。
グレーのスーツ、薄手のカーディガン。職員室にいる時と同じ、あの「評価する側」の顔。
金岡哲らいじめ加害者と朝倉隼のクラスの担任にして社会科教諭の彼女は、厚塗りの化粧と吊り目がちの気の強そうな表情で顎をしゃくり、校庭の地面から朝礼台の上に立つ銀の仮面を、下から見下ろしていた。
彼女の胸の奥には、昨夜の興奮がまだ残っていた。偶然飛び込んだ教室が"当たり"の教室で、完全なる安全圏の中で一日をパスした。外国人は無視し、目についた日本人らしき生徒を優先的に通報していき、ポイントとしていく。交換できるメニューの中にアルコールがなかったのは残念だが、それでも充分に目と舌で美食を堪能できた。
――何でかこのところ、夜になるとこの学園に連れ込まれる。
道徳の授業だの社会の授業だの、銀の仮面がやることにしては子供騙しすぎる。
そもそもこんな風に閉じ込めるなんて監禁罪、殺人罪!
昨日のアレだって私はやりたくなかったのに、仕方なくやらされたから脅迫罪も追加ね。
絶対に警察に突き出してやるんだから。
富田君たちが学校に来なくなってから、"あの生徒"の表情に余裕が出てきてるのがムカつく。あの顔が浮かぶたび、イライラが止まんなくなる。自衛隊員の息子。君が代に起立して、私の授業にケチつけて、当然のように日本を愛する子。――鼻につく。
彼女はずっとそう思っていた。
“正解を選ぶ”。簡単な話よ。空気を読めばいい。現実と同じ。正しいかどうかじゃない、勝つ答えを拾うだけ。それくらいの事、お茶の子さいさいよ。
永原は小さくフンと鼻を鳴らして、嫌らしい笑みで銀の仮面の説明を聞き流していた。
「では、始めます。……第一問」
銀の仮面が片手を上げる。校庭の中央に淡い霧が集まり、空中に白い文字が浮かんだ。
【第一問】
「いじめを見て見ぬふりした者は加害者である。○か×か」
銀の仮面の問読みに息を呑む気配が連鎖する。汗ばむ掌、足元で夜露が潰れる音。誰かが小さく笑った。
永原は、瞬き一つで計算した。正義を気取るなら○だ。だが、ここにいるのは自分の身が一番可愛い子供達だ。自分の罪を広げる選択肢は嫌う。それに、見て見ぬふりをしたからと言って、直接的に関与してるわけでも、ダメージを与えてるわけでもないじゃない――。
「×ね」
彼女は踵を返し、迷いなく×の輪へ歩き出す。周囲でも同じ判断をした者たちがどっと押し寄せ、×の側は瞬く間に膨れ上がった。○へ走る一群もいる。顔を強張らせたまま、胸に言い訳を抱えて。
銀の仮面の指先が、軽く下りた。
問題文を形成していた淡い霧は、×に姿を変えた。
「×だ!」
「よっしゃー!」
×を選んだ生徒たちから歓喜の声が上がり、〇を選んだ生徒からは落胆の息を漏らす。
その瞬間、地面が低く唸り、空気が一瞬だけ乾いた。○の側に並んだ列の端――数百の足元から、黒い炎が噴き上がった。
「うわっ――!!」
「ぎゃああっっっ―――!!」
肌を焼かれた叫びは、ごう、と燃え上がる炎によって飲み込まれ、〇を選んだ人影を炭に変える。夜風に焦げた匂いが混じり、数百の炭は、やがて跡形もなく消えた。
肉が焼ける悪臭が漂う中、永原は顔を背けながら目を細めた。
正しかった――そう、これは“正解”だ。彼女は胸の奥で小さく頷く。
(見て見ぬふりで加害?そんな広義、現場は持つはずないでしょ。理想論に付き合ってたらクラス運営なんて回らないわ)
銀の仮面が、何事もなかったかのように次の問いを告げる。
「では……第二問」
【第二問】
「強いものに従うのは、正しい。○か×か」
ざわり、と群れが揺れる。一問目で×を選んだ者たちの足が、ほとんど反射で○へ傾く。永原も迷わない。
(これは秩序、群れの原理。強い者に従って何が悪いのよ)
○の輪が満ちる中、問題を深読みして逆を選ぶ者も少数いた。×の輪に残った彼らの顔には、迷いが浮かぶ。
