36話 懺悔の時間
荒れ果てた学校を逃げ回る生徒たち。
開始時には十四万人の生徒がいた鬼ごっこも今では大きく数を減らし、残すところ約四万人となっている。
体育館、プール、テニスコート、野球グラウンド、弓道場、講道館、どこへ逃げても十分も経たずに鬼に見つかる。何故正確に場所を突き止められるのか一向に分からない生徒たちは、まとまった休憩を取ることも許されないまま、命を削って走り続ける。
裏庭を逃げ惑う三人の生徒たち。ここから真上に見える空は時間が止まったかのような永遠の闇。鬼の気配がすぐそこまで迫っていた。
その時一人の女子生徒が、数十分前にはなかった建物の存在を認める。
「こ、ここ……!」
飛び込むように押し開けた大きな木の扉の向こうに広がっていたのは、薄暗い礼拝堂だった。
かつては荘厳だったであろう教会の内部。長椅子は埃に沈み、角には蜘蛛の巣が垂れている。それでも、ステンドグラスを透かした斜光が祭壇にだけ白々しく差し込み、不思議な神聖さを与えていた。
「ここだ……ここに隠れよう……」
震える声が誰かの口から漏れる。
逃げ惑う生徒たちの悲鳴と絶叫は、扉を閉めると聞こえなくなっていた。
しんと静まり返った教会。駆け込んできた三人の浅い呼吸だけが響く。
教会内部の暗さに目が慣れて来たころ、祭壇の奥に誰かがいるのが見えた。
音もなく、ただ沈黙を抱えた存在感と共に、神父が一人。
鬼ではないことを遠目から伺いつつ、じわりじわりと近づいてその顔を覗き込む。
すると神父が口を開いた。
「――懺悔をなさい。己の罪と向き合い、心から悔い改めなさい」
静かな声で神父が告げた。
その声音には怒りも嘲笑もなく、ただ無機質に響く。けれどその一言が、三人の生徒の胸をどくりと打った。
「ざ、懺悔……?」
痩せた男子生徒が口ごもる。汗で濡れた前髪が頬に張りつき、恐怖で瞳が泳いでいた。
「俺……いじめとか、別にしてねぇし……!ちょっとクラスで無視したりしただけで……それくらい、誰だってやってるだろ……!」
彼は必死に言葉を並べる。しかし声には確信がなく、懺悔というより言い訳に近かった。
神父は動かない。ただ深く静かな沈黙が降りる。
やがて、痩せた男子の足元に淡い光の円が浮かび上がった。
それは一瞬、祝福のようにも見えた。
「……これは……?」
安堵の吐息を漏らした次の瞬間、炎が爆ぜた。
男子の身体を真紅の炎が包み、焼け爛れる悲鳴が教会に反響する。
彼は必死に転げ回るが、火は消えない。たちまち皮膚が炭のように崩れ落ち、髪が焼け焦げ、もがく彼を骨まで焼き尽くした。
他の二人が悲鳴をあげた。
「ひ、ひいいい!!」
「どうして…どうして燃えたのよ!」
突然灰燼と化した一体の炭の前で女子生徒が震える。
もう一人の男子生徒が、震えながら冷静に状況を推察する。
「懺悔…懺悔しないといけないんだ。……言い訳しちゃダメなんだ……」
蒼白になった女子生徒は、震える男子生徒を見上げた。
厳かな雰囲気の教会で肩を寄せ合いながら、無表情のまま立ち尽くす神父を見る。
神父が口を開いた。
「――懺悔をなさい。己の罪と向き合い、心から悔い改めなさい」
彼女はおずおずと祭壇へ進み出て、膝を突き、必死に両手を合わせる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!私……クラスメイトの子の裸の写真をグループに貼ったり、お金を取ったり、真冬の川に飛び込ませて……あの子を死なせてしまった……!でも、もう二度としないから!本当に二度としないから!あの子の分まで精いっぱい生きるから!生きて償いますから、許してください…!」
涙を流しながらも、言葉はどこか芝居がかっていた。
彼女は死を恐れていた。何とかしてこの危機的状況を回避したい。生き残りたい。死を免れたいと、その思いが先行してしまっていた。
彼女は、クラスメイトを苛め抜いて、殺した。
被害者生徒の裸の画像を要求し、自慰行為の動画を追加で要求し、拡散することで多大なる精神的苦痛を与えた。金銭を恐喝し、日常的な暴力で肉体的にも支配した。被害者生徒を助ける者はなく、やがて橋の上から真冬の川に全裸で無理矢理に飛び込ませ、被害者生徒は亡くなった。
