表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/56

28話 逃さない

 東京都・霞が関、警視庁地下三階――特捜一課の捜査室。

 蛍光灯が冷たく白い光を放ち、壁一面に並ぶ大型モニターが暗闇の中で不気味に瞬いている。散乱した資料、積み上げられた段ボールのファイル群、緊張に縛られた空気が部屋を支配していた。


 特捜一課管理官・早乙女敬司は、厚い報告書の束を机に叩きつけるように置き、低く、鋭い声で切り出した。

「――橘。銀の仮面の捜査の進捗はどうなっている?」


 向かいに座る電子分析班班長・橘千景は、黒縁眼鏡の奥の瞳を伏せ、答えに詰まるようにゆっくりと声を絞り出した。


「……暗礁に乗り上げています。過去のログ、ネットワーク通信記録、あらゆる映像を徹底的に解析していますが、決定的な糸口は掴めません」


 抑えきれない焦燥が言葉ににじみ、握った拳がわずかに震えている。

 背後のモニターには、報道ヘリや登山者のカメラが捉えた銀の仮面の姿が十数分割で表示されている。噴火寸前の富士山で、登山客を魔法で救出し、火口を押さえ込む一連の映像――何十回と再生しても、科学的説明は一切見つからなかった。


 魔法という非現実の概念が、現実の記録として連日、さも当たり前のように解析対象に上がる日々が来るなど、彼自身想像すらしていなかった。科学的捜査はいよいよ完全に手詰まり。もはや現実的な解決は諦めてしまって、魔法の存在を認めてしまった方がいいとさえ思えてきた。

 橘は、無意識に奥歯を噛み締めた。




 ――あの日、富士山山頂。橘はそこにいた。


 銀の仮面の捜査が全く進展しない中、リフレッシュ休暇として訪れた富士山。

 そこにあったのは日本列島の終焉だった。

 突然の噴火に襲われ、視界を覆う黒煙と火山弾の雨。吹き荒れる熱風の中、崩れかけた岩場に足を取られ、そこに降り注ぐ大岩に死を覚悟したその瞬間。

 ソニックブームと共に現れた銀の仮面が巨大な噴石を蹴り砕き、橘を死から救った。

 目の前で描かれる光の魔法陣に次々と登山客が飲み込まれ、眩い光と共に消えていく。

 橘の足元にも魔法陣が展開し、瞬きをした次の瞬間には、清浄な空気が広がる河川敷に座り込んでいた。

 震える膝を抱えながら、呆然と真上の青空と不穏な富士山を仰ぎ見たあの時の感覚が、今も脳裏に焼き付いている。目の前に突如現れてその大岩を蹴り飛ばして命を救ってくれたのは、まさしくあの銀の仮面だった。


 ――命の恩人。

 しかし、法の下では追うべき対象。


 この手で逮捕し、手錠をかける。それが、自分に課された役割。


 銀の仮面が掲げる正義に救われながらそれと対極の正義を名分とし、受けた恩を仇で返さなければならない無常に揺れる。


 早乙女は揺れる橘の瞳を射抜くように見据え、断固とした口調で言い放った。


「奴の自分勝手な正義にこれ以上日本を荒らさせるな!我々のプライドに賭けて必ずホシを挙げるんだ!」


 短くも重い言葉が会議室に響く。

 橘は一瞬、言葉を失い、やがてかすれた声で応じた。


「……はい」


 再びパソコンに向き直る。彼の視線は再びキーボードに落ち、微かに震える指先が淡々とキーを叩き始める。


 画面に映る銀の仮面の姿。

 目の前で超高速で飛び回りながら大勢の人々を救助していたあの姿が重なる。

 大岩を蹴り飛ばして命を救われたあの背中を思い出しながら、橘は心の奥底でつぶやいた。


 ――本当に、彼は“悪”なのだろうか?