銀の仮面が手を下げると、問題文を構成していた霧は○を形作った。
「ぐああ熱い熱い熱いッッ!!」
「ぎゃあああ!!!」
黒炎が×の輪から立ち上り、悲鳴とともに不正解者たちを飲み込む。彼らの存在は、完全に抹消された。正解の○から息を潜めてその光景を見ていた男子生徒が、口元で呟く。
「……バカだな、大人しく従っときゃいいんだよ」
群れの中ほどで黙って空を見た。ただ、視線の奥に夜の重さが沈んでいる。誰もその呟きに応えることはなく、彼らは次の文字を見上げた。
「続いて参ります。――第三問」
【第三問】
「いじめはいじめられる側にも問題がある。○か×か」
永原の口角が、かすかに上がる。
これは彼女の言葉だ。職員室で、教育委員会で、匿名のアンケートで、何度も言った。言ってきた。これは揺るぎない事実だ、と信じてきた。
(ここで×を選ぶバカがいるのかしら)
彼女はそのまま○に居残る。先程○を選んだ者のほとんどもそのまま○を選ぶ。問題の裏を読んで×に行こうとする者もいたが、それはほんの数人だった。×へ走った者たちの顔にはわずかに迷いが浮かぶ。
夜気が一段冷えて、銀の仮面の手が振り下ろされる。
○。
「ほらあ!!」
永原は思わず声を上げた。
×を選択した生徒数名が燃え上がる中、永原は自分の信念が銀の仮面によって裏付けられたことに歓喜していた。
いじめられる側がいじめられる原因を自分で提供しているのが悪い。
言い返したりやり返す度胸がない弱虫なのが悪い。
人間だけじゃなく動物というくくりの中で、強者と弱者、勝者と敗者に分かれるのは自然の摂理。
弱者は食われ、敗者は生存権を奪われる。そうやって国は興り、滅ぶを繰り返して来たのに、どうして今更生きる価値のない負け組に権利を残そうとするのか。
――自然淘汰されるべき劣等生を助けてやる筋合いなんてない。"人にやさしく"なんて通用するわけないでしょ。弱いのが悪いんだから。恨むんだったら、強く生んでくれなかったパパママを恨みな。
鼻高々に永原は悦に浸った。
周囲の生徒たちも「やっぱりな」「銀の仮面もこっち側だったんだな」とニヤニヤ笑ってお互いを見合わせている。
銀の仮面は、ほんのわずかに○を勝ち取った参加者たちの方へ視線を滑らせる。仮面の奥の表情は、誰にも分からない。
「さあ、どんどん行きましょう。第四問」
【第四問】
「SNS上の悪口や無視は、現実のいじめほど深刻ではない。○か×か」
永原は眉をひそめた。これは少し厄介だった。彼女自身、SNSのトラブルには何度も巻き込まれてきたが、所詮は“画面の中の話”だと切り捨ててきた。
(現実の方が重いに決まってる。SNSなんて、無視すればいいだけ。ブロックすればそれで終わりじゃないの)
そう判断し、○の輪の中に連続で留まる。周囲も同様だった。だが、今度こそ×だと読み、ちらほらと×へ向かう者もいる。顔を伏せ、何かを思い出すように。
人の動きが収まったのを見計らい、銀の仮面が手を下ろす。
○。
永原は大きく息を吐いた。少し不安はあったが、この問題は引っ掛けではなかったようだ。×を選んだ生徒たちが炎に包まれ、悲鳴を上げる間もなく消えていった。
――考えてみれば、ちょっと悪口を書いたり、グループで無理するくらいどうってことないじゃない。実際に殴ったり蹴ったりしてケガさせてるわけじゃないし。これくらい、子供同士ではよくある事。
ちょっとタイミングが合わなくてすれ違ったくらいで、いじめだなんだ言ってくるモンペのキモさったらないわ。そんなことでいちいち目くじら立てて、乗り込んでくるんじゃねーよ。ったく。忙しいんだよこっちは。
永原はふと思い出した怒りを振り払うように髪をかき上げながら次の問題を待った。
銀の仮面は淀みなく次の問いを提示する。
【第五問】
「いじめを受けた人は、時間を掛ければ立ち直れる。○か×か」
