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32話 道徳の時間・富田元

 二〇二五年十月二十一日。

 新月の夜。月明かりはおろか、星の瞬きすら奪われた夜が、日本全土を包み込んでいた。

 だがその夜、現実と夢の境界はひそやかに崩れ落ちていった。


 ベッドの中、こたつの中、塾の帰り道、深夜アニメを観ていたリビング。

 全国のいじめ加害者たちは、不意に自分がどこにいるのか分からない感覚に襲われた。

 視界が暗転し、耳鳴りが爆発のように広がったかと思うと――気がつけば、彼らは巨大な校舎の前に立っていた。


 夜空は異様に低く、黒い雲がねっとりと渦を巻く。そこには月も星も存在しない。ただ、天井のように広がる暗黒と、校舎から不自然なまでに白い蛍光灯の光が煌々と照らされたコントラストは、足元の砂の校庭を病的に照らしていた。

 気温は秋よりも少し低いはずなのに、背筋を撫でる寒気は氷点のように鋭かった。


 ――ここはどこだ?夢か?

 そんな疑問を抱く間もなく、ざわめきが爆発する。


「な、なんだよここ!?」

「俺、家でスマホ見てたはずなのに…」

「おい、どういうことだよ!なんでこんなに人が…」


 人。人。人。

 目の届く限り、制服姿の小学生・中学生・高校生が無秩序に立ち尽くしていた。私服やパジャマだったはずの服装は、いつの間にか着慣れた制服に変わっている。


 大勢の人間の頭が、黒い波のように揺れている。

 そして、その全てが奇妙に似た系統の顔を持っていた。

 嘲笑う顔。殴る顔。見下す顔。釣り上がった目と眉と口元は、他者を痛めつけることに快楽を覚えてきた者たちの顔だった。

 この場にいる者全員が、誰かを日常的に、常習的に傷つけた過去を持っている。



 群衆は広い校庭に押し込められ、身動きが取れない。押し合い、罵り合い、殴り合い。

 もうこの時点で、弱い者は地面に押し倒され、踏まれ、悲鳴をあげていた。


「やめろよ!やめろって!」

「邪魔だ!踏まれてえのか!」


 まだ声変わりもしていないような幼い罵声は悲鳴に変わる。蹴落としは瞬く間に始まり、阿鼻叫喚が夜に溶けていく。

 だが、誰ひとりとして逃げることはできない。

 校庭を囲むフェンスは高さ十メートル以上あり、さらにその外は深い闇の底――覗き込む者は一瞬で膝を砕き、吐き気を催すほどの無限の虚空が広がっていた。


 果てしなく広い校庭。

 それを果てしなく埋め尽くす黒山の人集り。

 ここには全国の小中高校のいじめ加害者が、約六十万集められた。

 この場にいる者すべてが、誰かを傷つけた“前科者”だった。


 そのとき、無数の蛍光灯が一斉に明滅した。

 ギイイイ…と耳障りな音を立て、校舎の玄関が勝手に開く。

 そこから現れたのは、異様に背の高い超人の影だった。


 全長はおよそ百五十メートル。高層ビルのように聳え立つその顔は銀色の仮面で覆われ、黒いマントを翻すだけで強風が吹く。

 だが、その影の周囲には、夢とも現実ともつかぬ歪んだ空気が漂っている。

 その声は、スピーカーのハウリングを含んだような低音で、六十万の脳内に直接響いた。


『――今宵は、新月の夜』

『ここは私が用意した特別な校舎ステージだ。お前たちの肉体はそれぞれの寝床に眠ったまま』

『この世界での死は、現実の死に直結する。決して夢の話ではない。この世界はもう一つの現実である』


 ざわめきが再び爆発する。

 しかし、その声はかき消されることなく、さらに重く響いた。


『集まった者たちよ。お前たちはこの学び舎で数々の苦しみを与えて来た加害者だ』

『罪状――他者への加虐、精神的圧迫、集団による暴力、脅迫、強要、恐喝、性暴行、名誉棄損、殺人、自殺教唆』

『更生の機会を促すはずの少年法は、今や免罪符・悪法となってしまった。少年法があるせいで要らぬ罪を重ね、正しき罰が下されない。大人の一人として、この現状を私は憂いている』

