33話 社会の時間・リアム・ハート、ジャマル・バーン
二〇二五年十月二十二日。深夜。
夜が来た。
現実の肉体は眠っている。だが、魂は再び“あの場所”に引きずり込まれていた。
三十万人の加害者たちは、目を覚ますようにして気づく。自分がまた、あの広大な校庭に立っていることに。昨日と同じ制服。昨日と同じ空。昨日と同じ校舎。だが、昨日と違うのは校庭にいるのは自分と同年代の制服を着た男女だけ――銀の仮面の姿も声も、どこにもないことだった。
代わりに、空からチャイムが鳴り響く。
キーン、コーン、カーン、コーン……
調律の狂った、不快な音色。そして、上空に現れる巨大な砂時計。黒い砂が滝のように流れ落ち始める。
誰かが叫ぶ。
「やばい!また始まった!」
「ふざけんなよ…クソッ!」
「昨日のアレがまた起こるってのかよ…!」
「死んでたまるか…っ!!」
その言葉が引き金となり、群衆は一斉に動き出す。誰も説明されていない。誰も命令されていない。だが、昨日の鮮烈な記憶が、彼らの本能と恐怖心を支配していた。
三十万の若者が我先にと校舎へ向かって走る。押し合い、突き飛ばし、蹴り飛ばし、転んだ者を踏みつけて先へ行く。昨日よりも速く。昨日よりも激しく。座り損ねた者への結末が分かっている彼らの生存本能と躊躇のない暴力は凄まじい。理性は、砂の落下とともに削られていく。
校庭では、転倒した少年の背中を踏みつけて走り抜ける女子生徒。廊下では、ドアの前で詰まった人間の群れが、互いに殴り合いながら突破を試みる。悲鳴が、罵声が、絶叫が、校舎の壁に反響する。
そして、砂時計の砂が底に達した瞬間。
校庭と廊下に取り残された者たちの肉体が、黒炎に包まれる。
「う、嘘だろ、まだ二十分しか経ってな―――!!」
忽ち、叫び声。自分の肉が焼け焦げる音。昨日は三十分の猶予があったのに二十分でタイムリミットを迎えた事への驚愕の表情のまま魂が引きずり出され、燃え尽きた新聞紙のように崩れ落ちる。
廊下から直接聞こえる肉声と、スクリーンから脳へ直接響く断末魔。昨日よりも恐ろしく。昨日よりも実感を持ち、椅子に座れなかった十五万の悲鳴が校舎中を埋め尽くした。
また今日も全体の半数が椅子に座れなかった。
教室の中では、座席にありつけた者たちが、目を閉じて震えながらただ黙ってその悲鳴を聞いていた。
窓の外で燃え上がる人影。廊下の奥でのたうち回る同世代の男女。十五万。
そのすべてを、教室の蛍光灯が淡々と照らしていた。
そして、教壇に銀の仮面が現れる。
昨日と同じように、何の前触れもなく、そこに立っていた。
「――おはようございます」
その声は、穏やかで、柔らかく、まるで担任教師の朝の挨拶のようだった。
「今日も一緒に、勉強をしていきましょう」
その言葉に、教室の空気が凍りつく。
窓の外では、まだ黒炎に包まれた生徒が絶叫している。
廊下では、焼け焦げた肉の匂いが漂っている。
だが、銀の仮面は、まるでそれがわざわざ話題に取り上げるまでもない、何でもない日常であるかのように、あっさりと流していた。
「昨日の復習から始めましょう。“他者の痛み”とは、何だったでしょうか?」
教室の中に、誰も答えようとする者はいなかった。
昨日、席にありつき、逆鱗に触れずに済んだ者たちが、今日もまた“運よく座席に座っている”というだけで、生き残っている。
今だけは地雷原の中でギリギリ生き残っている。その事実が、彼らの胸の奥に、導火線がじわじわと焦げていくような恐怖を広げていた。
銀の仮面は、教壇にチョークを走らせながら、呟くように言った。
「学校とは、学びの場です。ですが、時に命の大切さを学ばなければならないことも、あるのです」
その言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。
だが、窓の外で燃え尽きていく人影が、何よりも雄弁に語っていた。
"ここは、文字通り命を以って命の大切さを知る学校なのだ"と。
そして、銀の仮面は振り返る。