 熱海駅前の商店街は、昼前にもかかわらず人の波で埋め尽くされ、日常を忘れたような熱気が立ち込めていた。

 街灯から吊るされた色とりどりの旗が風に翻り、観光客たちは手に「三日月まんじゅう」や「天誅バナナジュース」を掲げて歩く。道のあちこちから、子どもたちが「天誅だ!」と叫びながら木刀を打ち合わせる軽快な音が響く。


「おおっ、これ見てくださいよセンパイ!“天誅バナナジュース”って書いてあります!」

「なんだよそれ、形が三日月に似てるってだけじゃん!」

「……でも、うまいっす!」

「なんだよ、天誅味じゃねえのかよ!」

「え?」

「ん?」

「天誅味ってなんスか?」

「……良いんだよそんなことは!次行くぞ!」


 熱海の名物だった干物や温泉まんじゅうをしのぎ、今や銀の仮面を模したグッズが観光客の目を奪っていた。ストリート系の服を着た若者たちや、子ども連れの家族、老夫婦までが入り混じり、老舗旅館の予約は軒並み埋まり、駅前の土産物屋では「三日月紋の木刀」が飛ぶように売れている。

 富士山からの転移陣ゲートを抜けた観光客たちは、熱海の海辺へ足を運び、温泉街を練り歩きながら新しい名物を探し求めていた。


「やっぱり、新宿の転移陣ゲートができてからお客さんが段違いですねぇ」


 老舗旅館の女将は、新聞社の取材マイクに満面の笑みで答えた。


「東京から一瞬で来られるってんで、平日でも満室続きですよ。お土産も、三日月マーク付けときゃ飛ぶように売れるんだから!」


 商店街の和菓子屋の店主も肩を揺らして笑った。


 政府の交通インフラを凌駕するこの「銀の仮面経済圏」は、町会有志が新宿側と熱海側で交通整理をし、五分交代で人の流れを制御するほどの盛況ぶりを見せていた。

 転移陣ゲートから商店街までは距離があるが、その導線上には新たに屋台やキッチンカーが並び、観光客の財布をくすぐっている。熱海の経済は、戦後以来といわれるほどの活況を呈していた。


 ほんの数週間前まで、熱海市長選の影響で外国人観光客が大挙して押し寄せ、混乱を極めた商店街は、いまや様変わりを遂げた。勝手に商品を開封・試食し「まずいから買わない」と言い放って去るような無銭飲食や、行列への割り込み、大声と奇声で値引きを強請る団体も消え、通りには穏やかな日本語が飛び交い、秩序ある賑わいが戻っていた。


「銀の仮面が転移陣ゲートを作ってくれたおかげで、熱海に来られた。良い所だね、熱海って」――観光客の口からは、そんな言葉が次々と溢れる。


 魔法陣を利用する動機は様々だ。純粋に観光を楽しむ者、浮いた交通費を別の楽しみに充てる者。しかし、銀の仮面の天誅を恐れる者は、魔法陣を悪用しようなどとは夢にも思わなかった。恩恵を受ける誰もが、疑いなくその存在を受け入れていた。






 銀の仮面が日本を揺るがし始めてから二カ月が経過した。

 どこかの日本人が七夕の短冊に書いた願い事に呼応するかのように、世紀末日本に舞い降りたダークヒーロー。彼についての激しい賛否が繰り広げられる。


 自らの意見を現実の世界で口にする事さえ憚られるようになった日本人は、やがて匿名のネットの世界に安住を求めるようになり、特に虐げられてきた経験を持つ人々はそんな彼の所業を熱烈に歓迎していた。


 容赦なき天誅は彼らの屈辱、自虐史観、鬱憤。それらすべてを雪ぐものだった。

 時に厳しく、そして涙を流す者には優しくありつづける銀の仮面は老若男女問わず愛された。


「将来は銀の仮面になる」と子供たちは口にするようになり、数十年前、子供が将来なりたい職業ランキング一位だった総理大臣はすっかりランキング外に凋落した。


 日本の国益を最優先して滅私奉公せねばならない大臣が、国益を二の次にして私腹を肥やす事ばかりを考え、その為には日本国民がどれほど血を流し、涙を流し、警察に駆け込み門前払いを受けようと、一切気にも留めない。


 自分さえよければいい。

 綺麗な飲み水を自分さえ確保できれば、下流に下水を垂れ流しても別にどうでもいい。

 自分と自分の周りが平和なら、誰がそれほど苦しんでも関係ない。だって、自分が無事だから。


 そのような意識に染まった日本政府の中枢は、やはり首脳までウジ虫が巣食っていた。





 国会議事堂を包む初秋の曇天は、永田町に漂う重苦しい空気をそのまま映し出していた。


 七月から相次ぐ大臣たちの殺害はもとより、先日の富士山噴火危機の映像、そして銀の仮面が現れ噴火を食い止めた映像が世界中に拡散してから数日、日本政府はかつてないほどの混乱に陥っていた。