被害者が亡くなってすぐ、いじめによる死だと露見することを恐れ、「親に虐待されていてそれを苦に自殺した」と虚偽の通報をした。
程なくして、親からの虐待ではなくいじめが直接的な原因だと断定されるが、脅迫の文言や被害者の裸の動画像が残っていたスマートフォンを初期化・破壊して隠蔽しようとした。
結局、そのデータは全て復元されてしまい、罪を隠すことは失敗したが、加害者生徒である彼女たちは少年法に守られ、住所氏名をぼかしたまま今も生きている。
人一人の命と貞操と尊厳を踏みにじっておきながら、彼女はその償いとして、生き抜くと告げたのだった。
被害者生徒が生きたかった青春を、加害者生徒である彼女は「謳歌する」と言ったのだった。
神父は動かない。
だが、再び床が赤く輝く。
「えっ……うそ、やだ――――っ!」
女子生徒の悲鳴も虚しく、炎が噴き上がる。
髪が燃え、ドレスのように広がる制服の裾が炎に舞い、彼女は両腕をばたつかせながら黒煙の中に沈んでいった。
焼け付く匂いと、悲鳴が消えるまでの数十秒。彼女は絶叫と悲鳴と哀願を繰り返しながら、やがて物言わぬ炭となる。プスプスと煙を上げる音のみが、教会の静けさをより一層異様なものへと変えていった。
残された最後の一人は、腰を抜かして這いずりながら後退していた。
眼前で二人が焼かれて死ぬ光景を見せつけられ、もはや口先の懺悔が通じないことを理解しながらも、恐怖に喉を締め付けられて言葉が出ない。
膝を震わせて、先程入って来た扉に這い寄る。扉を開けようとしたが、びくともしない。開けた時はここまで重たくなかったのに、押しても引いても扉は動かない。
神父はその様をガラス玉のような目でじっと見つめ、ゆるやかに言葉を落とした。
「――懺悔をなさい。己の罪と向き合い、心から悔い改めなさい」
男子生徒は、震えながら神父に跪き、その五十秒後、もう一度火柱が上がった。
――約二時間後、静寂の教会の扉がゆっくりと押し開けられた。
ブレザー姿の男子生徒が一人、よろめきながら重たい足取りで教会に入って来る。彼は長く重たい野太刀を肩に担ぎながら疲労困憊の様子を隠そうともせず、扉が閉まると同時に床にへたり込んだ。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
校庭で野太刀鬼を倒した後、校舎内から出てきた火炎放射鬼も撃破し、通常鬼を牽制しながら講道館に籠城した。彼に着いて来た生徒はおよそ三百。バットやほうきなどを手にしているが、鬼に対して有効な攻撃手段を持つのは自分一人だけしかいないため、自然と出入り口が一つだけの場所を選んでの持久戦を選択した。
通常鬼は野太刀を手にした彼には近づけない。一つだけの攻め口しかない講道館は、入り口でにらみ合いを続けている間だけ校内では唯一の安全エリアとなっていた。「ここならこのまま朝まで耐えられるかもしれない」と希望を抱いた。しかしその安寧も束の間だった。
激しい音と共に講道館の壁を崩し、雪崩れ込んだ特殊鬼が一体。金砕棒を装備した追加鬼が、壁を崩した勢いそのままに大振りの一撃で一度に七人をミンチに変えていく。後方で悲鳴が上がったのを受けて駆け付けた彼は、二撃目で八人ほどが吹っ飛ぶ中、クールタイム中に野太刀で首を一閃。初期対応が間に合い、大きな被害は免れた。
しかし、金砕棒鬼によって講道館の攻め口は二か所に増えてしまったため、二方向から通常鬼が押し寄せて来てしまい、ここも放棄せざるを得なくなった。講道館を捨て次の安寧の場所を目指して走るが、彼に着いて来ていた三百人の生徒も逃げ回る内に散り散りとなってしまった。
それ以降も特殊鬼は一定の間隔を空けながら現れた。
鎖鉄球鬼。弓鬼。狙撃銃鬼。
鎖鉄球の重たい投擲も、弓鬼と狙撃銃鬼の鋭い一射も、攻撃直後は大きな隙が生まれる。そのクールタイム中に首を斬ればどうにかなるが、存在認識の外からの初撃だけはどうしても防げない。彼は物陰から放たれた狙撃銃鬼の一撃を受けて左手を失った。