「では、これより社会の授業を始めます。机の中の原稿用紙と筆記用具を出してください」
十五階建て校舎の三千室の生徒、十五万人が一斉に原稿用紙を机上に広げた。
銀の仮面は、教壇の前に静かに立ち、黒板に一文字ずつチョークを走らせる。
『人類の支配の歴史』
その文字が書かれた瞬間、教室の空気が変わった。
蛍光灯の光がわずかに赤みを帯び、壁に掛けられた世界地図がゆっくりと焼け焦げていく。
その焦げ跡は、アフリカ大陸から広がり、やがて日本列島の中央にまで達した。
銀の仮面は、静かに語り始める。
「人類の歴史には、忘れてはならない“支配”の記憶があります。紀元前千三百年頃、ヒッタイトによって広められた鉄製武器。中世のヨーロッパで発明された遠洋航海術・火薬。第一次大戦から第二次大戦にかけて発展した航空機、戦艦、核爆弾、ロケットなど、さまざまな時代と地域で生まれた新しい武器や技術によって、旧来の民族や国家を滅ぼし新たな国を興してきました。人類とは興亡の歴史でもあるのです。また、宗教や肌の色によって人を分け、住んでいる地域によって階級を定め、生まれによって人の活動を縛り、持つ者は持たざる者から教育と夢を奪うことも世界各地で行われてきました。自分が富むために人を傷付け、殺す――そうした弱肉強食の縮図でもあります」
教室の前方スクリーンに映し出されたのは、奴隷船の断面図。
ぎっしりと詰め込まれた黒人奴隷たちの姿が、無機質な線画で描かれている。
その上に、ジャマル・バーンの顔写真が重ねられる。
「ジャマル・バーン。君の祖先は、鎖に繋がれていた。鎖のせいで自由を奪われた祖先は、ただ自分の力で、自分の思うように生きることを願っていた。その願いは叶い、肌の色で明確に差別されずに済む時代が訪れた。しかし先祖が捨てたいと願ってやまなかったその鎖を、君は他人に巻いた。君の嗤いは、クラスメイトの少年の夢を縛った。自由と尊厳を奪われながらも必死に命を代々繋いだ先祖の血を持ちながら、君は他人の自由を奪ったのだ」
次に映し出されたのは、白人のプランテーション所有者たちの肖像画。
その中央に、リアム・ハートの顔が重なる。
「リアム・ハート。君の祖先は、支配者だった。先見の明と巧みな交渉術と強力な貿易船団によって、巨万の富と発言力を手にした君の祖先たちはやがて国をも動かす力を掴みながら、時代の流れに合わせて奴隷解放と私財の放棄に同意した。白人至上主義と帝国主義にピリオドを打ち、自分たちが支配していた有色人種と隔たり無く同じ人間として歩むことを決めたはずだった。だが君は、この令和の世において、再び支配の鞭を手に取った。君は二百年前に捨てられた言葉をクラスメイトに浴びせた。ゴミという一言が、被害者少年の人格をどれほど切り裂いたか、想像したことはないだろう。先祖が捨てた、言葉と恐怖で人を殺す技術を、君は再び手にしていた」
銀の仮面は、黒板に新たな言葉を書き加える。
「I have a dream」
その瞬間、教室の空気が震えた。
キング牧師の演説が、スクリーンから流れ始める。
その声は、荘厳で、希望に満ちていた。
“I have a dream that one day every valley shall be exalted…”
だが、その映像は途中で切り替わる。
次に映ったのは、ある少年のノート。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
「もう、希望を持つのはやめる。希望を持たなければ、絶望することもないから」
銀の仮面は、教室を見渡す。
「彼にも夢がありました。楽しい中学校生活を送る。勉強に励みながら部活に熱心に打ち込み、いつか出会う運命の相手と素敵な思い出を作る。放課後は友達と遊びに出掛け、夏休みには花火大会に行き、ハロウィンとクリスマスは盛大に楽しみ、冬はスキーやバレンタイン、四季折々目白押しのイベントに胸を躍らせて楽しみにしていました。だが、君たちはそんなささやかな夢を嘲笑し、踏みにじり、ビリビリに破いて焼き捨てた。君たちは、明日を楽しみに待つ気力すら無残に奪い取った。つまり、夢を殺したと言っても過言ではありません」