永原は、ほんの一瞬だけ眉を動かした。だがすぐに、いつもの論理で答えを導き出す。
(人間は忘れる生き物よ。時間が経てば、どんな傷も自然にふさがる。立ち直れないのは、本人の努力不足。メンタルが弱いからに決まってる。私だって失恋して傷付いたわ。でももう今は次の新しい恋を探しているもの。いつまでも過去に縛られてるなんて生産的じゃない。未練タラタラの根暗なんてモテないわよ。さっさと忘れればいいのに)
彼女は○の輪に留まった。周囲も同様に○を選ぶ者が多かった。
ただ、四問連続で○が続くとは思えず、逆張りで×に向かう者もちらほらいた。
銀の仮面が手を下ろす。
○。
永原は鼻で笑った。
×を選んだ者たちが黒炎に包まれ、悲鳴を上げる間もなく消えていく。
(ほらね。やっぱり私が正しいのよ。人間は生きてりゃ傷つくのは当然。それを人のせいにして立ち止まるなんて、ガキ過ぎんのよ。他責はやめて大人になりなさいよ、ったく)
銀の仮面は、スムーズに次の問いを提示する。
【第六問】
「いじめの加害者は、温情をかけて更生の機会を与えるよりも、法改正で厳罰に処すべきである。○か×か」
永原は、口元をわずかに引き締めた。これは、自分自身にも関わる問いだった。
(更生のチャンスくらいなきゃダメよ。誰だってミスの一回や二回あるわよ。ほんのちょっと間違えただけでずっと刑務所なんてやりすぎ。人権を無視してる。過去の過ちをずーっとネチネチ責め続けるなんて、非合理的だし、前時代的)
彼女は×を選ぶ。
銀の仮面が手を下ろす。
×。
至近距離から歓声が上がる。永原は、胸の奥で小さくガッツポーズを取った。
(やっぱり、私の考えは正しい。銀の仮面も、理屈を理解してる。案外話の分かる奴じゃないの)
周囲を見渡すと、開始時点では二万一千人ほどいた参加者は、既に二割ほど減っていた。
残るは約一万七千人。
全十五問のうち、折り返し地点――第七問目に差し掛かる。
「さあ次で折り返しです。…第七問」
【第七問】
「多少行き過ぎたコミュニケーションを取っても、悪気が無ければ大きな問題はない。○か×か」
問いが提示された瞬間、永原は口角をわずかに上げた。これは、彼女にとって“常識”の範疇だった。
(子供は未熟だから善悪の判断はあとで教えてやればいい。どうせ構ってほしかったとかそんな理由なんだから、悪気がなければ、多少の行き違いなんて誤差よ。人間関係は摩擦があって当然。いちいち過敏に反応する方が問題。空気を読めないってこと。それくらいの問題でギャーギャー言わず、自分で解決できる人間に成長しなきゃ)
彼女は○の輪に足を踏み入れる。
周囲も、比較的迷いなく○を選ぶ者が多かった。だが、少数ながら生徒たちが立ち止まり、眉をひそめながら×へと向かう。
銀の仮面が手を下ろす。
○。
黒炎が再び舞い、×を選んだ者たちが音もなく消える。
永原は、彼らの消滅に一瞥もくれず、内心で呟く。
(感情に振り回されるから、判断を誤るのよ。論理で考えなきゃ。行き過ぎないようにコミュニケーションを取ろうとしたら、最終的にはコミュニケーションなんかできなくなるわよ)
銀の仮面が、次の問いを掲げる。
【第八問】
「ウソ泣きして大人の関心を引いている可能性があるので、泣き虫の生徒は多少放置してもよい。○か×か」
永原は、少しだけ目を細めた。この問いには、微かな苛立ちが混じる。
(泣けば何とかなると思ってる子、いるわよね。あれ、全部演技よ。周囲の同情を引いて、自分だけ特別扱いされたいだけ。そんなのに構ってたら、全体が崩れる。泣けば何でも要求が通るなんて教え込んだ親の教育が悪いのよ。これは大人になってから苦労しないために、あえて愛のムチを振ってるだけ。放置するのが正解)
彼女は○を選ぶ。
今度は、周囲の反応が割れた。
○に残る者もいれば、×に走って行く者も多い。比率にして八対三ほど。