『他者の心と魂を奪ったお前たちには処罰と更生の機会を与えよう。この世界から脱出したければ…朝まで生き残れ』


 黒いマントの裾から、無数の影が這い出してくる。

 それらは一メートルほどの大きさの歪んだヒト型をしており、顔は粘土細工を潰したように醜く、手足は異常に長い。

 影たちは群衆の間をぬるりと這い回り、怯えた子供たちの首筋を嗅ぎ、舌を伸ばす。


『夜は長い』

『再び虐げられるだろう明日が来ないことを願っていた想いは果てしない』


 足元の土の地面が大渇水のようにひび割れ、その裂け目から黒い霧が吹き上がった。

 その霧に触れた者は、かつて自分が放った暴言や暴力の場面を幻視し、叫び声をあげて崩れ落ちる。


『さあ、始めようか』

『これより第一の課題を与える。三十分以内に、この校舎内の座席に着席しろ』


 マントの後ろに見える校舎は、長大で巨大。要塞ともいえるその大きな建造物は、窓という窓から蛍光灯の淡い光が漏れていた。十五階建ての校舎の内部には無数の机・椅子と黒板、窓際に束ねられたカーテンがまるで首つり死体のようにほのかに揺れている。


 銀の超人が、冷ややかに告げた。


『用意されているのは、ここにいる人数の半分——およそ三十万人分の席だ。つまり、半数は座れない。座れなかった者は……死ぬ』


 一瞬の静寂。そのあとに、ざわめきが広がった。


「は?殺す?何言ってんだよ」

「脅しだろ?夢オチとかダセーww」

「ネタだろどうせ」

「これインストに上げよww」

「それ絶対バズるわ!俺もやろwww」


 半数以上の者は、まだこの空間を悪趣味な余興か、ネットで仕組まれた集団催眠のようなものだと思い込んでいた。笑い声すら漏れている。だが——。


『これは冗談ではない。ここで死ねば、現実の肉体も同時に死ぬ。逃げ場はない。信じるも信じないも自由だが、信じた方が良いと忠告しておこう。この世界では日本国憲法・刑法は通用しない。私の命令こそが絶対となる』


 その言葉は、冷たい水を首筋から流し込まれたような感覚を伴って、群衆の心臓を締め付けた。


 ——キーン、コーン、カーン、コーン……


 どこからともなく響く、調律の狂った不快極まるチャイム音。

 銀の超人の姿が搔き消えると同時に、校庭の上空に巨大な砂時計が現れ、真っ黒な砂が滝のように流れ落ち始める。残酷なカウントダウンが始まった。


 最初、人々はその場に立ち止まっていた。だが、その中の何人かが銀の仮面の名を口にした瞬間、空気が変わる。


「あれ……銀の仮面だろ」

「って事はこれ、本物かもしんねえぞ」

「……ヤバい、急げ!」


 過去の電波ジャックや天誅映像を見た者は、これが遊びでも脅しでもないと即座に悟った。銀の仮面は何かに準えながら対象を「確実に殺す」。

 恐怖に駆られた人々が、我先にと駆け出す。押し合い、突き飛ばし、蹴り飛ばし、転んだ者の上をためらいなく踏みつける。悲鳴と罵声が校庭を満たし、空気は生臭く湿っていく。