スクリーンに映る破れたノート。
その紙面には、落とし切れなかった靴跡と、大量の水に濡れたシワが残っていた。
「今日の課題です。“明るい社会とは何か”について、四百字以上で記述しなさい。提出できなければ、"明日は来ません"」
教室の中に、沈黙が落ちた。明日が来ないとは、つまり、そう言う意味だと全員が理解した。
リアムとジャマルは、震える手で鉛筆を握る。
だが、今まさに己の罪を晒された上で原稿用紙に明るい社会を作るための言葉を綴ることは、彼らにとってダサクラをいじめた自白を残すことに他ならなかった。
リアムは、鉛筆の先を紙に近づけたまま、指先を震わせていた。
ジャマルは、原稿用紙の罫線を睨みつけながら、何度も深く息を吐いた。
教室の空気は、まるで酸素が抜け落ちたかのように重く、誰もが自分の鼓動の音だけを頼りに沈黙を耐えていた。
銀の仮面は、教壇の前から一歩も動かず、ただ彼らの様子を見守っていた。
その姿は、教師というよりも、裁判官のようだった。
いや、もはや神に近い存在として、彼らの罪と向き合う姿勢を見定めていた。
ジャマルは、ようやく鉛筆を走らせ始めた。
だが、書き出しの一行目で手が止まる。
「明るい社会とは――」
その先に続く言葉が、どうしても浮かばなかった。
自分が明るさを奪った張本人であることを、今さらながら痛感していた。
リアムは、鉛筆の先で紙を突きながら、何かを呟いた。
「……誰が読むんだよ、こんなもん……」
だが、声は誰にも届かない。
銀の仮面は、ただ静かに言った。
「記述は、魂の証言です。君たちが何を思い、何を壊し、何を残そうとしたか向き合いなさい。誰かに読ませるのではなく、自分自身と向き合う。己の過去と向き合い未来を考える、それすらも拒む者は、果たして明るい社会の形成に寄与するだろうか」
その言葉に、教室の空気がさらに冷え込んだ。
リアムは、震える手でようやく一文を書き上げた。
「明るい社会とは、みんなが安心して笑える場所だと思います」
だが、その言葉を書いた瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは――
公園で泣きながらノートを拾っていた朝倉少年の姿だった。
ジャマルは、原稿用紙の端に、ようやく一行目を書いた。
「何にも縛られず、自由で希望が持てる社会が、明るい社会だと思います」
だが、その言葉を書いた瞬間、彼の耳に響いたのは――
自分が放った嘲笑と、踏みつけた後頭部の感触、希望を毎日毎日踏みにじる音だった。
銀の仮面は、教壇から五十人の頭頂部を見渡しながら、静かに言った。
「言葉は、過去を消せない。だが、未来を選ぶことは出来る。君たちが選ぶ未来が、誰かの夢を守るものであるなら――その罪は消えずとも、上書きすることは出来るだろう。君たちが塗りつぶした黒を白で上書きするには途方もない時間と労力がかかる。一度塗られた黒が純白になる事は決してない。しかし諦めずに白を塗り続ければ限りなく白に近いグレーにすることは可能だ。君たちが犯した罪を償うには、その数百倍の努力がいるのだ」
数十分、数時間、果たしてどれほどの時間が経っただろうか。
銀の仮面が開けた窓からは、じっとりとした微風が吹く。湿った風は吹くだけで不快感を増幅させるものだった。
暑くも涼しくもなく、ただ居心地がみるみる悪くなるかのような風が吹く教室の中、原稿用紙を書き終えた生徒がちらほらと立ち上がり、教壇に提出していく。
"明るい社会とは何か"。
リアムとジャマルが頭を悩ませながら。己の罪を真正面から向き合わなければならない強い抵抗感を覚えながら。その罪を告白することで銀の仮面に殺されるのではないかとの恐怖心を全身に感じながら。原稿用紙に書き終えて提出したのは、他の四十八人が提出し終えてしばらくした頃だった。