空気が一瞬、張り詰める。
銀の仮面が手を下ろす。
○。
四千人ほどの悲鳴が上がる。
×を選んだ者たちの中には、涙を浮かべていた者もいた。
だが、黒炎は容赦なく彼らを飲み込んだ。正解した生徒の中には、その光景を見てしまったせいで戻してしまう者もいた。
永原は、心の奥で小さく息を吐いた。
(ちょっと泣いただけでオロオロする大人が悪いのよ。それで味をしめるんだから。大人は子どもの涙に流されちゃダメ。感情に流されるから、判断を誤る。子どもは狡猾だから、悲しくなくてもすーぐ涙流せちゃうのよ)
銀の仮面は余韻を残すことなく、間を置かずに次の問いへ移る。
【第九問】
「生徒同士のトラブルは生徒同士で解決出来ないので、学校や親が積極的に介入すべき。○か×か」
永原は、初めてほんの少しだけ足を止めた。この問いには、過去の記憶が微かに疼いた。
(介入されると余計にこじれるのよ。大人が入ると話がややこしくなる。そのせいでこっちの仕事も止まるし、授業中に呼び出されるし。生徒同士のことは生徒同士で解決するのが一番。責任感も育つし、困ったら親に頼めばいいって甘えた考えを持たせないようにしないと)
彼女は、静かに×の輪へと歩を進める。
周囲では、○に向かう者も多かった。
教師や親の介入は仕方ないと受け止める者たちの足取りは、さほどの迷いがなかった。
永原は自分の中では答えが出ているが、それがこの場での正解であるかはやや不安があった。しかし自分の理念と揺らがない思想を信じ、×に立った。
銀の仮面が手を下ろす。
×。
「…………ふう………っ!」
永原は、わずかに目を見開く。自分の回答が正解であるようにと祈るうち、知らぬ間に息を止めていた。永原は安堵のため息を大きく吐いた。
○を選んだ者たちが、次々と黒炎に包まれていく。その中には、先ほどまで自信満々に答えていた者もいた。
永原は、胸の奥で静かに拳を握る。
(やっぱり、私の考えは間違ってない。銀の仮面は、感情じゃなく理屈で裁いてる。私と同じ)
残る参加者は、ついに一万人を切った。
十五問のうち九問が終了。三分の二に差し掛かり、空気はさらに張り詰めていく。
銀の仮面の瞳が、×を選んだ参加者――、永原を見据えているように感じられた。
その視線に、彼女は微笑で応じた。
――私はあなたの気持ちをよく分かっている。きっと私の気持ちも分かるはずよ。
銀の仮面は朝礼台の上から変わらぬ様子で淡々と出題を続ける。
「では――第十問」
【第十問】
「悪口やちょっかいなどを受けたからと言って、対話ではなく暴力でやり返すなどの解決は、健全な学校運営を妨げる恐れがあるため、これを行ってはならない。○か×か」
永原は、即座に○を選んだ。
暴力は、教師にとって最も面倒な事態だ。保護者対応、警察沙汰、報告書の山。それに、暴力でやり返すような生徒は、結局“問題児”として扱われる。どんな理由があろうと、暴力は“反社会的”なのだ。
(口で言えばいいのよ。暴力に訴えるなんて、知能の低い証拠。語彙力がないから暴力に訴えるんだわ。ああみっともない)
○の輪に向かう足取りは、これまでよりも速かった。×に向かう者は少数。問題文の意図と思惑を勘繰り過ぎて正解を見失っている者たちだろう。
やがて群衆が二分され、銀の仮面が手を下ろす。
○。
黒炎が×の輪を飲み込む。叫び声は短く、夜風に焦げた匂いが混じる。
永原は、ここまで全問正解して来ている余裕に驕り、鼻を鳴らした。
(日本は冷静な話し合いで平和を求める国。憲法九条に守られてる国なんだから、暴力なんてご法度。力に頼るような野蛮な子は、結局自分の首を絞めるのよ)
銀の仮面はそのまま出題を続ける。
【第十一問】
「悪臭を放っていたり、授業方針に沿わない発言をしたり、クラスの輪を乱す生徒がいる場合、他の生徒の学習機会の確保のためには実力行使による排除もしかるべきだ。○か×か」