 理性は三十分の砂と一緒に削られ、ただの「生存戦争」に変わった。


 銀の超人が放った大量の影人形は涙声の呪詛を吐きながら足に纏わりつく。


「うわあ!」

「は、放せえ!!」


 顔の原型が不明なのっぺらぼうの影は、ひたすらに許しを請いながら生徒たちの足にしがみつく。

 ユルシテ…イタイ…ゴメンナサイ…と壊れたスピーカーのように繰り返す影に全身に鳥肌を立てながら、無理矢理に引き剥がし、校舎目掛けて群衆は走り続けた。



 一階の教室から順番に席は埋まり、二階、三階、四階へと人波が蠢く。

 校庭から校舎内への入り口が三か所しかなく、六十万人の動線としてはあまりにもか細かった。

 やがて窓を割ろうとする者、外壁をよじ登って教室へ入ろうとする者も現れるが、窓は施錠されていて開かない。割って侵入しようとしても、とてもガラスとは思えない強度と弾性によって衝撃は無効化され、正規の出入り口以外の進入は果たせなかった。


 一室五十名が入れる教室が一階層に四百室。十五階建ての校舎には、計六千室の教室が配置されている。

 椅子取りゲームは、遠く、険しい道のりを強いられた。

 辿り着いてから分かる満室・満席に、後続の群衆はあからさまに愚痴や罵声を聞こえよがしに吐いて次の教室へと向かう。



 ——そして三十分後。


 再び気持ちの悪い韻律が鳴り響き、チャイムの最後の鐘が鳴りやんだ瞬間、教室に着席できなかった全員の動きが凍り付いた。

 だるまさんがころんだのような、不自然で不気味な静止。


 次の瞬間、各教室の黒板上部に据え付けられた巨大なスクリーンが降下、一斉に点灯する。

 そこに映っていたのは——座席にありつけず、廊下や校庭に取り残された者たちの姿。


 突如として、その肉体が黒い炎に包まれる。炎は皮膚を焦がすだけではない。瞳の奥から魂を引きずり出し、炭のように崩れ落とす。

 叫び声は、すぐ傍の廊下からも上がった。スクリーンの悲鳴は脳内に直接響き、耳を塞いでも消えない。三十万の断末魔が、同時に流れ込んでくる。



 スクリーンの映像は切り替わり——現実世界。

 布団やソファに横たわる肉体が、同じように痙攣し、口から泡を吹き、血を吐き、動かなくなる。家族や友人が揺さぶり、叫んでも、反応はない。


 ——どうせ遊びだと余裕ぶって歩いていた者の笑顔が、炎に焼かれ、ねじれ、消える。

 ——続く満席に焦りながら必死に駆けていた者の背が、突然崩れ落ちる。


 教室の空気は、一瞬で氷点下に落ち込んだ。


「……う、うそだろ……」


 それは呟きにもならない。

 ここが死と隣り合わせの現実であることを、全員が理解した瞬間だった。



 凍りついた沈黙が、校舎内の空気を支配していた。つい三十分前まで、六十万人の人間が校庭に立っていた。今、この校舎の座席に腰を下ろしているのは、その半数――三十万人。


 残りの者たちは、あのスクリーンの映像とともに消えた。焔に巻かれて頭を掻き毟る者、服を脱いでも消えない焔に絶叫する者、血を吐きながらのたうち回る者。スクリーンの光景と、現実世界の自室や布団の上で同じ姿勢のまま息絶える様子が、無慈悲に二画面で並べられた。それは「ただの夢」ではないことを、否応なく理解させた。


 ――自分は生き残った。だが、何をどう間違えれば自分が次の犠牲になるのか、誰も分からない。座席に腰を下ろせた者たちは、安堵と同時に、得体の知れない恐怖が胸の奥で腐り始めているのを感じた。心臓は落ち着かず、呼吸は浅くなる。隣に座る同級生や見知らぬ他校の生徒さえ、何か恐ろしい存在に見えた。


 そんな中、五階の五〇〇九教室の後方――窓際で足を投げ出している一人の少年がいた。

 富田元。十四歳。小学五年生から「喧嘩最強」を自称し、取り巻きに囲まれて他人を踏みつけることに生きがいを感じてきた。両親は中国生まれの帰化人。日本の血は一滴も入っていないながら純粋な日本国籍を持って生まれた富田は大中華思想と反日感情を胸に生きて来た。