 危機が去ったはずの永田町では、議員たちが一様に顔を引きつらせ、記者団の鋭い視線を恐れて控室に逃げ込む。廊下には、足早に書類を抱えて駆け回る秘書たちの姿が絶えず、電話の着信音がひっきりなしに鳴り響いていた。


「……だから言ったじゃないか!危機管理体制の見直しを怠ったから、あんな恥をかいたんだ!」

「いや、それは防災担当大臣の責任だろう?あの時点で予測できたのに、なぜ噴火警戒レベルを上げなかった!」

「我々が悪いわけではない。すべては現場の判断ミスだ!」


 責任のなすりつけ合いが、閣僚会議という名の密室で繰り広げられていた。机上には、火山活動の解析データやSNSで拡散された噴火危機の映像が散乱している。富士山噴火による首都圏壊滅の危機を、銀の仮面なる存在が阻止していなければ、日本政府は国際的に「危機管理無能国家」の烙印を押されていたのは間違いない。

 だが、彼らの口から出るのは国民への謝罪ではなく、自己弁護と他責の言葉ばかりだった。


 ある与党幹部は、記者の前でこう言い切った。


「政府の対応が適切だったからこそ、被害は最小限に抑えられたのです。銀の仮面とやらの出現は、あくまで偶発的な事象にすぎません」


 その言葉を聞いた記者たちの間に、呆れと失笑が走った。

 銀の仮面がなければ、東京は火山弾と火砕流に飲み込まれていたことを、国民は誰もが知っている。

 銀の仮面一人が全てを解決したのに、政府は未だに銀の仮面を認めず、銀の仮面の功績を横取りして涼しい顔をしている。

 国会中継のコメント欄には、「責任転嫁するな」「恥を知れ」という罵声が溢れ、SNSでは「銀の仮面>>>政府」という皮肉めいた比較が飛び交った。


 一方、野党の追及は苛烈さを増していた。


「富士山噴火の危機に際し、政府は一体何をしていたのか!」

「国民の命を守るはずの政府が、謎の人物一人に救われるとは、まさに国家の恥ではないのか!」

「防災庁の初動が遅れた責任を、誰が取るのか!」


 議場は野次と怒号で埋め尽くされ、議長の打ち鳴らす木槌の音が空しく響く。与党議員は防戦一方で、声を荒らげるほどに国民の失望が深まっていくことに気付いていなかった。


 閉会後、議員会館の一室では、複数の議員が顔を寄せ合い、低い声で囁き合っていた。


「……銀の仮面を取り込むしかない」

「何を馬鹿な。これまで何をしてきたか忘れたわけではあるまいな!総理・外相・財務次官・政党党首を殺した奴を今更引き入れると?」

「だが、あの転移陣とやらを国有化できれば、政権支持率は一気に回復するぞ。国有化の名目で『安全確保』を打ち出せば、国民も反対しないはずだ」


 国家の威信を守るためではなく、自らの議席を守るためなら簡単に手のひらを返そうとする狸たち。

 銀の仮面公式サイトにコンタクトを取ろうとしても、一切返答はない。

 問い合わせフォームのプルダウンメニューを"政府"から"個人"などに変えても、音沙汰はない。


「銀の仮面を味方にさえすればこちらが勝ったようなもの…」


 丁寧な文章で銀の仮面にコンタクトを図っても、その文面には血が通っていない。国会答弁で散々耳にするような、時間と文字数を浪費して煙に巻くことを目的とした空洞の問答に酷似している。

 形式だけを取り繕った定型文のような無味乾燥さが漂っていて、銀の仮面への感謝と陳情が真に心の底から沸いてきたものとは思えない。他のメッセージとはまるっきり違い、思ってもないことを飾り付けて送り出す才能は政治家が特に飛び抜けている。

 楽しくない笑顔と面白くない笑い声と空っぽの感謝と上っ面の謝罪を日常使いしている者特有のこなれ感がある。


 薄汚い策謀が、霞が関のあちこちで蠢いていた。



 各省庁の局長や政務官たちは、責任の所在を明確にするための資料作りに追われ、上司からの「責任回避のための想定問答集」が深夜まで飛び交っていた。


 外では、国民の不満が高まり、永田町の外周を囲む抗議デモが日増しに増えていた。プラカードには「銀の仮面に感謝を」「無能政府」「売国政府」「内閣は何をしていた?」というスローガンが踊る。官邸前のバリケードを前にした警官たちの表情もまた、疲労と苛立ちに染まっていた。