問いが表示された瞬間、永原の瞼が閉じられた。
うんざりしたような顔にも見えるが、これは、彼女が何度も職員室で口にしてきた“現場の実情”にも関係する内容だった。
(空気を乱す子は、全体の足を引っ張る。その生徒にかかりきりになると授業も遅れるし私の評価も下がるのよ。遅れた分は残業しなきゃだし、その残業代なんてないようなもんだもん。大した手当もつかないし、婚活だってしたいのに。生徒の事に時間使うくらいなら私は婚活パーティーでハイスペ男子を探したいのよ)
○へ向かう足取りは、迷いがなかった。
×に向かう者は、わずかにいた。彼らの顔には、葛藤が浮かんでいた。
銀の仮面が手を下ろす。
○。
×の輪が黒炎に包まれる。
永原は、口元に笑みを浮かべた。
(ったく、たまにメッチャ臭い生徒がいるけど、自宅で飯食わせて風呂に入れてから学校来させなさいよね。何もかも教師のせいにしないでほしいわ。こっちの苦労も知らないくせにギャーギャー言うんじゃないわよ、モンペが。一人の悪ガキのせいで三十人の授業が止まるくらいなら一人を切り捨てた方が良いに決まってるじゃないの)
残りが七千人程となった校庭は空白がかなり目立ち、寂しい程にがらんとしている。
銀の仮面は意に介さず次の問題を読む。
【第十二問】
「加害者から謝罪を受けたとしても、被害者はその謝罪を必ずしも受け入れる必要はない。○か×か」
永原は、足を止めた。
この問いには、微かな苛立ちが思い出された。
――ちょっとぶつかっただけなのに、何が何でも許そうとしない生徒がいた。
ぶつかった子は謝ったのに、頑なにそれを認めない。いつもは引っ込み思案で自分の意見もないような子なのに、急に強情で融通の利かないことを言い出した面倒な生徒。
下らない意地を張って握手に応じないせいで放課後の長い時間を奪われた。長引くのは良くないのでその生徒の手を掴んで、無理矢理握手させた。それでその場が丸く収まった。握手で解決するんだからグッと我慢して握手してやればいいのに何を意地張ってるんだか。大人の余裕を見せて上に立つくらいの度量を示せばいいのに、絶対許さないと泣きながら拒否する生徒にどれだけ時間と労力を取られたことか。
わざとじゃないって言ってるんだから、すぐに許せばよかったのに。
謝罪を受け入れないなんて、子どもがいつまでも被害者ぶってる証拠。人間はミスする生き物なんだから、許すことを教えないと、社会に出てから苦労する。
永原は×を選ぶ。
周囲では、○に向かう者も多かった。ここまでの出題傾向から○が多く出ていた。問題を咀嚼したものの自分では結論が出せなかった生徒は、傾向データ一つだけを信じて○に向かう。
銀の仮面が手を下ろす。
結果は×。
○を選んだ者たちはおよそ二千人。そこそこまとまった人数だったが、一瞬にして燃え上がり、灰となった。
永原は、胸の奥で小さく頷いた。
(そうよね。謝ってるのにそれを拒むなんて、ただのわがまま。ほんの小さなミスを許すこともれっきとした教育よ)
永原は腕を組んで次の問題を慇懃無礼に待った。
【第十三問】
「教師は、いかなる時も生徒の味方でいなければならない。○か×か」
永原は、わずかに目を細めた。この問いには、裏に隠された思惑を解くようにアプローチする事を要すると思われた。運転免許の学科試験のように、言葉尻を掴むような解法が、ここでは求められるのではないかと。
("いかなる時も"ってのが怪しいわね。いかなる時もって、それこそ寝てる時とか休みの時まで生徒の面倒を見なきゃいけないって意味になるじゃない。そんなの冗談じゃないわよ。教師は“公務員”よ。あくまでも業務時間外はプライベートなんだから、オフの時間まで子どもの事なんか考えてられないっての。生徒に接するのは業務時間の間だけだから、×!)