どうにか彼はこれら三体の特殊鬼も倒したが、精神も肉体もほぼ限界を迎えている。野太刀を持っているためどうにか通常鬼の接近は防げているが、それも時間の問題。
ネクタイをほどいて左腕を縛る。右手だけで七キロの野太刀を振るうのはかなり堪える。しかし、生き残るには四の五の言っている場合ではない。
彼は睨み合いながら通常鬼を抑え、特殊鬼との斬り合いを制しながら、ふらつく足取りで見慣れぬ建物・教会の扉を開けて助けを求めたのだった。
「――懺悔をなさい。己の罪と向き合い、心から悔い改めなさい」
祭壇の神父が無色透明に言った。
静寂の中、外界との気配が一切遮断された神聖な空間。
悲鳴も騒音も聞こえない異質な場所。彼はふとここで安息を得られるのではないかと感じ、右肩に担いだ野太刀を床に降ろした。
ゴトリと重たい音を一つ立てて野太刀を傍らに置き、膝をついた。血と汗に濡れた顔を歪めながら、荒い息を必死に整える。教会の中は異様なまでに静かで、自分の足音さえ、やけに大きく響いた。
――懺悔。心からの反省。
その言葉を脳裏で繰り返す。
「己の罪と向き合い悔い改める」。それが何を意味するのか、彼にはもう分かっていた。
「……正木俊輔。千葉県立南総高校三年、剣道部の…元副部長です」
握った右手が震えた。失った左手の痛みはもう感じない。それよりも、胸の奥で疼く記憶が俊輔を苛んでいた。
――二か月前の、あの日。
二〇二五年八月七日のこと。
壁越しから蝉が耳をつんざく夏休み中の校舎。
足音と竹刀の音がひっきりなしに鳴る稽古場で、自分は竹刀を握り、声を張り上げていた。
『まだいける!根性見せろ!お前はやれる!もっと来い!』
そう言っていた相手の顔を、俊輔ははっきりと思い出す。
剣道部の一年――宮坂大地。細身で、素直な性格で、直向きに剣を磨き続けていた後輩だ。
小中七年間剣道の経験がある宮坂は千葉県大会でベスト八に入賞した新進気鋭のホープ。
この南総高校剣道部は決して名門校とは言えない。しかし昨年、二年生当時に俊輔が千葉県大会で優勝を果たした。その翌年に俊輔と双璧をなす逸材が入部したことで、彼に寄せられる期待も、稽古も、過熱してしまった。
「……大地……」
その名を呟いた瞬間、喉の奥が詰まり、視界が滲んだ。
――あの日、大地は言っていた。
『せ、先輩…ハァ…ハァ…み……水、飲ませて、ください』
でも俊輔は、ぴしゃりと冷たく返した。
『甘えんな。これくらい何だ。インターハイ目指すんだろ?お前だって強くなりたいんだろ!』
俊輔は昭和の稽古法で剣技を父から叩き込まれた。
令和の今なら時代錯誤で無意味な練習法と断じられる内容も多く混じっていたが、俊輔はそのスポ根的な稽古内容に順応し、それでなまじ結果を出してきてしまった。
根性至上主義、甘えは弱味、だらけた奴は強くなれない。そう教えられ、その通りに勝ち上がってきてしまったため俊輔自身も強くなければ意味がないと無意識に感じるようになってきていた。
『休む暇があったら立て!さあ掛かってこい!』
『………はいぃ…』
水分補給は今でこそしっかり行わなければならないのは常識だが、俊輔は水を断つ稽古によって"その先の世界"を見ていた。
素振りを繰り返すことで無駄な動きが減り、剣に冴えが出るように、水を断つことで俊輔は相手の予備動作や殺気がなぜか察知出来るようになっていた。
俊輔はあくまでも親切心。せっかく高回転域まで回り始めたエンジンにブレーキをかけるような感覚で、せっかく宮坂が"見切りの世界"に踏み入れようとしているこの瀬戸際に横槍を入れたくなかった。
水を断つと動物的本能が揺り動かされるのか、俊輔が潜在的に持っている危険察知能力が一時的に最大限まで引き上げられた。通常の俊輔は攻めの剣は得意だったが守りの剣は苦手だった。油断するとすぐに小手を取られるし、集中していてもあっという間に一本を取られている。
守りを不得意とするそんな彼が実力以上の剣を手に入れる近道が、水を断って極限まで追い込むような打ち込み稽古だった。
"見切りの世界"にいる間は相手の先の動きが読めるようになり、最小限の動きでそれを躱し、頭で考えるより先に体が勝手に返し面・返し胴でカウンターを決められるようになる。そのお陰で俊輔は千葉県大会を優勝出来たと言っても過言ではない。