銀の仮面は、無言で原稿用紙を受け取った。
リアムとジャマルの手から紙が離れた瞬間、教室の空気が微かに震えた。
まるで、何かが“確定”したかのように。
教壇の前に積み上げられた五十枚の原稿用紙。
銀の仮面は、それらを一枚ずつ手に取り、目を通していく。
その動作は、まるで裁判官が判決文を読み上げる前の沈黙のようだった。
そして、最後の一枚――リアムの原稿用紙に目を落とした瞬間。
銀の仮面の手が止まった。
彼は、静かにその原稿用紙を掲げた。
教室の全員が、その紙面に書かれた最後の一文を目にする。
「人の上に人を作らず、人の下に人を作らない、そんな世の中が明るい社会を作ると思います」
その言葉を読み上げた銀の仮面の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
だが、教室の空気は、明らかに変わった。
リアムは、銀の仮面の沈黙を見て、内心ほくそ笑んでいた。
(これでいい。綺麗事を並べておけば、あいつは満足する。俺が本気で反省してるかなんて、分かるわけない)
彼は、原稿用紙に書いた言葉が“正解”であることを願っていた。
いや、願うというより、確信していた。
自分が過去に何をしたかではなく、今、もっともらしい言葉を並べることができたかどうか――それだけが、彼の関心だった。
(さっさと終わってくれよこんな茶番。もういいだろ。早く解放しろよクソが)
だが、銀の仮面は、リアムの目を見て言った。
「――この言葉は、君自身を否定するものです」
リアムの笑みが、凍りついた。
「君は、“人の上に人を作らない”と言った。それは、“他者を虐げる者が存在しない社会”を意味する。だが、君はその“虐げる者”だった。つまり、君は今、自分が存在してはならないと認めたのです」
リアムの顔から血の気が引いた。
教室の他の生徒たちは、息を呑んで銀の仮面を見つめていた。
彼らは、リアムとは違い、原稿用紙に向き合うまでに何度も自分の過去を振り返り、涙を流し、震えながら言葉を紡いだ。だが、リアムは違った。彼は自分の罪と向き合う振りをして、許されるための“模範解答”を探しただけだった。
銀の仮面は、教壇の前に立ったまま、静かに手を上げた。
その指先が、リアムを指す。
「君が引き金を引いた。君の言葉が、この教室の存在意義を否定した。“いじめ加害者が存在しない社会”――。それは、君たちが存在してはならない社会だ」
その瞬間、教室の天井が裂けた。
黒い光が、雷のように走る。
窓が割れ、壁が砕け、外の景色が反転する。
リアムが叫ぼうとした。
ジャマルが立ち上がろうとした。
他の生徒は、誰も動けなかった。
銀の仮面は、最後にこう言った。
「人の上に立ち、夢を踏みにじった者たちよ。君たち自身が、“明るい社会”の定義に含まれていないことを、君たち自身が証明した。ならば、君たちの存在は、ここで終わる」
「―――黒禍雷葬」
次の瞬間、途轍も無い巨大な黒雷が爆ぜ、教室の窓ごと全員を一斉に焼き飛ばした。
世界が新たな定義を設定したかのように、声も、影も、記憶も残さず、五十人は完全に消滅した。
銀の仮面一人が残された教室には、崩壊した窓と壁面からじっとりとした外からの風が吹き込む。
四十九枚の原稿用紙は黒雷の衝撃波によって校舎の外へ吹き飛ばされたが、教壇の上に一枚の原稿用紙だけが残されていた。
そこには、リアムの筆跡でこう記されていた。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために。そうやって助け合う事も大事だと思いますが、人の上に人を作らず、人の下に人を作らない、そんな世の中が、明るい社会を作ると思います」
心の全く籠っていない使い古された決まり文句は、誰にも読まれることなく、黒い残り火に包まれて、静かに燃え尽きた。
次話は明日15時投稿予定です。
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