彼女は×を選ぶ。
○に向かう者もそれなりにいた。教師は生徒の味方であるべきという問いはとても全うに聞こえ、○への流れは決して無視できるものではなかった。
現在四千数百名が生き残っている第十三問目にして、これまでで一番の拮抗を見せた。ほんのわずかに×が多いが、ほんの数百名程度の差。この問いに関しては意見はほぼ真っ二つに分かれる形となったが―――。
上空に現れたのは、×。
○の輪が黒炎に包まれ、ここまで生き残っていたほぼ半数、二千余名がその命を燃やし尽くされた。
永原は、静かに目を伏せた。
(危なかった…!でもセーフ。教師は四六時中教師でいなきゃいけない決まりなんてないもの。あくまで仕事中は公平であるべき。生徒と教師は他人なんだからそこまで付き合ってられないわ)
「――さあ続いて、第十四問」
銀の仮面が手を挙げる。
【第十四問】
「いじめを原因とする自殺が発生し、遺書などに加害行為の記録が残されていた場合、加害生徒に対して少年法ではなく殺人罪などの刑罰の適用を目標に追及すべきである。○か×か」
永原は、ほんのわずかに眉を動かした。この問いには、彼女の中にある“教育現場の防衛本能”が反応した。
(そんなの、いくらでも嘘が書けるじゃないの。ちょっと気に入らないってだけで名前を書いて狂言自殺でもされたら、濡れ衣を着せられた生徒たちは刑法で裁かれるかも知れないってことじゃないの。そんなの当たり屋と同じよ。そんなこと、絶対に認められないわ。少年法があるからこそ、更生の余地があるのよ。感情論を法律に反映させちゃいけないわ。死んだ子たった一人よりも、生きている子たち数人の未来が重視されるのは当然の事。誰も言わないだけで、死んだ生徒より生きている生徒の未来を優先するに決まってる。たった一人の死人の嘘で、未来ある子供たちの将来が閉ざされるなんて、教育者としては絶対に認められない。教育現場が崩壊するわ。死ぬなら一人で、他人に迷惑かけないように死になさいよ)
彼女は迷いなく×の輪へと歩みを進める。
ほぼ少年法適用内となっている年頃の生徒が多く残る中、裏を読んで○に向かう者もいた。冷や汗に額を濡らした生徒の足取りは、どこか硬直していた。
そして銀の仮面が手を下ろす。
×。
○を選んだ若者たちが、黒炎に包まれた。
永原は、静かに目を伏せた。
(ほらね。いじめくらいで殺人なんて大袈裟なのよ。ちょっとふざけただけなのに。少年法は子供だけじゃなくて大人の暴走からも守ってるのよ。そもそも、死んだ後に遺書でだらだら恨みを伝えるくらいなら初めから言えよって話。グチグチ情けない。キモいのよ)
残る参加者は、ついに二千人と少しとなった。
序盤は大群衆の移動で遅々としていたが、群衆がスリム化したことで〇と×に分かれる速度も上がり、後半に進むにつれテンポは上がっている。
校庭の空気は変わらず張り詰めている。むしろ緊張感が高まってきているが、朝礼台の上は平然としており流れるように出題が進んでいく。
【第十五問】
「いじめとは、加害者に明確な害意または殺意があり、かつ被害者が生命の危機に相当する被害を認識している状態が双方揃ってから初めて成立するものである。○か×か」
永原は、口元に笑みを浮かべた。
この問いは、彼女が日頃から主張してきた“定義論”に通じるものだった。
(そもそも今取り上げられてるいじめ問題なんてものは、ちょっと悪口言われたりちょっかい受けただけでギャーギャー声上げてる"いじめ未満の内容"が大多数じゃないの。言い返しもせず被害妄想をこじらせて、勝手に想像で傷付いてるだけのくせして大袈裟なのよ。その程度、いじめでもなんでもないわ。大抵そう言う時は「ふざけてただけです」とか「俺たち友達だからこうやって遊んでるんです」とかって言ってるから仲良くすりゃいいのよ。いじめってのはもっと加害者に悪意があって、骨折とか大怪我するレベルになってからがいじめって言うもんでしょ。そうじゃなきゃ、何でもかんでもいじめになっちゃう。そんなの、教育現場が回らないわ)