水を飲んで休むと「もう危険は過ぎた」と感じた肉体や精神が張りつめた糸を解いて落ち着いてしまうのか、守りが弱い本来の状態に戻ってしまう。
強くなりたいなら稽古中に水を飲むな、と父が言っていたのはそう言う事だったのかもしれない。
――高みに上って来い、大地。
上で一緒に至高の剣を振ろう。
ふらつく視界と重たい体で剣を振り続けた先に広がる、次なる世界を知っている俊輔は、その世界を親愛なる後輩にも見せたかった。
自分が二倍にも三倍にも強くなれる境地へ届くように、殻を破ろうとする雛を見守る親鳥のように、俊輔は真夏の稽古場でひたすらに追い込み続けた。
正木・宮坂二人の地稽古は他の部員たちが割って入る事すら躊躇われる高度な技の応酬が繰り広げられる。汗だくになりながらもお互いの隙を狙って打ち合い、誘って打たせて切り返すを果てしない時の中で繰り返す。一瞬でも意識が飛びかければ容赦ない小手や胴で叩き起こす。
そして、フラフラと頭の守りががら空きになった宮坂の面に、けしかけるような俊輔の鋭い一本が入る。
その直後、何が起きたか。思い出したくもない光景が胸を締め付ける。
炎天下の床に倒れ込み、宮坂は痙攣を起こした。必死に呼びかける部員たちの声が響き渡る。
『宮坂、宮坂ァ!』
『しっかりしろ、おい!』
『き、救急車!早く救急車呼べ!』
……それから宮坂は、目を覚まさない体となった。
熱中症による後遺症。一命は取り留めたが、宮坂が再び目を覚ます確率は限りなく低いと医者に言われた時、俊輔は理解した。
大地を殺したのは、俺だ。
大地の有望な剣士生命を断ち、これからの青春を、自分が奪ってしまったのだと。
「……俺だ。俺のせいだ……!」
俊輔の声が教会に響く。
言葉にした瞬間、全身の力が抜け、床に額を擦り付ける。
「俺は、大地のSOSを無視した……!『甘えだ』って、勝手に決めつけて……あいつは何度も俺に訴えかけてたのに、苦しんでたのに……!」
生々しい、あの面の感触が呼び起こされる。
何千何万と打ち込んだ普通の打突とは違う、生きている人間に止めを刺してしまったあの独特の感触と、光が失われる瞬間のあの目。
人が死なないはずの竹刀で人の命を奪ってしまった、あのゾッとする感覚が蘇る。
脳裏にこびりついて離れないあの光景と自責の念に、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。
「一緒にインターハイに行きたかった。一緒に強くなって、勝ちたかった。ただ、それだけだった……!俺のせいで、大地は……もう剣道もできねぇ……普通に生きることさえできなくさせたんです……!」
拳を床に叩きつける。鈍い痛みが右手に走る。それでも痛みが足りない。どれほど殴っても、大地の命は戻らない。
「ごめん……大地、ごめん……!お前を……殺したのは、俺だ……!全部俺が悪い…!全部、全部…!」
嗚咽が止まらない。
胸の奥から、黒い泥のような後悔が噴き出す。それでも俊輔は、逃げずに吐き出し続けた。
「俺は……“強くしたい”って言ってたくせに……結局、自分の夢ばっか追ってた……!俺は、最低だ……!」
歯を食いしばり、血の味が口に広がる。
「『甘いやつは強くなれない』って信じてた……でも、間違ってた。大地は頑張ってたよ…メチャクチャ頑張ってたよ…!俺はそれを知ってたのに、もっと、もっとって…。それなのに……!」
声がかすれ、言葉にならなくなっても、それでも俊輔は吐き続けた。
「……大地……俺は、ずっと……お前とインターハイに行きたかった……。信じてほしい、俺は大地が嫌いだったんじゃなくて、強くなって、優勝旗を持ち帰りたかったんだよ。俺が大将で副将のお前と一緒に戦いたかった、それだけなんだよ……!でも、そんな夢を奪ったのは、他でもない……、俺だ……!」
涙が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
俊輔は野太刀を見た。血に濡れた刃が、まるであの日倒れた彼の頬のように紅い。