 学ランの前側を全て開け、ドクロ柄のTシャツと十字架のシルバーネックレスを着けた富田は死の映像が流れている間も、両手をポケットに入れて表情一つ変えなかった。万が一のために席を確保したが、想像していたものと違い、拍子抜けを食らった様子でいた。

 ――やっぱり脅しか。夢の中で本当に死ぬなんてあり得ない、とまだ信じていた。

 現実で倒れていたのも、どうせ気絶だろう。自分が狙われる理由なんてない。そう思い込み、指先で机をカンカンと叩きながら、心の中でこう吐き捨てる。


「あの仮面野郎、次会ったらぶっ飛ばす」


 と、そのとき。教室前方の教壇の中央に、銀の仮面が現れた。実体なのか幻影なのか判別できないほど自然に、そこに立っていた。無音の空間に、低く響く声が落ちる。


「――では、これより道徳の授業を始めます」


 座席に座った三十万人の脳裏で、一斉に警鐘が鳴った。つい先ほどまでの殺戮と絶叫、その直後に投げかけられる穏やかすぎる言葉。場違いな優しい声音が、逆に背筋を凍らせる。


「本日のテーマは“他者の痛みを知る”です」


 背筋が凍る。

 その言葉が、これから何を意味するのか、誰もが悟りかけていた。




 銀の仮面は、すっと右手を上げる。教壇の背後に据え付けられた巨大スクリーンが、まるで命令を待っていたかのように黒い光を帯び、古いフィルム映画のようなカウントダウンが始まる。

 三、二、一…。やがて色を取り戻す。


 モニターに映し出されたのは、薄暗い学校の廊下だった。画面は不安定に揺れながら、息を切らして走る視点。カメラは手持ちのように上下に跳ね、何度も後ろを振り返る。誰かに追われている。足音が近づく。呼吸が荒くなる。

 次の瞬間、画面が激しく揺れた。背後から服の襟を掴まれたように、視界が地面に吸い込まれる。カメラは横転し、仰向けになったレンズ越しに、制服姿の男子生徒たちが現れる。

 中央に立つ一人がすぐさまカメラに馬乗りになった。

 その顔は、歪んだ笑みを貼りつけたまま、獲物を見下ろしている。

 学ランの前を全開にし、ドクロのプリントが浮かぶTシャツを誇示するように胸を張る。


『ダサクラのくせに。もう逃げらんねえからな』


 声は低く、ねっとりとした嘲笑を含んでいた。

右手が振り上げられ、カメラに向かって平手打ちが飛ぶ。一発。二発。三発。画面が左右に揺れ、ピントが乱れ、映像が滲む。

 周囲の取り巻きたちが、笑いながら罵声を浴びせる。


『逃げきれるワケねーだろ、ダサクラのくせに!』

『手間かけさせやがってよ!』

『立てよ、ほら、かかって来いよ意気地なし!』


 画面外からも衝撃が加わり、映像は絶え間なく揺れ続ける。

 映像は上下左右に強く揺さぶられ、やがてピントは滲んでいった。



 次の場面では、掃除用具入れの狭い空間に押し込まれた被害者が泣き叫ぶ俯瞰の映像。外側から男子生徒が扉を蹴りつけ、「お前はゴミ箱の住人だろ」「一生そこに住んでろ」と叫ぶ。