 国民の命よりも自らの保身を優先する議員たち。責任の所在を押し付け合う大臣たち。

「富士山噴火を防いだのは政府の努力」と豪語するその姿は、まさに国家権力の空洞化を象徴していた。


 そして、銀の仮面の存在は、そんな無様な権力者たちの姿を、国民の目に一層鮮烈に浮き彫りにさせる結果となっていた。

 人々の口から漏れるのは、感謝でもなく期待でもなく――ただひとつ、「情けない」という言葉だけだった。





 今の日本にとって銀の仮面は特効薬となるのか。

 止めの劇毒となるのか。


 日本にそれを耐え切れるだけの体力がまだ残っているのか。

 それは誰にも分からない。



 政府がまごついている間、今日も、日本のどこかで日本人が傷付けられている。

 日本人が我が物顔の外国人に虐げられ命を奪われているのに、日本の法律はだんまりを決め込んでいるのだ。



 =SNSの声=


「おい、ひき逃げで捕まった中国人が不起訴だってよ」

「は?またかよ」

「これで何回目だよ、マジで」

「劉志剛。見るからに悪人面って感じ」

「もうさ、外免切替制度廃止しろよ。十問のマルバツで免許取らせるなんて頭おかしいだろ」

「日本に住所ねえ奴に免許証出すなよマジで。宿泊先のホテルの住所で免許取れるとかおかしいって思わねえのかよ」

「被害者の家族はどうなんの?泣き寝入りじゃんこんなの」

「マジで政府いい加減にしろ。これじゃあ日本が殺される」

「もう侵略が始まってるって事いい加減気づけよ!止めろよ!なんで止めねえんだよ!」

「容疑者が日本人だったら即刑務所行きなのに外国人は不起訴。狂ってる」

「マジでこいつに天罰くだんねえかな」

「どうせ無理だよ。検察も裁判所ももう陥落してるから」

「司法試験の国籍条項外した民主党マジふざけんな。あいつらのせいで外国人に司法乗っ取られた」

「日本の司法が日本のために作用してないって。もう終わりだよこの国」





 深夜の新宿・歌舞伎町。

 煌びやかなネオンが空から降り注ぐかのように路地を埋め尽くし、湿ったアスファルトに歪んだ光が反射している。その中を、黒塗りの高級SUVが人々を蹴散らすように歩道へ乗り上げ、急停車した。

 エンジンがひときわ大きく唸りを上げ、排気ガスが白く煙を上げて広がる。


 中国籍の劉志剛リウ ジーガンは颯爽と降り立ち、周囲を見回して満足げに笑みを浮かべた。派手なジャケットに太い金のネックレス、腕には最新型の高級時計が光っている。


 彼の後に続くのは、酔いに顔を赤らめた数人の仲間たちと、暴力団風の護衛たち。人混みをかき分け、彼らは派手なクラブの自動ドアをくぐり、VIPフロアへと踏み入った。照明が一斉に彼らを照らし、店内の視線が一瞬で集まる。


「はっはっは!オレの国じゃ、こんなの当たり前ヨ!」

「日本の警察?金でどうとでもなるネ!見てみろ、誰も文句ひとつ言えねえ!」


 劉は、テーブルにどさりと札束を投げ出す。バーテンダーが一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに無表情に戻り、彼らのグラスに琥珀色の液体を注ぎ足した。シャンパンの栓が派手な音を立てて飛び、黄金の泡が空中に弾ける。派手なネイルをしたホステスたちが黄色い悲鳴を上げ、酔客の輪に取り込まれていった。


 取り巻きたちがカメラを構え、SNSに動画を投稿する。コメント欄には、彼らの豪遊を羨む声と、日本語を侮蔑する書き込みが入り混じる。劉はグラスを片手に掲げ、先日の死亡ひき逃げ事件について臆面もなく語り始めた。


「轢いたやつ?知らねぇよ。向こうが勝手に飛び出したんだ。オレは無罪、無問題モーマンタイ!法律に許されたオレは最強ネ!日本がオレを善良な市民と認めたってワケ!」


 消音のまま壁掛けテレビに流れるニュース映像では、遺族が記者会見で涙ながらに訴えている。握りしめた遺影の中には、事故で命を奪われた若者の笑顔があった。しかし、劉の耳には届かない。むしろ、無邪気に笑っているその顔が彼の嘲笑を深めるだけだった。