――大地を追い詰めて青春を奪った。
その罪の重さに耐えきれず、俺は退部届を出して、剣を捨てたつもりだった。
でも――野太刀を構えた時に思い出したんだよ。大地の顔を。一緒に夢を追いかけたあの日々を。真っ直ぐに剣に向き合って切磋琢磨したあの時間を。
俺は、あの面の感触を忘れられない。もう剣を手にすることはないと思ってた。
でもこの鬼ごっこで、どんどん人が死んでいくのを見ていて、俺は逃げ回っているだけでいいのかって思ってた。野太刀鬼が暴れ回っているのをただ見てるだけでいいのかって。
俺には剣を振れる力があるのに、その力を生かさないのはどうなのか。
父や先生の教えを守るなら、持っている力を使うのは人の為、それがまさに今なんじゃないかって思った。
全員は助けられなくても、目の届く範囲にいる人は守れるだけの力が俺にはある。その力を使わずに自分だけ逃げたんじゃ、楯に、大地に申し訳なすぎる。
どうせ死ぬなら、せめて恥じない最期にしたい。自分の持てる限りの力を尽して、納得の行く一本を決めて終えたい。
"見切りの世界"でインチキせず、そのために左手を失っても。
「……俺は、償わなきゃいけないんです。人を死なせた者として、力を持つ者の役目として、目の前に助けを求める人がいる限り、この剣で―――」
俊輔は、ゆっくりと顔を上げた。
祭壇の奥、光を背にして立つ神父は、微動だにしない。
この教会の外には今も逃げ惑う同学年たちが多数いる。この瞬間に鬼によって燃やされる人もいるに違いない。だが野太刀を構えて躍り出れば、その間だけ鬼の魔の手から遠ざけることが出来る。
結果、死んでしまうとしても、日の出を願って逃げ続ける人たちの命をほんの数秒でも稼ぐことが出来れば、こんな俺にも利用価値がある。
奪ってしまった大地のこれからの六十年には到底間に合わないが、せめてもの償いをするとすれば、こうするしかない。
現実の世界に戻っても、きっと自分に出来ることはない。
剣に生き、剣に泣き、剣を磨く事しかしなかったこれまでの人生。剣を捨てた自分はもう生きている意味がない。
――ここが、人生最後の仕合としたい。
もう二度と剣は振らない。
そう覚悟を決め、濡れた瞳から涙をこぼさないようにグッと堪えながら神父を真っ直ぐに見つめた。
――空気が変わった。
冷え切っていた教会の空間に、背後から微かな風が吹き込む。
それはまるで、閉ざされていた時間が再び動き出す合図のようだった。
俊輔が振り向くと、教会の扉が静かに開いていた。
外は暗いままだが、ただ風だけが通り抜けていく。
神父の声が厳かに響く。
「――正木俊輔。お前の懺悔は、確かに届いた」
神父は無表情のままだが、落ち着いた声と抑揚は、この教会に暖かく力強く響いた。
俊輔を見下ろしていた視線はゆっくりと扉の方へと向かう。
「――行くがよい」
俊輔の頬を、一筋の涙が伝った。
ブレザーの左の胸ポケットーー心臓の辺りが淡く光り、ほのかに暖かくなる。
俊輔は、血と汗にまみれた体をゆっくりと起こす。野太刀を手に取り立ち上がったその瞳には、生気が戻っていた。ほんのわずかな時間だったが、鬼が入ってこない空間で体を休められたのは値千金と言える。
今ならまた刀を振れそうだ。
「………ありがとうございました」
神父に一礼した俊輔は教会を飛び出す。
扉の外はわずかに薄明り。待ち焦がれた朝はもう近い。このまま耐え切れば朝が来る。冷たい空気の中、俊輔は走り出した。
中庭では、多くの生徒たちが逃げ惑っていた。疲労困憊の生徒たちを疲れ知らずの通常鬼が追い回している。
その中で一際目を引いたのは、ある集団の後ろから執拗に追いすがる特殊鬼の姿。
その特殊鬼は両刃の大剣を持っており、上段から破れかぶれの斬撃を繰り返している。その刃は、逃げる生徒の背を狙い、地面を裂き、空気を切り裂いていた。
俊輔は野太刀を担いだまま、生徒と大剣鬼の間に割って入る。
大剣鬼は一瞬足踏みをしてたじろぐ。その体躯はおよそ二メートル五十センチ、構えている大剣も同等の長さ。身長も武器のリーチも鬼に大きく劣る俊輔だが、その顔は臆病風には吹かれない。
―――フゥゥゥゥ………