 続いて、川に投げ込まれる鞄。破り捨てられるノート。机に刻まれた汚い言葉。

 そして、殴られ蹴られ地面に這いつくばる彼の髪を掴んでニタァと笑う男子生徒は言う。


『お前は一生、俺たちの奴隷だ』


 彼の首元には、十字架のシルバーネックレスが揺れていた。



 映像は短く編集されていたが、その分、暴力と嘲笑の連続が濃密に詰め込まれていた。

 教室の空気が、鉛のように重くなる。

 しんと静まり返った教室。映像が終わる頃には、この場にいる四十九人の視線のすべてが、ドクロTシャツの彼に注がれていた。


 銀の仮面が口を開く。


「――さて、今の映像を見て、どう感じましたか?」


 静寂が落ちる。

 その沈黙を破ったのは、教壇近くに座っていた女子高生だった。


「……良くないと思います」

「理由は?」

「殴ったり蹴ったりするのは、良くないと…思います」


 銀の仮面がわずかに頷く。


「正解。暴力はいけないね。君には一ポイント」


 そう言うと、いつの間にか黒板の横の掲示物コーナーに貼られていた座席表の、女子生徒に対応するマスに勝手に「一」と記号が浮かび上がった。


「君はどう思う?」


 次に別の男子小学生を指名すると、彼はゆっくりと答えた。


「四人で一人をボコボコにするのはひどいと……思いました。お前は一生ドレイって、言ってはいけない、と思います」


 銀の仮面が頷く。


「その通り。奴隷なんてものはもう存在しない。君には二ポイント」


 男子の座席に対応する座席表のマスに、「T」と記号が浮かび上がった。


 その一言が、火種となった。


「川に鞄を捨てるなんて、私の学校でもニュースになるレベルだと思います」

「寄ってたかって追い回すのはダメだと思います」

「あんな風に暴力をしたらかわいそうだと思います」


 次々に手が挙がり、発言が飛び出す。銀の仮面はそのたびに正解、その通りと告げ、黒板に富田の罪状を書き連ね、座席表のポイントは自動的に加算されていく。


 富田は、口元を引きつらせながら周囲を見回した。


「ふざけんな……お前ら、俺のことなんて何も知らねえだろ!」


 だが銀の仮面が冷たく告げる。


「黙りなさい。今は授業中です。私語は慎みなさい」


 その瞬間、富田の口が動かなくなった。まるで唇を見えない糸で縫われたかのように、声が一切出ない。


 発言はエスカレートしていく。

 中には映像に映っていない罪まで勝手に作り上げ、憶測で非難する者も現れた。


「絶対に他にもやってると思います。鳥とか猫とか殺してそう」

「妹とかお母さん殴ってそう」

「老人とかホームレスとか、弱い人にはとことん強く出てそう」

「抵抗できない人をあんな風にいじめるのはやりすぎ。絶対十八禁のゲームやってるに決まってる」

「絶対連続通り魔事件起こすよ、こんな奴」


 座席表のポイントが正の字となって次々に積み上がる。

 唯一ポイントが付いていないのは富田ただ一人。だが何かを発言しようにも口を縫われていて反論も擁護も正当化も出来ない。


 やがて銀の仮面がパンパンと手を打ち鳴らす。


「そこまで。これで全員の意見が大体出揃いましたね」


 黒板には富田の罪状、座席表にはポイントを得た生徒たちの正の字がびっしりと並んでいた。


「では――多数決をとります。人一人の青春を踏みにじった富田元を、この場で死刑にすべきだと思う者は?」


 四十九の右手が、一斉に挙がる。

 誰一人、下ろそうとはしなかった。


「……満場一致ですね。ではこれから富田元の死刑を開始します」


 銀の仮面が手をかざすと、赤黒い魔力が迸る。


「―――囚魂焦獄プリズナー・インフェルノ


 赤い結界が走り、富田の体を瞬く間に黒炎が包み込む。

 口を縫われたままくぐもった声だけを上げ、椅子と机を倒し、のたうち回りながら火を消そうとする。燃え上がった富田の周囲の生徒は悲鳴を上げて飛び退く。


 一瞬で生まれた半径三メートルの空白。散乱した机や椅子の中、もがき苦しみながら必死に服を脱ごうとするも、富田を包む裁きの炎の火勢が圧倒的に上回っている。助けを求めて誰かに向けた手は、みるみるうちに煙を上げて焼けていく。