 やがて酔いがさらに回ると、彼は立ち上がり、仲間たちを引き連れて再び夜の街に繰り出した。SUVのドアが閉まり、エンジンが再び怒り狂うように轟く。アクセルを踏み込むと、タイヤが白煙を上げながら回転し、車体が跳ねるように発進した。


 劉たち三台の車は制限速度を大きく上回るスピードで繁華街を逆走する。歩道にいた酔客たちが悲鳴を上げ、ぶつかりそうになったカップルが転倒して転がる。轟音を残しながらSUVを先頭に三台が通り過ぎるたび、ネオンが乱反射し、周囲の人々の恐怖に満ちた顔が一瞬だけ照らし出される。


「捕まるわけねーだろ、この国じゃな!オレは中国人!この国はもうすぐ中国になるんだぞ!どけどけ、日本鬼子リーベングイズ小日本シャオリーベン!」


 背後には一台のパトカーの赤色灯とサイレンが必死に追いすがる。しかし、三台は曲がり角ごとに二手に逃げ、劉のSUVを追跡する警察官の顔は緊張と焦燥に歪んでいた。若い巡査が、必死に無線機に向かって叫ぶ。


「くそっ、これ以上は近づけません!スピードを上げれば、巻き添えで一般人が――!」


 助手席の警部補が舌打ちをし、短く命令を下した。


「これ以上の深追いは許可できん。民間人の被害を最小限に抑えろ。……撤退だ!」


「……了解」


 若い巡査は苦々しく歯を食い縛り、アクセルを踏む足を緩める。三台のいずれも捕らえられなかった無力感が車内に広がり、サイレンの音だけが虚しく夜の街に反響した。


 警察が手を出せないその間にも、劉のSUVは仲間の車を連れて夜の闇を切り裂き、暴走を続けていた。街角に取り残された人々の恐怖と怒りを嘲笑うように、エンジン音が咆哮を上げる。





 暴走するSUVは、深夜の街をまるで獣のように駆け抜けていた。

 街路樹の影がヘッドライトに照らされて歪み、アスファルトを流れる雨の水溜まりが飛沫を上げる。アルコールと昂揚感で紅潮した劉の顔には、理性というものが一片も残っていない。助手席の男に向かって、彼は日本語を罵る言葉を吐きながらハンドルを乱暴に操る。センターラインを無視して蛇行し、対向車が慌てて急ブレーキを踏むたびに、高笑いが車内に響き渡った。ドライバーの恐怖や怒号は劉にとっては愉悦のBGMでしかない。


 一晩中、意図的に交通違反を繰り返し、深夜の街を翻弄した彼は、仲間の車二台と助手席の男と別れ、さらなるスリルを求めて独りで走り出した。


 午前五時四十五分、埼玉県川口市の住宅街に差し掛かる。

 まだ夜明けの気配が残る一方通行の路地を、彼は逆走する形で侵入した。

 時速百キロを超える車速に、電柱が一瞬で視界の端を流れ去り、ブレーキを踏んでもすぐには止まらない。

 早朝の住宅街は人も車も少ないが、それでもジョギング中の老人が道端を歩いていた。SUVは老人の身体を掠めるようにすり抜け、その後方で男の悲鳴が夜明け前の空に吸い込まれた。サイドミラーに一瞬映った恐怖の顔に、劉の口元がさらに歪む。


「ハハハ!道を空けろ!中国人様のお通りだぞ!日本の道はオレのもんだ!」


 その時、狭い路地から優先道路に出る直前、世界が変貌した。

 周囲の喧騒が突然消え去り、車内に耳鳴りのような重苦しい沈黙が訪れる。エンジン音もタイヤの軋む音も、すべてが真空に閉ざされたかのようにかき消えた。フロントガラスに映る景色がゆっくりと粘ついたように動きを止める。


 劉の眼前、道路の中央に一人の男が立っていた。

 薄明りの朝陽を受け、銀色の仮面が冷ややかに光を反射する。濃紺のマントとスーツに包まれた身体は、夜の闇を纏いながらも圧倒的な存在感を放っている。黒革の手袋を着けた右手はわずかに掲げられ、SUVの進行方向を静かに見据えていた。体からにじみ出る冷ややかな殺気に、劉の背筋が凍る。


「チッ……!邪魔だ小日本シャオリーベン!死ね……!」


 次の瞬間、SUVは見えない壁に激突したかのように急停止した。慣性に引きずられた劉はシートベルトに押し潰され、作動したエアバッグが彼の胸部を容赦なく圧迫する。肺の中の空気が一気に押し出され、言葉にならない呻きが漏れた。押し潰されたルーフに打ち付け、呻き声を上げる。