丹田に力を籠め、深く息を吐く。
腰を落とし、重心を下げながら左足をザッと一歩踏み出す。
左前の体勢で右肩に野太刀を担ぐ"担肩刀勢の構え"で大剣鬼を睨みつけ、俊輔は右手一本で柄を握り込んだ。
その手は震えていない。
むしろ、静かに燃えていた。
大剣鬼が動いた。
重量とリーチに任せて、俊輔の脳天をかち割る面を真正面から打ち込む。
五メートルほどの高さに大きく振りかぶった大剣の切っ先がギロチンのように鈍く光る。重量と位置エネルギーと圧倒的膂力で引き寄せられる凄まじい剣速を乗せたその重すぎる刃は、空気を裂き、俊輔の頭蓋を捉える。その脳天を左右真っ二つに分かつと思われた大剣が、俊輔の前髪に触れる寸前――
紙一重で俊輔は半身を翻した。
流れるような身のこなしで大剣を空振りに終わらせ、右手の野太刀を横一文字に振り抜いた。
「胴ォォォォアアアア!!!!」
地面に鬼の大剣の切っ先が地鳴りを上げて突き刺さると同時に、鬼の胴が上下に別れた。
大剣の一撃が避けられただけでなく、自分が斬られたことを遅れて自覚した時、鬼の上半身と下半身がずり落ちた。
どしんと音を立てながら地面に倒れた大剣鬼の上半身は、助けを求めるように、空を掴むように上へ手を伸ばし、やがてその手もだらりと地面に落ちた。
俊輔は右手だけで残心を保つ。
構えを崩さず、鬼が確実に絶命したことを確認するまで、微動だにしなかった。
真っ二つとなった鬼の死体は巨大だった。だが、小学二年から高校三年の夏まで三六五日、竹刀を振り続けた俊輔の敵ではない。
俊輔は振り抜いた野太刀を担ぎ直し、吐き捨てるように言った。
「……お前なんか、片手で充分だ。素振り百万回やってから出直してきな」
渾身の面抜き胴を決めた俊輔は、背中で何かを感じ取っていた。
後方から、橙の光がじわりと漏れている。
それは、夜の終わりを告げる微かな兆しだった。
――朝。
永遠に続くかと思われた闇を、地平線の向こうから射し込んだ光が静かに追い払っていく。
十四万人と学園全体を巻き込んだ、六時間に及ぶ命懸けの鬼ごっこが、ついに幕を下ろそうとしていた。
周囲で逃げ惑っていた生徒たちが、不意に足を止める。
振り返ると、すぐ背後まで迫っていた鬼たちが、まるで糸が切れた人形のように動きを止めていた。
その瞳は虚ろで、伸ばしてきていた手は地面にだらりと垂れ、足元に影が沈んでいく。
「お、終わった……?」
「………助かった、のか…?」
「生き残った…生き残ったんだ……!」
誰もが、声を張り上げる余力など残っていなかった。
ただ、静かに、震えるように喜びを噛み締めていた。
この長く、冷たく、恐ろしい夜が――ようやく終わったのだ。
そして、韻律の狂ったチャイムが鳴り響く。
不快な音階が、空気を震わせながら校舎全体に広がる。
『本日の授業はここまでです。それではみなさん、また明日。さようなら――』
スピーカーから流れるアナウンスは、どこか機械的で、感情のない別れの言葉だった。
だが、それでも生徒たちは、その言葉に救われた。
力が抜け、膝が崩れ、皆その場に座り込む。地獄のような三日目が、終わった。
座り込んだ者。その場で大の字に寝転がる者。泣きながら空を見上げる者。それぞれが、それぞれの形で、終わりを受け止めていた。
俊輔は、野太刀を地面に下ろし、柄をゆっくりと撫でた。一睡もせず戦い抜いたその顔には、濃い疲労の影が刻まれていた。だが、同時に、何かをやり遂げた静かな満足感が滲んでいた。
三日目の開始時点で十五万人いた生徒は、終了時にはわずか二万一千人にまで減少していた。
俊輔の奮闘がなければ、この数字はさらに減っていたことだろう。彼の一太刀が、何百、何千の命を繋いだ。
これが最後と決めて振るった、大振りの太刀。竹刀とは比べものにならない重さと殺意を孕んだ刃。だが、俊輔はそれを受け入れた。大事な仲間を殺してしまった剣で、誰かを救えた。使い勝手の何もかもが違うが、野太刀も、野太刀で良い。
ただ――もう二度と、剣は手にしない。
俊輔は、目を細めながら朝陽を見つめた。
橙の光が、校庭の血と影を静かに照らしていた。