 誰からも救いの手を差し伸べられることもなく、懺悔も絶叫も哀願も許されず口を開くことも出来ぬまま、彼はものの数分で動かぬ炭となり、骸となった。


 スクリーンには、現実世界で気絶していた富田の肉体が血を噴き出して絶命する瞬間が中継されている。




 ……安堵と勝利感が、教室のあちこちに浮かぶ。

 自分たちは正しいことをした。人の痛みを理解し、罪を理解し、きちんと悪事を自覚してポイントも得た。かつての自分は悪に手を染めたが、ここできちんと更生した。銀の仮面は悪を裁くが、更生すれば再出発の道を用意してくれるに違いない。――そう信じたその瞬間。


 銀の仮面は、教壇から生徒たちに向けて口を開いた。


「総評を始めます」


 乱雑に倒れた机と椅子の中、大勢の生徒が立ったまま、銀の仮面は黒板に向かい、チョークを滑らせ始める。富田が重ねた罪状の横に黄色いチョークで新たに『この場にいる者の罪』を大きく書き加える。


「君たちは、他者の痛みを知る授業の中で、一人を追い詰め、死に追いやった。──つまり、ここでもまたいじめを繰り返したということです」


 座席表に書かれていた正の字が全て消え、残る四十九人のマスに赤いインクのような濡れ染みが広がっていく。


「自分の安全のためなら他者を殺しても構わないと、君たちは自分たちで結論付けた。自分が助かるために、自分の評価を上げるために悪し様に富田君を糾弾した。憶測まで用いて彼を貶めた。そうして積み上げたポイントは害悪に他ならない」


 嬉々として富田を糾弾し、クラス内で最多得点を積み上げた女子生徒の一人は、銀の仮面から突き付けられた予想外の展開に顔を青ざめさせた。


「私は富田君を初めから死刑にするとは言っていない。"死刑にすべきだと思う人は?"と聞いただけだ。もし誰も手を上げなければ、"ではどんな罰が適当か"と問うつもりだったのに、迷いなく全員挙手した。挙手しなければ殺すとも、不利益になるとも言っていない。しかし君たちは各自の判断で死刑に賛同した。他の誰でもない、人を殺すという選択を自分の意志で決めたのはこの場にいる全員だ」


 黒板には大きく侮辱・名誉棄損・集団暴行・殺人と書かれている。

 正義の側に立ったと勘違いし、銀の仮面に挙って阿った生徒たちの背筋を冷たいものが走った。


 次の瞬間、教室の四方を赤い結界が包み、黒炎が床から噴き上がる。引き戸を開けようとしても、窓を開けようとしてもびくともしない。この教室からの逃げ場は一切なかった。

 銀の仮面だけが、吹き荒れる火炎の中で涼しい立ち姿を保っている。その傍らで、生徒たちの足元から体に炎が燃え移り、たちまち悲鳴が重なる。


「熱い熱い熱いィィィ!!」

「ぐわああ!!」

「ギャーッッ!!」


 バンバンと窓や戸を叩きつけてもびくともしない。富田同様に床にのたうち回っても、服を脱ごうとしても、裁きの炎は消えない。罪深き魂を燃やし尽くしてこの輪廻から完全に排除するまで、その黒炎は決して消えない。熱と絶望と断末魔が渦巻き、やがてすべては燃え尽きた。


 炎が消えた後、そこには五十体の炭が残った。

 ただ、銀の仮面だけが火の粉一粒浴びることなく静かに立っていた。


 誰もいなくなったこの空間で、誰かに語り掛けるかのように、銀の仮面は独り言ちた。


「今日の授業は"他者の痛みを知る"でした。続きはまた明日、しっかり勉強してくるように」


 六千室の教室の教壇から銀の仮面が姿を消した。

 残る三十万の生徒は、スクリーン越しに起きた惨状と燃え尽きた五十体の焦げた遺体を前に、誰も席から立つことも出来ず――各々の席で、朝までの長い時を過ごした。

次話は明日20時投稿予定です。

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