「グふっ……!……な、なにが……!?」


 車体は微動だにせず、激突の衝撃により車が前傾に押し潰されていた。シートベルトを外そうと必死にもがくが、腕はハンドルとひしゃげたルーフに挟まれて動かせない。呼吸だけが、軋む胸を通してわずかに繰り返される。恐怖に見開かれた劉の視線が、フロントガラス越しに銀の仮面と交わった。仮面の奥で光る瞳は、感情の欠片もなく冷徹な光を放つ。その一瞥だけで、劉の背筋に得体の知れない悪寒が走る。


「て、てめえ!善良な市民のオレに何しやがった!いきなりこんな事故起こしやがって……弁償しろコラ!……う、ああー、イテェー!体中がイテェー!こりゃ骨が折れてるわ、治療費がいるわ。百万二百万じゃ済まねえぞ、オイ!」


 劉は必死に虚勢を張り、声を張り上げる。しかし、男は無言のまま歩み寄った。

 足音ひとつしないその歩みが、交差点をゆっくりと横断する。周囲は無音結界サイレントバリアに包まれ、鳥のさえずりも風の音も完全に切り離されていた。早朝の静寂を切り裂くのは、劉の喚き声だけだ。恐怖と怒りと困惑が入り混じった声が、密閉された空間に反響する。


「お、おい!警察呼ばれたくなかったら示談でもいいぜ!俺は裁判所にツテがあるんだ。そうなったら、分かってんだろうなァ!」


 銀の仮面は片手を前に突き出し、低く、静かに告げる。


「――もうこれ以上、奪わせはしない」


 地面一帯に巨大な魔法陣が走り、複雑な幾何学模様が眩い光を放つ。

 空気が一瞬にして張り詰め、肌を焼くような魔力の奔流が辺りを包んだ。

 立ち込める圧迫感に、SUVの窓ガラスがきしむ。


「お前たちは、いつになったら覚える」


 銀の仮面の周囲に無数の黒い鞭が生まれ、うねるように渦を巻き始める。

 大気が悲鳴を上げ、結界の内側で黒い稲光が弾けた。

 空気の匂いが金属のように変わり、呼吸するたびに喉が焼け付く。


「どれだけの日本人に、血と涙を流させる」


 鞭はやがて、過去に奪われた命たちの怨嗟を宿すかのように、赤黒い槍へと変じる。

 その鋭い穂先が、空間そのものを切り裂くように輝いた。

 交差点全体が、呪詛めいた熱気に包まれる。


「法がお前を見逃しても、私は絶対にお前を逃さない」


 銀の仮面が真上に手を振り上げると、無数の赤黒い槍が一斉に矛先をSUVの奥、恐怖に染まった劉へと向ける。

 赤紫の炎が渦巻き、振り上げたその腕に吸い寄せられるように凝縮されていく。


「日本は日本人のものだ。お前が気安く踏みにじっていいものではない。お前が踏んだのは日本人の誇りと、虎の尾だ」


 魔力の奔流が轟音と共に爆ぜ、槍全体が脈動する。無数の矢が今まさに放たれようとしていた。


「――私は銀の仮面。正義の代行者。法で裁けぬ罪は、私が裁く。人々の希望を奪うことは、決して許さない――!」


 槍が低く唸りを上げ、刃の先端から赤黒い光が漏れ出す。劉の顔に浮かんだ嘲笑が恐怖に変わる、その刹那――銀の仮面が振りかざした手から黒き審判が解き放たれた。


「―――黒血審槍ブラッド・ヴァーディクト!!」








 第一章・完

これにて第一章の締めくくりとなります。

この作品が面白いと思った方は★★★★★を押していただけると幸いです。

日々の執筆の励みになりますので感想・レビュー・評価もお待ちしております。

この続きが気になると思った方はブックマークもよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
気分が晴れました
どうして特捜一課の人たちは、自分達を正義だと思ってるんだろうか? どんなおめでたい頭してたらこの日本で警察が正義ヅラできるんだ? 下の人ジャンル勘違いしてない?ローファンかアクションだったらそうなっ…
第一部完結お疲れ様。吹っ切れた痛快娯楽ファンタジーとして面白かったよ。新大久保駅の義人李秀賢さんのような親日派のいい韓国人もいるとか、日本人の妻になって幸福な家庭を築いている中国娘もいるとか、人権派リ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