生き残った二万一千人の意識は、徐々に薄れていく。学園という異界から、現実の肉体へと引き戻されていく。その過程は、まるで夢から覚めるように、静かで、残酷だった。
俊輔は、最後まで目を閉じなかった。自分が斬った鬼の遺体と、随所がボロボロに崩れた校舎を朝陽が照らす。日が昇るのを、確かにこの目で見届けるために。それが、彼にとっての“授業の終わり”だった。
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現実の俊輔の瞼がゆっくりと開いた。
夜通し戦い続けた跡がそのまま繰り越されたような疲労感に全身が悲鳴を上げる。
ずっと重たい野太刀を担いでいたせいで凝った右肩を、思わず左手で揉み解した。
「………………っっ!?」
狙撃銃鬼の銃撃によって左前腕から先が全て吹き飛ばされたはずだった。だが、そこには何の変哲もない、見慣れた自分の左手が、しっかりと存在していた。指も、爪も、掌の皺も、すべてが元通りだった。
俊輔は、深く息を吐いた。
あの恐ろしい夜の世界は、やはり夢だったのか――。
安堵のため息が、喉の奥から漏れた。
左手の無事を確かめた俊輔は、ようやく周囲を見渡す。昨夜は自宅のベッドで眠っていたはずだった。
だが、目覚めたこの場所はベッドの上ではない。今、自分は丸椅子に腰掛け、壁に寄りかかっている。濃密すぎる六時間を過ごしたせいで、夢と現実の境界が曖昧になっていた。状況の把握に時間がかかるが、徐々に目が慣れてくるにつれ、ここが病室であることが分かってきた。
そして、目の前にあるベッドで誰かが眠っている。寝ぼけ眼の焦点が徐々に定まるにつれ、そのベッドで横たわる人物の輪郭がはっきりと見えてくる。
「―――大地」
二カ月前の練習で熱中症となり、そのまま植物状態になってしまった愛する仲間だった。
髪はすっかり伸び、酸素マスク越しの頬は心なしか痩せている。掛け布団の上で胸元に組まれた手と腕は筋肉が落ちているのが一目で分かる。骨ばった指が痛々しいほどに細い。
小さくゆっくりと胸を上下させながらどうにか命を保っている。
そんな仲間の姿を見て、俊輔は鼻の奥がツンと痛むのを感じた。
息をしているのに、もう目覚めることが無いなんて。
でも、そんな風にしてしまったのは、他でもない自分だ。自分のエゴで大地をこんな姿にしてしまった。
俊輔は椅子から腰を上げ、宮坂の手に触れた。
生きているとも死んでいるとも言えない温もりが、両手に伝わる。半死半生の人形のようにしてしまったその罪が、改めて胸に突き刺さる。きっと、ご家族はもっと辛いに違いない。
出来る事ならあの日の自分を叱り飛ばしてやりたい。
「お前のやってることは間違っている」と。
「そのやり方で強くなれたのはただの気のせいだ」と。
「お前が目指している強さは何かを犠牲にして得るものじゃないだろう」と。
"自分が下した間違った選択の結末"。
それが、ベッドの上で眠っている。
大地本人にも、ご家族にも、部員たちにも、先生にも、父にも、顔向けできない。
あの時、間違えていなかったら。
その一念だけが、俊輔の胸に静かに降り積もる。
「―――大地。ごめんな。本当に、ごめんな……っ!」
俊輔の涙が、宮坂の手の甲に零れ落ちた。
その時。
「――――っ」
宮坂の目が、開いた。
重たく閉じられていた瞳が、光を探すように開いていく。
その瞳は、まだ焦点を結ばず、虚ろで、夢と現実の境界を彷徨っていた。
「……だい、ち……?」
俊輔の声は震えていた。信じられないという思いと、信じたいという願いが入り混じった、かすれた呼びかけ。
宮坂の瞳が、ゆっくりと俊輔の方へ向く。焦点が合ったわけではない。けれど、確かに、俊輔の存在を感じ取ったように、微かに目が動いた。
俊輔は、言葉を失った。胸の奥で何かが弾ける。罪悪感も、後悔も、懺悔も、すべてが一瞬、光に溶けていくような感覚。それでも、涙は止まらなかった。
「……大地……!」
俊輔は、宮坂の手を両手で包み込む。
「せん……ぱ……い…?」
からからに乾いた声ながら、宮坂は俊輔を確かに呼んだ。
二度と聞くことは出来ないと思っていた宮坂の声に俊輔は何度も頷く。