彼女は○の輪へと進む。
周囲も、ここまでの傾向を踏まえて○を選ぶ者が多かった。
ただ、×へ向かう者もいた。やや断定的過ぎる問題文のため、国語的アプローチで×を選ぶ者たちは少なくない。だがその足取りは、どこか重かった。
銀の仮面が手を下ろす。
○。
×を選んだ者たちが、黒炎に包まれた。
永原は、静かに目を伏せ、内心では歓喜に打ち震えた。
(ほれ見た事か。私の考えは正しい。銀の仮面も、現場の理屈を理解してる。私の教育論はやっぱりカンペキ!これでクリア、私は生き残った。四日目も私は生き残った。銀の仮面と通じ合ってる私は、選ばれた人なのよ!)
十五問を耐え抜いた生徒たちは、両隣の生徒とハイタッチを交わし、抱き合って喜んだ。
全問正解を成し遂げた永原は一見すると余裕を漂わせて立っていたが、腕を組みながら勝利の味を噛みしめていた。
校庭には、千五百人ほどしか残っていなかった。
四日間を耐えきったのは、六十万人中、千五百人。青少年ばかりのその中に永原はいた。
銀の仮面は、出題を終えた余韻そのままに、朝礼台の上で静かに立ち尽くしていた。
十五問を終えたこの○×ゲームが本当に終わったのだと信じて疑わない勝者たちに向けて、平淡な声色で語りかける。
「皆さんお疲れ様でした。○×ゲーム、楽しんでいただけたでしょうか」
歓声が静まり、銀の仮面の声が校庭全体に染み渡る。生き残った者たちは、ようやく終わったのだと安堵し、互いの健闘を称え合う。だが、銀の仮面はその様子を見下ろしながら、淡々と語り続けた。
「実はここまでの十五問――その“正解”は、私が決めたものではありません。皆さん自身が、多数決によって導き出した“みんなの答え”です。そもそも、この問いに絶対の正解など存在しません。しかしこの○×ゲームを通して、皆さんがどう考え、どう思い、どのように自分の過去を捉えているのか、充分に伝わった事でしょう」
永原は腕を組んだまま、わずかに眉をひそめた。銀の仮面の言葉は、勝者の余韻に冷たい水を差すようだった。
「私には聞こえます。皆さんの声が――」
銀の仮面は両手を広げ、大仰な手振りで千五百人に語りかける。
「これでもう終わりか。これではまだ満足出来ない、まだ千五百人残っているじゃないかと。まだ続けられるじゃないかと……!」
緊張から解放されたはずの生徒たちは、みるみるその表情を凍らせていく。
永原も、腕組みで大人の余裕を見せていたがその立ち姿には徐々に不安と嫌な予感が滲み始めていた。
「分かりました。では、皆さんの内なる願いに応えましょう。――延長戦と参ります」
終わったと思った矢先、再び絶望へと突き落とされた生徒たちの叫びが、校庭に木霊する。
「はああ?ふざけんなよオイ!!」
「嘘ついたのかよ!」
「これで終わりって言ったじゃねえかよ!」
「マジありえねえ!!」
「ちゃんと納得のいく説明しろよー!!」
銀の仮面は両手を広げた恰好のまま、ゆっくりと空を見上げ、何かを小さく呟いた。
その視線の先には、変わらぬ闇が無限に広がり、そのうちのある一点を見つめている。
そこには、闇夜に完全に同化し、存在を完全に隠したスフィアが一基。
再び恐怖に引き戻された校庭の千五百人を、物言わぬ眼が高みから静かに見下していた。
次話は明日20時投稿予定です。
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