「ああ、俺だ。ごめんな、大地。ごめんな……!!」
宮坂の手を取り、握りしめる。
零れそうになる目元を袖で拭いながらひくひくとしゃくりあげると、そんな俊輔の背を撫でるように風が吹く。揺られたレースのカーテンが俊輔の肩をくすぐった。
柄にもなく涙してしまった俊輔だったが、これまで大地の前でこうした感情を見せたことが無かった気恥ずかしさも相まって、はたと気付く。
「あっ…、ちょ、ちょっと待ってろよ、今ナース呼んでくるから!」
俊輔は慌てて立ち上がり、病室の扉を勢いよく開け、廊下へと飛び出した。
早朝の病棟は所々蛍光灯が消灯されておりやや薄暗く、無人の廊下は静まり返っている。
ナースステーションの方向へ走り出そうとしたその瞬間、胸元に違和感を覚えた。ブレザーの胸ポケットが、何かで膨らんでいる。俊輔は足を止め、指先でそれを引き抜いた。
それは、見たこともないポイントカードだった。濃紺地に金の縁取り。
中央には、【撃破ポイント:四千八百】と数字が書かれており、角度を変えるとそのポイント表示がホログラムのように虹色に煌めく。
俊輔は眉をひそめる。
(何だこれ……?いつの間に……?)
だが、そんなことを考えている暇はない。宮坂が目を覚ました。それだけで、今は十分だった。
俊輔はカードをポケットに押し戻し、再び駆け出した。
ナースステーションの明かりが見える。大地の青春は、まだ終わっていない。
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銀の仮面公式サイト・グッズ販売ページ。
有志ファンによる同人グッズが多数出品されている銀の仮面公式のグッズ売買ページでは、今日も買いたいと売りたいを繋げている。
【銀の仮面アクリルスタンド~暗雲両断~】
販売価格:三千五百円
寸法・重量:縦十八センチ、横七センチ、奥行き五ミリ、四二グラム
材質:アクリル樹脂(本体)、SUS304ステンレス鋼(チェーン)
商品説明:銀の仮面アクスタの十月バージョンです。神在月にちなんで、雲を割って月を出す神々しさを描いてみました。一点一点手作業で製作しているため、写真イメージと異なる仕上がりになる場合があります。
【月下三相ピンズセット】
販売価格:二千八百円
寸法・重量:各ピン縦二センチ、横二センチ、総重量二十グラム
材質:亜鉛合金、ニッケルメッキ、合成樹脂
商品説明:好評につき第三弾です!三日月・満月・仮面の三種をセットにしたピンズコレクションです。銀の仮面が月の相によって異なる力を引き出すという設定を盛り込んでみました。小さい部品が含まれますので、お子様や赤ちゃんの手の届くところには置かないようにお願いします。
【月夜の弁当箱・二段重】
販売価格:八千五百円
寸法・重量:横二十センチ、奥行き九センチ、各段高さ六.五センチ(合計高さ十四センチ)、重量四百五十グラム
材質:天然木、漆、銀粉
商品説明:子供用のプラ弁当箱に便乗して、木工職人と蒔絵職人のタッグで大人用をリリースします。銀の仮面が月下の静寂に包まれながら食事を取る場面をイメージした黒漆塗りの二段式弁当箱です。蓋には三日月と仮面の意匠を銀粉で描いたので、高級感が溢れます。今なら専用風呂敷(一辺八十センチ)もセットでお付けします。※天然素材使用の為、木目・重量・仕上がりには個体差が出ます。
そんな商品がずらりと並ぶ中、誰の目にも触れないよう、ひっそりと、限定公開で一つの商品が何者かによって出品された。
【思い出の砂時計】
販売価格:四千八百GP
寸法・重量:高さ十二センチ、直径六センチ、重量三百五十グラム
材質:∮λ⟆石、窶縺§Φы鉱、∮⟊☆砂、時素≡∵⟊粒、✧¤⟆核
商品説明:砂が落ち切った砂時計。夢から正しく覚めた者だけが使用可能。
逆さにすると、二〇二五年八月七日午後二時三十五分に戻ることが出来る。
※使用者のみ。一回使用すると消失する。本品を使用しても、使用前の記憶は消えない。
次話は明日20時投稿予定です。
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